遊 旅人の旅日記

2003年6月12日(木)小雨

那須湯本から芦野へ
AM5:25  昨夜のうちに、作っておいてくれた、おにぎりをもって出発。心の中で旅館に感謝の言葉を言いながら小雨の中を歩き出す。今日は芦野までだ。体調は回復している。周りは濃い霧に包まれ、木々の緑と霧の白で彩られた幻想的な世界が広がっている。東山魁夷の緑を基調とした神秘的、幻想的な絵を思い出しながら歩く。曽良も日記の中で<朝霧降る>と書いている。


昨日歩いた道の一本北側の道を下る。池田(小屋村)を過ぎ瞬く間に、東北自動車道の下まで来る。しばらく歩くと国道4号にぶつかる。此のあたりの地名が漆塚である。曽良日記によると湯本から漆塚まで三里余というからほぼ12kmである。また漆塚から芦野まで二里余といっている。湯本から芦野までは、計五里余、ほぼ20kmだ。ここまではずーと下り坂のためずいぶん快調に下ってきてしまった。


4号沿いにあるコンビニの前で朝食をとる。ベンチがあり、そこでおにぎりを食べる。おにぎりのほかいろいろ入っている。
若い女性の店員が出てきてゴミ箱からペットボトルを取り出し、ボトルの中に残っている液体を側溝に捨てている。話を聞くと、「今の若い人たちは、ペットボトルを買っても全部は飲まないで捨ててしまう。半分まで飲んであるのは良いほうだ。一口飲んで捨ててしまう人もずいぶんいる。全部飲んであるのは三割くらいだ、もったいないです。毎日こうして捨てている。」と言う。「もったいない」「物事を大事にする。」「長持ちさせる」「粗末にしない」などという言葉、気持ちは、いつまでも忘れないで、物は大切にしてゆかなければならないと思う。しばらく世間話をした後、休ませてもらったお礼を言い、頑張ってくださいと励まされ、コンビニを後にする。


東北新幹線のガードをくぐり、東北線の踏切を渡ると黒田原(那須町)の町並みに入る。AM8:45役場で休ませてもらう。各種新聞を読み、血圧を測る。(最高血圧ー最低血圧ー心拍数・111-66-61)薬を飲んでいるにしてもちょっと低すぎると思う。
役場を後に芦野に向かう。芦野の町までは、まだかなりの距離がある、と思われる山の中で今夜の宿の看板を見つける。さらに山の中1kmとある。町まで行って、又この山の中までこなければならないのかとがっくりする。


早朝霧の那須高原の道


霧の那須高原


遊行柳




芦野温泉神社(上の宮)



芦野健武山温泉神社(下の宮)



芦野愛宕山と兼載の庵跡碑
峠を越して下ってゆくと芦野の町並みがあり、その手前でR294にぶつかる。このR294を北上、少し行くと左、田圃の中に<遊行柳>がある。芭蕉も「清水流るゝの柳は 芦野の里にありて田の畔に残る」と書いており芭蕉の訪れた頃から今までずーと田圃の中にたたずんでいるのである。ただ私は、柳のイメージと「清水流るゝの柳」とあることから、田圃の中に、きれいな小川が流れており、その岸辺に柳があるのかと思ったが小川は現在はない。ここには<西行>の「道の辺に清水流るゝ柳蔭 しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ歌の歌碑がある。西行が訪れた頃は清水が流れる小川があったのだ。芭蕉は西行が詠んだ柳を見ようとここに来たのである。奥の細道の文中には「清水流るゝの柳」と歌を引用している。そして、しばし柳を見、<西行の歌の心>に思いをめぐらせているうちに、田圃では、一枚田植えが終わってしまった、と言う句を読み、その句碑もある。


遊行柳の後に山があり鏡山と言う。この山の麓に温泉神社があり、上の宮温泉神社と言う。この神社は対になっており、1kmほど西に行ったところにも温泉神社があり健武山温泉神社(下の宮)と言う。鏡山沿いに歩いてゆくと、庭の手入れをしていた人が話しかけてきた。「奥の細道」を歩いていると話すと、<芦野>の史跡を説明してくれる。目の前にあるのが愛宕山で、今は道もなくなり登れないという。又山の向こう側に、<兼裁>の庵跡の碑があると教えてくれる。
あまりにも詳しく知っているので理由を尋ねると、その人の家の歴史を教えてくれる。昔から、この温泉神社、遊行柳には、神奈川の、ある著名な寺院から毎年高僧が参詣に来ており、その接待役を仰せつかっていた家柄だという。苗字も教えてくれ、表札を見ると、珍しい、由緒ありそうな、難しい名前が書かれおり納得をする。
下の宮温泉神社に参詣し、兼載の庵跡に行く。石碑が人家と畑の中に寂しく建っている。


先ほどの人に、町うちに宿はないかと聞いたところ、鰻屋さんが宿をやっているからそこにいってみたらどうかと教えてくれた。町内に戻りその鰻屋(旅館)に行く。店に入ったとたん、鰻を焼く臭いで、胃から胸に拒絶反応が起きる。まだ体調が本調子ではないのかな。一応泊まれるか聞くが、断られる。ちょうどよかったと思う。<芦野温泉>に行く道を教えてもらい再度、降り出した雨の中を、山に向かって歩く。芦野温泉の看板を見つけホッとする。しかしここからが大変であった。続けて足を前に出すことが出来ないほどの急な坂である。雨が猛烈に降り出す。一歩一歩踏みしめながら、また休み休み歩く。頭の天辺から、つま先までずぶぬれ、体の中は熱いのに表面は冷たい状態だ。
看板のところから、一時間も二時間もかかったように思う。やっと到着し、フロントに行く。フロントの女性が、チェックインまで少し時間があるから‘和室の座敷のような休憩所’で休んでいて下さいと親切に言ってくれる。横にいた男性が、ずぶぬれの私を見て、急いで部屋の確認をし、部屋を案内してくれる。そして「温泉にも入れるから早く入って温まってください」と言う。皆親切だ。この温泉の愛好家は全国にいる、と一緒に入っていた人が言っていた。良い温泉施設だ。
今日は、この建物までの最後の何百メートルが最高に厳しかった。しかし、スタッフの皆に助けられた。そして二日間温泉に入って、体調は、ほぼ完全に回復したようだ。
おくの細道
又清水流るゝの柳は芦野の里にありて 田の畔に残る此所の郡守故 戸部某の此柳見せはやなと折々に の給ひきこえ給ふを いつくのほとにやと おもひしを けふ この柳のかけにこそ立寄侍つれ
      
田一枚 植て立去ル 柳かな
 
曽良日記
二十日 朝霧降ル。辰中剋、晴。下剋、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三里余。半途ニ 小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘニリ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能知不シテ通難。
芦野ヨリ白坂へ三リ八丁。芦野町ハズレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ、八幡ノ太門通リ之内(十町程過テ左ノ方ニ鏡山有。左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四、五丁之内ニ愛宕有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄( )ノ松トテ有。玄( )ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也。市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハズレ橋ノキハヘ出ル。
よりみち
芦野  栃木県の那須町芦野・江戸時代は旗本・芦野氏の知行所であり、奥州街道の宿場町。
芦野温泉  芦野の町の北側にあり、全国から沢山の湯治客が、湯治にきている。源泉を使用している湯と、薬草を使用している湯の2種類の温泉がある。またテニスコートも沢山あり、そのための宿泊施設も完備され、大学の合宿などに利用されているようだ。
西行  平安末期から鎌倉時代初期に掛けての歌僧。「三家集」を著す。芭蕉の文、俳句は西行の影響を受けていると言われる。
郡守故 戸部某(奥の細道の文中) 当時の領主<芦野民部資俊>のこと。俳号<桃酔> 郡守は漢代の官名で領主に、戸部は唐代の官名で民部に宛てたもの。
兼載(曽良日記の中の<玄( )>)  猪苗代兼載と言い、会津出身で室町後期の連歌師。連歌師「宗祇」と並び称せられたという。
お休み処
東京・深川から歩き始めて何日目頃からであろうか、家康の「人の一生は、重き荷を背負うて、遠き道を行くが如し」と、水前寺清子の「365歩のマーチ」が頭に浮かんでくるようになった。順調に歩いているときは、周囲のものに興味を持ち、いろいろ思考をめぐらせ、また足元に注意をしながら歩いている。しかし疲れてきたり、山坂など思うように歩が進まなくなると、思考力が鈍り何も考えられなくなる。すると「365歩のマーチ」の歌詞とメロディーが頭の中に流れてくるのである。苦しい時、自分を叱咤激励するには歌詞・テンポともぴったりの歌だと思う。
また家康の「人の一生は・・・・」も歩き初めて数日たったころから頭に浮かんでくるようになった。背中のリュックの重さが歩くたびにずしずしと背中から足腰に響いてくる。「俺は家康の言った言葉を体を持って実践しているな」「お前 それ 意味が違うんじゃないの」「重き荷を背負うて、遠き道を行こうとしているのは間違いない」「私の人生、あまり重い荷では無かったのかな」などと自問自答してからである。家康は「重い荷を降ろさせてくれなかった」といっている。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

那須町公式ホームページ