遊旅人の旅日記

2003年6月11日(水)曇り

黒磯から那須湯元へ












AM5:30那須湯元に向け出発。今日は那須湯本に行き温泉神社、殺生石を訪れる。
那珂川を渡ったところの交差点を左に折れる。此の道をまっすぐ登ってゆけば、那須湯元に行く。きれいな赤松の並木道だ。また、沿道は何キロにもわたってアジサイが咲く。まだ少し早いが、あと半月もすれば満開になるだろう。


小一時間ほど歩く。腹の調子がよくなくなる。那須ICの管理事務所でトイレを借りる。
此のあたりの地名を「松子」と言う。芭蕉が、高久角左衛門の馬で送られてきた場所だ。
道は上り坂だが、松林の中の道で、空気もよく気持ちが良い。草木のエネルギーで満ちている中を歩く。この那須高原一帯は、牧場、別荘地、温泉、遊園地、美術館、が点在しており、また工芸ありで一大リゾート地を形成している。


りんどう湖に寄ってみようと思い、脇道に入る。牛舎があちこちに見られる。道沿いの大きな牛舎の横の放牧場で、一頭の子牛が遊んでいる。「おーい」と声を掛けると近寄ってきた。牛舎から頭だけ出して、えさを食んでいた10頭ほどの牛がいっせいにこちらを見た。皆同じ顔(?)をしてこちらを見ている。思わず笑ってしまう。


りんどう湖のゲートの前の休憩所で小休止。今日は少し寒いくらいだ。体調がだんだんと悪くなってくる。足も重い。少し休んで出発。高久丙との地名が標識に書いてある。数本の道路が交差をしているところで工事をやっている。。いままで歩いてきた道の一本北側に、やはり那須湯元に行く道がある、。那須湯元の町並みに入る手前で先ほどの道と合流する道だ。その北側の道を歩こうと思ったが、道を間違え、元の道に戻ってしまった。工事現場のところで間違えたのだ。
並木が松から杉に代わっている道を再び歩く。体調が悪いためか、快適なはずの、杉並木が、うっとうしい山の中の薄暗い道だと思いはじめる。全く自分勝手なことを考えている。
大きなトラクターが走ってくる。その後ろは車がずーとつながってしまっている。道が狭く追い越し出来ないため詰まってしまっているのだ。とたんに杉並木は排気ガスと、その臭いで満ちてしまった。4〜500m前方に信号機が見えてくる。那須ICから始めての信号機だ。車はその信号機からつながってしまっている。


道路脇にあった大きな石にリュックを下ろし休む。涼しいにもかかわらず汗びっしょりだ。ひどく下痢もしているし、少し熱っぽい。風邪だなと自分で判断する。東京を出発して2週間、疲れがたまって調整が出たのだ。それにしてもきつい。<もう少しだ頑張れ>と自分に言い聞かせ歩く。1時間ほど歩き、12:30頃宿に着く。若女将に体調のこと、殺生石に行きたいことなどを話すと、まだ昼にもかかわらず、部屋に案内してくれ、温泉に入って少し休んでから出かけたらどうかと気を遣ってくれた。しかし、着替えをしただけですぐ出かける。リュックを下ろし、着替えをしただけで少し体調はよくなる。
宿を出て別荘地のようなところを小1時間程歩くと温泉街に出る。、芭蕉はこの那須湯元温泉で、温泉宿 和泉屋(湯本五左衛門)方に宿泊している。芭蕉宿泊の地と言う場所があると言うが見落としてしまった。
温泉街の一番奥に温泉神社がある。此の神社には、那須与一の鏑矢などが奉納されていると曽良は日記に書いている。奥の石段を登ったところの鳥居には那須与一寄贈の案内がある。那須与一よりも、「殺生石」と思い、拝殿で参拝し、拝殿横の道を殺生石に進む。遥か下のほうに殺生石の全景が見られる。「奥の細道」の中で
「殺生石は温泉の出る山陰にあり石の毒気いまたほろひす・・・」といっているように芭蕉が訪れた頃は、まだ硫黄を噴出していたのである。今では、枯れてしまって、硫黄(硫化水素等)は噴出していない。史跡として保存されている。手前横に大きな石の句碑がある。芭蕉の高弟<中川乙由>の門人<麻生>の句碑である。

  
飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上

温泉神社に戻り、五葉松の横の細い道を山に少し登って行くと。

  
湯をむすぶ 誓も同じ 石清水

と書かれた、芭蕉の句碑が、草むらの中にひっそりと建っている。
他の観光客は、参道を何も知らずに通り過ぎてゆく。自分だけ得をした気分になる。
PM4時、旅館に戻る。早速温泉に入る。ゆっくり時間を掛けて入る。「体調が悪いから、料理はいらない」とお願いをしたが、「旅館の料理」が一通り出てくる。おまけに<おかゆ>まで作ってくれた。薬の代わりと思い、お酒を一合、燗をつけてもらった。明日は早く出発をするからといって、精算をすると一泊二食の規定の、6,000円しか受け取ってくれなかった。さらに明日朝は、おにぎりを作っておいてくれると言う。気を使ってくれ、大変お世話になり、感謝感激だ。お礼を言って休む。何が何でも体調をとり戻さなければならないと思いながら床に就く。女将夫婦はまだ40才前の若夫婦だ。









おくの細道
殺生石は温泉の出る山陰にあり 石の毒気いまた ほろひす 蜂蝶のたくひ 真砂の色の見えぬほと かさなり死す
曽良日記
十八日 卯剋、地震ス。辰ノ上剋、雨止。午ノ剋、高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯本ヘ三リ。未ノ下剋、湯本五左衛門方ヘ着。
十九日 快晴。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。午ノ上剋、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的射残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事定不、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ出不。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。
温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、両神一方ニ拝レサセ玉フヲ、
     
湯をむすぶ 誓も同じ 石清水         
           殺生石
     石の香や 夏草赤く 露あつし

正一位ノ神位加被ノ事、貞享四年黒羽ノ館主信濃守増栄寄進被之由。祭礼九月二十九日。
よりみち
殺生石   「玉藻の前」と化した「白面金毛九尾」の妖狐が那須野が原で退治された。しかし、その魂は毒石となり毒気を放ち人畜に害を与えた。この石を「殺生石」と言う。謡曲「殺生石」では、<玄翁という僧がこの那須野を通りかかると、空を飛んでいた鳥が皆大きな石の上に落ちてしまう。それ見て不審に思った僧が、石に近づこうとすると、一人の女が現れ、石に近づくなと言う。理由を尋ねると、女は、殺生石の謂れを僧に詳しく語り聞かせた。女は、この石の精であると言い、石の中に消えて行った。玄翁が供養をすると、石は真っ二つに割れ、中から野干(野狐)が現れ、供養をしてくれたため成仏できる、以後悪事は働かないと言い残し姿を消した。 >と謡っている。(「玉藻の前」「白面金毛九尾の妖狐」については、<6月9日>の日記を参照)
芭蕉が訪れた時は、上記したように、毒気(硫黄<硫化水素>等)を噴出していたのである。日本全国このような現象のあるところは数多くあるが、妖狐「九尾の狐」の伝説と結びつけているのが面白い。

茶臼山(那須岳)  標高1,915mの那須連山の高峰。那須温泉神社からさらに車(バス)でボルケーノ・ハイウエイを走り、ケーブルの出発点まで行く。ケーブルに乗り終点で降りる。岩石の道(?)を1kmほど登ると頂上に着く。活火山のため煙をはいている。

那須温泉神社  曽良日記にあるように、那須与一が屋島の合戦で、平家の扇を射落とした時に持って行った、各種の矢などが奉納されていると伝えられる。 芭蕉の訪れた当時、神主は、温泉宿の「和泉屋」と「橋本屋」が半年交代で勤めていたと言う。
お休み処
宿泊の予約  毎日、宿に入ってから、PCでインターネットタウンページを検索をし、次の日の宿泊場所を決めている。出来る限り温泉地は避けたい。料金が予算内に収まらないからだ。今回は、行程上やむを得ず、那須湯本温泉になってしまった。最初に電話したところは、お年寄りの経営する旅館で、料金は予算内であったが、先方から、「今日は、お客が無く、もし貴方が泊まっても一人だけだ、風呂の用意をしたり、料理を作ったりすると大変だ、良い宿を紹介する、申し訳ないが、お断りをさせてもらう」と断られてしまった。しかし紹介された宿は心温まる最高の宿であった。
翌日の宿泊場所も温泉になってしまった。那須町芦野である。インターネットでは芦野温泉の宿が一軒しか出てこない。スポーツ施設の合宿所のようなところになるがと、安くしてくれる。それでも一万円だ。普通だったら温泉場に泊まって、一泊二食で一万円は安いはずだが、今回の旅は、<一日の予算>を8,000円から最大10,000円迄に決めており、その範囲に収めなければならず、かなりの予算オーバーになってしまう。しかし温泉に入るのも、体調を取り戻すにはちょうど良いのではないか、と自分を納得させる。

俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

那須町公式ホームページ