遊 旅人の旅日記

河から栃木へ




小山城公園




小山城公園




小山カントリークラブ内古墳




飯塚の一里塚




大神神社(室の八嶋)参道




大神神社本殿




大神神社舞台




大神神社内室の八嶋に立つ芭蕉句碑
6時10分、ホテルを出発。曇っているが雨の心配はなさそうだ。台風の影響も今のところ無い。古河市を出て、歩道・街路樹のきれいに整備された野木町を通り過ぎる。昨日かなりきつかった足の<まめ>も今朝はさほど気にならない。朝は体調が戻るのだ。「人生も同じ、前の日に厳しいことがあっても、一晩寝れば翌日の朝は快調。気分を一新して又頑張る。この繰り返しだ。」などと考える。


7:30道路沿いの神社で小休止。雨がぱらついてくる。台風の影響、東日本では今夜出てくるとの予報だ。風雨が激しくならないうちに今夜の宿泊地・栃木に着きたい。一時間ほど歩くと芭蕉たちが二日目の宿をとった小山市間々田にはいる。本格的な雨になる。リュックを背負い、右手に傘、左手にパソコンのバッグを持つというスタイルだ。小山市街地に入ったところのファミリーレストランで朝食をとる。体がびしょぬれのため、レストランの片隅に遠慮して席を取る。
レストランを出てR4を歩く。国道の上を赤い欄干の付いた陸橋がまたいでいる。須賀神社の参道だ。参道が国道を陸橋で跨いでいる神社も珍しい。参道の長さだけで3〜400mありそうだ。


11:00小山市役所で休憩。今日は土曜日なため、市役所は休みだ。玄関の石段に腰掛け、地図と文庫本を出し道順を確かめていると、30歳くらいの女性が車から降り、近づいてきて、私に「土曜日の市役所の窓口は何処ですか」と訊ねてくる。私のスタイルを見たらこの土地のものではなく窓口を聞くのに適していない人物と判断できそうなものだが、と思いつつ、私は先刻、ドアに張ってある案内を見ていたため、教えてあげる。
最近は役所も、部署によっては土曜日も窓口を開けているところがある。住民にとっては良いサービスだ。


「小山ノヤシキ、右ノ方ニ有」と曾良日記にある「小山城跡」に行く。この城は祇園城とも呼ばれている。徳川家康の「小山評定」でも知られる。
今は城郭はなく、緑の木々がうっそうと茂る、よく整備された公園である。ちょっとした高台にあり、麓を「思川」が流れ、栃木方面に田園が開け眺めの良い公園になっている。


雨が猛烈に激しくなってくる。体は濡れても良いが、パソコンが濡れてしまうと大変だ。歩調は、土砂降りにもかかわらず何故か快調だ。「木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル」(曾良日記)の喜沢の交差点を壬生町方向に左折する。今も、314年前も字は異なっても地名の呼び方は同じだ。
喜沢の交差点角にある100円ショップで簡易レインコートとビニールのシートを買い、リュックとバッグを覆う。ここでR4と別れ壬生・栃木方面に向かう。すぐに左手が小山カントリークラブになっている。中に緑のきれいな草に覆われた半円形のものが見える。近寄ってみると古墳だ。「帆立貝式古墳」とかかれ、5世紀後半の頃、この地方を支配した豪族のものと記されている。しばらく歩いて姿川(思川の支流)をわたると一面の黄金色をした麦畑が広がる。この地方はビール麦の産地だ。ビール麦に違いないと思うと、麦畑の良い香りを乗せた風が、心なしか透き通ったビール色に見えてくる。


「飯塚の一里塚」を過ぎ国分寺町に入ると右手方向に下野国分寺・国分尼寺跡、風土記の丘資料館の案内が見えてくる。道を左にとり「室の八島」に向かう。思川を渡ると栃木市だ。芭蕉たちが渡った「惣社河岸」と言うところはわからなかったが、「室の八島」のある地名は、惣社町と言う。
雨が降っているため見通しが悪く、さらに、目印の無いところになってしまった。、かかとが痛くなり、足が上がらなく、引きずっている感じになってきている。<まめ>の痛さよりもかかとの痛さが勝っている。民家の裏庭から入り、家の中にいた人に「室の八島」の場所を尋ねる。民家の人はこちらの姿を見て最初不振そうに見ていたが、事情を話すと親切に教えてくれた。やっと今日の目的地「室の八島」に着く。


雨は相変わらず土砂降りだ。木々がうっそうと茂り、薄暗くなり神秘的な雰囲気だ。「霊気の伝わってくるような、神秘的な雰囲気」とはこのような雰囲気なのかもしれない。
名前は「大神神社」(おおみわじんじゃ)、また「下野惣社・室の八島」といわれている。室の八島とは、境内にある池の中に八つの島がありその島にそれぞれ、二荒山、熊野、天満宮、筑波、浅間、鹿島、雷電、香取と八つの神社が祀られている。そのため「室の八島」といわれているのだろう。
  
糸遊に 結つきたる 煙哉
の芭蕉の句碑がある。ここでは
 
 あなたふと 木の下暗も 日の光
とも詠んでいる。この句から想像すると、境内は、今日のように、雨が降った夕刻でなく、天気の良い日中でも、うっそうとした木々に囲まれているため、薄暗いのであろう。
ここでは、多くの歌人が訪れ、歌を詠んでおり、「煙」と言う言葉が「室の八島」の枕詞となっている。八島の池から立ち上る水蒸気が景色を煙らせていた様から来ているらしい。


まだ5時前だ。明日から夏だというのに、この時間で、暗くなってしまった。神社を後に、今宵の宿に向かう。一時間ほどで宿に着く。全身ずぶぬれ。宿の玄関でずぶぬれの始末をしている間に、女将さんが、びしょぬれで、20kgものリュックを二階の部屋まで運んでくれた。お礼を言うと、体はマラソンの練習で鍛えているから丈夫にできている言う。
到着時間がわからなかったため、夕食の予約を入れてなかったが、風呂に入って休んでいる間に、別メニューで安く用意してくれるという。助かる。風呂に入って足の裏を見ると、土踏まずから先、足の指まで、皮が全部,足の裏本体から,はがれてしまっている。少し暑めのシャワーで、猛烈な痛さ、熱さを我慢して洗う。食事を済ませた後、女将さんに薬局の場所を聞いて治療薬の調達に出かける。足の裏の事情がわかってしまうと歩くのに踵しか使えない。幸い300m程のところにあったが、行ってくるのに二時間もかかったように思われた。赤チン、ガーゼ、包帯を買ってくる。赤チンはやはりもう無いという。しかし店の奥の方から出してきてくれた。店の在庫処分になったのかもしれない。今はマキロンだという。再度改めて処置をする。女房に電話をし、足のことを話し、もし歩けなかったら家に帰るかもしれない、と言うと、それ見たことか、といわれた。宿に事情を話して明日もう一泊したい旨お願いをする。明日は日曜のため、主人も女将も行事があり、出かけてしまい世話はできないが、と快く聞き入れてくれた。明日は一日休もう。体が休まると足の痛みが増して眠れない。

おくの細道 曾良日記
室の八島に詣ス 曾良か曰此神は 木の花さくや姫の神と申て 富士一体也 無戸室に入て焼たまふ ちかひのみ中に火火出見のみこと うまれ給ひしより 室の八島と申 又煙を読習し侍るもこの謂也 将このしろと云魚を禁す 縁記の旨世に伝ふことも侍し  二十九日、辰ノ上剋ママダヲ出。小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。小山ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ超、ソウシャガシト云船ツキノ上ヘカゝリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。
よりみち お休処
須賀神社 天慶の乱に際し、藤原秀郷がスサノオノミコトに戦勝を祈願、成就できた。そのため京都祇園社(八坂神社)から分霊し祀ったのが創祀。
徳川家康も小山評定を開き関が原の戦いの戦勝を祈願。成就したため家康の崇拝神社ともなっていた。徳川幕府は後に日光東照宮を造営した宮大工に朱神輿(あかみこし)を造らせ奉納したと言う。

小山城 14世紀後半の築城か。城内に祇園社(現在の須賀神社)があったのか祇園城とも呼ばれる。徳川家康が会津の上杉景勝を討ちに行く途中、石田光成、大谷刑部が家康に対して挙兵をしたとの知らせを聞き軍議(小山評定)を開いた城である。家康が立ち寄った時にはすでに廃城になっており、修復をして使ったといわれている。

飯塚一里塚 江戸日本橋を基点に日光に至る「日光西街道」の飯塚宿と壬生宿の間にあり、日光東照宮参詣を中心として開かれた街道にある。

室の八島 下野総社・大神神社は大和の大三輪神社の分霊を奉祀して創立されたと言う。八島は日記に記した通りである。
けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来、東国の歌枕としての名所であった。
地名について 芭蕉の「奥の細道」、曾良の「曾良日記」に出てくる大半の地名が今も使われている。中には呼び方は同じでも字が異なるものもある。それぞれ、その場所が持つ特性を現し、つけられた名前なのであろう。大切にして後世にも残してゆきたいものである。

小山評定 徳川家康が「関が原の戦い」に向け第一歩を踏み出した最初の軍議である。家康はそれまで伏見城におり、会津の上杉景勝が不穏の動きをしているとの情報を得、伏見城に鳥居元忠を留守居役として残し、自ら軍を率いて上杉討伐に向かう。江戸城に寄り、小山城に到着したとき、石田光成が大谷刑部を誘い家康打倒の兵を挙げたとの情報を耳にする。そこで家康は側近の武将また、引き連れてきた豊臣恩顧の武将に会津討伐に向かうか、石田光成を打つか軍議をさせた。結果は石田光成を打つことに決定。上杉討伐は見合わせ大阪に向かうことになる。山岡荘八の{徳川家康」によると、軍議は武将たちだけで行われ、決定された後に家康は顔を出している。此の決定により、数ヵ月後、関が原において天下分めの決戦が行われることになる。。もし評定が上杉討伐になっていたら、日本の歴史は変わっていただろう。

家康の頭の中には、伏見城を去るとき、すでに石田光成の動きを察知しており、そのため上杉討伐には、家康配下のほとんどの武将と、多くの豊臣恩顧の武将を連れてきており、大阪周辺には徳川の武将はほとんどいなくなってしまっている。光成の挙動を見据えた上での行動だったとも云われている。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

小山市公式ホームページ
   霊気おび 黒雨に煙る 室の八島   (遊 旅人)