遊 旅人 の旅日記
白河から矢吹へ | |
5:30出発。新白河駅前から白河駅に向かって歩く。白河駅前にある観光案内図で「宗祇戻し橋」「結城」「鹿島神社」の位置を確かめる。 しばらく歩いてゆくと町並みがなくなり、歴史民族資料館という建物を見つける。地名は「結城」である。この地名は、初代白河藩の小峰城城主である結城氏から取ったものであろうか。宗祇戻し橋は旭町であるからもう少し市内よりだ。今歩いてきた道沿いには、それらしいものは見当たらなかった。市内に戻る道がYの字になっている。違う道を戻る。 すぐに右側住宅の横に「宗祇戻し」の碑を見つける。「しかし、よく見つかるものだ」と自分ながらに感心する。芭蕉・曽良が訪れたとき、曾良日記によると、ここには小さな橋があった、と書かれている。 歴史民族資料館まで再度戻り、道を左に入り阿武隈川に出る。堤防の上の道を歩いていると、川の向こうにこんもりとした森が見える。あれが鹿島神社だと見当をつけ、しばらく行ったところの鹿嶋橋を渡ると神社への参道がある。まだ朝早いため、ウォーキングをしている人、犬を散歩させている人と会っただけである。参詣をし、橋を渡り、もとの道に戻る。 すぐに「白河城跡」がある。こちらが元の白河城跡である。町の中に在るのは小峰城である。白河の町は小峰城を中心に発展した町である。 巨大な垂直に切り立った岩があり、上の方に「感忠銘」と三文字が彫られている。これは1807年この地の大庄屋・内山重濃というものが、松平定信書の三文字「感忠銘」を城跡のこの巨大な岩に刻ませたという磨崖碑である。この語の意味は、源頼朝が奥州合戦の際の、当地の領主であった結城宗広・親光親子の忠誠、功績をたたえた。そのことを後世に伝えようとしたものと説明されている。 |
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道をさらに<いわき市>方面に歩いてゆくと、曽良の言う但馬村(現在名・田島)がある。ここまでで3時間近くかかってしまった。まだ10km進んでいない。小休止の後、少しペースを上げて歩く。ペースを上げてといっても気分だけで肉体的には無理だ。 刈敷坂で左に折れ矢吹方面に向かう。阿武隈川を常盤橋で渡ると中島村である。阿武隈川もこのあたりでは普通の川である。もっとも河口のある仙台の近くまで行けば大きな川になるだろう。 道沿いが古い街道の趣を持っている。また家の並び方が面白い。家の正面が道路に面していなく、家の側面が道路に面しているのである。道路は南北に通っており、家は南を向いている。玄関は皆南側にある。一軒一軒家に入る広い道路を持っている。各家がお城のようなおおきな家だ。そのため各家とも日当たりは非常に良くなっている。その家並みを楽しみながらしばらく歩き、道沿いにあった神社の境内で小休止。 ニ子塚を通り過ぎ、しばらく行くと左手に大きな池がある。<ふれあいの里>とおおきな看板が出ている。 中畑交差点を左に曲がり、東北自動車道矢吹IC方面にすすむ。芭蕉達はここから真直ぐ須賀川に向かったようだ。私は距離と宿泊場所の関係上、矢吹に向かう。12:30 小川の土手でリュックを下ろし、草叢に腰を下ろし休む。田圃を渡ってくる風にあたり、小川のせせらぎを聞いていると、なんとものどかで心地よい。再び、田圃と畑、の続く道を歩き続ける。東北線のガードをくぐると、高速道路らしい道と交差する。少し行くと国道4号に出る。ちょうど矢吹ICの入り口だ。 今日泊まるホテルは、ICのすぐ近くと言われていたため、もうすぐだと思い、携帯でホテルにTELをし場所の確認をする。すると、ICから4km程、須賀川よりだという。確かに車だと4kmというと、5〜6ですぐだ。しかし私が歩くと1時間かかる。一瞬がっくりし疲れがどっと出てくる。しかし気を取り直して歩く。3時ホテル着。雨が降ってくる。 周辺を歩いて、何か見つけようと思ったが中止。今日は日曜日である。ホテルは市街から離れた国道沿いにあり、周りには飲食店など何もない。夕食の予約は入れていなかったが、相談をすると、フロントの女性が気をきかしてくれ用意をしてくれる。助かった、有難う。 ホテルでは二組の結婚式が行われている。自分の部屋と同じ階の大広間では、盛大な披露宴が行われている。 今日は、白河市内を出るまでは、時間がかかったが、あとは順調に歩いてきた。距離にして30km程になる。気温もこの時期としては比較的低いので助かる。汗も出てこない。夜、かなり雨が降ってきた。明日は、雨にならないようにと天に向かって祈る。 |
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曾良日記 | |
○忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。 ○二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリ アブクマ河ヲ渡リテ行。ニ所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。ニ方ノ山、古歌有由。 みちのくの 阿武隈河の わたり江に 人(妹トモ)忘れずの 山は有けり ○うたゝねの森、白河ノ近所、鹿嶋の社ノ近所。今ハ木一、二本有。 かしま成 うたゝねの森 橋たえて いなをふせどり も 通はざりけり(八雲ニ有由) ○宗祇もどし橋、白河ノ町より右(石山より入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句之有。いづれも三日付ル事成不。宗祇、旅行ノ宿ニテ之聞被テ、其所ヘ趣被時。四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由シカジカ。女「それは先に付侍りし」と答てうせぬ。 月日の下に 独りこそすめ 付句 かきおくる 文のをくには 名をとめて と申しければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝。 (俳諧書留) みちのくの名所名所、こころに おもひこめて、先、せき屋の跡なつかしきまゝに、ふる道にかゝり、いまの白河もこえぬ 早苗にも 我色黒き 日数也 翁 |
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お休み処 | |
〇宗祇戻し橋 文明十三年(1481年)白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日万句の連歌興行を催した。しかし難句が読まれ、三日の間、付句が詠まれなかった。そのことを旅の途中の宿で聞いた連歌師宗祇は、白河・鹿嶋神社に向かった。途中で40才ほどの女に出会い「何処に何をしに行くのか」と問われ、連歌興行のことを話すと、すでに付句され、興行は終わったと告げられた。そして その女が 「月日の下に 独りこそすめ 付句 かきおくる 文のをくには 名をとめて」 と歌を詠んだのに、この地方の連歌に対する関心の深さに心を打たれ京の都に戻っていった。ここはそのような場所(小さな橋があった)である。(曾良日記より) 案内板の解説には、【その女は、<綿>を背負っており、宗祇がその綿を見て、「売るか」と問うたところ、女はすぐに、 「阿武隈の 川瀬に住める 鮎にこそ <うるか>といへる わたはありけれ」 と和歌で答えた。これを聞いた宗祇は、東奥の風流に感じ入り、ここから都へ引き返したと言い伝えられる。】とある。 曾良日記の中の、女のよんだ歌の意味は解らないが、案内板の解説の中の、宗祇と女の会話の中で、歌われた歌は解りやすく面白い。1,400年代にすでに<うるか>は食されていたのである。 〇西行・宗祇・芭蕉 古来、日本の歌は、口で歌う歌謡が多かったと言われ、その後、大陸との交易により文化の輸入が行われ、漢詩の影響を受け、発展してきた。飛鳥・天平の頃から、五七調の長歌、五七五七七の31音の短歌など、目で読む歌が発達し「和歌」の基礎が確立されていった。7〜8世紀頃の和歌を集めて編集したものが「万葉集」である。作者は、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴家持、額田王などがおり、また無名の農民の作、東人の東歌、防人の歌などが編集されている。 905年「古今集」が編集され、主な作者として在原業平、紀貫之がいる。平安末期においては自然を愛する歌を歌った天才歌僧<西行>(1118〜1190)が出ている。家集には「山家集」がある。 この平安末期から室町時代にかけ和歌から派生して「連歌」が生まれた。形式は和歌の形式をとるが、内容は笑い、機知、気安さを歌ったW歌のしりとりWのようなものであり、多くの人々に親しまれ発展した文芸である。15世紀 <宗祇>(1421〜1502)の出現により、芸術的にも、趣深いものに高められ、和歌と対等の地位に立つようになった。全国各地で連歌の会(付句、付合い、寄り合い)が催され、武士、町人問わず、参加したといわれる。 江戸時代になると、連歌から出てさらに平易な形をとった「俳諧の連歌」になってゆく。そして俳諧の発句17文字を独立させ、きわめて短い詩形を作り上げ、誰でもが作れる芸術として親しまれて行く。そして自然を愛し、人生の無常を感じ、旅を人生にたとえ また修行の場としてとらえ、風狂の精神を求め続け、<俳諧の発句>の芸術的境地を高めたのが「芭蕉」である。 〇旅 西行・宗祇・芭蕉それぞれ良く旅をしている。それぞれ旅の目的は異なるであろうが、旅をして感性を磨き、人々の心を思いやり、自然を体感し、多くの困難な物事を経験し、それを歌に表わそうとしたに違いない。 一方で徳川家康の一生の旅は<重荷を背負った>ものであったといっている。旅は厳しさ、苦しさ、困難を乗り越え、あるときは楽しさを味わい、多くのものを経験し人生を豊かにしてくれるものと思う。西洋の古代の哲学者も「世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を一頁しか読まざるなり」といっている。洋の東西を問わずW旅Wの例えはさまざまな形で表されている。 |
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俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム 白河市公式ホームページ |
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