旅7日目・あのクレオパトラもやって来た、古代ローマ時代都市エフェソス遺跡編

東西文明の十字路、トルコ旅行記・旅7日目-1

 世界自然遺産カッパドキア

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旅の7日目 歴史ロマンの世界
クレオパトラもやって来た都市遺跡「エフェソス」


2000年の歴史がよみがえる遺跡

ホテルの窓からはエーゲ海クルーズ船が見える
 エーゲ海有数のリゾート観光都市「クシャダス」のホテルで旅7日目の朝をむかえた。
 昨夜はオープンカフェでエーゲ海に沈む夕陽を鑑賞後、ホテルに戻ると日本から持参したインスタント食で夕食を済ませ、安定剤を飲み、早めにベットインしたので、途中目覚めることもなく熟睡することができた。旅の疲れは消し飛び、体調はいたって快調だ。

 今日は、このトルコの旅を通して、私が最も楽しみにしていた古代ローマ帝国時代の遺跡巡りの一日だ。
 かって、私が夢中になり読んだ塩野七生の代表作である大長編歴史小説「ローマ人の物語・第1巻〜15巻」がある。古代都市国家ローマの興隆からローマ帝国の滅亡までを期した壮大な物語なのだが、今日はその本に記述されているノンフィクションの世界を訪れるのである!胸が高まる!今日はたっぷり歴史ロマンに浸るのだ。
 天候は晴れたり曇ったりである。定刻8時半、私達を乗せるとバスはホテルを出発した。

 本当に実在した聖母マリアの家

 30分ほど走ると今日のメイン観光である古代都市「エフェス」への起点となるセルチェクの町に入った。この町を通り抜けると、やがてオリーブの樹が生い茂るブルブル山への山道となった。くねくねカーブが連続する山道を登りだすと、右手の谷あいにエフェス遺跡が見えてききた。これを通り過ぎ、さらに山深く15分ほど登ってていくと、やがて山の頂上近くの鬱蒼とした木々に囲まれた「聖母マリアの家」の駐車場に着いた。
 マリアの家の手前にある洗礼のためのプール

 ここ「聖母マリアの家」は、紀元30年ごろエルサレムで、キリストが磔刑死後、聖ヨハネは聖母マリアを連れて、この地エフェソスを訪れ、余生を過ごしこの地で亡くなったという。
 聖ヨハネの墓所には聖ヨハネ教会が建てられたが、一方マリアの住んでいた場所は歴史から忘れ去られ、マリアの最後の場所は長いこと謎とされてきた。
 1863年、神の啓示を受けたというドイツ人修道女のアンナが、訪れたことのないエフェソス山中の石造りのマリアの家の様子を語りだしたという。
聖母マリアの家、今は教会となっている

 その後マリアの家探しが始まり、修道女の語った通りこの山中にマリアの家の基礎部分を探し当てたのである。
 その後、この地は正式にキリスト教徒の聖地としてキリスト教の総本山バチカンに認められ、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ法王(パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世)も巡礼に来ているとのことである。聖地ということだけあって、すでに駐車場からマリアの家(教会)までの坂道は、欧米人観光客の大行列ができている。

 家の手前までくると、洗礼のため土を掘り、水を入れたバブテスマがあった。洗礼は原罪を洗い清め、新たな生命をよみがえさせるとされた儀式である。
 教会の入り口でしばらく並び中に入ると、小さな礼拝所があり聖母マリア像、壁にも聖母マリアが描かれ、ローマ法王から贈られた聖職者が使用するというネックレスなどが置かれている。マリアの家を出て階段を下った所には、病が治ると伝えられている聖水が湧いている。皆が先を争うように水を手にすくい頭や身体のふりかけている。
 願いを込めたおまじない、日本のおみくじのようだ

 隣には郵便局があり、そこでハガキを出すと、聖母マリアのスタンプを押してくれるということで、何人かの旅仲間が日本への絵葉書を出しに行った。
さらにその先の石垣に不思議な光景が目に入った。壁を埋め尽くように布やテッシュが吊るしてあるではないか。まるで日本のおみくじのようだ。
トルコでは布の切れ端を小さく切って建物に結び、願いを込める風習があるらしい。
 次は「エフェソス遺跡」観光である。私達を乗せたバスはマリアの家へとやってくるバスが連なる山道を下りだした。

世界最大級の古代都市「エフェソス」遺跡の歴史

15分ほど山道を下ること、バスの左手の小高い二つの山の谷あいに「エフェソスの都市遺跡」が見えてきた。バスは南北2か所ある入口の南入り口前に停まった。
エフェソス遺跡の南入り口、上のアゴラ付近から
 私達はここ南入り口から、ゆるい坂道の両脇にひろがる古代都市遺跡を見学しながら、北入り口まで下っていくのである。バスは私達を降ろすと先回りして、北入り口で私達が出てくるのを待っているのだ。
 ここエフェスは紀元前10世紀に古代ギリシャ人の先祖といわれるイオニア人が植民したのが街の始まりとされている。はるか中国の西安から中央アジアを抜け、小アジア(トルコ)に入ったシルクロードの終点として、またエーゲ海に面した天然良港であったことから、交易港として大いに栄えた港湾都市でもあったのだ。
メインストリートを北側出口まで下っていく

 この古代都市遺跡についてガイドブックを読んでみたが、その栄華盛衰の歴史には圧倒される。
 紀元前4世紀アレクサンドロス大王の東方(オリエント)遠征よって、ヨーロッパからアジアにかけてギリシャ風の文化(ヘレニズム文化)が広がった。
 このエフェソスもヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入り、小アジア(トルコ)の西半分を占めるアシア属州の首府とされたことが、その後の発展の基礎となったのである。

クレオパトラがアントニウスと逢瀬を重ねた街

地震とイスラム勢力の侵攻により廃墟と化した

 紀元前1世紀の共和制ローマの最末期に独裁官となり、のちの帝政ローマの基礎を築いた「ユリウス・カエサル( シーザー)」が、元老院で暗殺されたあと、権力を握った「マルクス・アントニウス」にエジプト王朝に対する庇護を求めて愛人関係なった女王「クレオパトラ」が逢瀬を重ねたのもこのエフェソスの地なのである。
何と二人の間には3人の子供までなしているのだ。
ケルスス図書館の近くでクレオパトラと王位を争った
妹のアルシノエの頭骨が発見された

 また、エジプト王朝の支配をめぐって姉妹間で骨肉の争いを演じ、クレオパトラに負けた妹の「アルシノエ4世」がこの地に送られた。のちにクレオパトラの意向によりアントニウスによって殺害されたのだが、そのクレオパトラの妹の墓が1927年ドイツ人考古学者によって発見されたのもこのエフェソスなのだ。
その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心として、最盛期には人口20万人をかぞえ、ローマ、エジプトのアレクサンドリア、と共に世界の三大都市といわれるほど繁栄したのである。何より凄いのは2000年前といえば、日本ではまだ弥生式時代である。まだ国としての形をなしていない時代に、このエフェソスでは数々の文化、芸術、テクノロジーが生まれ、人々は人生を謳歌していたのだから凄い。
エフェソスを奪還したメミウスを称える碑

また、ローマ史を彩った数々の名高き人たちがこの街を訪れている。ルビコン川を渡河するとき「賽は投げられた!」で権力を掌握しローマ帝国の終身独裁官となった「カエサル(シーザー)」、そのカエサルを暗殺した「ブルータス」、悪名高き暴君「ネロ皇帝」等もこのエフェソスを訪れているのだ。
 繁栄から衰亡の兆しは、幾度なく襲った地震や土砂の沈降により、繁栄を基礎となった港湾の規模は縮小されていったことにある。
 7世紀に入ると、ますます港の沈降が進み、さらには8世紀に至りアラブ人の攻撃をたびたび受けたことから、この地を支配していた東ローマ帝国(ビザンチン)はエフェソスを放棄した。港が完全に埋まったのはその後のことである。こうして繁栄を極めたエフェソスも歴史の舞台からから消えていったのだ。この巨大な遺跡は150年前から発掘が始まり現在も続いている。

2000年前といえば日本はまだ弥生式時代に

ここでは数々の文化、芸術が生まれ、人々は人生を謳歌した。

 11代ローマ皇帝を祀ったドミティアヌスの神殿


 バスを降り歩きだすと、まず広場の一角に2階建ての石柱の「ドミティアヌスの神殿」跡が目に入ってくる。ローマ11代皇帝ドミティアヌスを祀る神殿だったが、暴虐であったため家臣たちによって殺された後に神殿は取り壊され、現在は土台部分を残すのみとなっている。
 その隣には、アーチをもつポリオの泉があり、そしてその向こうには当時世界最大の公衆浴場だった「ヴァリウスの浴場」跡の遺跡が見える。
世界最大の公衆浴場だった「ヴァリウスの浴場」跡

 2世紀に造られたローマ式浴場あとで、連続するアーチのある建物で2世紀に造られたものだ。
床下暖房という典型的なローマ風呂の形を残しており、冷水浴、温水浴、熱水浴室、マッサージ室、脱衣場などがあり、貧富の差を問わず利用できる市民の娯楽と社交の場だったのである 。日本でいえば現代風スーパー銭湯みたいなものだ。
今は3本のアーチが残るのみでどんな建物だったかまるきり分からない。
南側入り口から入りこのような坂道を下っていく

 私達は小高い丘に囲まれ、北側出口までゆるい下り坂になっている大通りに足を踏み入れた。都市遺跡の大部分は丘の斜面に展開してるのである。丘の上の高い場所ほど裕福な人々が住んだとされ、日本でいう山の手の高級住宅街だ。通りの右手には政府機関建物と身分が高い人々が住んだ地区(アクレポリス)で、左手が一般庶民の生活地区と区分けされていたらしい。
2000年も昔の水道管が残っている

 通りの両脇には無造作に発掘された遺跡が置かれ、テラコッタの水道管が走っている。当時から水を活用するテクノロジーがあったのだ。
数本の列柱が見えるのが「市公会堂」だったところだ。かってはここに聖火が灯され、選ばれた市民により火が消えぬよう24時間守られていたという。
 そのすぐ隣が「オデオン」コンサートホール(音楽堂)だ。収容人数は1400人で、劇場のような建物に屋根が取り付けられており、市民代表者会議やコンサートの際に利用していたという。丘の傾斜を利用した階段席がきちんと残っており、階段席の最上部まで登ってみると、折れた大理石の石柱があちこちに散在し、私達が入場してきた南ゲートが一望できた。
半円形のオデオン(音楽堂)人生を謳歌していた

 階段席のあちこちに欧米人観光客のグループが、ガイドを前に説明を聴いたり、ロマンに浸っているのであろうか、あごに手を当て物思いにふけっている様子で座っている人もいる。
 私も階段席にゆっくり腰をおろし、しばしロマンに浸りたいと思うのだが、団体行動でスケジュールが決まっており時間が無い!
後ろ髪引かれる思いで皆の最後尾をついていくしかない。

  「エフェソス遺跡」画像の上でクリックすると拡大画像になります。

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オデオン(音楽ホール) 1400人収容オデオン ヘラクレスの彫刻門

メインストリートのクレステ通り

クレステ通り、突き当りにはケレスス図書館が見える!


 オデオンから通りに出ると、ヘラクレスの彫刻を施した左右対称の「ヘラクレスの門」がある。この門から北の「ケルスス図書館」まで、なだらかに一直線に伸びていく下り坂の石畳通りがメインストリートの「クレステ通り」である。
 この通りでは毎年、エフェソスの聖火を守っている神官たちの行列も行われてとのこと。通りの右側にはさまざまな公共建物が並び、左手には高級住宅地の見事なモザイクの歩道があり、はるか先の正面には最大の見どころの一つ「ケルスス図書館」が見える。
 私はひとり人混みの最後尾から、耳に装着した無線レシーバーでガイドの説明を聞きながら坂道を下っていく。
気がついたらこの人混みで迷子になっていた

 浴場、泉、神殿、公衆トイレ、娼館までがあり、2000年も前の当時の人々の生き生きとした生活の様子が目に浮かんでで来るようで、実に歴史ロマンあふれるストリートである。やがて通りはぞくぞくやって来る観光客であふれ、前に進むのもやっとというほどになってきた。
 私達が宿泊してるクシャダスの港に、地中海クルーズの大型船が何隻も停泊していたが、これらの乗船客が一斉に観光に訪れているに違いない。ここエフェソス遺跡は地中海クルーズのメイン観光地の一つなのだ。

何と!旅仲間とはぐれてしまった!

 人混みに紛れ、旅仲間の最後尾ついて「トラヤヌスの泉」で写真を撮りまくっているうちに、何と!気がついたら私の周りには仲間の姿が見えなくなっている。まずいことに耳に装着した無線レシーバーからも、いつの間にかガイドの声が聞こえなくなっているではないか。付近にいるならばレシーバーにガイドの声が流れるはずなので、かなり離れてしまったようだ!夢中になって写真を撮りまくっているうちに何と!仲間とはぐれてしまったのだ!
あわててあたりを見回したが、あまりの人混みで見通しがきかず仲間がどこにいるのかまったく分からない!少々焦った。仲間たちはガイドとともに、どこか遺跡の陰に入ってしまったようだ!必死になって探すがやはり見つからない!
2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿

 参った!仕方ない!この少し先が観光ポイントの一つである「ハドリアヌスの神殿」がある、そこに行けば皆に合流できるだろうと神殿の前まできて、人混みを探したが、やはり仲間の姿が見えない。皆はいったいどこえ行ったのだ?!不安が襲ってきた。
 こうなればクレステ通りの突き当り、エフェソス遺跡を代表する「ケルスス図書館」まで行き、そこで皆がやって来るのを待つしかないと思い決めた。
観光客であふれるケルスス図書館前の広場

 図書館前の広場までやって来た!広場はもの凄い数の観光客で埋め尽くされている。もしかしたら私より一足早く着いているかもしれぬと、人混みの中をかけずり回ったがやはり、見つけることができない。
 図書館前の通りで途方に暮れ佇んでいると、仲間のI氏とK氏が坂道を下って来るではないか。私が喜んで駆け寄ると何と!この二人も迷子で、皆とはぐれたので、探しながらここまで下って来たというではないか!
下手に動きまわれば、ますます迷子になるので、動き回らず図書館前でしばらく待機していようということにした。

当時の世界で三大図書館「ケルスス図書館」

当時の世界で3本の指に入る規模だったケルスス図書館

 目の前の見事な2階建てのファザードが、円形大劇場とともにエフェソス遺跡の象徴ともなっている「ケルスス図書館」だ。圧巻である。
 ローマ帝国のアジア州執政官だったケルススの死後、彼の息子が父の墓室の上に記念として築き上げたもので、図書館であると同時にケルススの霊廟でもある。117年に完成しエフェソスで一番優美な建築物だ。
 周囲の彫られたレリーフが往事の豪華さを偲ばせる

 正面(ファザード)には知恵、運命、学問、美徳を象徴する4体の女性像が配置されており、壁や天井に彫られたレリーフと相まって往事の豪華さを偲ばせる。
 コリント式の頭柱がある大理石の円柱は、視聴覚効果も計算に入れ、それぞれの場所により柱の太さや長さに変化をつけ遠近効果を利用して建物を大きく見せているといわれている。古代ローマ帝国時代のテクノロジーの高さに圧倒されるばかりだ。
 ここには13200巻の書物が所蔵され、当時はアレクサンドリア、ベルガマと並び世界の三大図書館といわれるほどだったのである。

やっと迷子から脱出できた

 しばし、ケルスス図書館で写真を撮りながら旅仲間との合流を待ったがやって来ない!もしかしたら”もっと先へ行ってしまった”のだろうかと不安がつのる。いや!そんなはずは無いはずだ!と思考が巡る。
 焦ってきた!再び迷子になった3人で手分けして周辺を探し回ることにした。
 私はもと来た道を戻っていくことにした。人混みをかき分けるようにしてクレステ通りの坂道を上っていくと、突然!耳に装着しているレシーバーからザーザーというノイズ音に混じり、かすかにガイドの声が聞こえてきた。さらに歩みを進めると「公衆トイレ遺跡」近くの通りで仲間がガイドの説明を聞いているのが視線に入った。やっと見つけた!
下には下水が流れる水洗トイレ、社交場でもあった

 私が近寄っていくと、旅仲間が一斉に「佐藤さん!どこにいたの?行方不明になったので皆心配していたのよ!」という声を浴びせてくる。
 歴史好きが高じ、あまりにも夢中になり過ぎ、かってに動き回り過ぎた。皆に迷惑をかけてしまった!やっと合流でき、思わず安堵の吐息が出てしまう。私は再びケルスス図書館まで走って戻ると、途方に暮れた表情で佇んでいる I氏とK氏の二人に大声で「見つかったよ!」・・・
 
 再び旅仲間全員揃って「公衆トイレ跡」から見学が再開することにした。通りからちょっと中に入ると壁際にベンチのように腰掛けてする洋式タイプのトイレが並んでいる。隣との仕切りは無いが、今でも立派に使えそうなものだ。
 かってよく旅をした中国で、腰を抜かすほどに驚かされた「ニーハオ、トイレ」と比べれば、2000年前のこのトイレのほうがずっと清潔で近代的だ。
 それにしても、下の溝に水が流れる水洗トイレとは驚かされる。トイレの中央には泉があり音楽まで流されていたとか。ここで井戸端会議ならぬトイレ会議でもやっていたのだろうか。

 人類最古の商売とされる娼館の広告があった!

上下2か所あった多目的広場の下のアゴラ
ケルスス図書館からクレテス通りは右に曲がる。ここから大劇場まで続く大理石の道が「マーブル通り」だ。左手には「マゼウスとミトリダテスの門」がある。
これはローマ皇帝アウグストゥスの奴隷だったマゼウスとミトリダテスが、解放に際し、皇帝一家への感謝を込めて建てたものだ。
 この門をくぐると、マーブル通りと並行して左手に上下2か所あったアゴラの「下のアゴラ」がある。(注、アゴラとは集会や宗教行事、市場などにりようされていた多目的広場のこと)
 路面に刻まれた娼館へ誘う、古代の広告

 マーブル通りの白い大理石道の脇には折れた円柱がずっと建ち並び、その下には円柱の残骸が転がっている。道を進むと大理石の路面に刻まれた面白い古代広告があった。何と「娼婦館」へ誘う広告だというではないか。
 売春は人類最古の商売とされるが、まさにその通りで2000年も昔から売春の広告があったのだ。この広告についてはいろんな説が飛び交っているが、足は娼館への方向、十字は十字路、足の右手の頭飾りの女性は娼婦で、その下のお金が「お金を持っておいで」、足の左上のハートは心を込めてサービスします、という意味だというから何とも面白いではないか。
 うがった見方では、この足形より小さな足の人は売春宿は利用できないとう説もある。

 まさに圧巻!半円形大劇場

山の斜面を利用し紀元前に造られた大劇場

 やがてマーブル通りのつき当たりまで来ると、右手にピオン山の斜面を利用して造られた「半円形の大劇場」が現れた。
 紀元前のアレキサンダー大王後のヘレニズム時代に創設されたものだが、ローマ時代に拡張され2万4千人収容できたという。ローマ帝国でも最大級の劇場で階段状の観覧席は直径154m、高さ40mもある。
2万4千人収容できた。剣闘士による死闘が演じられた

 演劇の上演や全市民参加の民会の会場にもなり、市民にとっては最も重要な公共施設の一つだったとこだ。
 ローマにあるコロッセウムと同様に、奴隷の剣闘士対猛獣の殺戮ショウーがおこなわれ、その時は危険防止のため観客席とステージの手すりが壁に変えられたという。
 かって映画で見た「ベンハー」や「グラディエーター」での死闘の場面が思い浮かんでくる。 この劇場で「アントニウスやクレオパトラ」を始めとして、ローマ史を彩った数々の名高き歴史上の人物たちがショーを観覧したのであろうか。
当時の人達のいきいきとした暮らしの様子が目に浮かんでくるようだ。
ちなみに、この劇場は保存状態が良いので現在でも舞踊やオペラ等のイベントに使われいるとのことだ。
遺跡の上でちょっとだけロマンに浸る

 下から見上げるとずっと山の上部まで階段席がつづきその規模に圧倒される。ブルトーザーもクレーンも無かった2000年前のテクノロジーの凄さに感動さえ覚える。それにしてもよくこれだけのものを造ったものだ!古代ローマの都市は、奴隷が人口の三分の一を占める奴隷社会だったので、この劇場も奴隷によって造られたのであろう。
思いを馳せていると、どうにも我慢できなくなり最上階席まで登ってみることにした。

クレオパトラが歩いた「アルカデイアン通り」

大劇場から港まで一直線に延びるアルカデイアン通り

 劇場の階段席上部に上がってみると、眼下には、当時のエフェソス港からこの大劇場まで結んだ大理石の道路「アルカディアン通り」が一直線に伸びているのが見える。
 道路を改修した皇帝「アルカディウス」にちなんで名付けられたのだが、別名クレオパトラ通りともいわれている。幅11m、長さ500mのプロムナードで、道の両脇にはアーケード付きの商店が並び、街灯も灯され、外交使節や国家要人の歓迎式典もここでおこなわれていたという。
アルカディアン通り(別名クレオパトラ通り)

 エジプト王朝の支配をめぐり、妹「アルシノエ」との争いに勝つべく、時のローマ帝国最高権力者アントニウスによる庇護を求め愛人関係となったクレオパトラが、この地に滞在していたアントニウスに逢うため、エジプトのアレクサンドリアを出港し、エフェソスの港に上陸し、行列を仕立てこの「アルカデイアン通り」を歩んできたのである。
 大劇場の席からこの道を見下ろすと2000年前の歴史的光景が目に浮かんでくるようだ。まさに歴史ロマンではないか!
もっとゆっくり見学したいが、あっという間に昼食時間がきてしまった。名残惜しいが大劇場を背景に旅仲間全員で記念写真を撮ると、バスが待機している北出口に向かうことにした。

エフェソスの大劇場を背景に、規模の大きさに圧倒される。

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    聖地、聖ヨハネ教会、夕食にシーフードレストランに飛び込んだ!編へ 続く