旅の5日目・世界遺産パムッカレに向け、バスは古のシルクロードをひた走る!編

東西文明の十字路、トルコ旅行記・旅の5日目

 世界自然遺産カッパドキア

トップページへ

トルコ旅行記の目次へ

前のページへ

旅の6日目へ



旅の5日目、古のシルクロードをパムッカレへ

カッパドキアを離れる朝

 ベット脇の電話が鳴った!受話器を取り上げると添乗員のS女史の「今日もよろしくお願いします」とのモーニングコールの声が流れてくる。時刻は5時半だ。カッパドキアに3連泊したこのホテルとも今日でお別れである。
 今日はホテルを7時半に出発し、かって栄えた古代のシルクロードを走り、世界自然遺産「パムッカレ」へ向かうのである。
途中、休憩を兼ねて2か所の観光スポットに立ち寄るが、終日バスの中で過ごすみたいなものだ。起床してから出発まであまり時間が無い!6時半までに身支度を整え旅行ケースを廊下に出させねばならぬ。朝食も普段より30早い6時半からである。
 あわただしく身支度を整えると旅行ケースからインスタントの「カップ天ぷらソバ」を取り出した。一日三食パンばかりで旅も5日目となると、さすがに日本食を食べたくなった。レストランでの朝食はパスすることにして、旅行ケースにぎっしり詰まっている日本食を消化することにした。

午前7時ホテル前の丘に登ると朝日を浴び気球が
 旅行ケースを廊下に出し、相部屋のW氏が朝食会場に行っている間に、部屋であわただしくインスタント食の朝食を終わらせ、出発準備をして少し早いがホテルの玄関を出ることにした。
 早めに部屋を出てチェックアウトしたのは、今日もホテルの真ん前の空き地から気球が飛び立つ準備をしているのが、部屋の窓から見えたので、出発時間まで空き地で離陸模様を見ていようと思い立ったのである。
 空き地で熱気球の出発準備や飛び上がっていく模様をカメラに収めると、ホテルのゲート前の小高い丘に上がってみた。すると真っ青な空に朝日を浴び風船のように舞い上がっている気球が一望できた。

 トルコを縦断する古のシルクロード

 7時半の出発時間が近づいた!丘を下り、バスの乗降口に貼られた今日のグループ別座席位置を確認すると乗り込んだ。
 バスはカッパドキア観光の拠点となったギョレメ谷のホテルを出発した。今日はこれから、中国と欧州を結んだ東西交易路である古のシルクロード(隊商路)を走り、目的地のパムッカレまで650Kmも長距離移動していくのである。

快適な古のシルクロードを650Km走る
 トルコの中央部を横断する古のシルクロードは、遠く中国の長安(現在西安)を出発し、中央アジアに入り何本かに枝分かれしたうちの一本が、アナトリア高原(トルコ)に入り、カッパドキア〜コンヤと経由して終点のエーゲ海に面したローマ時代の古代港湾都市エフェソスまでつながっているのだ。 終点となるエフェソスは紀元前から栄えた交易都市で、当時はローマ、アレクサンドリアに次ぐ世界で3番目に大きかった都市である。小アジア(トルコのアジア側部分)の首都でもあったところで、パムッカレの観光を終えた後、明後日この都市遺跡を見学する予定となっている。

秋の収穫を終えたアナトリア高原

 ウチヒサルの街を抜け、バスは快適なハイウエーに入るとスピードを上げ始めた。さすが世界でも有数のバス大国というだけあって道幅も広く舗装された快適な道路である。たしかにこの4日間いろんな道を走ってきたが、いまのところ鉄道や踏切は一か所も見かけていない。国民の移動手段はバスなのである。
 ガイドの言うことには、この快適なハイウェイはもう一つの利用目的があり、有事の際はこのハイウェイが戦闘機の離着陸に使われるように造られているとのことだ。トルコの国土の大部分を占めるここアナトリア高原のど真ん中を、バスは西に向かってひた走る。
 車窓の外は収穫を終えた麦畑がどこまでも続き、高原らしく緩やかな丘陵地が次々と視界に入ってくるが、相変わらず樹木が一本もない丸裸の大地だ。

シルクロードのキャラバンサライ(隊商宿)

シルクロードを行き来したキャラバン隊の隊商宿

 1回目の休息タイムということで、スルタンハンという小さな町にあるシルクロードを行き交った隊商や旅人のための「キャラバンサライ(隊商宿)」のドライブインでバスは停まった。
 まずは公衆トイレで用を済ますと、キャラバンサライ(隊商宿)を見学することにした。この中央アナトリアがシルクロードの交易路として栄えた時代、この地にも隊商の宿泊所として隊商宿が建てられたのだ。
キャラバンサライ(隊商宿)内部

 キャラバンは盗賊団などの略奪、暴行などの危険から身を守るために、交易を営む者が共同出資して組織されたものである。
隊長の指揮のもと隊列を組んで一貫した統一行動で、水場、旅程、宿泊地などをこと細かく決め移動していったのだ。
 当時はラクダによる一日の歩行距離が50Kmぐらいということで、隊商宿も50Km毎に建てられ、ここトルコのシルクロードにはこのような隊商宿が40以上あったらしい。
このキャラバンによりさまざまな東西文化が交流、融合する大きな役目を果たしたのだ。

子供達が寄ってきて絵葉書を売ろうとする

 そんな当時の雰囲気を伝える大理石の城壁のような重厚な建物内に入ってみた。内部には礼拝堂があり、中庭を取り囲む回廊式の建物には、食堂、雑魚寝の宿泊場所、トイレ、ラクダをつなぐ場所などが設けられていた。当時の旅人達がいっときの休息と情報交換をしたのであろう。

 売店に戻り2Lのミネラルウォーター買いバスに戻ろうとしたら、子供達に取り囲まれた。手に手に絵葉書を持っておりそれを買えといっている。
何だ!学校に行かずこんな小さな子供達に働かせているのかと思ったら、誰かかが今日は日曜日だという。すっかり曜日の感覚がなくなってしまっている。
 それにしても意外としつこい子供達で!付きまとってなかなか離してくれない。旅仲間の何人かが逃げ切ることができず仕方なしに買っている。

日本大好きトルコ人ガイド、ラナ女史

古のシルクロードを西に向かってひた走る

 再びバスは一本の樹木もない大地を走りだした。ひたすら走りに走る。
 旅の期間中ずっと私達に同行してくれるトルコ人ガイドのラナ女史が、私達を退屈させまいと一生懸命、流暢な日本語でトルコの現状やイスラム教について語ってくれる。
 40歳前後と思われる彼女は日本好きが嵩じて、トルコの大学で日本語を学んでいるとき、留学していた日本人男性と知り合い恋に落ち結婚し、夫の実家がある四国の香川県で3年間暮らしたことがある、数奇な経歴をもっている人だ。
 日本とトルコの架け橋となる男児をもうけたのだが、習慣の違いやホームシックなどで夢破れ、離婚して子供と帰国後は、こうやって旅行会社の日本語ガイドをしながら、生活しているのである。それだけに日本に関しては何でも知っており、納豆や塩辛など外国人が苦手な日本食まで大好きという、日本ファンなのだ。

トルコ随一の宗教都市コンヤ

 やがて、車窓の外の樹木の無い殺風景な景観に、ところどころ緑の樹木が目に入ってくるようになった。ホテルを出て走ること4時間弱、トルコ第三の都市でトルコ随一の宗教都市でもある「コンヤ」にバスは入った。踊る神秘主義教団の旋舞(借用画像)
さすが宗教都市というだけあって、町行く女性の老いも若きも大半が、顔を隠すようにスカーフを被っている。いままでどの町でもスカーフを被っている女性は中年以上だったのだが・・・。

 ここコンヤの町はアナトリアの芸術、政治、学問など文化面を語るときに欠かすことのできない重要な都市である。
 踊るイスラム神秘主義教団であるメヴレヴィー教団の発祥地としてひろく知られ、トルコ国内各地から見学に訪れずれるムスリムがモスクを埋め尽くすほどなのである。 1228年にアフガニスタン北部に生まれたイスラム神秘主義者の創始者メヴラーナがコンヤに定住、1273年に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する踊るイスラム神秘主義宗教であるメヴレヴィー教団(施踊教団ともいう、信者がくるくる旋回しながら恍惚状態になり神と対話する)を開いたのである。

メブラーナ博物館

若い女性のイスラム教徒!

 その施踊教団の創始者メヴラーナの霊廟として13世紀末に建てられたものが、現在博物館として公開されている。私達はゲートをくぐり敷地内に入った。青緑色のタイルで覆われたドーム型の丸屋根に、中庭には身を清めるための噴水がある。見学者であふれかえるメブラーナ博物館
 日曜日の昼時だからのか、敷地内は見学者であふれかえっている。
 なかでもスカーフを被り、足首まであるコートを着た十歳代の若い女性が多いのに驚かされる。館内はまるで女子高の修学旅行生の団体がいるようだ。
 それにしても、どの娘もスカーフの下から見える顔が、色白で鼻筋がとおり、ぱっちりした目で、本当に美しい。
 欧米人の十代の女性は美しいことは知っていたが、このトルコの若い女性の美しさには敵わないだろう。建物内部の陳列物よりも彼女達の顔に見とれ、視線ばかりがいってしまう。まるで美術品を見ているような気がしてくるほど、美しいのである。
 
 館内は入り口正面の部屋には石棺がずらりと並び、金刺繍の施されたビロードのカバーが掛けられている。もっとも大きく重厚で豪奢なのが、最奥に安置された創始者メヴラーナの棺だ。 写真を撮りたいと思うのだが、館内は撮影禁止となっている。
 メブラーナ博物館の見学を終えると、この町のレストランでの昼食となった。久し振りに不味い昼食で、なによりもパンがまずかった。手帳にはそれだけしか書かれていないので、よほど印象の薄いレストランだったのだろう。

西へ西へとバスはひた走る。

西へ行くほど樹木や湖が多くなってきた
 昼食後、バスはアナトリア中部の町コンヤから、アナトリア西部のパムッカレへ向けて走り出した。ひたすら走っていると車窓の外は荒野から、ポプラやオリーブの樹木の緑が増してきた。やっぱり緑が視界に入ると疲れが取れる。
 単調だった景観が西に向かうにつれ変化に富んだものへとなってきた。甜菜の製糖工場、塩湖と製塩工場、大理石の石切り場など次々と視界に入ってくる。
そんな景観を見ながら、車内では退屈しのぎにトルコの国情をテーマにしたクイズ(景品付き)をしたり、トルコ音楽を聴きながら過ごし、ドライブインやガソリンスタンドでトイレ
休息を繰り返しながらバスはひた走る。

トルコのトイレ事情その2

前編でトルコの男子トイレ(小便用)のエピソードを紹介したが、今回はトイレ全般について触れてみたいと思う。
壁のバルブで手動調節しながら水をだす。
水は水平に真っすぐ出るのでお尻に当たらない

● 公衆トイレは有料が多く、ホテルやレストランを除き、街の中や観光地にある公衆トイレの大半が有料で0.5リラ(1リラ63円)を払う。
● トイレ内は水洗で総じて清潔である。きちんと清掃されており、日本と変わらない。
● 大小兼用トイレの洋式タイプは便器内の小さなパイプから水平に冷水が出るようになっている(日本の自動洗浄トイレとは全く違う)。
 壁についた水道のバルブを手動で水量を調節しながら洗うのだが、これがかなり難しい。パイプから水が水平に真っすぐ飛び出るのである。バルブの調節具合で、勢いが強いと便器の前方から水が飛び出てしまいズボンを濡らしてしまうのである。
和式タイプ、コップに受けた水道水を手ですくい洗う

 日本の洗浄トイレのように上のお尻に向かって水が出ないので、パイプから出る水をお尻にあてるのがかなり難儀なのだ。私の場合、最初はあれこれお尻を動かし角度を変えながらやっていたのだが、どうもしっくりしない。
 公衆トイレの和式タイプを覘いて見ると水を手ですくって洗うようである。
旅の3日目から思い切って、和式タイプを真似て、パイプから流れ出る水を手を使って洗ってみた。これが正解だった!きれいに洗え、実にすっきり爽快なのである。マッサージ効果もあり、くせになりそうではないか。

走りに走って650Kmやっと着いた!

パムッカレのリゾートホテル

アナトリアの大地に真っ赤な夕日が沈む
 途中ドライブインで午後のおやつ代わりにトルコ名物「ヨーグルト」を食し、ひたすら走っていると、きれいな夕日が始まった。空気が澄んでいるので空は真っ赤に染まっている。
 やがてバスはハイウェイからそれ山道に乗り入れた。もうすでに陽はたっぷり暮れ、漆黒の山道をくねくね曲がりながらバスは登っていくと、前方に街の明かりが見えてきた。パムッカレの町だ!
ここは名だたる温泉リゾート地でもあるのだ。
オープンレストランでバイキングスタイルでの夕食

 ホテル、コテージ、飲食店からの明かりが街を照らし、車窓の右手には明日観光する予定のライトアップされた巨大なパムッカレ石灰棚の山が見える。
 街を通り過ぎ、さらにしばらく走ると私達が泊る巨大なリゾート温泉ホテルの玄関口にバスは横付けされた。欧州各国からの観光客用の長期滞在型の豪華なホテルだ。 時刻はちょうど19時半である。カッパドキアを7時半に出発したので、走りに走って650Km12時間をかけてやっと着いた。

 温泉プールまであるホテル内は迷子になるほど広く、長い廊下を歩き部屋でトイレを済ますと、すぐ夕食となった。ホテル内のレストラン夕食会場も洒落た造りで、天井はあるが壁が無くオープンテラスの解放感のある豪華なレストランである。
 食事はブッフェスタイルで、私達のテーブル席のすぐ脇には、ライトアップされブルーに輝く大きなプールがあり、空には星空が見えるムードいっぱいの席である。例によってビールやワインを飲みながら、賑やかに宴会に近い夕食となった。

飛び入り出演、星空の下でベリーダンス

 夕食をしていると、私達が座っているレストランのテーブル席から、ライトアップされたプール脇のオープンカフェ・バーが見える。やがてそこのステージから生バンド演奏による音楽が流れ聞こえてくるようになった。
 私は急遽、夕食後に希望者でここで二次会をしようと思い立った! 私は旅仲間全員に夕食が終わったら、音楽が流れてくるあのオープンバーで、二次会をやるので、希望者は逐次集まるようにと言った。夕食を早めに終えた何人かで先にオープンバーに行き、2次会用に席をセットしワインを注文すると皆が集まるのを待っことにした。

 頭上に輝く満点の星空の下で二次会が始まった!しばらくすると生バンドの演奏者が終わり、ステージにいかにも中近東風の音楽が大きく流れ出した。何と!想定外のベリーダンサーが出現した!
すると予想外のことが始まった! なんと!ステージの前に20歳ぐらいのダンサーが出現しベリーダンスを始めたではないか。露出度の高い衣装にスレンダーボデーで美人である。
こんな演出が用意されているとは全く予想外で、どんどん宿泊客が集まりだした。
 現在トルコをはじめ、イスラム圏の国々で観光客に人気のベリーダンスについて、ガイドブックをひも解くと、世界で最も古い踊りのひとつとされ、純潔を重んじるイスラムの教えに基づき、自由に外出のできない女性たちが、女性だけのパーティーや特別な場で楽しんだのが始まりらしい。
 観客がどんどん増え、テーブル席に座りきれない宿泊客が、ステージ前の特等席に座る私達を取り囲むように人垣ができ始めた。
 観客が増えるにつれダンサーの踊りにも熱がはいり、腰や胸部を激しく震わす。星空の下、ワインを飲みながらの鑑賞は異国情緒ムードいっぱいで、すばらしい二次会の夜となった。

O氏がベリーダンスを踊りだした!

 すると、何曲か踊り終えたダンサーが観客の男性を指名してステージに引っぱりだした。
すると何と!私達のテーブル席にもやって来てO氏の手をとって、どうぞというではないか。やんや!の喝さいにO氏逃げるわけにもいかず、ダンサーに手を取られステージに上がってしまった。
 欧米系、東洋系、それぞれの顔立ちの各国4人の男性がステージに並んだ!、照れ笑いしているO氏だが、表情の奥には、こうなったら日本男児の心意気を見せねばならぬとの決意がみなぎっている。
最初は笑っていたがやがて真剣に踊りだした!

 ダンサーが並んだ4人を前にして基本的な振付と腰の振りかたを教えると、ひとり一人がステージの中央に出て踊りを披露することになった。O氏の踊る番が来た!
音楽に合わせ腰を一生懸命回そうとしている!しかし残念ながら一緒に踊るダンサーのようにはいかない!腰が回らず上半身がゆらゆら揺れているように見える!私達や大勢の観客から、やんやの拍手喝采が送られる。

 喝采に応え0氏は、懸命に腰を回そうとするのだが、上半身だけが左右に揺れる。何と!見かたによっては両手を上げ上半身をゆらし「阿波踊り」のように見えるではないか。
彼は正調ベリーダンスを、阿波踊り風にアレンジして変調「日本風ベリーダンス」を創作してしまった!すごい熱演である。
 私のテーブル席座っているO氏の奥さんを見ると、最初は恥ずかしそうにご主人の踊りを見ていたが、耐えきれなくなったのか!顔を伏せだした。
異国の地で多くの外国人を前に、日本男児の心意気を精一杯演じたO氏に観客から惜しみない拍手が送られた。
スレンダーボデイ美人ダンサー20歳ぐらいにみえた

 飛び入り4人の踊りが終わり、それぞれが席に戻ると、再びダンサーが踊りながら各テーブル席を回りだした。そんなダンサーに何人かの客がチップを渡している。ダンサーは受け取ったチップをブラジャーの中に入れている。
 ダンサーが私達の席にもやって来た!私は貧乏だが大人である!大いに盛り上がり楽しい思いをさせてもらったので10リラ札を渡そうとすると、何と!手で受け取ろうせず腰のスカートを指さし、その中に入れろというではないか!何という幸運!私が彼女の腰に手をあて、スカートの腰ゴムを引っぱりお札を挟んでやったが、弾力にとんだピチピチ肌の感触がいつまでも手に残った。

 ちなみに二次会代を清算したら、ワインを3本飲み、皆で大騒ぎしたのに170リラ(日本円換算11000円ほど)だった。もちろん誰からも割り勘徴収なんてしない、これも私が預かった旅の小遣いからの支払いだ。
 盛り上がっているが、そろそろ部屋に引きあげ明日の準備をせねばならぬ。明日は世界遺産のパムッカレを観光し、エーゲ海の港町までバス移動だ。

旅の5日目・世界遺産パムッカレに向け、バスは古のシルクロードをひた走る!編 終わり        

 旅の6日目 真っ白な石灰棚のパムッカレ・ついにエーゲ海へやって来た!編へ 続く