アジアとヨーロッパの架け橋イスタンブール
イスタンブールの朝ホテルにて
イスタンブール入り2日目の朝は旧市街(ヨーロッパ側)にある、シェラトンホテルで目覚めた。さすが世界に知られたホテルだけあって、今日まで泊ってきたホテルとは部屋のつくりが全然違う。高層階にある広めの部屋には高級インテリアが置かれ、広々とした窓からは眼下にボスポラス海峡が一望できる。眺望もよく快適なこのホテルには今夜も連泊である。カラーコントロールされた朝食デザート
旅も終りに近づき、残すところ今日、明日の二日となってしまった。今日のスケジュールはホテルを8時に出立し、終日イスタンブール市内観光である。
窓の外はまだ真っ暗な6時半、朝食会場のレストランに行くと、高級ホテルらしくブッフェスタイルの食事までが豪勢である。テーブルに置かれた食材の豊富さに目を奪われ、どれから手をつけてよいか迷うほどだ。
ぐるっと見渡すと凄い食材が目に飛び込んできた。多種多様なジャムが並べられたテーブルに、蜂の巣から取り出したそのままの状態の「ハチミツ」が置かれているではないか。蜂の巣箱から取り出した状態のハチミツ
日本で売られているハチミツの多くが水飴で薄められているので、これはまさに天然純度100%間違いなしだ。
朝食を終え部屋に戻ると、ちょうど夜が明け始める瞬間で、窓の向こうにボスポラス海峡に昇る朝日が見える。
時計を見たら7時20分になったばかり。それにしても狭い海峡を埋め尽くすほど、多くの船舶が停泊している。航行のじゃまにならないのであろうか?
朝食へ行く前に、すでに出立準備は整えてある。8時の出発まで30分早いがロビーに降り皆が揃うのを待つことにした。
部屋の窓からはボスポラス海峡の日の出が
何と!
たまげた!顔が無い!
広いロビーの幾つもあるソファーの一つに座り、メモ帳に昨日の出来事を記入していると、私の真向かいの空きソファーに全身黒づくめの衣装を着た女性がやってきて座った。
私はメモ帳から顔を上げ彼女を見るやギョッとした!何と「顔が無い!!」ではないか!
頭の上からつま先まで真っ黒なダブダブの衣装に身を包み、顔も覆面ですっぽり覆い、わずかに目玉部分だけがギョロリ覗いている凄い格好なのである。
”鞍馬天狗”ならぬカラスのような衣装で、驚きを通り越して不気味でさえある。眉毛も見えず両手には手袋まで履いており全身の99%が覆い隠されている。まるっきり表情が見えないのだ。(右下の借用画像とまるきり同じ姿だった)
イスラム女性の服装は4タイプあるという。この「カラス覆面」スタイルは「ニカーブ」というらしく、アラビア半島の湾岸諸国で多く着用されていると本に書いてあった。 もっとも普及しているのは、スカーフで頭髪だけを隠す「ヒジャブ」と呼ばれるもので、トルコも年配女性はこの「ヒジャブ」である。
ニカーブ姿の女性
(借用画像)
あまりしげしげ見つめてはマズイと思い、さり気ないふりをしながら観察していたら、まずいことに、とうとう彼女と視線がバッチリ合ってしまった。慌てて視線をずらしたが、眼光に力がみなぎっており、かなり若い女性だということは分かった。 この「ニカーブ」姿、初めていざ目の真ん前にしてみると、相手に緊張と不安を与えることが分かった。こちらは全身をさらけ出して向かい合っているのに、相手は全身を隠し表情すらうかがい知れないのである。相手がどんな人であるかわからないほど不気味なものはない。
この女性の国では未婚男女の出合いから結婚まではどのように進むのであろうと思いが巡る?結婚後新婦が初めて新郎の前でベールを脱いだとき、新郎にとって悲喜劇の世界が展開されているのではないか。
ヨーロッパとアジアにまたがる
ボスポラス海峡へ
次から次へと水上バスが着き通勤客が降りてくる
またしても話が横道にそれた!もとへ、8時の出発時間がきた。ロビーから外に出ると昨日とは違い、天候は晴れで爽やかな風前身を包んだ。通勤ラッシュで混雑する道を走り、ホテルがある旧市街地区から金角湾に架かるガラタ橋を渡ると、新市街地区へバスは乗り入れた。イスタンブールのランドマークともいうべきガラタ塔を眺めながら、ボスポラス海峡クルーズ船が出航するカバタシュ桟橋へと着いた。
私たちが乗船するクルーズ船まで桟橋を歩いて行くと、満員の通勤客を乗せた水上バスが次から次へとやって来て大勢の通勤客をはき出し戻っていく。やはり女性通勤者は一人もおらず、全員男ばかりだ。
ボスポラス海峡へ出航、丘の斜面に住宅が建つ
私たちは係留されている多くの小型クルーズ船の一隻に乗り込んだ。70〜80名程が乗船できる2階建ての船は、贅沢なことに私たちだけの貸し切りである。まだ朝早い8時半、爽やかな秋風が吹くボスポラス海峡クルーズへと出発した。
東西文明の接点といわれるイスタンブールは長さ約30qのボスポラス海峡で、ヨーロッパとアジアに分断されている。海峡の幅は最も狭い所で700mあり、第一ボスポラス大橋と第二ボスポラス大橋の2本のつり橋が架け橋となっている。文字通り「ヨーロッパとアジアの架け橋」と呼ばれるゆえんだ。
クルーズ船からの風景
私たちだけでクルーズ船を貸し切り、爽快だ!
私たちだけしかいない屋上席のデッキからは、小型漁船と大型貨物船が行き交う真っ青な海、緑豊かな陸地側の丘の斜面にはカラフルな家々がぎっしり建ち並び、岸辺にはオスマントルコ帝国時代の宮殿など、異国情緒溢れる景色が見える。
船は第二ボスポラス大橋をたもとにある「ルメリ・ヒサル」要塞へ向かって快適に進んでいく。
出航して間もなく左手に白い大理石が美しい壮麗な「ドルマバフチ
ェ宮殿」が見えてきた。
オスマン帝国最後のスルタンの居城ドルマバフチェ宮殿
大理石を用いたヨーロッパのバロック洋式とオスマン洋式をミックスさせた壮麗な建物で、オスマン帝国スルタンの最後の居城として、帝国崩壊後のトルコ共和国建国の父とされるアタティルクの執務場所として有名な宮殿だ。
間もなくヨーロッパとアジアに架かる第一ボスポラス大橋の下をくぐり、しばらく進むと、前方に丘の稜線に長い城壁が続くルメリ・ヒサル要塞と第二ボスポラス大橋が見えてきた。
ルメリ・ヒサル要塞見学
ローマの城という意味をもつルメリ・ヒサル要塞
やがて船は「ルメリ・ヒサル要塞」の袂にある船着き場に係留すると、私たちは下船し海岸通りを渡り要塞の城門に向かった。
トルコはどこに行っても国旗が掲げられているが、ここでも城門に赤い大きな国旗が吊るされている。
この15も塔がある要塞はオスマン朝のメフメト2世が、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻略中の1452年に、わずか4か月ほどの短期間で造営し、攻略の拠点となったところで、「ローマの城」という意味を持つとのこと。
中国の万里の長城ようなルメリ・ヒサル要塞
当時のコンスタンティノープルは、海峡と古代ローマ帝国以来の堅固な城壁に守られた難攻不落の城塞都市となっていた。
城塞に面した金角湾の入り口の海中には、守備側東ローマ帝国によって鉄製の太い鎖が張られ、オスマン艦隊の進入を阻止していたが、メフメト2世は艦隊を海から陸上に引き上げ丘越えで金角湾に移動させるという奇策に出てコンスタンティノープルを陥落させたという。
城壁に登るとボスポラス海峡が一望できた
城塞の中に入っていくと、またしても真正面に大きな犬が寝そべっておりギョッとさせられる。本当にトルコはどこに行っても犬猫が多い。建造されて560年も経つというのにどの建造物もほぼ完璧に近いかたちで残されているのに驚く。特に丘の稜線に沿って延びる城壁と塔は美しく、小さな万里の長城みたいだ。
厚さ9mもある城壁の上に上がるための石段がある。手すりも防護柵も何もない石段を恐るおそる登ると、目の前にヨーロッパとアジアを結ぶ第二ボスポラス大橋が飛び込んできた。
ヨーロッパルート80号線とアジアハイウェイ1号線が通り、大型車両を含め1日に18万台以上の車が行き交い、トルコには欠かせない陸の大動脈となっている。
日本の援助で造られた第二大橋、左端は要塞
ちなみに、この橋は親交国トルコに対し日本の政府開発援助のもと、石川島播磨重工業や三菱重工業など多くの日本人技術者が参加して建設され、1988年に完成したものだ。なおこの第二大橋と同じ年に開通した日本の瀬戸大橋との間に姉妹提携が結ばれ、その記念プレートがヨーロッパ側の袂に設置されているとのことである。
♪江利チエミが歌った♪ウスキュダラの街
再び乗船するとアジア側の古い街並みが残る「ウスキュダラ」の桟橋に向かった。この町は江利チエミが昭和27年の「テネシーワルツ」のデビュー曲に続き、昭和29年にレコード発売された「ウスキュダラ」で知られた街だ。
当時、何とも不可思議な歌詞とメロディーがラジオから流れ結構ヒットした曲だ。トルコ民謡でもあるあらしい。
ウスキュダラの桟橋で下船すると、わずかな時間だが自由散策靴磨きの金色の踏み台が面白い、ここで靴を磨いた
となった。ブラブラ海岸通りを歩いて行くと、路肩に凄い数の黄色いタクシーが停車している。車種はオール韓国製「ヒュンダイ」であることに驚かされる。
韓国車以外の外国車は1台も見当たらない。日本車を凌駕する勢いで世界中に進出している韓国パワーを目にすると、あらためて斜陽日本を実感するばかりだ。
通りに面した公園には、日本ではあまり見られなくなった「靴磨き」がズラリ並んでいる。花売り娘?の後方に見える黄色いタクシーは全て韓国車
足を乗せる金ぴかの踏み代がアンマッチで面白い。だいぶ靴が汚れてきているので私も含めて何人かがさっそく磨いてもらうことにした。
その先には中年太りの花売り娘?が路面いっぱいカラフルな花を並べて商売をしている。女性が働く場面はほとんど見かけなかったが、ここでは珍しく女性が働いている。!さすがに花売り娘は男であってはならぬのだ!。
それにしても路面を埋め尽くした花の種類やボリュームたるや半端でない!カラーコントロールして並べられた美しさは見事の一言につきる。
エキゾチックなイスタンブール旧市街
絵のようなイスラーム寺院
ブルーモスクの別称を持つスルタンアフメット・ジャーミィ
あわただしくウスキュダラの散策を終え、再び乗船しイスタンブール新市街地区の波止場に戻ると、私たちを乗せたバスはガラタ橋を渡り旧市街に入っていった。絵葉書のようなスルタンアフメット寺院(ブルーモスク)
次の観光は旧市街の観光の中心で、イスタンブールの象徴ともいえるイスラム寺院「スルタンアフメット・ジャーミィ」別称「ブルーモスク」である。
このモスクはイスタンブール市内観光で私が最も写真を撮りたく狙っていたところだ。日本出発前インターネット画像で見たこのモスクの美しさに魅了されてしまったのだ。イスタンブール入りしたら、このモスクの写真を撮り、拙いマイホームページのトルコ旅行記のタイトル背景画像にすると心に決めていたのである。
ブルーのタイルと巨大なドームのブルーモスク
バスが巨大なモスク近くの路上に停まった。バスを降りると大きなドームと鉛筆形のミナーレ(尖塔)を持つ壮大な寺院が目の前いっぱいに拡がった!まさに芸術作品である。まるで絵葉書から抜け出てきたような美しさだ。
このモスクは1616年に建造されたもので、オスマン朝建築の傑作として高い評価を得ている。トルコのモスクは丸天井のドームと尖塔(ミナーレ)に特徴があるとされているが、この「スルタンアフメット・ジャーミィ」も6本の尖塔と高さ43mの大ドーム、4つの副ドーム、30の小ドームをもつ巨大な建物である。
ブルーを主体としたタイルのアラベスク文様が美しい
なかでも6本もの尖塔をもつイスラム寺院は世界でも珍らしく、この寺院のトレードマークとなっている。
私たちは入り口で靴を脱ぎビニール袋に入れると、手にぶら下げモスクの中へ入っていった。
エチオピアから贈られたという絨毯が敷き詰められたドーム内には世界各国から訪れた観光客で身動きならないほどだ。
広々としたフロアーの上を見上げると、高い丸天井が独特の雰囲巨大な丸天井にステンドグラスの光が差し込む
気を作り出し、ドームに260もあるとされる小窓からはステンドグラスを通して差し込む光が館内を淡く照らしている。いかにも神秘的な美しさだ。
2万枚以上の青を主体としたタイルはとても美しく、花や木をあしらったイスラム独特のアラベスク文様も幻想的で、しばし見とれてしまうほどである。上ばっかり見ているので首が痛くなってくるほどだ。青のタイルがふんだんに使われているので「ブルーモスク」と呼ばれるようになったいうのも納得だ。
中庭には水道の蛇口が並び身を清めてから祈る
広い中庭に出てみると、いまも現役で使用されているモスクらしく、間もなく始まるお祈りに合わせ、壁際にズラリ並んだ水道の蛇口で顔や手足を清めている信者がいる。これを1日5回繰り返すというのだから信者もたいへんだ!
中庭からこの名高きブルーモスクの全景をカメラに収めようとしたが、あまりに巨大すぎて入りきらない。あちこち動き回りアングルを変えてみたがやっぱり無理なので諦め、もっと離れた通りから撮ることにした。
古代の競技場ヒッポドローム
ブルーモスクの見学を終えると昼食のため歩いてレストランに向かうことになった。
ブルーモスクの中庭を抜け大通りを渡ると「ヒッポドローム」といわれる大きな広場に出た。3世紀に造られたローマの大競技場跡で、長さ500m、幅150mのU型競技場では二輪戦車の競技が行われていたとされる。政治的にも利用され集会場や反逆者に対する公開処刑場にも使用されたという。エジプトのカルナック神殿から運ばれた
この広場に3本の柱が建っている。1本は高さが26mありテオドシウス1世の「オベリスク」と呼ばれ、はるかエジプトのカルナック神殿からローマ皇帝により戦利品としてこの広場に運ばれたものだ。
石柱の4面に古代エジプトの象形文字が彫られており、歴史の古さが実感できる。それにしても古代にこんな重たい石柱、はるかエジプトからよく運んだものだ。
(オベリスクとは:古代エジプトで,神殿の門前の左右に建てられた方形で先のとがった白い石柱。各面に象形文字の碑文や図像が刻まれており、上にいくにしたがって次第に細くなるのが特徴とされる)
古代ローマ時代以降、エジプトからの戦利品として略奪の対象とされ、強国の都市の広場などにモニュメントとして置かれるようになった。現在、世界に現存しているオベリスクは30本あり、本家本元のエジプトには7本しか残っていないとのことである。
ちなみに、、フランスのコンコルド広場や、バチカンのサン・ピエトロ広場にあるものはよく知られているところだ。
中華レストラン、チャイナ佐藤の出番だ!
旧市街を歩いて昼食会場へ、赤い背中がガイドのラナさん
今日の昼食は中華である。
旅の企画段階で旅行中最低1回は日本食レストランで食事をしたいと旅行社と交渉したのだが、団体で入るような和食店が無いということで、それならば日本食に近い中華レストランでということになったのである。
ヒッポドロームを抜けレストランに向かって歩いていると、急に天候があやしくなるやパラパラ雨が降り出した。あわてて目的の中華レストランへ駆け込むことになってしまった。
商業ビルの半地下入り口に「中国長城飯店」と書かれた看板が掲げられている店内へと入った。中国人経営の店のようで、さすがに中国人はイスラム教徒ではないようで、ホールにいる従業員は全員スカーフを被らない女性である。中国長城飯店で、従業員は中国人だった
30代とおぼしき女性店長に、私が中国語で「こんにちわ!商売繁盛している?」と声をかけてみたら、彼女突然日本人から中国語が飛び出たのでキョトンとしている。
すると一瞬間をおいて驚いた表情で彼女が中国語で「中国人ですか?」と私に聞いてきた!私が「在日中国人だ!」と答えてやるや、堰を切ったように早口の中国語で私に質問してきた。立ち話が長くなると商売の邪魔をすることになるので、私が「冗談です!本当は日本人です」と言うや、彼女「ビックリした!本当に中国人かと思った!」と大笑いしながら「本当ですか?」とまだ納得しない表情をしている。
円形のテーブル席に着くと、次から次へと10品以上のコース料理が出されてきた。メインデッシュの北京ダックが出されると皆から歓声があがる。
次から次へと水上バスが着き通勤客が降りてくる
しかしいつまで経っても私の大好物の「焼きソバ」が出てこない。又しても女性店長と中国語での会話となった。聞くと予約されたコースに焼きソバは含まれていないと言う。
メニュー帳を開いてみると焼きソバは記載されているが「海鮮焼きソバ」は載っていない!私は別料金を払うので「海鮮焼きソバ」を作ることができないか?と聞いてみると、「メニュー外だが何とか作ってみる」と店長が言う。
よかった!私の忘れかけた中国語が何とか通じている!
トルコ入りしてから現地人とのコミケーションに、旅仲間のJ氏やO氏の堪能な英語力の前に、私の出番はまるっきりなかったのである!彼らからポンポン飛び出す流暢な英語を前にして、私は自分の語学力の無さを嘆き、羨望の眼差しで彼らを見てきたのだ。
旅も終盤ここにきて、やっと私の出番がやってきたのである!仲間の前でほんのチョッピリ存在感を示すことができた自分に満足したランチタイムであった。
再び市内観光へ
古代の貯水槽「地下宮殿」
コリント式列柱が圧巻の地下宮殿
昼食後一番の観光は地下宮殿である。レストランから近い距離にあるので歩いていくことになった。イスタンブール旧市街の地下に東ローマ帝国時代の4世紀〜6世紀にかけて造られた大貯水槽があるのである。小雨が降る通りを進んでいくと、なんの変哲もないビルの一角に、地下へ入っていく階段があった。濡れている急階段を滑らぬよう恐るおそる降りていくと幻想的な地下世界が広がった。ビザンツからオスマン朝にかけ、ここはイスタンブールの水がめとなっていたのである。
内部は336本のコリント様式の列柱で支えられ、それがライトの照らされ貯水面に妖しく浮かび暗闇に映える幻想的な世界だ。ライトアップされ幻想的な世界が広がる
1980年に貯水槽の上に造られた桟橋のような見学者用通路を進んでいく、ひんやりとした冷気が身を包む。アーチを組んだ天井と林立する石柱がまさに宮殿のようだ。映画の007「ロシアより愛を込めて」のロケにも使われたとされるが納得である。
暗い貯水池の中を目を凝らして見てみると小魚が群れをなして泳いでいる。発見されるまで、人々はこの上に家を建て、床下に穴を開け水を汲んだり、魚を釣っていたそうだ。
宮殿の奥に横たわる巨大なメドゥーサの頭部
宮殿の一番奥まで来ると列柱の中に巨大なメドゥーサ(ギリシャ神話中の怪物、見るものを石に化す)の頭部が2体横たわっている。頭部だけで1mの大きな石、魔除けにどこからか調達してきたらしい。
それにしても、現代のハイテク技術をもってしても難しいであろう巨大な構築物を造り上げた古代ローマ帝国の土木技術のレベルの高さに圧倒されるばかりだ。今でも西欧、オリエント世界各国に残る古代遺跡の水道橋、劇場、公衆浴場等はそのほとんどがローマ帝国時代に造られたものなのだから。
キリストとイスラムを象徴する建物
アヤソフィア博物館
イスラムとキリストの混合寺院アヤソフィア
地下宮殿を出ると再び街中を歩いてアヤソフィア博物館に向かった。この旧市街地区にはイスタンブールの主要な観光スポットが集中しており、そのほとんどが歩いて行けるのである。
少しあるくと公園の噴水越しに巨大なドームがそびえるイスラーム寺院が見えてきた。この寺院はビザンチン帝国ギリシャ正教の大本山として君臨しながらも、後にイスラーム寺院へと姿を変えたイスタンブールの悲しい歴史を象徴する建物なのである。
ビザンツ建築の最高傑作と評され、長い歴史の中、時代に翻弄され幾たびも様々な宗教に利用され姿を変えつつも、トルコの歴史を体現してきた建築物なのである。
西暦360年ビザンツ帝国(東ローマ帝国)により教会が建築され、幾たびかの消失を経て543年にビザンツ洋式の大聖堂が完成したのである。
その後、千年にわたるビザンツ帝国の終焉を告げるまで、ギリシャ正教(キリスト教の教派)の大本山教会だったところなのだ。
金色に輝くドーム天井には聖母
マリアとキリストのモザイク画
相変わらず世界各国の観光客でごった返す建物の中に足を踏み入れた。さすがその時代最大級の建物だけあって、金色に輝く巨大なドームが圧倒的な迫力で迫ってくる。
聖堂の柱は、エフェソスのアルテミス神殿、レバノンのバールベック神殿から運ばれたものらしい。建物内には多数のモザイク画が残り、ビザンツ文化の面影が色濃く残っている。
1453年、千年続いた都イスタンブールがイスラムのオスマン朝によって陥落すると、キリストの聖堂はイスラムのモスクへと変えられ、キリストのモザイク画は漆喰で塗りつぶされてしまったのである。
その後長い間、日の目を見ることなく、20世紀になりアメリカ人の調査隊によって漆喰の下にモザイク画があることが発見されたのである。
塗りつぶされた漆喰をはがすと
キリストのモザイク画が現れた
アヤソフィア寺院のこの輝くばかりのモザイク画はビザンチン時代を貴重な遺跡として脚光を浴びることになり、第二次大戦後博物館として一般公開されることになったのだ。ドーム内にはアラビア文字の円盤が掲げられ、壁にはキリストのモザイク画、世界では極めて珍しいキリスト・イスラム教の世界が体現できる珍しい寺院となっている。
今、時代の翻弄された悲しい歴史を持つ聖堂内の、あちこちに残る1500年前のモザイク画を目の前にすると、まさに歴史ロマンの世界にいるような気分になってくるではないか。
最後の買い物、エジプシャンバザール
アヤソフィアの見学を終え出口に向かうと、小雨模様だった天候がとうとうどしゃ降りの雨に変わり、雨が激しく路面にたたきつけている。すると小脇に傘を抱え込んだトルコ人が日本語で「傘!傘」と言い寄って来る!どこにでも商売の道はあるもので、うまい商売だ。
仲間の大半が傘をバスの中に置いてきている!濡れるのを覚悟でバスが迎えに来ている場所へと歩きだした。次の行き先は今日最後の観光となる「エジプシャンバザール」である。
食品店が多いエジプシャンバザール
バスは旧市街と新市街を分断している金閣湾に架かるガラタ橋の近くのイエニ・モスク前の路上に停まった。このモスクの裏手にエジプシャンバザールが広がっているのである。エジプシャンの由来は、その昔、エジプトからの貢物を集め、設営されたことにちなんでのことらしい。
昨日見学したグランドバザールと違い、ここは食品を中心とした庶民的なバザールだ。
別名スパイスバザール、香辛料を売る店が多い
例によって時間を決め自由見学となった。仲間のそれぞれが旅の終盤を迎えトルコらしい土産物を求めて、混み合うバザールの中へと散っていく。
一直線に伸びるメイン通りには、色鮮やかな数々の香辛料が軒先並べた店が多い。かっては100軒近くもの香辛料の店が並んでいたことから、別名スパイスバザールとも呼ばれている。
ブラブラ店頭を覗き込みながら歩いていたら、カレー粉のいい香りがしてきた。すでにトルコ土産物は買い終え、もう買わないつもりだったが、まだ小銭がかなり残っているので、処分を兼ね急遽カレー粉を買おうと思い立った。
どの店先にもさまざまな香辛料が並ぶ
何種類も並んでいるカレー粉の中から品選びをしていると、仲間のJ氏もやって来て「俺も買う!という。二人で香りを嗅いでいると、店主が店の奥の棚から別なカレー粉を持ってきて香りを嗅げという。店頭に並べられたカレー粉に比べ段違いにいい香りがするではないか!
J氏が英語で値段を聞くと、これが高い!店頭に並べられた品の三倍もする。しかし買うことに決め、例によって値切り交渉を始めたがあまり値引いてくれない。多少不満であったがどうしても欲しくて500gを買うことにすると、店の奥にある真空パック器で丁寧に真空包装してくれた。
鮮魚を売る店もけっこうあった。
すると他の旅仲間もやって来て、私も私もと、カレー粉、南蛮、サフランを次々と買い始めるではないか。
カレー粉が入った袋をぶら下げ、さらに歩んでいくと、食品店の前にたたずむ30歳ぐらいの兄ちゃんから、突然流暢な日本語で「日本への土産に何を買いましたか?」と声をかけられた。
私が袋に入ったカレー粉を見せると、兄ちゃん「お酒好きですか?」と聞いてきた!私が「好きで毎晩飲むよ!」と言うと、兄ちゃん「カラスミいかがですか!」と言う、まるで日本人とかわらぬほどの流暢な日本語がポンポン飛び出してくる。酒と珍味のカラスミで一杯飲むのを想像させるうまい手だ。
トルコ名物ケバブ(羊肉)のファーストフード店
私がどうしてそんなに日本語が上手いのだと聞くと、何と!奥さんが日本人と言うではないか。
こんなやり取りしていたら、うまく店内に連れ込まれ結局、高価なカラスミを買わされるはめになってしまった。日本で買うと1本一万円近くするものが三千円だという。先ほどの店でリラとユーロは使い切ってしまったので、日本円でもいいかと聞くとOKだという。一万円札を出すと何とお釣りは千円札でくれるではないか。
流暢な日本語を使って商売をする日本人観光客相手の専門店だった。奥さんが日本人と言ったが、きっと嘘に違いない!
イスタンブール名物「さばサンド」
イスタンブール名物さばサンド
エジプシャンバザール散策で、今日の観光は全て終え、ホテルに戻ることになっているのだが、その前にイスタンブール名物を皆に味わってもらうことにしている。
旅の企画段階で、イスタンブールに来たら庶民の味「さばサンド」なるものを食べるれるよう事前に旅行社に頼んでいたのだ。
バザールから歩いてほど近いところに金閣湾に架かるガラタ橋があり、その袂の桟橋付近に行くと「さばサンド」を売る店(屋台船)が並んでいるのである。
屋台船で三枚に下ろしたサバを焼いている
本降りからそぼ降る小雨に変わった天候のなか、歩きながら地下道をぬけ桟橋までくると、岸壁に何隻もの屋台舟が係留され、甲板で三枚に下ろしたサバを焼いている。船の前にはテントが用意されその下には椅子が置かれ、そこに腰掛けて食事ができるようになっている。大勢の地元の人たちがパンにかぶりついている。
すでに大勢の地元客で椅子が占領され、私たちが座れるほどの椅子が空いていない。
ぎゅうぎゅう詰めの状態でさばサンドにかぶりつく
観光客らしき人達も結構いるが、20名もの団体で押し掛けたのは私たちだけのようで、かぶりついてる客たちが熱い視線を向けてくる。何とか、あちこちから椅子をかき集め、ぎゅうぎゅう詰めで座ると全員で「さばサンド」にかぶりついた。
フランスパンをナイフで半分に切れ目を入れ、そこにさっぱり塩味で焼き上げたばかりのサバと玉ねぎのスライスにレタスを挟みこんだサンドである。
イスタンブール庶民のB級グルメの代表みたいなもので、魚にうるさい日本人でもまずまずの味だった。
ガラタ橋からの展望
桟橋から新市街のシンボルガラタ塔が見える
さばサンドの屋台船が係留されている桟橋の向こうには新市街が広がり、街並みから飛び出すようにランドマークとなっているガラタ塔が見える。もともとは灯台だったものを14世紀になって、牢獄や天文台として使用されてきたものだという。
さばサンドを味わうと、目の前にあるガラタ橋を歩いて渡ってみようということになった。橋は長さ400m、二階建て造りで上は車と人、下は飲食店が並んでいる。
釣り人でいっぱいのガラタ橋、橋下は飲食店街
私たちは下の飲食店街から歩き始めた。ずらりシーフードレストランが並び、通路に出されオープンカフェでは、大勢の地元の人達が例によってチャイを飲みながら談笑している。
途中から階段で橋の上にあがると、欄干から金閣湾へ釣り糸を垂らす人が列をなしている。その数たるや半端でない。そばに置かれたバケツを覗き込んだら調理もできないような小魚が入っていた。
エキゾチックなイスタンブール旧市街の光景
それにしても橋の上からの眺めは最高だ。旧市街の街並みにイスラーム寺院、360度どこを見ても絵のような景観が拡がっている。どんより曇っていなければもっと美しいであろうと思う。
金角湾を行き交うフェリーとガラタ橋で繋がれた新旧の街並み、まさに東西文化の架け橋を体感するイスタンブールの景観だ。
ガラタ橋の上でカメラをシャッターを押していると、迎えのバスがやって来た。今日一日の観光は全て終えた。これからホテルに戻りお別れ会の宴会だ。
イスタンブール最後の夜
連泊しているシェラトンホテルに戻ってくると、時刻は17時半になっていた。トルコの旅における最後の夕食は、20時からホテル内のレストランで、お別れ会を兼ねた宴会をすることになっている。
チェックインを済ませると夕食開始まで少し時間があるということで、旅仲間の大半がホテルの目の前にあるショッピングセンターへ買い物へ出かけていくようだ。両替で残ったトルコリラやユーロを全部使い切ってしまうつもりなのだろう。
イスタンブールの新市街地
私はショッピングセンターには行かず、シャワーを浴びると帰国準備を夕食前に済ませてしまうことにした。
貨物預けトランクケースの重量は規定で20Kg以内となっている。買わないつもりであった土産物で、トランクケースはこのままだと間違いなく重量オーバーである。ケース内の使い切れずに残った日本食を捨て、重そうな荷物は機内持ち込みのリュックサックに詰め替え直すことにした。重量計が部屋に無いので手に持った感覚だけでケース重量を量らねばならない。あれこれ詰め替えを繰り返し、何とか作業を終えるころには、20時の夕食の開始時刻が近づいていた。
旅行期間中、本当にこの三人よく食べよく飲んだ!
地下のフレンチレストランに降りていく。いよいよ明日は午前の観光を終えると帰国である。お別れ会を兼ねた最後の夕食はフレンチ料理のフルコースで、飲み物も含め今夜の宴会費用は全て世界紀行社の負担である。
J団長から旅が無事終えようとしていることの謝辞があり、O氏の乾杯のもと最後の宴会が賑やかに始まった。仲間との会話がはずむ!旅行社で用意したワインがあっという間に無くなった!
追加のワインが何度もオーダーされる。シニア集団の元気さにレストランの従業員もびっくりしている。それにしても、この10日間昼夜をとわず、よく飲み続けたものだ!日本に帰ったらしばらく肝臓を休めねばならぬ。
明日はトプカプ宮殿と博物館を見学したら、トルコともおさらばだ。
ビザンチン帝国とオスマン帝国の都・ボスポラス海峡と巨大なイスラーム寺院 編 終わり
旅の終わり、トプカプ宮殿・帰国便の隣の座席に座ったイカレ女!編へ続く