旅9日目 ついにやって来た!アジアとヨーロッパの架け橋イスタンブール編

東西文明の十字路、トルコ旅行記・旅の9日目

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旅の9日目 いざイスタンブールへ向けて

早朝の出立、ダーダルネス海峡へ

ホテルを出発すると真っ赤に染まった朝焼けの空

 昨日と同様、今日も早朝の午前5時起床で7時ホテル出立である。昨夜は夕食の席上、世界紀行社S添乗員のもてなしで「稲庭うどん」を振舞っていただいたのに引き続き、今朝の朝食ではインスタントではあったが味噌汁まで出してくれた。
 相変わらずのきめ細かい心遣いに感謝しつつ、あわただしく朝食をとり終えると、外はまだ真っ暗で小雨模様の天候のなか、バスはチャナッカレ近くのラプセキ港へむけ出発した。
フェリーで対岸のヨーロッパ側ガリボルへ

 30分ほど走ると夜が明けはじめ朝焼けの空が出現した。少しずつ色が変わる赤のグラデーションが幻想的だ。さらに走っていると、きれいなアーチを描く大きな虹まで出現する。刻々変わる空模様に車内で歓声を上げていると、どんより曇った灰色のダーダルネス海峡が見えてきて、やがてバスはラプセキのフェリー埠頭に停まった。
 これからこの港でフェリーに乗り、いままで滞在していたアジア側からヨーロッパ側に渡り、今回の旅の最終目的地「イスタンブール」へ向かうのである。

アジアからヨーロッパへ
ダーダルネス海峡フェリーの中にて

ダーダルネス海峡へ1時間ほどの乗船時間

 車両が10台ほど乗ることができる小型のフェリーに、私たちはバスごと乗り込むと、車両甲板からバスを降り階上の客室に上がった。
 対岸のヨーロッパ側の町ゲルボルへの朝の通勤客だろうか、どんどん現地のトルコ人が乗り込んできて船室の座席はほぼ満席に近い状態となった。陽気に騒ぐジプシーらしき一行までいる。
 定刻の8時、寒風と小雨模様のダーダルネス海峡に出航した。ここからマルマラ海の対岸ヨーロッパ側に位置する港湾都市ガリボル(英語名ガリポリ)まで約1時間弱の船旅である。

 写真を撮るべくデッキに出てみたが、小雨混じりの強風でメチャ寒い。写真を撮り終え船室に戻ると、小さな売店のカウンターにトルコ名物のチャイ(甘い紅茶)を注文する人が列をなしている。トルコ人が大好きな甘いチャイ

 トルコ人はチャイが大好きだ。トルコ人の一日の生活はチャイなしに始まらない生活習慣になっている。平均的なトルコ人で1日に10杯以上飲むという。私もデッキに出て冷えた体を温めるために一杯注文することにした。料金は0.5リラ(30円程度)だ。
 ちょうど一合ぐらいの容量のガラスコップに、口が火傷しそうなほど熱々の紅茶を注ぎこみ、角砂糖が2個つけて出された。
飲んでみようとしたらガラスコップなので熱くて手で持つことができない。受け皿ごと口に運ぶと、いい香りと甘さが口の中に広がった。甘いものは苦手な私だが予想外の美味さにびっくりする。

乗船客との交流

 チャイを飲み終え別な船室に行ってみると、隅の座席でイスラム教徒特有のスカーフを被ったオバちゃんグループが賑やかに談笑している。
(トルコでは若い女性はスカーフをあまり被っていないが、さすがに年配になると100%といってよいほど着用している。)大騒ぎしながら写真撮影に応じてくれた

 すると旅仲間のO氏が、オバちゃんに近づき身振り手振りで一緒に写真を撮らしてほしいと交渉しだした。
 イスラムの女性は写真を嫌う人が多い!何しろスカーフで顔を隠すぐらいなのだから!手を振って拒否されるだろうと見ていたら何と!オバちゃん達笑いこけながらOKだというではないか。
 私たちが日本人だから好意的にOKをだしてくれたのだろうか?
予想外のOKサインにあわてて座席の中に割り込むと記念写真を撮らせてもらうことになった。オバちゃん達のキャキャという賑やかな歓声が船室いっぱいに響く。船室にいる大勢の現地トルコ人が笑顔で私達の写真を撮る様子を見ている。日本人観光客に対する温かい視線が感じられる。ちょっとした国際交流だ

世界一の親日国家といわれるトルコ

 トルコには「友情の真偽は暗い日に分かる」「家を買うな!隣人を買え!」といった格言があるとものの本に書いてあった。まさに人と人との絆を大切にする国民性なのである。そのトルコ人々がもっとも親近感をいだいている国が日本だという。
 日本とトルコのの親密な交流が芽生えたきっかけは明治時代にまでさかのぼる。トルコからの使節団を乗せた「エルトゥールル号難破事件」で日本の献身的な救助活動、トルコが最も憎む敵国ロシアを「日ロ戦争」で日本が勝利したこと等々、これらのことはトルコ国内で大きく報道され、歴史の教科書にまで掲載されているという。
そんなことから子供たちまで広くしられ、日本に対する感謝の念が今日まで語り継がれ、世界各国で最も好きな国はと問いかけると、日本と答える割合が圧倒的に高いという。

バスは走る!一路イスタンブールへ

一路300Km先のイスタンブールに向けバスは走る

 1時間弱の乗船時間で、マルマラ海のダーダルネス海峡を渡り対岸のガリボル港にバスごと上陸すると、一路イスタンブールへ向け走り出した。
 マルマラ海はトルコのアジア側とバルカン半島の東欧側に横たわる海で、地中海への出口がダーダルネス海峡、黒海への入り口がボスポラス海峡だ。
これからマルマラ海を右手に見ながら、黒海への入り口ボスポラス海峡があるイスタンブールまで303Kmの長距離移動である。

 なだらかな丘陵が続く快適なハイウェイをバスはぶっ飛ばす。車窓からは収穫を終えた畑がづっと続く中に水田なども見えたりする。すると不思議な光景が目に飛び込んできた!
丘陵の畑のいたるところにコンクリートの小山が見える。ガイドの説明では第一次世界大戦時の「ガリポリ戦役」時に使われたトーチカだという。
畑のあちこちに第一次世界大戦時のトーチカが
 そう言われて思い出した。
私はこの「ガリポリの戦い」をテーマにした映画と歴史書を読んだことがあるのだ。

 ここガリボル(英語名ガリポリ)では第一次世界大戦のさなか、英仏連合軍がドイツとの同盟国側オスマントルコ帝国の首都イスタンブールの占領を目指して、上陸作戦が行われたところなのである。中東戦線最大の激戦地で連合国側、同盟国側合わせて戦死者13万人、戦傷者26万人もの損害を出したのだ。
 この戦いは陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言えることから「ガリポリの戦い」として映画や歴史本にはよく登場することになった。
いま私達は第一次世界大戦時のトーチカが点在する激戦地の戦跡を走っているのだ。

ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブール

ついにイスタンブールに着いた!

 イスタンブール市内に入るとビザンチン時代の要塞が

バスはひたすらイスタンブール向かって走る。途中の検問で交通警察にバスを止められ、スピード違反していないかタコグラフのチェックをされたりもする。
 早朝にホテルを出立して走ること5時間あまり、ビザンチン帝国時代の要塞や城壁などが見えてくると、いよいよ旅の最終目的地イスタンブール市内に入りこんだ。
 街中いたるところにビザンチン時代の城壁が残っており、ここがさまざまな歴史の舞台に登場した古都であることを実感させられる。
街中トルコ国旗がはためくイスタンブール

 市内中心部に進むにしたがい車の交通量が一挙に増えだした。世界各国の車が走っている。車窓からはどの方向を見てもイスラム寺院の尖塔が見えるエキゾチックな街並みへと変わった。
 それにしても、通りのどこを走っていても歩道に椅子とテーブル出され、チャイを飲みながら談笑している光景が目に入る。
 さらには、街中ものすごい数のトルコ国旗がはためいている。その数や半端な数ではない!国旗のアーケードがどこまでも続いている。愛国心と国威高揚のためなのか。

1600年の古都イスタンブール

「ヨーロッパとアジアの架け橋」このキャッチフレーズは、地球上でただひとつイスタンブールだけに許された言葉であるとされている。
まさにその通りで、この東西文明の接点イスタンブールは、2つの大陸にまたがる世界唯一の都市で、ボスポラス海峡によってアジア側とヨーロッパ側に分かれている。
 紀元前7世紀にギリシア軍がこの地を占領し、「ビザンチウム」と名づけてから、ローマ帝国、ビザンツ帝国にオスマン朝など、あわせて122人もの皇帝や王が手にした都市なのだ。街中いたるところでチャイを飲み談笑している

 西暦330年、ローマ帝国の「コンスタンティヌス大帝」はローマに代わる首都としてこの地を選び、「コンスタンティノーブル」と改名、ローマに匹敵する大都市を建設した。
 やがてローマ帝国の東西分裂によって東ローマ帝国の首都となり、国名を古都の名にちなんで「ビザンツ帝国」と呼ぶようになった。 コンスタンティノーブルはキリスト教の中心地として、シルクロードの終着駅として、繁栄の極みに達し、最盛期には長安やバクダッドと並んで、世界最大の都市のひとつであった。


 反映している都は誰からも羨望のまなざしで見られる。あらゆる方面からの攻撃に遭い、1453年ムスリム勢力のオスマン朝がコンスタンティノーブルになだれ込れこんだ。これにより東ローマ帝国が滅亡し、古代からのローマ帝国が地球上から最終的に滅亡したのだった。
 オスマン朝によりキリスト教国からイスラム教国えと変貌し、都市名もイスタンブールと改名され、キリスト・イスラムの混然一体となった文化・風土が生まれたのである
 ちなみに、あのオリエント急行列車はパリとイスタンブールを結び、現在の市街地を含めた人口は1200万人といわれている。
金角湾に架かる橋の上では大勢の釣り人が

 もとへ、すでに時刻は午後1時を過ぎている。車窓の前方にイスタンブールのランドマーク的な存在である「ガラタ塔」を眺めながら、金角湾(旧市街と新市街を分断する形になっている湾)に架かるアタチュルク橋を渡ると、新市街地区中心部へと入った。
橋の上では下の金角湾に釣り竿を垂れる人が列をなしている。
 やがてバスは昼食のためヨーロッパ風の雰囲気が漂うこぎれいなレストラン前の大通りに止まった。
店内では団体席ではなく、4人づつ思い思いの席に座っての食事をとり終えると、イスタンブール最初の観光は、急遽観光コースを変更して軍事博物館に向かうことにした。

イスタンブール市内観光へ

勇壮な軍楽隊のライブ演奏へ

 約5万点にのぼるといわれる収蔵品があり、世界有数の規模を誇る軍事博物館に着いた。いかにも軍事博物館だけあって建物の前庭には巨大な大砲が置かれている。軍事博物館前庭の巨大な大砲

ここ軍事博物館に来た目的は、展示品を見学よりもここで軍楽隊の演奏をライブで聴くことにある。
 当初、旅の出発前、札幌で世界紀行社とトルコの旅の企画を練っている段階で、どうしてもトルコ軍楽隊の演奏が聴きたくて軍事博物館を旅程コースに組み込みを頼んだのだった。
 ところが私達が訪れるこの時期、軍楽隊は出張公演のため不在で演奏は聞けないとのことで、やむなく代わりにモザイク博物館を見学することにしたのだった。ところが何と!今日になって軍楽隊が博物館に戻って来ているという情報が入ったのである。
 S添乗員から「佐藤さん!軍楽隊の演奏が聴けるかもしれません!」「モザイク博物館の見学を中止して軍事博物館に行くことが可能です!どうしますか?」と相談を持ちかけられ
たのだ。私は二つ返事で軍事博物館へのコース変更を選んだ。 私同様、旅仲間のJ氏もO氏もこの軍楽隊の演奏が聴けないことを残念がっていたのだ。

世界各国軍隊隊のモデルとなった

世界の軍隊でのモデルとなったトルコの軍楽隊

 何しろトルコの軍楽隊といえば凄い歴史をもっているのである。オスマントルコが中近東、東欧、北アフリカにまで覇権を拡げ、
一大帝国になることができたのは、トルコ軍には当時世界で唯一の軍楽隊を持っていたからだといわれているぐらいだ。
 勇壮な軍楽隊により兵隊の士気が上がり、ひたすら退却しらずで前へ前へと攻めてくるトルコ軍の兵士を見て、その強さの効果に驚いた世界各国が軍楽隊の制度を取り入れたといわれているのである。いわば世界各国の軍楽隊のモデルとなった先駆者なのだ。
兵士の士気を鼓舞する勇壮な音楽が鳴り響く

 館内に入ると、壁際に1列だけのベンチ席と2階のテラスだけのあまり広くない演奏ホールである。私達は早めに入場しベンチに座り軍楽隊の入場をわくわくしながら待っていると、やがて廊下の先から太鼓が鳴り響き、オスマン帝国時代の衣装を着た軍楽隊が入場してきた。
 狭いホールに耳が痛くなるほど大音量の勇壮な演奏が始まった。数m先の目の真ん前でのライブである。すごい迫力で響いてきて、シニアの私でも興奮で身震いするほどだ。これなら兵隊に士気が上がり、行け行けどんどん!で突撃したくなるのもうなずける。

中東最大規模のグランドバザールへ

 次の観光は、TVの旅番組でイスタンブールといえば、必ず紹介されるお馴染みの「グランドバザール」である。大遅滞につかまり遅々としてバスは進まない

 バスは軍事博物館を出るとクルーズ船が停泊している港通りを走り、ガラタ橋からバザールがある旧市街地区へと入った途端、大遅滞につかまり動かなくなった。
夕方のラッシュアワーが始まったのだ!遅々として動かず、動いては止まるの繰り返しとなった。

 車窓の真横には大きなイスラム寺院が見える「スュレイマニエ・ジャーミー」だ。イスラム文化を代表する独特の尖塔を持つイスラム寺院は芸術的でまるで美術品をみているようである。エキゾチックなイスラム寺院

 ノロノロだが何とかグランドバザール近くまで来た。周辺は狭い路地が密集しておりバスを停める場所がないということで、少し離れた通りにバスを止めると、私達はバザールに向かって、人で混み合う路地を歩きだした。幾つもある入り口のなかの一つ、城門のような入り口までくると、ものすごい数の観光客で身動きできぬほど混み合っている。

バザールの中へ

 これからバザールの中に入り自由行動となるのだが、広大な屋内には迷路のように張り巡らされた通りには小さな店が約5000軒もあるとされ、地元の人でも迷子になるほどだという。バザールの入り口には黒山の人だかり

 ガイドから、迷子にならぬようバザールの中の歩き方と、分かり易い集合場所の目印を教えてもらうと、私達は思い思いにバザールの中に散っていった。
 さすが中近東最大というだけあって、この屋内市場の規模と熱気は半端ではない。通路ごとに商店はある程度ジャンル別に固まっているのだが、それでも通りの左右には多種多様の店がある。中でも貴金属、インテリや、絹製品などの店が多い。
バザールの中は東洋系の顔立ちの観光客も多い

 中を歩いている人の大半が世界各国からの観光客だ。今や地元の人の買い物をする場所としてよりも、完全に観光地化され、あてもなく見て歩く外国人ばかり。
欧米人観光客も多いが、東洋系の顔立ちの観光客も多い。その大半が日本人と韓国人だ。歩いていると何人かの韓国人から日本語で「日本の方ですか?」と声をかけられる。日本語が話せることをアピールしたいのか??

どの店もなぜか女性店員がいない?

商店はなぜか男性店員ばかりで女性店員はいない
 私は迷子にならぬよう脇道に入らず真っすぐ進んでいくことにした。店頭にたたずむ多くの店員から日本語がポンポン飛び出し、私達に声をかけてくる。なかには「もうかりまっか!」「おいでやす!」などの大阪弁や京都弁まで飛び出し、思わず笑い出してしてしまうほどだ。
 それにしても、どの店を覘いても店員は男性ばかりで一軒たりとも女性店員がいないのに奇異さを感じる。買い物客の大半が国外からの観光客

 トルコ入りしてから今日までホテルのフロントでもレストランでも全て従業員は男だった。モスクだって中に入って祈ることができるのは男だけである。なぜか女性がほとんど社会進出していないのである。 イスラムを奉じる国は典型的な男性社会であることがあらためて実感させられる。
 女性をさまざまなイスラム戒律でがんじがらめに縛りつけるイスラム社会は、宗教に関心のない私にとって理解できない世界だ。
 
 もとへ、来る途中遅滞に巻き込まれ時間をロスしてしまったため、あわただしく広大なバザールの一部を見学すると集合時間となってしまった。全員迷子にならず集合場所に顔を揃えると、いったん郊外の空港近くにあるホテルにチェックインすることになった。その後再び市内中心部へ戻り、夕食をしながらベリーダンスショーを見学するのである。

夕食はレストランでベリーダンスショー

レストランの日本国旗

 時刻はすでに暗くなり始めた午後6時、バスはホテルに行くべく仕事帰りのラッシュアワーで混み合う道路を走り出した。今夜から二連泊するのは5つ星高級ホテルの代名詞の「シェラトンホテル」である。夕食が始まった!テーブルにはアルコールが並ぶ

 大遅滞の海岸通りを2時間近くかけてノロノロ走り、ホテルにチェックインを済ませ一服すると、私達は再び20時にロビーに集合し、夕食会場の市内中心部に向かって出発した。
 夕食会場レスランでのベリーダンスショーの開始は21時からとなってる。今度はそれほどの渋滞にも合わずショーの開始15分ほど前にはレストラン着くことができた。
 中に入って行くとステージがあるフロアーには、ステージに向かって縦に両向かい一列で30名ほど座れるテーブル席が6列並んでいる。満席で200名ぐらいが収容できるようである。

 まだほとんどの席が空席で、私達はトルコ国旗と日本国旗がクロスするように飾られた列のテーブル席に、案内されるまま席に着いた。私たちの後ろのテーブル席にはスペイン国旗が飾られている。フロアー席を見渡してみると、全席が海外からの観光客予約席のようで、イタリアやフランス国旗が飾られている。さすが海外客御用達レストランだけあって、客の国の国旗を飾るとは、こころ憎い演出だ!
 しかし、驚いたことに、どのテーブルにも日本国旗が飾られており、ざっと見たところ席の三分の二は日本国旗で占めているではないか!このレストランにはこれだけ日本人が来るのか?。

イスタンブールの第一夜、ショーの始まり。

 ベリーダンスショーの開始は民族舞踊から
 席に着くと、例によってまず飲み物の注文である。まだ旅行会社から預かった予備費(小遣い)が結構残っている。
ショーを見ながらの夕食で盛り上がるに違いないと思い、多めにビールとワインを注文することにした。
 イスタンブール入りの記念すべき第一夜である。乾杯とともに夕食が始まった。ワイワイやっていると、客がどんどん入り込み空席が埋まりだし、ぎゅうぎゅう詰めの満席となった。ざっと席を見渡してみると、やはりどの席も日本人の団体が圧倒的に多い。
富良野へそ踊りと同じだ!

 やがてフロアーの照明が落とされると民族音楽が流れ出し、ステージでは民族舞踊が始まった。何曲か踊ると、踊り子が客席に向かって一緒に踊ろうと誘いをかける。誘いに乗り私達の席からはKさんがステージに上がった。彼女はフラダンスの先生でもあり踊りは得意である。トルコ人踊り子と輪になって堂々と踊る彼女に客席から拍手大喝采の嵐だ。
 次々と民族舞踊のなかで、何か見たことがあるような踊りが始まった。顔の絵を描いた腹を出し踊るのである。富良野の「へそ踊り」とまったく同じではないか。
富良野の「へそ踊り」はトルコからのパクリだったのか?・・・

なぜか遠い昔の甘酸っぱい青春時代がよみがえる!

最初はスレンダーボデーのダンサー
 やがて前座の民族舞踊が終わると、いよいよメインイベントのベリーダンスショーが始まった。
 最初の登場はややスレンダー(細身)体型の肌もあらわな踊り子がステージに出てきた。
 私は踊りを見ていてなぜか遠い昔の青青春時代の甘酸っぱい思い出がよみがえった!アパート暮らしの侘びしい一人住まいで退屈な日々だった。寂しさと退屈しのぎにストリップ劇場によく通ったのだった。安給料の全てが飲み代とストリップ入場代金に消えていったあの青春時代が無性になつかしい!。なぜだ!こんな場所で不遜な思い出がよみがえるのか!
ストリップとベリーダンスとは似て非なるものなのに・・・
 
 ショーのラストをかざるのは年増でエキゾチックな顔立ちの踊り子が出てきた。真打ち登場、年増で豊満なボデーのダンサー
さすがこれが本場のベリーダンスかと思わせるもので、肉付きがよい身体で激しく腰部を震わす。その前に踊った細身の踊り子より全然迫力が違う!やはりベリーダンサーは腹部に肉付きがないと見ていてもの足りない感じがする。

2時間にわたるショーを見ながらの夕食が終わった。時計をみるとちょうど23時である。今夜もずいぶん楽しんだ!これから再びバスに乗りホテルに戻らなければならない。
明日も終日イスタンブール市内観光だ。

       ついにやって来た!ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブール編 終わり

        旅の10日目 ボスポラス海峡とイスタンブールの巨大なモスク編へ続く