ロバ車とポプラ並木の西域南道・ラクダに乗って月の砂漠へ行くぞ!

シルクロード旅行記・ 旅の6日目

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 旅6日目、崑崙山脈の麓、西域南道を走りホータンの街へ


昨日のひどい1日

  それにしても昨日は、冗談ではないかと思うほどひどい1日だった。 かって足を踏み入れたら二度と出ることができない”死の砂漠”と呼ばれた「タクラマカン砂漠」のど真ん中で、私達が乗ったバスがまさか!の立ち往生をしてしまったのだ。
 中国の旅ではハプニングやトラブルの続出に慣れっこになっていた私もさすがに、今度ばかりは度肝を抜かれしまった。
 まさに二度あることは三度あるのことわざ通り、バスの故障が最初はドア、二度目はクラッチ、三度目がラジエターというようにホップ、ステップ、ジャンプと段階を上げていき、とうとう最後は砂漠のど真ん中で動かなくなったのには、声を失い唖然とした!。
 これほどガタがきたバスとは思ってもみなかった!にもかかわらず3日間悲鳴を上げながら走ってくれたバスには、怒りを通り越して敬意を表したいぐらいだ。
 むしろ、砂漠を800kmも走破するのに、こんなガタがきた「おんぼろバス」を手配した中国側旅行社の無神経さに腹が立つ。
崑崙山脈麓ウイグル族の町ケリヤ

 なんとか砂漠で立ち往生した私達を迎えに来た代替バスに乗り換え、深夜の西域南道をぶっ飛ばし「ケリヤ」の町のホテルにチェックインした時には何と!日付が変わった午前1時半になっていた。 
 声を出すのも億劫なほど疲れていたが、シャワーで砂漠での汗を流し、眠りに就こうとしたら2時を過ぎてしまっていたのだ。
 今回の旅を企画し参加を呼びかけた私としては、旅仲間に申し訳なく責任の一端を感じぬわけにはいかない! 無事に旅を終え札幌に帰ったら、皆で盛大に安着祝いをやろうと心に決めた。
 何だかんだの、とんでもない1日だったが、考えようによっては、残り少ない人生に二度と味わうことのできない経験をさせてもらった。 おかげでタクラマカン砂漠の写真だけはじっくり撮ることができたと思えば腹立ちも少し薄れるというものだ。

旅6日目の目覚め

 旅の6日目、いま私達が目覚めた場所は、タクラマカン砂漠の南端、崑崙山脈のふもと「ケリヤ」”の町にある”崑崙大酒店”というホテルなのである。
ケリヤで宿泊した崑崙大酒店
 べつに大酒店だからといって、大酒を飲ます店でもキャバレーなどの酒屋でもない。 中国では「○○大飯店、○○飯店、○○賓館、○○大酒店、○○酒店」などは全てホテルの名称なのだ。
  4時間ほどの睡眠でベットから出ると、風邪はさらに悪化しており、とうとう咳が出だした!ヤバイ!旅はまだまだ続くのだ! 安静にして体力回復に努めねばならぬのに、逆に疲労が溜まっていくのだから始末が悪い、これじゃ風邪も治るわけがない。 
 バタバタと出発準備を整えだしたら7時半のモーニングコールが鳴り、N女史の「昨日は申し訳ございませんでした」の声が電話口から流れてきた。
 虚弱体質の私は今回の旅に備え、近所の主治医から様々な薬を出してもらい持ってきている。 薬を入れたビニール袋の中から、痛み止め、咳止め、抗生物質の抗菌剤を取り出すと朝食会場の1階レストランに降りた。

私の中国旅行の定番必需品

  今日のホテル出立は比較的ゆっくりした9時半ということで、朝食は8時半からとなっている。少々遅れて会場に行くとすでに皆は食事の真っ最中だ。ところが席に着こうとして皆のテーブルの上に置かれた朝食を見た途端食欲が失せてしまった!食べれそうなものが何もない。
中国旅行には常に持参するレトルトお粥
 皆にお早うございますの挨拶をすると、そのまま席に着かずUターンして部屋に戻ることにした。そんな私を皆がどうしたのだと怪訝な表情をしている。
  部屋に戻ると、トランクの中身の半分を占めている日本から持参した食料の中からレトルトの「おかゆ」を取り出した。いろんな薬を飲むためには胃を痛めぬよう、胃袋に食事を入れねばならぬ。
 部屋備え付けの湯沸しポットに「レトルト玉子がゆ」を入れるとスイッチを入れた!200Vの電圧は強力だ!あっという間に湯が沸騰するではないか。
 レトルト袋の口を開き、これも日本から持参した塩を一つまみ入れ食べだした。 旨い!実に旨い! 昨日は咽喉が痛いためほとんど食事をしていなかったので、空腹の胃袋に旨さがしみわたる。

ケリヤの街

 田舎町なので三輪タクシーが多い
 持参の朝食を済ませ、薬を飲むと、ミネラルウォーターを買うためホテルの外に出てみた。深夜のチェックインでホテルの周辺環境が分からなかったが、小さな商店が立ち並ぶ路地裏にある貧弱なホテルではないか。
 当初宿泊予定のホテルが地方政府の横暴でキャンセルされたため、急遽空きホテルを探し回った結果が、この程度のホテルとなったのだろう。
 
 大通りに出てみると動いているものといえば三輪タクシーとロバ車ばかりでまさに田舎町だ。ウイグル語の街頭放送がうるさく流れている。
 南を望めば崑崙山脈が見えるはずだが、今日も砂嵐の影響で何も見えぬ! ここケリヤの町から西域南道に沿って今日移動していくホータン市まで、すぐ南側に崑崙山脈が走り、その向こう側はチベットなのだ。
 超市(スーパーマーケット)と書かれた看板の掲げられた小さな売店で一本1.5元(23円)のミネラルウォーターを4本買い部屋に戻ると出立時間となった。
 ホテル玄関前には昨日までの故障続きのバスから交替したいかにも新車らしいバスが停まっている。

新彊のウイグル族

 今日の予定は9時半にホテルを出立してケリヤの下町を散策し、その後は西域南道を西へ180Kmほど走りホータン市まで移動し、そこで観光し宿泊することになっている。
 私達は中国の最西端で中央アジアの領域ともいえるウイグル族の民族自治区の「新彊ウイグル自治区」内をバスで移動しながら旅をしている。
トルコ系の民族とされる、新彊のウイグル人
自治区といっても日本の国土面積の4倍以上もある広大な地域で、いくつものエリアに分かれており、いま私達はその中の一つホータン地区ケリヤ県にいるのである。
  住民の大半を占めるウイグル人は人種的にはトルコ系に近く、自分達の言語(ウイグル語)を持つイスラム教徒で、ここ中央アジアのタリム盆地のオアシスに定住して農耕をや商業にに従事している民族だ。
 「新彊ウイグル自治区」には約800万人のウイグル族が、漢族やカザフ族、キルギス族などと共に居住してるのだが、なかでもこの西域南道に沿ってホータン地区、カシュガル地区では住民の96%がウイグル族なのである。まさにウイグル族の国なのだ。
 
 かって、この地は東トルキスタン共和国としてウイグル人による独立国家だったのだが、1949年中国共産党による中華人民共和国の成立に伴い併合され、今は中国の一自治区となってしまった歴史を持つのである。
一目瞭然漢族とは違った民族のウイグル族
 自分達民族による国があっただけに、漢族による中華人民共和国に侵略併合されたという意識が強く、新彊の地でウイグル人と話すと、必ず漢族の悪口が出てくる。
 大半のウイグル人が漢族と中国中央政府を嫌っているのである。 
 
 私は過去2回この地を旅したことがあり、夜店の屋台でウイグル人ガイドと一緒に飲んだことがある。日本人が屋台で飲んでいるということで、近くで飲んでいたウイグル人に取り囲まれ、いろいろ話しかけられたことがあった。
 この時、彼等は異口同音に「日本は漢族の中国と戦争した」ということで、日本人の私に対して非情に好意的で親愛の情を示してくれた経験がある。 話していて分かったことは、彼等にとって中国人とは漢族の支配民族のことで、自分達は中国人ではない、ウイグル人なのだという強い民族意識を持っていることだった。
 現状は共産党政府が報道管制をしいているためTV等ニュースでは取り上げられていないが、この地では独立運動が激しく渦巻いているのである。

 ウイグル人が暮らす下街散策

ケリヤの居住区

ケリヤの下街へ入り込んだ
 新車に交替したバスは定刻9時半にホテルを出立した。 ウイグル人が住民の96%も占める東トルキスタン(新彊ウイグル自治区)最南端「ケリヤ」の下町に入り、小さな川に架かる橋のたもとにバスは停まった。 川を挟んで市街区と居住区に分かれているようで、私達は小さな橋を渡り下町の居住区に足を踏み入れた。
  このケリヤの町での下町散策は、世界紀行社と旅の企画段階での打ち合わせで「シルクロードで暮らす人々の生活に触れるため、訪れる町々で下街を散策したい」という私の要望を受け入れてくれた結果、組み込まれたものだ。
西域においてはナンが主食だ!下街のナン売り

 ケリヤの町は西域南道を旅する人達にとっては、見るべきものの何も無い単なる通過点にしかすぎず、観光コースとは全く無縁の田舎町だ。その外国人が泊まるだけでも珍しい何の変哲も無い田舎町の居住区に私達は団体で入り込んだのである。

 観光とは無縁の町ということで頼むべき現地ガイドがいない! 
 中国人添乗員の可女史も世界紀行社添乗員のN女史も初めて入り込むケリヤ下町である。どう歩いていいのか分からない! とりあえず橋を渡ってまっすぐに伸びる太めの道を進んでいくと、左右には住居の玄関先で食料や雑貨を売る屋台のような店が100mほど続いている。

ウイグル族の子供達

子供達は純真でポーズを作ってくれる
 カメラ片手にゾロゾロ歩く私達と住民が路上で行き交うと、どの住民も一様にびっくりした表情で立ち止り、興味津々ジッと私達が通り過ぎるまで見ている。 おそらく、住民にとってこの下町で暮らしだして初めて見る日本人に違いない! 
 行き交う住民誰もが独特のほりが深い顔立ちをしており、ひと目で漢族ではないということが分かる。

 歩いていて特に気付くことは、やたら子供を見かけることだ!とにかく多いのである!どこを歩いてもバックを背負った小学生ぐらいの子供達が、路地のあちこちからゾロゾロ出てくるではないか。
はにかみながらもポーズを作ってくれる
 日本では子供がどんどん減少し、老人社会になりつつあるのにうらやましい限りだ!
 いま中国では人口抑制策として政府が「一人っ子政策」を厳しく推し進めているが、例外規定もあるのである。 少数民族は民族維持のため、農家は第1人目が女の子場合は、働き手確保のため規制の対象外として二人目も許されるだ。

 時計を見ると午前10時なろうとしている、この時間は子供達の学校への通学時間帯のようだ。 それにしても田舎の子供達は純真だ!近づいていきカメラを向けると、恥じらい表情を浮かべつつもポーズをつけるではないか! 都会や観光地では見られなくなった情景だ。
 T氏やIさんなどは、あちこち忙しそうに夢中で写真を撮りまくっている。 しかも子供がいると必ず近づいていきシャッターを押すと、子供達にカメラの液晶モニター画面を見せているではないか。
 子供達も自分が写っているモニターを恥ずかしそうに覗き込んでいる。
 こんなことを繰り返しながら下町の奥へ歩みを進めて行くと、小さな屋台が若干並んでいた道もT字路で行き止まりとなり、左右に分岐した道は住居が隙間なく連なる狭い路地裏通りとなった。

迷子になってしまった!

ケリヤの下街路地裏
 中国人添乗員の可女史を先頭にして路地裏通りに入り込み進んで行くのだが、彼女だってこの道がどこに続いているかは全然分からない。 住居の軒先がぶつかるような狭い道で生活の臭いがしてくる。
 ここに住む者だけが歩く、まるで迷路のような路だ。
 ゾロゾロ歩いていると、私達に気付いた住居からは突然玄関の扉が開き飛び、子供を抱いた母親が飛び出してくる家まである。
 小さな広場があり、そこには小さなイスラム教の寺院が建ってたりしている。ここはやっぱりイスラム教徒のウイグル族が暮らす町なのだ。
 
 ガイドもいないまま適当に路地から路地へとさ迷い歩き、シルクロードに暮らす住民の生活をちょっぴり垣間見させてもらった。
 そろそろ散策を終えバスを停めた場所に戻る時間となった。 ところが!何と!迷子になってしまった! 私達全員現在地がどこだかからきし分からない。どの道を行けばバスが待機している場所に出れるか皆目見当もつかなくなってしまった。 

 先頭を歩いている可女史が立ちどまり思案に暮れていると、路地の向こうから1人の若者が歩いてこちらにやって来る。その若者に迷子になった旨話しかけると、何とバスが待機している場所まで案内してやるというではないか!今度は地元ウイグル人の若者を先頭に、私達は一列縦隊になると1人がやっと通れるような路地を進みだした。 
一列縦隊になって迷路のような路を進む

 ところがこの案内人、不思議な若者で一切会話をしようとしないのである! 無言のままどんどん歩いていく。 ウイグル語で話しても誰も理解できないし、中国語(北京語)を話すのは民族としてのプライドが許さないのだろうか??
 一切無言で黙々と路地を進んで行くではないか。
 しかたなしに、私達も無言で若者の後ろを歩くことしばらく、大きな通りに出ると、下町には不釣合いなほど立派なイスラム寺院が出現した。

 


 寺院前は大きな広場になっており、金曜礼拝などの大きな宗教行事のとき、きっとこの広場はイスラム教徒で埋め尽くされるに違いない。その広場前の路を進んでいくと、やっと前方に待機してるバスが見えてきた。 何とか迷路を脱出することができた!
 道案内してくれた無口なウイグル族の若者は、片手を挙げると照れたように無言のまま立ち去って行く。

ホータンに向かって西域南道を西へ


美しいポプラ並木

 ホータン近郊、ポプラのトンネル
ケリヤでの下町散策を終えると、私達の乗せたバスは一路崑崙山脈の麓「西域南道」を西へ向かって走り出した。
 行き先は約180km先にある位置する「ホータン市」だ。 バスの進行方向左手の車窓からは崑崙山脈が見えるはずなのだが、残念なことに空は霞がかかったような状態(黄砂の影響)で何も見えない。ここはタクラマカン砂漠の最南端で崑崙山脈を越えた向こう側はチベットなのだ。

 田舎道をバスは快適にぶっ飛ばす!車窓から見える景色は以外と緑が多く、綿花畑がどこまでも続き、時おり農作物を積んだロバ車が行き交い、集落が見えるとそこには必ず白樺並木がある。まさにシルクロード情緒溢れる路だ。
シルクロードはロバ車が似合う

 ホータン市に近づいてくると、突然バスの前方に白樺のトンネルが出現した。ポプラの樹がバスに覆いかぶさってくるような道で、車内が薄暗くなるほどのすごい並木だ! 私は叫んだ!「ちょっとバスを停めて!写真を撮りたい!」と言うと、皆が間髪入れずに一斉に叫ぶ「停めて!」。いいタイミングだ!ピッタリ呼吸が合っているではないか!。
 添乗員のN女史もすでに私達がどんなものに興味をもち写真が撮りたいか分かるようになっていて、打てば響くように私達の希望に応えてくれる。
 バスは路肩に臨時停車するや、私達は路上に降り立った。整然と隙間なく植えられた白樺の並木がトンネル状に一直線に続いている。ポプラが路上を覆いつくす見事な景観が目に飛びこんできた。
ポプラ並木もこれほどになると美しい

 まさに砂漠地帯のアオシスらしい感動的な景観だ。 京都の嵯峨野に美しい竹林のトンネルがあるが、まさにそれを連想させるポプラのトンネルだ。おまけにロバ車までトコトコ出現して私達の感動を更に盛り上げてくれるではないか! 
 夢中で路上を歩き回りシャッターを押すことしばらく、十分満喫した私達を乗せてバスは再び走り出した。ケリヤを出て走ること約3時間、今日の目的地であるホータンの市街地が見えだした。

ホータンの街

 ここホータンは、新彊ウイグル自治区の西南部、タクラマカン砂漠と崑崙山脈に挟まれた人口15万ほどのオアシス都市だ。ホータンの町に入った
 紀元前から9世紀頃までオアシス都市国家として、仏教を国教に定め、法顕や玄奘三蔵などの中国僧もここを訪れるなど、仏教国として繁栄を極めたが、イスラム教の進出とともにトルコ化が進み、現在では新彊でもっともウイグル族が多く住む地区(人口の97%)となっている。
 ホータンの特産品は「じゅうたん」と「玉(ぎょく)」があり、特に「玉」は古くから有名で、絹の道より早く、4〜5千年前には「玉の道」をつくり出し、東は西安や安陽に、西はカシュガル、カブール、バクダッドを通ってヨーロッパに運ばれ、世界各地で重宝されたのだ。
崑崙山脈から流れてくるホータン河

 私達はいったんホテルにチェックインしレストランで昼食を済ませると、午後の観光前のシェスタ(午睡タイム)で15時半まで部屋で休息することになった。
 午後の暑い日ざしを避けて午睡のあとの観光はいいものだ! たっぷり1時間ほどベットで横になると、午後一番の観光であるホータン河での「玉(ぎょく)」探しに出かけることとした。

 前述で触れたとおりホータン河は玉(ぎょく)の世界的産地なのである。崑崙山中から雪解け水とともに流されてきた「玉」が川原で発見されるのだ。
 堤防脇にバスを停めると私達は土手の急斜面を下り川原に出た。砂漠地帯にある河としては結構な大河だ!川原には地元の人々が涼をとりながら「玉」探しをしていたり、玉らしき石を川岸に並べて売っている人もいる。
川原で玉探し、見つかるわけがない!
 私達を外国人と見てとって手に石を握りしめた子供達が寄って来て、売りつけようとする。もちろんニセモノでただの石ころだ! 本物の玉が10元や20元で買えるわけがない!
 私達も涼みをかね玉探しの真似事で30分ほど時間をつぶすと、ホータン博物館に向かった。

 博物館で受付を済ますと、ここも若い女性館員の日本語ガイドが出てきた。 小さな博物館である。年間を通しても日本人入館者はごくわずかであろう、にもかかわらず日本語を話す専門ガイドを置いているのである。あらためて中国の語学人材の豊富さに驚かされる。
 先着の団体入館者が見学の最中ということで、見学を終え展示ルームから出て行くまで、私達はしばしロビーで待機していることとなった。 
ホータンの街中

 それぞれが、トイレに行く者、ベンチで一服する者、様々に時間つぶししている中で、一人T氏のみが女性館員の日本語ガイドと何やら熱心に会話している。
 さりげなくやりとりを見ていると、撮ってあげた彼女の写真を、日本に帰ったらHPに掲載するので見なさいと言いながら、例によってページのURLを書いたメモを渡している。ここでもキジル千仏洞の女性ガイドと同様、熱心に日中友好活動をしているではないか。
 やがて私達の順番がきて展示ルームに案内されるや、ウイグル族の民族衣装や生活用品、楼蘭遺跡やニヤ遺跡からの発掘品などを館員の説明とともに見学した。

ホータンのバザール

ホータンのバザール皆揃って入っていく

博物館の次は規模が大きいことで有名なホータンのバザール散策だ。バスは街の東部、ウイグル族の居住区に広がるバザール地区の路上で停まった。 ここでは各自が自由散策する予定とになっている。
 バザールの中心に向かって進み、皆が分かり易い集合場所を決めた上で、N女史が再集合時間を告げ自由解散しようとすると、「バラバラになって行動しないで皆で一緒に散策したい!」との声が上がった。 すると「そのほうが良い!皆でまとまって行動しよう!」との賛同意見が相次ぐではないか。
 日本での旅行説明会等で「スリが多いので注意の上にも注意を!」と言い続けてきたのが効きすぎたのか、皆、 バザールの規模の大きさを見て、自由行動を少々ビビッてしまったようだ。

バザールの中
 自由散策のほうが皆に喜ばれると思い、バザールでは「僅かの時間でもよいので自由散策を組み入れよう」ということになっていたのだが、それならば、ということで我々は団体行動でバザール雑踏の中に入っていくこととなった。  
 バザールを歩いているウイグル人女性のファッションはほとんどがスカート姿で、不思議な事にズボンを穿いた人を見かけない。
 イスラム教においては女性はあくまでも女性らしくということなのだろうか???

ホータンのバザール
 独特のトルコ系の彫りが深い顔立ちをしており、誰もが頭にはスカーフを被り髪の毛が見えぬようにガードしている。
 色とりどりのカラフルなスカーフで、どうもこれがウイグル女性のおしゃれのポイントのようだ。
 中国全土では最近でこそスカート姿の女性も増えてきたが、私の脳裏に出来上ってしまった中国における女性のファッションはズボン姿が定着していただけに、このイスラム圏における女性の容姿は新鮮で、中国にいながらまるっきり違う異国を歩いている感覚だ。
 女性の容姿に比べ男性となると、気の毒なぐらい質素だ! 「おしゃれ」、「ファッション」、「個性」、とかいう言葉は必要がないのではないかというぐらい全員同じ容姿で、頭の上に小さな帽子を載せている。

ホータンのバザール

 バザールの中は何でも雑然と売られているわけでなく、売る商品群ごとに区画分けされている。  日用雑貨、食品、青果物、衣料、荒物などの区画を私達はカメラ片手にブラブラ進んでいく。 
 なかでも圧倒的なボリュームでその存在感を訴えているのが「西瓜と瓜」のコーナーだ。とにかく凄い量なのである!路上いっぱいににさまざまな種類の西瓜や瓜が山積みされているのだ。
圧倒的なボリュームの西瓜と瓜

 ここ西域で栽培されている瓜は、日本でイメージする瓜とは全然違いメロンなのである。
 別名「ハミ瓜」と呼ばれるもので、日本で栽培されているメロンの原種みたいなものなのだ。
 こちらに来てから毎日、朝昼晩の食事時には食後のデザートとして食べてきたが、びっくりするほど甘くてジューシーなのである。

 しかし、バザールの中はおかしなことに、思ったより買い物客が少なく、独特の熱気が感じられない。 ガイドに”いつもこの程度の人混みなのか?”と聞いてみると「ラマダン」の最中だからだ!という答えが帰ってきた。
 そうだったのだ!イスラム教徒にとって最も重要な宗教的行事とされる「ラマダン」が始まっていたのである。 
 「ラマダン入り」すると全イスラム教徒は、曙の祈りから始まり日没まで断食・禁欲をしなければならないのである。
 厳しい戒律によって食事は勿論、タバコ、香料、性行為も日中は断ち、水も飲めない上に、唾を飲み込むことも禁止する宗派まであるぐらいなのだ。(妊婦や病気の人は戒律が緩められるらしい)
 一切の飲食は日没中に済ませ、日の出とともに断食に入るので、日昼は体力消耗を避け、あまり出歩かないようにしているので、街中もバザールも少々寂しい感じがしていたのだ。

ラクダの騎乗体験

 ラクダで月の砂漠へ行くぞ!

 バザール散策を終えると、いったんホテルに戻り、トイレ休息を1時間ほどとると、本日最後の観光「駱駝に騎乗して月の砂漠」を体験するべく、19時を少々過ぎた時刻に再びロビーに集合した。 インギェルク砂丘近くのポプラ並木
 私達を乗せたバスはホテルを出て、郊外のインギェルク砂丘に向け走りだした。
 ホータン市街を抜け美しい白樺並木が続く道を30分ほど走ると、白樺林の中にある広場のようなところで停車した。ここから歩いて広場の林を抜けた先に砂丘があるようだ。
 
 バスを降り私達が走ってきた道を振り返ると、見事なポプラ並木が一直線に続いている。
 ここでまたしても皆の要望により、砂丘に行く前にポプラ並木の写真を撮るため写真タイムとなった。 写真を撮り終えたらすぐバスの場所まで戻ってくるということで、皆一斉にポプラ並木に向かって駆けていく。 あわただしく写真を撮り終えバスの前に皆が戻ってきたところで、人数チェックをして砂丘へ歩いて行こうとすると何と!員数が1人足りないではないか。
 女性のSさんがまだ戻ってきていない! ポプラ並木の方を見てみるがそこには姿が見えない。 各自がバラバラになって写真を撮っていたので、皆Sさんがどこにいたか分からないと言う。
砂丘のブッシュで私達の騎乗を待つラクダ

 誰かが言った「どこか私達の見えないところで青空トイレでもしているのでないの?」そうだ!それに違い!もう少し待ったらその内、戻ってくるだろうということになった。
 ところがである、ジリジリとして待つのだが、なかなか戻ってこない。 神隠しにあったように姿が消えてしまい、だんだん大騒ぎとなってしまった。
 皆が大声で「Sさ〜ん」「どこにいるの〜」と声を張り上げるが全然応答がないではないか。 私も少々慌ててしまった! 「Sさ〜ん」と呼びかけながら付近を駆けずり回ることとなった。
 なかなか見つからず皆が途方にくれたころ、誰かが彼方の農家の方にSさんらしい人影が動いていると言い出した。 人影に向かって大声で呼びかけたところ何と!手を振るではないか! 本人は私達が必死になって探し回っていることなど気付いていないようだ。笑顔でのんびりこちらに歩いて来るではないか! 私も、添乗員のN女史もさすがに呆れてしまいしばし声も出ぬ!
 戻ってきたところで、皆の冷たい視線を感じたのか、Sさんやっと事の重大さに気付いたようで、笑顔が消え身を縮めると「すみません」を発した。

 駱駝に騎乗

ラクダに騎乗いざ砂丘に向かって出発
 少々時間が遅れたが、全員揃ったところで砂丘の方へ向かってポプラの林を抜けると、突然目の前に駱駝の群れが出現した。
 この駱駝は、世界紀行社と今回の旅の企画段階で旅の参加者に「駱駝に乗り月の砂漠」を体験させたいという私の要望を受け、日没直前のこの時間に人数分の駱駝を手配して待機させてくれていたのだ。
 私達の到着を待っていたかのように、3人のウイグル人御者がそれぞれ駱駝の膝を折らせ地面に腹ばいにさせせた。私達は御者の指示をまってそれぞれの駱駝に跨ろうとしたが、これがなかなか難しい。
何とか騎乗した、見よ!この勇姿

 駱駝は腹ばいになっているのだが、それでも意外と背が高いのである。 背に片足を上げて跨ろうとするのだが、悲しいことに老化現象で硬直した足が駱駝の背まで届かないのである。
 身の軽い人も数人いるが、ほとんどの仲間が足が上がらず、あちこちで苦戦しているではないか。さすがに見るに見かねて御者が一人ひとりの尻を押し上げてやって、やっと全員が騎乗できた。

一列縦隊になって砂丘へ向かっていく

 全員が砂埃対策のため帽子とマスクを装着すると、いよいよ出発である、時刻は20時を過ぎ間もなく日没が始まろうとしている。
 私達が騎乗した駱駝は一列縦隊になりタクラマカン砂漠の「インギェルク砂丘」に向かって進みだした。 
 目深く帽子をかぶり顔をマスクで隠した私達の容姿は、知らない人が見たらそれこそ砂漠の強盗団みたいに見えるだろう。

インギェルク砂丘、全員で記念撮影
 それにしても駱駝は揺れる!馬とは違った動きで前後上下に大きく揺れるので、しっかり鞍につかまっていなければ振り落とされそうになる。
 駱駝の揺れににも慣れて、砂漠の砂丘を見渡すゆとりもでてきた。 砂漠に落ちる夕日と月の出現を期待したが、づっと続いている砂塵の影響で空は薄く霞がかかり、残念ながら何も見えない。
 ゆらり揺られて砂丘の折り返し点までくると、駱駝から降りしばし休息タイムとなった。 夕闇迫る砂丘の写真を撮り、互いに駱駝を背景に記念写真を撮りあう。

役目を終えたラクダはねぐらに戻っていく

 期待した月の砂漠での駱駝騎乗体験とはならなかったが、旅仲間全員が大喜びで、最大級の感動の表現で「素晴らしい!楽しい!」を連発しているではないか。 よかったぁ〜!こんなに喜んでいただけるとは、世界紀行社に無理をお願いした甲斐があるというものだ。
 大満足の思いで再び騎乗し、出発点に戻ると、私達を降ろした駱駝は役目を終え、ポプラ林の中にあるらしいねぐらに戻っていく。

盛り上がった夜、ウイグル人とダンスパーティ

夕食会場で地元ウイグル人と踊る旅仲間

 砂丘からホテルに戻ると時刻は21時半を過ぎており、すぐホテルのレストイランでの夕食となった。 
 昼食もこのレストランだったのだが、その時は私達以外に客は誰もいなかったのだが、夕食時の今は、ひと目でウイグル人とわかる客で満席に近い状態になっている。 ラマダンで日昼は一切飲食を禁止していたウイグル人が日没とともにどっと押し寄せてきたのだ。ほとんどが子供と一緒の家族連れだ。
 私達も席に着いた。すると、さきほど行方不明騒ぎのSさんが立ち上がると「皆さんに迷惑を掛けた!今夜は幾らでも飲んでください!罰金として私が支払います!」と言うではないか。 私達は良識ある大人である、ここは遠慮する必要はない!黙って好意に甘えて頂くことにした。
 ウイグル族の女の子と一緒に踊る

 しばし、砂丘での駱駝体験を話題に夕食を進めていると、突然レストランのステージの幕が上がりウイグル族の民族音楽の演奏が賑やかに始まった。
 すると何と!各テーブル席で食事をしていたウイグル人客が、フロアーの中央部に出て踊りだしたではないか。 ウイグル族の踊りは手を挙げてステップを踏む独特のものだ!
 小さな女の子も踊りだした!これが音楽に合わせて絶妙に踊るのである。民族としての血なのだろうか!自然な振る舞いで実に上手く踊るではないか。

賑やかにホータンの夜は更けていく
 皆、疲れているはずなのに俄然、夕食が盛り上がりだした。
ところが!私は盛り上がる皆とは逆に、風邪で体調が最悪で椅子に座っているのも辛くなってきた。
 熱と咽喉の痛みで、もうどうにもならなくなり、トイレに行くふりをして部屋に戻ると、風邪薬と抗生物質薬を飲むとベットに倒れこんだ。
 うとうと眠りつついていると、しばらくしてドアがバタンと鳴り、相部屋のJ氏が戻ってきた。 時計を見ると24時を過ぎている。

この夜ぐらいまでは皆元気だったのだが・・
 私がベットの中から「ずいぶんゆっくりしていましたね!」と聞くと、J氏が言うことには、私が部屋に戻ってから夕食が更に盛り上がり、ウイグル人客とのダンスパーティになってしまい、皆がフロアーに出てウイグル人と一緒に踊ったと言うではないか。
「イヤ〜実に楽しかった!」と言うのである。(注、ダンスの写真は旅仲間からの借用)
 ほろ酔い機嫌の彼の話を聞き、私は途中で部屋に戻ってきたことを悔やんだがどうにもならぬ! きっと賑やかなラマダンの夜だったに違いない。 虚弱体質の我が身がうらめしい!

第7編「どこまでも続く葡萄棚、国境の町カシュガルに向かってバスはひた走る」へつづく

中国国内で使った小遣いを記してみます。
(中国通貨1元を日本円換算15円で計算しました)

(本日の出費)
ミネラルウォーター2元×1本    2元(30円)
ミネラルウォーター1.5元×4本  6元(90円)

 小  計            8元(120円)

今日まで6日間の累計出費  142元 (2130円)