シルクロード列車(南彊鉄道)はひた走る
旅3日目の目覚め
旅3日目の朝を天山南路を走る寝台列車のコンパートメントで迎えた。ベットの枕元のライトを点灯させ時計の時刻を見ると、まもなく7時になろうとしている。 車窓のカーテンを少し開け外を見てみたがまだ真っ暗で何も見えぬ。
私達は今、新疆ウイグル自治区の主要鉄道路線であるトルファンからカシュガルまでの1,446kmを結ぶシルクロード列車(南彊鉄道)で、天山山脈の南麓に位置するクチャに向かっているのである。
私達が乗車している列車、西へむかってひた走る
昨夜の22時50分ウルムチ駅を発車し、目的地のクチャ到着(13時50分着予定)まで約15時間の鉄道の旅の途中なのだ。
この鉄道は民族の十字路といわれる中国最西端の町カシュガルまで、全線開通したのが1999年で、歴史の新しい鉄道である。 往年のシルクロード天山南路に沿って西へ伸びており、沙漠地帯・大山脈地帯を貫き過酷な大地の中を走る鉄道なのである。
車内での朝食
昨夜はウルムチ駅を列車が発車する前から、T氏やJ氏のコンパートメントに皆が必然的に集まり、各自が日本からはるばる持ち込んできた酒やつまみで、宴会を始めたのであった。 列車のトイレ
シルクロード鉄道に初乗車体験するということで、皆テンションが高く24時を過ぎても宴会が続いているなか、私は虚弱体質がたたり、前日の睡眠不足と風邪の前期症状で何となく身体がだるいので、24時になった時点でこっそり自分のコンパートメントに戻り、風邪薬を飲んで眠りに着いたのだった。
私が車窓のカーテンを開けるのを待っていたかのように同室の3人が起床し始めた。 バタバタと洗面やトイレを済ませたりしているうちに8時となり食堂車での朝食タイムとなった。
列車の洗面所
やっと太陽が昇りだし車内も少し明るくなりだした。 食堂車に入ると私達の席はすでに用意されており6品ほどの料理がテーブルの上に並べられている。
テーブル席に着き車内を見回すと何と!私達を除いて残りのテーブル席は、全て制服姿の車掌や乗務員に占領されており一般乗客の座る席がないではないか!私達だけは列車に乗車した唯一の外国人ということで優先利用させたのだろうか?
大事な乗客よりも列車の乗務員の朝食を優先して食堂車を利用させているのである。
食堂車での朝食、私達以外は全て乗務員
かっての社会主義時代の「乗せてやっている!売ってやっている」という悪しき残滓を見た思いであった。
中国病患者の私は中国のやることなすこと全てが気にかかるのである。 もっと冷静にならねばと思いつつも、むしろ厳しい視点で中国批判してしまう自分がいる。
話は戻る! 食堂車のテーブルの上に並べられた料理を見ただけで、一品も箸をつけることが出来ずコンパートメントに戻ると、日本から持ってきた「マルちゃん緑の天ぷらソバ」を取り出し湯を注いだ。コンパートメント内には大きな魔法瓶が置かれており、車掌に頼むといつでも熱いお湯に入れ替えてくれるのである。 日本での中華料理は大好きなのだが、中国で食べる中国料理は苦手で、どうしても食べることができない自分が情けない。 こんな私を見て皆が笑っているではないか。
車内でのくつろぎ
砂漠に日が昇った!なぜか月のように白い
列車の車窓からは右手に天山山脈、左手にタクラマカン砂漠が続いている。 快晴の天気なのだが、おかしなことに太陽の輝きが弱く月のように見える。太陽を直視してもまぶしくないのである。
西域に来ると日の出は白い太陽が昇るのであろうか。(のちほどクチャに着いた時点でこれが砂嵐の予兆だったことが判明する)
列車は天山山脈の渓谷を抜けると荒涼とした砂漠地帯に入った。
車窓の下には折りたたみ椅子がある
しばし通路の車窓下にある折りたたみ椅子に腰掛け、車窓からの景色を楽しんでいると、列車はタクラマカン砂漠の北縁にあり、かって周辺に点在したオアシス国家とを結ぶシルクロードの要衝として栄えた「コルラ」の駅に停車した。
時計を見ると時刻は10時10分だ。
車窓から眺めていると、たちまちホームは溢れかえるような乗降客でいっぱいとなった。 コルラの駅に停車した、すごい乗降客だ。
どこにこれだけの乗客が乗っていたのかと思うくらいの人がゾロゾロ改札口に向かって行くではないか。 どの客も両手に持ちきれぬほどの荷物を持っている。出稼ぎ先からのお土産を持っての帰郷なのだろう。
しばらくホームを見ていたが乗降客がいなくなっても、発車する気配がないので、車両の乗降口ホームに敬礼姿勢で立っている女性車掌に停車時間を聞くと、「発車までまだ20分
あるのでホームに降りてもいいよ!」と言う、さっそくホームに降り立ってみることにした。
ホームから、あらためて列車を見ると、その長いこと!先頭車両はかろうじて見えるのだが、最後尾車両が見えぬではないか。列車からホームに降りてみるとその長いこと
数えてみようとしたが、車体のグリーン色が途中で目に溶け込んでしまい、わけが分からなくなってしまった。 おそらく30両近く連結されているようだ。
再び列車は動き出した。 目的地のクチャまで、まだ時間がたっぷりある。 コンパートメントに戻ると、下段ベットは応接ソファーえと変わり、旅仲間が互いに行ったり来たりしながらの雑談場所になっている。
一緒にワイワイやっていたが、何となく身体がだるい!唾を飲み込もうとすると咽喉が痛くなりだした、やっぱり風邪を引いたようだ。まずい!これから長い旅が始まる矢先に風邪でダウンしては旅仲間に申し訳がない。
朝食後に風邪薬を飲んだばかりだが、更に用心のため主治医にお願いして持参した「抗生物質の抗菌剤」を飲むと、体力温存と思い、皆との雑談を失礼させてもらい、上段ベットに上がり横になっていることにした。
中国語でのコミニケーション
ウトウトしていると、Sさんが「チャイナ佐藤さんいますかぁ〜」とやって来た。私がベットで横になっているのを見つけると「チャイナ佐藤さん!お願いがあるのだけど、私達の部屋に来てくれない!」と言うではないか。
「どうかしたの?」と聞き返すと、「私達の部屋に中国人女性が一人いるでしょ!いま彼女と筆談でコミニケーションしてるんだけど、けっこう楽しく盛り上がってきたの!」「でも全然意味が通じない場面があるので、佐藤さんに仲間に入ってもらい通訳してもらいたいの」と言う。 私は彼女のお願いごとを聞いて、一瞬返事に戸惑った。
ほかならぬ旅仲間からの頼みだから、仲間入りして片言通訳ながら、盛り上げてやりたいと思ったが、私から出た返事は「もう少し横になっていたいので後で部屋にお伺いします。」と逃げを打ってしまった。
クチャ駅に着き15時間の列車の旅が終わった
恥ずかしい話、私の語学レベルでの通訳作業は想像以上にメチャ疲れるのである。 特に私の場合ヒヤリングが苦手で、会話相手の方言なまりが強かったり、中国人同士が話すような早口でしゃべられたら、聞き取りがかなり怪しくなってしまうのだ。
精神を集中し耳をそばだて、標準語(北京語)で話してもらって、やっと理解できる程度なのである。
かって、天津から北京へ向かう汽車で一人旅の途中、私の向かいの座席に座った30代半ばの男性から、私が日本人であることを見抜かれ、話しかけられたことがあった。
北京に着くまでの約2時間、延々と続く日本に関する質問攻めに、狸寝入りしてズラすこともならず、必死になって片言中国語で受け答えを繰り返したことがあった。
北京に到着し彼と別れ緊張が解けた途端、歩くのもイヤになるぐらい疲労感がドッと襲ってきた経験があった。
この時の苦い体験が脳裏をよぎり、”クチャに着くまで長時間の通訳は苦痛だなぁ”という思いに加え、疲労感と風邪で横になったばかりでもう少し休んでいたい気持ちもあった。
7年間も中国語会話スクールに通ってこのレベルだから恥ずかしい限りで、中国病といってもこの程度なのである。
クチャは砂嵐の真っ最中だ
目的地クチャ(庫車)に着いた
そんなことで再びウトウト眠りについていると、添乗員のN女子があと30分ほどでクチャに着くので準備願いますとアナウンスしに来た。 あわてて起床し下車準備を済ませ待機していると列車は何と!定刻通り13時50分にクチャ駅に着いてしまったではないか。 私の過去の経験から、中国においては汽車や航空機は、定刻どおり運行されないのが当たり前で、到着はかなり遅れるだろうと勝手に思い込んでいた。 それが定刻通りに着いてしまった!なめてはいけない中国だ! 着実に日々進歩しているではないか。
砂嵐に煙るクチャ駅前広場
クチャ(庫車)の郊外にある小さな駅のホームに手荷物を持ち降り立った。 赤帽によって大型の旅行ケースが降ろされるのを持ち、長いホームを歩き改札口を出ると何と!天気が激変しているではないか。
天候は晴れているのだが、風が舞い、空はどんより曇り、太陽があるとおぼしき辺りがボヤーと白くなっている。小さな駅前広場に佇むと、埃くさい臭いが漂い、あたり一面靄がかかり遠くに見えるはずのクチャの街並みが全然見えぬではないか。100m先の建物さえボヤーとしか見えぬほどだ。
何と!砂嵐が始まっていたのだ! 汽車の中から眺めていた「月のような白い太陽」は砂嵐のせいだったのである。過去2回シルクロードを旅したが、ここクチャまでは来たことがなかった。噂に聞いていた砂嵐は生まれて初めての経験だ。
迎えに来ていたホテルのマイクロバスに乗り込むと今日から2連泊する「庫車飯店(クチャホテル)」に向かった。このホテルで昼食を済ませ、一旦チェックインし休息してから再び観光に出かけるのである。
街の中心部に向かって片道2車線のりっぱな道路を走っていくのだが、バスの車窓からは砂嵐に煙るクチャの街並みがボヤーとしか見えない。
シルクロードの要衝「クチャ(庫車)」
ここ「クチャ」の街は、天山山脈の南麓に位置し、天山山脈を突っ切って北新彊エリアとを結ぶ街道の要衝で、かっての亀慈国が栄えた土地である。
クチャ郊外にある仏教遺跡スバシ故城
亀慈国とは前漢時代(紀元前2世紀頃)に出現したオアシス都市国家で、後漢時代以降は歴代中国王朝による西域支配の中心地として10世紀頃まで繁栄した。
歴史上この「クチャ」の存在を有名にしてるのが、仏教の興隆に重要な足跡を記したことだ。
近郊には多くの仏教遺跡が点在し、西遊記でも有名な玄奘三蔵も天竺(現インド)に向かう途中この地に立ち寄っているのである。
現在のクチャは、住民の90%以上をウイグル族が占めるイスラム教徒の街に変貌してしまったが、数多くの遺跡がかっての亀慈国の面影を今に伝えている。
昼食とチェックイン
バスは15分ほど走ると「庫車飯店(クチャホテル)」の敷地内に入り、別棟になっているレストラン前に停まった。
個室に入り席に着くや、例によって早速ビールが運ばれてくる。 ビールをミネラルウォーター代わりにしながら昼食が始まった。
必然的に私達の前にはビール瓶が何本も集まってくる。私はショルダーバックから魚缶(鮭筍)を取り出し、これをおかずにして昼食をすることにした。
それにしても料理の品数がすごい、次から次ぎへと運ばれてくる。円形テーブルの上に置き場所がなくなるくらい並び、全部運ばれたところで数えてみたら15品もあるではないか。魚缶(鮭筍)を取り出して昼食開始
とても食べられぬ量なのだが何と!ただ一人J氏のみが出された料理全品に箸を付け、旨い旨いと言いながら食べている。
見た目にも不気味さが漂うわけの分からない料理にも、臆することなく口に運ぶのである。 さすが現役時代にアフリカの奥地で苦労しただけのことはある。
彼はハングリー精神の持ち主なのだ!酒も強いが、何でも食べる健食家(美食家と違う)でもあるということが、今回の旅で分かった。
昼食を終えると、私達は大きな公園のようなホテルの敷地をバスで移動し、奥まった所に在る貴賓楼に案内された。 ここでチェックインを済ませ、16時にロビーに再集合ということで私達は一旦部屋に入った。トランクを開け身の回り品を整理し、これから砂嵐の中での観光に備え、日本から持参したマスクを取り出しポケットに入れた。
洗面とトイレを済ませ、集合時間の16時にロビーに降りたが、私達を乗せるバスが来ていない。 何となくイヤな予感がする。玄関口で中国側女性添乗員の可さんが携帯電話取り出し、何か会話を始めた。 私達はこれからバスで30分ほどの郊外に在る仏教遺跡の「スバシ故城」に向かうのである。
スバシ故城
可さんが電話を終えるや、私たちに向かって「バスのドアが故障して今修理工場にいます」「もう少しお待ちください」とのアナウンス。 待つことしばらく、イライラしだした頃、年代を感じさせる大型バスが私たちの前に現れた。 私は不安を感じ、可さんに訊ねた!「このバスはクチャ滞在中だけ使用するの?」
可さん「いいえ今日から1週間カシュガルまでこのバスを使います」と平然と答えるではないか!。 私は思わず言った!「このバスでタクラマカン砂漠を縦断するの?大丈夫?」。すると彼女「大丈夫でしょう!」などと会話していると、N女史から「皆さんお待たせしました、どうぞお乗りください」とのアナウンスに、彼女との話は中断しバスに乗り込んだ。
(これが旅を続けるうちに不安が的中し大変なことになるとは・・・・)
砂嵐に煙るスバシ故城
仏教遺跡スバシ故城
何となく漠然とした私の不安を胸にバスは走り出した。クチャの中心部を抜けると郊外の農村部に出た。 車窓からは整然と植えられたポプラ並木が続き、ロバ車がトコトコ行き交う典型的なシルクロードの農村風景が広がっている。 やがて農村集落が途切れ、荒涼とした砂漠の道に変わり。30分ほど走ると目的の「スバシ故城」に着いた。
強盗団ではない!故城の説明を聞いているのだ
私は今回のシルクロードの旅では、歴史ロマンの舞台である故城に立つことを最大の楽しみにしてきた。その1つ「スバシ故城」にやって来たのである。胸がときめいた! 私は無骨な顔に似合わず”ロマンチスト”なのだ。道路脇の駐車場にバスを停めたが私達以外一台の車も駐車していない、観光客は私達だけのようだ。バスから降りると埃くさい臭いが襲ってきた!全員あわててマスクを取り出し歩きだした。
荒涼とした砂漠、砂嵐に煙るスバシ故城
道路の向こうには”砂嵐に煙るスバシ故城”がぼんやりと視界に広がっている。
ゲート脇にある掘っ立て小屋のようなチケット売り場で、可さんが一人20元(300円)の入場料を払うと、私達は入り口あるスバシ故城の説明板の前に立った。 全員が帽子を深めにかぶり、マスクにサングラスという異様ないでたちだ。
これじゃどう見ても強盗団ではないか!。だがよく似合っている。
遺跡には私達しかいない、仏塔に向かって進む
ここ”スバシ故城”は玄奘三蔵が記した「大唐西域記」に登場する仏教寺院で、3世紀に創建され、唐時代(7〜8世紀)には、亀慈国最大の寺院であったところだ。
クチャ河を挟んで東寺区と西寺区に分かれており、私達が今立っている西寺区は、仏塔や石窟、城壁などを中心に、かなり多くの遺跡が残り、陶器、鉄器、経典なども出土しているのである。
簡単な説明を聞き終えると、彼方にぼんやり見える仏塔に向かって、砂礫の中を歩き始めた。 スバシ故城をカメラ片手に動き回る
今まで主要観光地では黒山のような中国人観光客を見てきたが、ここスバシ故城は私達以外に誰一人いない。荒涼とした遺跡に私達だけだのだ、まさにロマンではないか。
一眼レフの高級カメラを持っている旅仲間は、カメラをビニール等で包み、砂が入り込まぬよう大事に抱えながら歩いている。 東西150m、南北530mの広大な面積の故城なので、視界に入るもの全てが朽ちかけた城壁や住居跡らしき遺跡ばかりだ。各自が思い思いの遺跡を辿りつつカメラのシャッターを押しながら故城の奥へと進んでいく。 砂礫のところどころに緑がある。乾燥地帯に生える「タマリスク,ラクダ草」という名の草だ。
感動の歴史ロマン
故城の城壁に立ちロマンに浸る
歩みを進めつつ途中で私は朽ちかけた城壁の上に立った!見下ろすと砂嵐に煙る故城の全域が見える!「とうとうここまでやって来た!これが日本の仏教渡来に大きな役割を果たした西域シルクロードの仏教遺跡なのだ」「いま歴史の舞台の上に立っているのだ!」という思いが湧き上がり感動に胸が高鳴った。
いま私の頭の中では、25年前にTV放映された伝説の番組「NHKスペシャル・シルクロード」のバックグラウンドで流れた「キタロー」が奏でる「シルクロード」のメロディが流れているのだ。
スバシ故城の仏塔
砂嵐、仏教遺跡、荒涼とした風景、まさにシルクロードそのものだ! 何度もしつこく恐縮だが、私は”ロマンチスト”なのだ。
見渡す限り荒涼とした廃墟の中でひときわ目立つ仏塔に着いた。 仏塔の上まで登れる階段がついており私達は全員上まで登ってみた。
仏塔の上は10畳ほどのテラスがあり、そこに立つと荒涼とした
砂漠と砂嵐で霞んだ遺跡全体を見渡すことができる。 回廊状になった部屋があるので中に入ってみたが、かってここに在ったであろう仏像や壁画は無く、赤茶けた日干し煉瓦の空間だけがあるだけだった。
仏塔の上に全員が揃い、記念の写真を撮ったところで、バスでの再集合時間を決めて自由タイムとなった。
僧房跡と思われる遺跡群
各自が思い思いの方向へ散っていく中、私は狙いを定めていた僧房があったとらしき遺跡に向かった。少し砂嵐が弱まってきたようだ。
わずかの自由タイムだったが、故城内を駆けずり回り、思う存分写真を撮りまくると、バスが待機している駐車場に戻った。すでに時刻は18時を過ぎている。
意外と清潔だったニーハオトイレ
出発を前にして駐車場の隅に公衆トイレがあるので中に入ってみると驚いた!今までの先入観で超汚いだろうと思っていたら、意外と清潔なのである。しかし相変わらず低い仕切り壁にドア無しの「ニーハオトイレ」なので尻が丸見えだ。
日本人にとって”立ちション”はできても、腰を下ろすなんてとてもできぬ。
クチャ飯店(ホテル)
観光を終えホテルに戻るとすぐ夕食時間の19時となった。 ホテル別棟の大きなレストランで席に着いたが、客は私達以外誰もいない、夕食時間にしては早すぎるのだ。
ビールを飲みながら食事を進めていると、シルクロード名物の”シシカバブ(羊肉の串焼き)”が出てきた。30cm以上もあるような長い鉄製串に羊肉と野菜が刺され、焼きあがったばかりのものが各自に1本づつ手渡しで配られだした。 私も1本貰ったが、食べることが出来ないのでテーブルの上に置くと、こんな私を旅仲間が可哀そうに見ている。
スバシ故城の城壁
鉄道の長旅による疲れもあったので1時間ほどで夕食を終えると、各自が早々に部屋に戻っていった。
部屋に戻る途中の廊下でT氏やI氏に”私達の部屋で二次会でもどうですか?”と聞くと、T氏が打てば響くように千歳空港で買った「大吟醸酒」を持ってお伺いしますと言うではないか。
酒飲みのことになると話が早い人なのである!
それでは後ほど私の部屋で、と別れ、相部屋のJ氏とともにシャワーを浴び、「つまみ」と「焼酎」を用意して準備万端OK!。 M氏が大吟醸を持って訪ねて来るのを待ったが、1時間待ってもなかなかやってこない。 もう21時を過ぎてしまっている。
督促しにT氏とI氏の部屋に行きドアをノックするとI氏が顔を出した。 私が「もうそろそろ始めませんか!準備万端OKです」と言うと、I氏「もう少し待ってください」
「T氏がトイレから出てこないのです」と言う。「どうしたの?」と聞くと、I氏「T氏がこの2日間便秘で便が出ず、さっきからずっとトイレで呻っているんです!」と言うではないか! すると私たちの会話をトイレで聞いていたT氏が「部屋にある大吟醸を持って行って、先にやっていてください!」「私はもう少しかかります」とトイレの中から言った。
私の部屋で大吟醸酒で二次会が始まった
可哀そうだが、そうとなれば話は早い!さっそく部屋に戻ると二次会の開始である。何たって飲兵衛なのだ。 しばらくすると辛そうな顔したT氏がやってきた。「どうでした!」と聞いてみると「まだ出ません!」と言う。
あらためて大吟醸で乾杯となった!あっと言う間に瓶が空になってしまった。他の部屋の仲間も呼んで賑やかにやろうということになった。 S氏やK氏も部屋にやってきて、又しても賑やかに宴会が始まった。時刻はすでに24時、風邪薬飲んで就寝に着く!これじゃ風邪が治るわけがない。
「シルクロードロマンあふれるクチャの街と仏教遺跡・玄奘三蔵の足跡」へ つづく
中国国内で使った小遣いを記してみます。
(中国通貨1元を日本円換算15円で計算しました)
(本日の出費)
昼食レストランでのビール 1本 15元(225円)
夕食レストランでのビール 1本 15元(225円)
小 計 30元 (450円)
今日まで3日間の累計出費 82元 (1230円)