大変だ!次々と旅仲間に下痢が始まった!・高昌故城と砂嵐に煙る火焔山

シルクロード旅行記・ 旅の10日目

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 旅10日目 終日トルファン近郊と市内観光


トルファン賓館

 旅10日目の朝は、新彊ウイグル自治区における最大の観光都市「トルファン」のトルファン賓館で目覚めた。さすが多くの外国人観光客が泊まるトルファンNO1ホテルというだけあって、部屋数が450室もある巨大なホテルだ。もちろん外国人宿泊客で一番多いのは日本人宿泊客である。
 三ツ星ランクのホテルだが、設備・サービス等結構行き届いており実質的には四ツ星といってもいいぐらいの快適さだ。
 トルファン賓館

 昨夜はホテルのレストランで、添乗員N女史心尽くしの「日本そば」の夕食をご馳走になり、その後、希望者を募り夜の街に繰り出し、露店の屋台で一杯飲み終え、途中スーパーに立ち寄りホテルに戻ったのだった。
 ロビーに入ろうとすると、ホテル裏手の方から民族音楽が流れてくる。 そういえば、今回の旅とは別に、以前トルファンに来たときも、このホテルに泊まったのだが、その時、このホテル裏手にはブドウ棚があり、その下にあるビヤホールで飲んだことがあるのを思い出した! 
 
ブドウ棚の下にステージと椅子、テーブルが設置され、毎晩民族ショーを見ながらビールが飲めるのだ。 裏手に廻ってみると案の定、ブドウ棚下のステージでウイグル族による歌舞の真っ最中で、多くの外国人が賑やかにビールを飲んでいる。
 またしても食指が動いたが、明晩のことも考え、おとなしく部屋に戻り眠りに着いたのだった。
 今朝も、J氏が朝食会場のレストランに部屋を出て行くなか、私は一人部屋で持参のインスタント「カップ天そば」で朝食を済ませると、9時の出発まで少々時間があるので早朝のホテル周辺を散策するべくロビーに下りた。 

ホテル前は葡萄棚のトンネル

 やっと明るくなりだした外に出てみると、何と!ときおり小雨がパラパラと顔に降りかかるではないか! 前の編でも述べたがトルファンの気候は、高温で乾燥して、風が強く、夏季は40度以上の酷暑が続き、別名「火州」とも呼ばれるところである。
 年間降雨量は16mmほどしかないため、雨が降ることなんて年に数回程度しかないのである!ところが、何と!小雨が降っているではないか! どうしたことだ!幾ら私が名うての「雨男」だとしても、ひどすぎる!
 美しい葡萄棚がどこまでも続く青年路

 路面がしっとり濡れる程度の小雨なので傘をささずホテルのゲートを出ると、そこは青年路と呼ばれる路でトルファン名物葡萄棚のトンネル道が、街の中央を南北に貫くように2kmも続いている。路全体に覆いかぶさる葡萄の葉の緑が何とも美しく圧巻の景観だ!。
 街路を行き交うウイグル族の子供達にカメラを向けるとポーズをバッチリ決めてくれる。
 以前来た時に比べると、国内客も含めて多くの観光客が訪れるようになり、それらの観光収入でトルファンは豊かになったようにみえる。にもかかわらず住民は観光ズレすることなく、まだまだ素朴で純朴な人が多い。 

出発前のホテルロビー

 葡萄棚のトンネル路を散策してホテルに戻ると、ちょうどよい出発時間となった。 今日は終日トルファン近郊と市内観光をすることになっており、今夜もこのホテルに連泊することになっている。
 ロビーで人数確認してバスに乗り込もうとしたら、一人女性旅仲間「Sさん」の姿が見えない! 同室のNさんに聞くと昨夜から体調(下痢が止まらない)が悪く、今日の午前の観光は出かけず部屋で休んでいると言うではないか!
 そういえば、あれほど元気に駆け回りながら旅を続けてた彼女だったが、昨夜から元気がなく夕食後の屋台への誘いにも手を上げなかったのを思い出した。
 
 するとSさんが私達を見送りするためロビーに現れた! やっぱり元気がなさそうだ。 私はバックにある手持ち薬の中から「下痢止め」と抗生物質の「抗菌剤」を数回分渡してあげた。
 万が一を考え自分のために持参した薬がどんどん減っていく! これまでかなりの回数「中国の旅」を経験してきたが、仲間が次々腹具合がおかしくなるなんて、こんなこと初めてである!
 一人ホテルに残るSさんの見送りを受け、私達を乗せたバスは今日最初の観光である「高昌故城」へ向け出発した。

 砂漠の地下水路「カレーズ」

 バスが動き出して間もなく小雨模様の天候が曇空へと好転してきた。 これから訪れる「高昌故城」はトルファン市外から東に45Km、孫悟空で有名な「火焔山」南麓にある城址遺跡だ。 トルファン市街地を抜けると車窓の外には荒涼たる砂漠が広がってきた。
すると砂漠に蟻塚のような小さな小山が点々と続いているが見えてきた!トルファンの生命線といわれる「カレーズ」だ! 「カレーズ」とはペルシャ語で「掘って水を通す施設」の意味である。
地下水路カレーズを掘った土砂の小山

 世界でも有数の乾燥した灼熱の大地であるトルファンにとって水ほど貴重なものはない! 砂漠に天山山脈の水脈を掘り当て、一定間隔に竪穴を掘り、それぞれを横穴で結び、地下水路として居住区まで引き込んでいるのである。
 砂漠地帯なので水分が蒸発しないよう地下水路にして水を確保しているのだ。
 遠く離れた天山山脈からカレーズによって運ばれた水がトルファンを有数の葡萄の産地に育てたのだ!シルクロードに暮らす人々の先人の知恵と成し遂げた困難な事業に感服するしかない。

玄奘三蔵も滞在した「高昌故城」

高昌故城近くの干しブドウを作る納屋
 砂漠地帯を走りぬけるとバスはブドウ畑が広がるウイグル族の農村集落に入った。粗末な造りのどの住居にも、日干しレンガを千鳥格子模様に積み重ねた小屋が設置されている。 この小屋に収穫した葡萄を吊るし自然通気を利用して「干しブドウ」を作るのだ。
 
 集落のはずれまできたところでブドウ畑の向こうに遺跡らしきものが見えてきた。 路上脇の駐車場にバスを停め、路を横断し巨大な倉庫のような建物に入るとそこが「高昌故城」へのゲートだった。
 ゲートがある建物の中にはウイグル族の観光客相手の売店がズラッと並んでいる。片言日本語で売り込みをかけてくる店先を通り抜け、改札口を出ると目の前に荒涼とした遺跡が広がった。

トルファンの城址遺跡「高昌故城」

 ここはかって高昌国の城址遺跡で、紀元前1世紀から14世紀にかけて高昌国や西ウイグル帝国の国都として政治・経済・文化の中心地であったところだ。
 総面積はおよそ200万平方mでほぼ正方形をなし、東西1600m、南北1500mにも及ぶ巨大なもので、城址は宮城・内城・外城と3部分から構成されている。
 千年以上にわたって栄えた高昌国都も、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、全てが破壊され廃墟となってしまったのだ。 日干しレンガによって築かれた建物は損壊が激しく、広大な土地に荒涼とした遺跡風景が広がっている。
 チンギス・ハン軍によって破壊された

 また、唐王朝の7世紀「玄奘三蔵」がインドに仏典を求めて旅の途中、この高昌国「麹文泰」国王に最高の待遇で迎えられ2ケ月ほど滞在し住民に説法をしたことでも知られている。
 さらにはイギリスのスタイン探検隊や日本の大谷探検隊がこの地に入り、出土品を持ち帰り西域と古代の研究に大量の史料をもたらした、シルクロードを代表する貴重な遺跡なのである。
 
 広大な遺跡を前にしたゲート前広場にはウイグル人御車によるロバ車のタクシーが何十台も待機して、ゲートを入ってくる観光客に客引きをしてる。
 ロバ車に乗り中心部の宮城区まで行く
これから見学する玄奘三蔵が滞在し説法をしたといわれる仏塔がある中心部の宮城区まで、ゲートからかなりの距離がある。 歩いて行けないこともないが、大半の観光客は西域の旅情を満喫するためロバ車でそこまで向かうことになる。
私達も2台のロバ車に分乗して宮城地区に向かった。
 故城を分割するように南北に貫く路をロバ車はトコトコ進みだした。誰もが初めて乗るロバ車に少々興奮ぎみだ!
廃墟と化した高昌故城

 馬車の左右には、崩れかけた日干しレンガの城壁や建物など、荒涼とした廃墟が延々と続く!
チンギス・ハンが率いる蒙古軍により徹底的に破壊された爪跡だ。
 廃墟となったあと近代まで保存のための措置が講じられなかったため、近隣農民により日乾レンガは畑の容土や肥料として使われたため、さらに破壊の爪跡を大きくしてしまったようだ。

 
 宮城地区に着いた!ここからは徒歩で目的の仏塔まで進んでいく。さまざまな崩れかけた遺跡が目に飛び込んでくる! 上塗りされた化粧壁が剥がれ落ち日干しレンガがむき出しになっている。
 やがてドーム状の特徴的な建物が現れた。 玄奘三蔵がここで1ケ月にわたり国王「麹文泰」の要請により、国王以下住民に説法をしたとされる仏塔だ!
玄奘三蔵が説法をしたといわれる仏塔

 玄奘がインドへ旅立とうすると、さらに長期間滞在して説法を懇願する国王に、玄奘はインドからの帰路、再び高昌国に立ち寄ることを約して旅立ったのだった。
 ところが、苦難の旅のすえ数々の仏典を手に入れインドからの帰路、国王との約束通り高昌国に立ち寄ったときには、中国の唐王朝により攻め滅ばされ「麹文泰」による高昌国は消滅していたのだった。
仏塔の中のむき出しの日干しレンガ

 その後幾多の変遷を経て13世紀まで続いた高昌城も最後はチンギス・ハン軍の襲撃で廃墟と化してしまったのだ。
 そんな歴史物語に思いをはせ仏塔の前に立つと、自分がいまその場所にいることに、言いしれぬ感動がこみ上げてくる。
 仏塔の中に足を踏み入れると、きれいに積み上げられたむき出しの日干しレンガが覆いかぶさってきた。

アスターナ古墳群

 トルファンを代表する観光名所「高昌故城」の見学を終えると、次の見学は「アスターナ古墳」である。バスは発車すると10分ほどで殺風景な荒地が広がる広場に停まった。
 ここ「アスターナ古墳」は「カラ・ホージャ古墳群」とも呼ばれ、高昌国住民とその後唐代住民・貴族の墓地だったところだ。
地下墓地「アスターナ古墳」

 古墳といっても地上に何かあるわけではない!ただ砂礫の荒野が広がっているだけだ。
 あちこちに墓室を作るため地面を掘り返した土砂を積み上げた小山が見える。
 ここにあるすべの墓は、地表から斜めの参道を通り地中に入っていくと墓室があるのである。上から見た平面図的に書くと「甲」字形をしているのが特徴だ。
 墓室内は写真撮影禁止になっており、暗い室内を見るために持参した懐中電灯を取り出した。

 乾燥した砂礫の地表から参道を下り墓室の中に入っていくと、中央に棺がありその中には何とミイラの遺体が横たわっている。 
 壁面には極彩色で書かれた人物像の壁画が、当時のままにきれいに残っている。 奈良の高松塚古墳の復元壁画を彷彿とされるような壁画だ!
 説明によると最古のものは3世紀、新しいもので7世紀の古墳で、墓室からは大量の絹製品、陶器、文書などが出土されたとのこと。私達は見学可能な3基を見てまわったが、いずれの墓室にもミイラが眠っていた。

ベゼクリク千仏洞

火焔山の裏側渓谷

  次の見学地ベゼクリク千仏洞に向かってバスが走り出して間もなく、車窓からむき出しの赤茶けた山肌の景色が目に飛び込んでくるようになってきた。 
 西遊記で有名な火焔山の南側を迂回して裏手の北側に出る渓谷道に入ったのだ。草木が一本も無い奇妙な形の山が天に向かって聳え立つように続く。行ったことは無いが、写真で見た米国のモニュメントバレーのような景観の渓谷だ。
 ベゼクリク千仏洞駐車場からの景観

 火焔山の北側山中にある「ベゼクリク千仏洞」に着いた。駐車場から見える景色が何とも凄い! 360度の視界どこを見ても圧倒的な迫力で迫ってくる!
 特にピラミッドの形をした砂山の火焔山の景色が素晴らしい!
 太陽光線の屈折なのか見る角度によって山肌が赤く見えたり、ピンクに見えたりするではないか。
麓には観光客相手のラクダが肘を折って待機しており、ラクダに乗りながら砂山を途中まで登っていくことができるのだ。

火焔山の一部ピラミッドのような砂山

 これから見学する「ベゼクリク千仏洞」は、トルファンの北東約50Km、火焔山の北側(裏側)渓谷の崖に掘られた、新彊で有名な石窟寺院である。
 石窟の開削は6世紀の高昌国時代から始まり、唐・宋・元代まで800年間にわたり延々と続けられたのである。
 最盛期は西ウイグル帝国がトルファンを支配していた9世紀といわれ、今はイスラム化されたウイグル族も当時は仏教を信仰しており、この渓谷は王族や貴族のための寺院だったのである。 私達が今これから見学する石窟の大部分がこの時期に開削されたものなのだ。

ベゼクリク千仏洞がある渓谷

 ゲートを抜け石窟寺院がある渓谷の崖の階段を下りて行こうとすると、昨夜から腹具合の調子が悪かったT氏が、これから先へ進まずここで休んでいると言い出した! 最初の観光「高昌故城」のときから元気がなく辛そうに歩いていたのだが、どうにも体が動かなくなってしまったようだ。
 具合を聞くと、脱水症状なのか身体に力が入らないと言う!
 
 旅仲間の体調悪化がひどくなってきた!まずいことにだんだんと人数が増えていく!
すでにホテルの部屋では「Sさん」が横になっているし、夫妻で参加した奥さんの方の「Kさん」も口には出さぬが、かなり辛そうだ!加えてT氏までがひどい状態になりつつある。さらにはS氏も1氏も腹具合の調子が悪く、次から次へ仲間の下痢が始まっている。まずいことになってきた!
 ゲートの周りは展望台になっており、売店と休息所もあるので、T氏には申し訳ないが椅子で休んでいてもらうことにして、不安な気持ちを胸に私達は渓谷への階段を下りて行くことにした。

ベゼクリク千仏洞
 あたり一面草木の一本の無い乾燥した大地から、階段を下りだすと目の前の展望が開け、渓谷の底に河の流れと緑が見えてきた。  中腹まで下りると渓谷に沿って張り出したテラスのような場所に出た。 長いテラスが続き、断崖に開削された石窟がずらりと並んでいる。 ガイドの案内に従ってテラスを進みながら一つひとつ石窟を見て歩く。
 それにしても古代の先人は凄いことをする! なぜこのような場所に寺院を創る必要があったのか!その必然性が理解できない。信仰のなせる業にただ圧倒されるばかりだ!
 
 石窟内に入ると破壊を免れ、わずかに残る仏像や極彩色の壁画が、当時のウイグル人文化を伝えている。それにしても暗い石窟内に懐中電灯で照らし出された壁画があまりにも無残だ! 当時の仏教文化を知るうえでの貴重な遺産である仏画を中心とした壁画が大きく傷つけられている! 特に無残なのは釈迦や如来など仏の顔の部分がほとんど剥ぎ取られていることだ。
ベゼクリク千仏洞
 
 このベゼクリク千仏洞も含め西域シルクロードに残る仏教遺跡の大半が、イスラム教の浸透とともに破壊され、それを免れたものも清王朝末期に外国人探検隊(日本の大谷探検隊も含む)によって剥ぎ取られてしまい、追い討ちをかけるようにわずかに残った部分も文化大革命で徹底的に破壊されてしまったのだ。
  そんな石窟内には見るべきものがほとんど残っていないが、断崖のテラスから眺める不思議な色合いの合いの火焔山、はるか彼方まで続く渓谷などの展望は何とも素晴らしい。

砂嵐に煙る「火焔山」

  ベゼクリク千仏洞で午前の観光は終わりである。いったんホテルに戻り昼食を済ませ休息した後、午後からの観光に出かけることになっている。
 バスはホテルへ向かって走り出したが、帰路途中で最も「火焔山」らしい景観が望める場所に立ち寄ることにした。
 渓谷を抜け火焔山の南側走るハイウエイに出ると、今までの青空が消えうせ灰色の空に急激に変化した! 風がビュービューと舞っている! 何と!またしても砂嵐が始まっているではないか!
砂嵐に煙る火焔山

 砂塵で薄暗くなったハイウエイ脇の火焔山展望所の駐車場にバスは停まった。
 ところが、以前来たときには駐車場から火焔山の山並みが自由に見ることができたのに、今回は何と!いつの間にか駐車場の周りに囲いの壁を設置して目隠しをしているではないか! 拝観料を払い壁の内側に入らねば見れないのだ! 道路を走っていると自然に目に飛び込んでくる山の景観なのに金を払わなければならないとは! 最近の中国はどこに行っても金、金、金ばかりで、すっかり観光ヅレしてしまい味気なくなってしまった。
 西遊記に登場する本来の火焔山

 ここ燃える山「火焔山」はトルファン盆地の中部に横たわる東西100Km、南北10Km、平均海抜500mほどの山だ。
 地殻の褶曲活動によってひだの入った赤い山肌は、夏季になると地表から立ち上がる陽炎によって、燃えているように見えることから「火焔山」と呼ばれるようになったのだ。
 この「火焔山」日本でも有名な中国三大奇書といわれる「西遊記」に登場する山だ。仏典を求めてインドへの道中、燃えさかる火焔山に行く手を遮られた「玄奘」一行はその火を消せる芭蕉扇を手に入れるため、「孫悟空」が怪物と戦った話がそれだ。
 拝観料を払い壁の内側に入ったが、砂嵐に煙る赤茶けた山肌がぼんやりと見えただけだった。

  とうとう救急病院へ

中国の病院は恐ろしいのだ!

 午前の観光スケジュールを終え昼食と休息(シェスタ)のため一旦ホテルに戻った。昼食を終えると午後からの出発は15時ということで、それまで各自が部屋で休息となった。 部屋に戻りベットでうたた寝していると、ドアをノックする音がする。ドアを開けるとT氏と相部屋のI氏が廊下に立っている。私が「どうしたの?」と聞くと! 「T氏の腹具合が益々悪化しだしている!どうしょう?」と言うではないか!
 部屋に入ってもらい深刻な表情のI氏からT氏の容態を聞くと、「ベットで横になったきりで、煩雑にトイレ通いをくり返している」「嘔吐も始まり、熱もあるようだ!」「とても苦しそうで見ていられない!」と話し出した!。
 私がT氏に上げた「下痢止め」や「抗生物質」は全然効き目が無いようである。
 
 私が部屋を飛び出しT氏の部屋に行くと、ベットに横になったT氏が苦悶の表情で呻っている! 容態を聞くと「腹具合が益々悪化してる!」「辛いので午後からの観光には出かけず部屋で横になっている!」と、弱々しく言うではないか。 私はいったん部屋に戻り同室のJ氏、I氏に、どうするか相談することにした。 
 
 J氏は病院へ連れて行くべきだ!と言う。I氏もそのほうがよい!と言う。 そんな二人のアドバイスに私は躊躇した! 二人とも中国の病院事情を知らないのだ! 日本なら当然病院へ駆け込むところだが、中国での病院はかなり危険なのである。 病状診断がかなりヤバイのだ!「風邪で病院に行ったら盲腸を取られたしまった!」とか、「下痢で病院に行ったら手術台に担ぎ上げられ腹を切られそうになったので、あわてて逃げ帰ってきた!」とかいう”恐ろしい話”を何度か聞いたことがあるのだ。 
 下手な病院にでも行こうものなら殺されてしまう! ホテルの部屋で安静にして寝ているいる方が安全ではないかと、躊躇して決断がつかない私に対し、J氏が熱心に「佐藤さん病院へ連れて行くべきだ!」と言う。

トルファン市人民医院へ

 私は病院へ行こうと決断した!そうなると早い! 添乗員のN女史に事情を説明し、中国人ガイドに病院まで案内してもらうよう頼んだ。
 T氏とロビーに下りると、N女史から依頼を受けた中国人ガイド「可さん」が待っていた。 大通りに出てタクシーを拾い乗り込むと「この町で一番大きい病院へ行ってくれ!」と指示した。するとホテルから意外と近いところに位置する「吐魯蕃(トルファン)市人民医院」という巨大な病院の玄関口にタクシーは停まった。もちろん国立病院だ。

 玄関を入ろうとすると何と!ドアが施錠されていて入ることができない! どうしたことだ!と玄関口をウロチョロしてると、通りかかった人が「今は昼休みだ!裏玄関に廻ると入れるよ!」と声を掛けてくれた。
 裏口から病院内に入った! 巨大な病院内は閑散としており廊下は誰も歩いていない。 さすが国営だ!患者がいろうが無かろうが関係なしにたっぷり昼休みをとるようだ。
 
 ウロチョロしながら表玄関近くにある受付にいくと窓口に誰もいない! 窓口で大声で「有人ロ馬?(誰かいますか)」と何度も呼びかけると、奥の扉が開き面倒くさそうに女の事務員が出てきた。 ガイドの「可さん」が「日本人観光客が下痢で苦しんでいるいので診てほしい」と言うと、この事務員昼寝の最中を邪魔され怒ったのか?ふてくされた表情で別棟の救診病棟へ行けと言う。

とんでもない中国の救急病院

  私達は再び裏口に戻り外に出ると、病院の一番奥まったところにあるという急診棟に向かった。 大きな中庭を横切っていくと物置小屋のような急診病棟が見えてきた!
トルファンの救急病練
なんとも心細くなるような貧弱な作りで不安になってくる! 
30年前の日本の病院のようだ! 入り口を入り、ちょうど廊下にいた看護婦に声を掛けた!「日本人観光客だ!昨日から下痢が始まり止まらない!すぐ診てほしい!」 すると看護婦「ちょっと待って!」と言うや、患者が病臥している病室に入って行き30代の男性医者を連れて出てきた。 
 何と!ボサボサ頭髪に寝ぐせがついているではないか! 入院患者がいる室内の空きベットで昼寝していたところをたたき起こされたようだ!
 
 医者と廊下での立ち話となった! この医者なぜか診察室に入れと言わないのである。 しかたがないので廊下のベンチにT氏を座ってもらい、中国人ガイドの「可さん」に症状を伝え、それを彼女が医者に伝えるという形で聞き取り診察が始まった。
 私の片言中国語で直接医者とやり取りしてはかなり危険である。ここは間違えのないよう慎重に病状を医者に伝えないといけない。私の怪しげな中国語ではT氏は死んでしまいかねない。

全てが前払いでなければ診てもらえない

 中国人ガイドを間に挟み、あれこれやりとりの結果、T氏の病状を判断した医者は診察室に戻ると、簡単な病状説明と大便検査の指示を書いた伝票を持って出てきた。 この伝票を持って再び本病棟の受付に戻り検査料金を払い、領収書をもらったら2階の病理検査室へ行けと言うではないか!
 苦しそうに椅子に座っているT氏を伴い、私達3人は急診病棟を出ると本病棟の受付に向かった。 これが遠いのである!広い中庭を横切りかなり歩かねばならないのである。
急診病棟と本病棟の間にある広い中庭

 歩くのがやっとのT氏と共に受付に戻り、検査料を払い領収書を貰うと、検査室に行き検査伝票と領収書を検査員に渡した。
 すると検査員、小さな「おちょこ」のような容器を差し出し大便を入れて持って来い!と言う。小さい!小さすぎる、まるで盃ではないか! 
 
 検査の結果が判明するまで、電灯が消えた薄暗い廊下で待つことしばらく、やっと検査員が廊下に出て来ると「心配ない!菌は発見されなかった!」と言いながら検査結果が書かれた伝票を返してくれた。この検査結果票を持って再び急診病棟に戻り医者に渡せと言うではないか!
 またしてもT氏を伴い遠い距離を戻り、検査結果が書かれた伝票を医者に渡すと、診察室に入り今度は治療するため必要な薬品リストが書かれた伝票を持って出てきた。
 すると何と!何と!またしてもこの伝票を持って再び受付に戻り、薬代金を払い領収書を貰って、薬局へ行き領収書を見せ薬をもらい、ここまで戻って来い!と言うではないか!

 冗談じゃない!日本人に恨みでもあるのか!こんなのは看護婦の仕事ではないか! 検査から薬品手配まで、こんなことを救急患者にさせるなんて! 
 幸いにもT氏には私達付き添いがいるので何とかなるが、もし付き添いがいない重症患者が一人の場合、こんなことさせていたら死んでしまうではないか!
  仕方がない!これ以上、弱っているT氏を歩かせるわけにはいかない! ガイドの「可さん」に薬局から治療薬を貰ってくるように頼み、私とT氏はそれまで廊下のベンチで待つことにした。
救急病棟の閑散とした廊下
 閑散とした薄暗い廊下のベンチで、何度もトイレを出たり入ったりするT氏と待つことしばらく、やっと重そうなビニール袋をぶら下げた中国人ガイドが戻ってきた。
 袋の中を覘くと点滴液3本と下痢止め粉薬が入っている。さっそく看護婦を呼びとめ、また昼寝に戻った医者を起こしてくるように頼んだ。
 寝ぐせ頭の医者が病室から出てきた! ガイドの「可さん」が貰ってきた治療薬を渡すと、廊下を通りかかった高校生のような童顔の看護婦に3本の点滴液を渡し1本50分かけて打ってやれと指示をしている。 1本50分だと3本打ち終わるまで2時間半もかかる。
 
 これでやっと治療が始まる!ここまでくるまでに待つこと1時間半、重症の急患なら死んでいるところだ! とんでもない急診病院だ。
 時計を見ると、午後の観光への出発時間15時をとっくに過ぎてしまっている。ここで私は中国人ガイドの「可さん」に、あとは私が病院に残るので、ホテルに戻り待機している旅仲間を午後の観光に案内するように頼んだ。 ガイドが不在では皆は観光に出かけることができない。  

やっと病室で点滴が始まった!

 この急診病練に隣接して看護婦養成学校があるようで、実習生の名札を着け、若草色の看護服を着た童顔の看護婦がときおり廊下を行ったり来たりしている。
ガイドが帰っていくなか、点滴注射を打つべく廊下の一番端にあるある病室に案内された。狭く汚い室内にはベットが3台並んでいる、すでに1台のベットには患者の青年が横になっており、ベット脇に恋人らしき女性が腰を下ろしている。
 
 黄ばんだ薄っぺらい布団が置かれた硬いベットに横になったT氏に点滴液の注射が始まった! 見習い看護婦がT氏の腕に点滴針を刺そうとするのだが何と!うまく血管に刺すことができないではないか! 何度も刺したり抜いたりを繰り返す! さすがのT氏も我慢の限界を超え「痛い!痛い!」と悲鳴を上げだした!
 悪戦苦闘なんとか血管に針が入った!しかし針の刺さった角度が悪く、少しでも腕を動かすと痛みが走るようで、T氏が「うまく刺さっていない! 腕を動かすと痛い!」と言う!
 私が看護婦にそれを通訳すると何と!看護婦「腕を動かすな!全然問題ない!」と言うではないか! 冗談でない!看護婦は問題ないかもしれないが、患者の方が問題があると言っているいるのだ!とんでもないヤツだ!
 
 注射針の角度がズレているため、ピクリとも腕が動かすことができない状態で、長時間(3本で2時間半)の点滴が始まった。T氏が辛そうでかわいそうだ!
                     救急病棟での点滴のつづきは第11編へ
 

第11編「トイレはどこだ!下痢が止まらぬ!・疲労こんばい北京へ」へつづく

中国国内で使った小遣いを記してみます。
(中国通貨1元を日本円換算15円で計算しました)

         (本日の出費)
ミネラルウォーター  2本   4元 (60円)

レストランでのビール(’割り勘)10元 (150円)

お土産の中国酒(白酒)    50元 (750円)

お土産の干しブドウ       8元 (120円)

  小    計        72元(1080円)


今日まで10日間の累計出費 392元 (5880円)