旧満州・中国東北三省を行く



旧満鉄でハルピンへの列車内

 大連21時42分発、哈爾濱(ハルピン)行き夜行寝台列車は、定刻より若干遅れて大連駅のホームを出発した。私達(男4人)は4人用寝台個室(グリーン寝台)に入った。これから中国の最北に位置しロシアと国境を接する黒龍江省の省都ハルピンまで940kmあまりを約10時間あまりかけて、かっての満鉄アジア号が走ったのと同じ鉄路を走るのである。
1等の4人用個室軟臥( ソフト寝台)
    
 4人用寝台部屋は幅2尺(60センチ)あまりの上下2段のベットが、2尺幅あまりの通路をはさんで向かい合わせに並んでおり、車窓側には小さなテーブルとその上にはお湯を入れた大きな魔法瓶が置いてある。
 部屋には内側から鍵がかかるのだが、個々のベットにはカーテンがなく室内に入った4人の間には一切プライベートは無い!互いに寝姿も着替えも丸見えである。同じグループなら我慢できるが、赤の他人どうしの場合緊張してしまうしろものだ。

2等の硬臥(ハードベット)カーテンが無く丸見え

 狭い室内の天井とベット下の空きスペースに4個の旅行ケースを押し込むと、私達は大連駅での自由時間に買ってきた中国酒で寝酒の酒盛りを始めた。
 私を除く旅仲間3人は中国での寝台列車の旅が始めてで、酒を飲みながらの歓談途中で入れ替わり立ち代り部屋から出て行き、寝台列車の中の構造を見学に出かけ戻ってきては、トイレはどうだ、洗面所はどうだ、と感想を述べあっている。      

 話題が個室のことに話が移ると、一人が妙なことに気づき言った!「私達旅の参加者7名と日本と中国の添乗員で合計9名だが、4人部屋×2室で8名は同室になるけど一人だけはみ出てしまう、どうしているのだろう?」言われればその通りである、気になったので私が隣の室内を覗くと、室内にはH夫妻と日本人添乗員ともう一人の女性客がいる、女性3人に男性1名の組み合わせになっている。

4人用コンパートメントが並ぶ軟臥車内

 ただ一人中国人女性添乗員の劉さんの姿が見えないので、通路を歩きながら戸が開いている室内をさりげなく覗き込んでいくと、列車の一番端の部屋に何と!中国人男性3人が賑やかに談笑している中にポツンと一人劉さんが寂しそうにベットに腰掛けているではないか!
 彼女は私が覗いたのに気づくと一瞬笑顔になり、日本語で「佐藤さんどうかしましたか?」と声をかけてきた!
 
  突然、日本語が飛び出したので同室の男性3人が談笑をやめ、一斉に劉さんと私の双方を見る!私は日本語で「劉さん、知らない男性3人の中に貴女一人で大丈夫ですか?!」と聞いてみた。彼女いわく「大丈夫ですよ、私旅慣れていますから」と返事が返っていきたが、何か表情が硬いのである。
 私は劉さんを誘ってみた「まだ寝るのには早いでしょう、私達の部屋に来ておしゃべりしませんか?お菓子もお酒もありますよ!」と言うと、うれしそうに彼女は行きますと言うではないか!

列車の個室寝台事情

 しばし私達の部屋で彼女を中心に談笑が始まった。話題がどうしても寝台個室に関してのことになってしまう!。 もし「個室が満室でなく他人どうし男女一人づつの組み合わせになってしまったら、どうするのか? 部屋の中から鍵をかければ完全に密室になる」「今まで事件が起きたことがないのか?」という点に話題が集中した。
車窓からは満州平野が地平線までつつく
 何しろベットにカーテンが無く鍵のかかる個室に男女が隣どうし寝姿丸見えでベットで寝ているのである、どうしても事故が起きてしまうのを連想してしまう。
 切符の予約は男女別に分かれているわけではないのだ、どのような組み合わせの部屋割りになるのか分からないのである。
 開け放っていた個室のドアから何と!通路を歩いていくパジャマ姿の女性が目に入った!洗面所にでも行くのであろうか?恥ずかしげもなく堂々として通路を闊歩している。

そんな話題から劉添乗員の身の上話になり、瀋陽(かっての奉天)郊外の貧しい農家の生まれであること。 親戚中から留学資金を借り集めて日本に来て、1年間外語学院で日本語を学びその後、東京の大学に入学し卒業したこと。その後瀋陽に戻り旅行会社の日本部に入社したとのことだった。大学時代に日本人の恋人ができ現在遠距離恋愛中で、Eメールで煩雑に連絡を取り合っていると、うれしそうに話をするのを聞きながらしばらく話し込み、やがて彼女は男3人がいる部屋に戻っていった。しかしそれにしても気にかかる大丈夫だろうか!?何しろ若くてチャーミングなのだ!
車窓から水田地帯に生まれ変わった満州平野

 やがて寝入ったが、私達4人はシニア年代である、悲しいかなトイレが近い!少し眠りに入ると誰かがガサゴソ起きだしてトイレに行きだす。何しろカーテンで仕切られているわけでない、全ての行動がお互いに丸見えなのである、そんなことの繰り返しであまり熟睡できず翌朝の5時前には起床してしまった。
  私が車窓のカーテンを開けると、みんな待ちかねたように起床しだした。車窓からは太陽が昇る前の薄明かりに、地平線まで続く広大な満州平野が目に入ってくる。
 かってこの東北地方は米作にあまり適せず収穫量も低かったのを、日本の技術指導で有数の米作地帯に生まれ変わったとニュースで聞いたことがあるが、車窓からはどこまでも水田が広がり豊かな穀倉地帯に生まれ変わった満州平野が果てることなくつづいていた。
 

ハルピン駅に着いた

 ハルピン駅の長いホームを歩きやっと階段まで
定刻より若干遅れて7時40分夜行列車は哈爾濱(ハルピン)駅のホームにすべりこんだ。
 ホームに降り立つと、中国の最北方に位置する省都の初夏としては意外と暑い外気が身を包んだ。
 駅出札口まで長いホームと階段を昇り降りせねばならぬ、添乗員が気を効かして二人の中年赤帽を連れてきて、私達8個の旅行ケースを彼らに預けるように言う。
 階段があるため手押し車が使えない、どうするのか見ていると何と!2個のケースを紐でくくり肩にぶら提げ両手に1個づづ持ち私達と一緒に歩きだした!一人で4個の重い旅行ケースを持つのである。

 それにしても中国の駅のホームは長い!何しろ列車そのものが30両以上連結されており異常に長いのである、当然ホームも長くなる。              哈爾濱(ハルピン)駅

 赤帽二人、ホームの階段にくると、さすがに辛そうで額に汗してケースを引っ張り上げている!手ぶらな私達は見ていて、仕事とはいえ申し訳なく思い手伝おうとすると、首を振り拒絶する。
 いったい、この力仕事の手間賃はいくら貰えるのであろうか?!。出札口を出ると目の前に「東方の小パリ」あるいは「東方のモスクワ」などと呼ばれる哈爾濱(ハルピン)駅広場の雑踏が飛び込んできた。

私にとって特別な町ハルピン

ハルピン駅前は黒山のような雑踏・・・

 ここ中国最北部でロシアと国境を接する黒龍江省(人口3800万人)の省都ハルピン(人口380万人)は、特別の感慨があり私にとって、どうしても一度は来てみたかった都市なのだ!
 感慨のひとつは、かって私がサラリーマンの現役時代、中国語を学ぼうと決意して中国領事館に電話を入れ、中国語を教えてくれる教室の紹介を頼んだことがあった。
 紹介された日中友好団体が開催している中国語教室にさっそく受講申し込みして通学をはじめたのだが、その時私にとって初めての中国語の先生が、残留孤児でハルピンから帰国して間もない老婦人だったのだ。
 
 その後、授業時間帯の関係で領事館から紹介されたこの教室は半年ほどでやめ、別な夜間中国語教室に会社帰りの夜、通算7年間通学したのであった。(悲しいかな脳軟化症のせいで片言しか話せず)
 このときの通算して3人の中国人に中国語を学んだのだが何と!一人がハルピンから帰国した残留孤児、2人がハルピンから来て北大に留学している学生だったのである。

中国で一番美しい標準語を話す
ハルピン

 私が中国各地の旅行先で、片言中国語を現地中国人相手に使うと、必ずのように聞かれることがあった!「お前さんの話す中国語はなまりのない標準語だが、誰に習ったのだ!」と、どこに行っても必ず聞かれた。それほど中国では標準語を話すのがめずらしいのである。
ハルピン繁華街の街並み三輪車が走る
 中国の国土は日本の26倍の広大な土地である、地域ごとにさまざまな方言があり、極端な例では南方地域の広東語のように言語そのものがまるっきり違い、同じ中国人が聞いても意味が理解できない言葉まであるのだ。
 こんな調子なので、中国どこに行っても土地ごとに「方言なまりのある中国語」が飛び交っているのが現状なのだ。
 北京語が一応標準語とされているが、北京語も語尾に独特のなまりがあり、実際のところ標準語とは言えず、中国で一番きれいな標準語を話す地域がこのハルピンを中心とした黒龍江省といわれており、放送アナウンサーの多くがハルピン出身者であることは有名な話である。

 自慢話のようになってしまうが、私に中国語を教えてくれた3人の先生すべてが、はからずしも中国で一番きれいな標準語を話すハルピン出身者だったのだ。こんなことから一度は先生達の生まれ故郷に来てみたかったのである。
 もう一つの感慨は、私の父はかってこの極寒の地ハルピンで終戦を迎え、ロシアに抑留され苦難の捕虜生活から帰還したことを、父の戦時体験としてよく聞いていたのである。
 こんな感慨があるハルピンなので、駅に降り立ち、目の前に広がる街並みを見たとき、切ないような不思議な思いが湧いてきた。

ロシア人がいっぱいのホテル

 今日の予定は終日ハルピン市内観光である。観光に出かける前に今晩宿泊するホテルにいったんチェックインして旅行ケースを部屋に置き、朝食をホテル内レストランで済ませ出かけることになっている。
 ホテルが駅から近いということで駅前の雑踏をぬけ、歩いてホテルに向かったのだが、私達の旅行ケースを一人で4個も持った赤帽が、汗だくになりながら改札口を出てホテルまで一緒に着いて来てくれた。外気温はおそらく27〜28度あるだろうすごい根性だ!
ハルピン駅近くの宿泊したホテル前の雑踏

 ホテルのロビーに入ると何と!ロビーはチェックアウトを済ませ、出かけようとするロシア人でいっぱいではないか!半端な人数ではない!さすがロシア国境に近い都市のホテルだけある。
 そんなロビーの隅で中国人現地添乗員が、旅行ケースを運んでくれた赤帽の一人に40元(600円)を渡しているのがチラリと見えた!おそらく二人合せての手間賃なのだろう!一人換算すると日本円で約300円である。一人4個の旅行ケースを長いホームを登り降りして、ホテルまで歩いて持ってきてくれた代金がこの程度なのである。日本円の価値に感謝しなければならない。

エキゾチックな欧風建築物の街

  朝食をすませバスは市内観光に出発した!バスの窓から見えるハルピンの街並みは、今日まで見てきた瀋陽や大連と違い経済発展の恩恵がそれほど及んでいないらしく、再開発前の古いビル群や商店街がよく目に入る。 
 他都市に比べ経済発展が遅れているため省政府は、日本企業の誘致に躍起となっていると聞いたが、車外の街並みを見るかぎりそのようだ。
             日本統治時代の旧丸商百貨店(現哈爾濱百貨店)
      
 今日最初の観光は、旧繁華街にある歴史的建築物(日本統治時代)の「旧丸商百貨店」前の路上にバスは停まった。戦後60年以上経過した今も「哈爾濱(ハルピン)百貨店」と名を変え市民にとって一番身近なデパートとして利用されている。
 通りには欧風建築物の商店やビルが建ち並び、路上には大連や瀋陽では見かけることの無かった、中国の田舎都市らしい三輪車が走っている。
 ハルピンを代表するロシア教会「聖ソフィア教堂」

 この旧丸正百貨店の繁華街交差点を曲ると、ひときわ人目を引くハルピンを代表する歴史的建築物のロシア教会「聖ソフィア教堂」があった。1907年に帝政ロシア軍兵士の従軍用教会として創建され、幾度かの拡張工事を経て100年後の今でも美しい姿を私達に見せてくれている。
 教会前の広場ではベンチに座ってひなたぼっこする中国人の視線を浴びながら、ロシア人らしき集団があちこちで写真を撮っている。私達もその中に混じり込みじっくり写真を撮ったあと、ハルピン市内観光最大の見どころである中央大街(旧キタイスカヤ)に向かった。

ここが中国?ヨーロッパの街並み

欧風建築物が建ち並ぶ石畳の中央大街

ハルピン最大の見どころ中央大街に来た。エキゾチックな欧風建築物が建ち並び石畳の歩行者天国の通りは、ここが中国なのか疑いたくなるような街だ!日本軍が進出するまで帝政ロシアの支配の下、ハルピンはロシア風の近代都市として大きな変貌を遂げた。                 
 その歴史的面影を最も色濃く残しているのがこの中央大街(旧キタイスカヤ)で、その結果、今日のハルピンは「東方のモスクワ」「東方のパリ」などと呼ばれている。
 ここで、たっぷり1時間半の自由散策となった。大街の中心部にあるビヤガーデン前を集合場所と決め各自それぞれの方角へ散っていく。

中央大街のビヤガーデンで温いビールを飲む

 私も初夏の日ざしが降りそそぐ歩行者天国のストリートを歩きだした。これが中国か?!と疑いたくなるような欧風(ロシア風)建物のオンパレードで、ヨーロッパの街並みを思わせる景観である。
 通りのあちこちにビヤガーデンやパラソルがたくさん立っており、その下では大勢の人達がおいしそうにビールを飲んでいる。

帝政ロシア時代の建物が建ち並ぶ中央大街
 ハルピン人は大のビール好きだと聞いたことがある!ハルピンビールの歴史は古く青島ビールとともに中国では最も知られたブランドとなっている。何と!都市別に見たビール消費量は、ミュンヘン、モスクワについてハルピンが世界第3位なのだ! 私も虚弱体質であまり丈夫な身体ではないのだが、大のビール好きである!
 長年にわたるビールの飲みすぎで体内には痛風の原因になるプリン体がたっぷり蓄積され、今は立派な痛風病になってしまった。 死ぬまで毎日薬を飲まなければならない身となってしまったにもかかわらず、おいしそうにハルピンビールを飲んでいる中国人に引き込まれるようにビヤガーデンに入り込んでしまった。
中央商城ショッピングセンター

 カウンターに行きメニュー表を見ると8種類のビールが容器のサイズ別に料金が書かれている。その中から黒ビールの特大ジョッキ(料金8元・約120円)を注文した。
 小姐に10元札を渡し2元のお釣りを待っていると、いつまで待っても釣銭やビールを持ってこない。
 少しイラつき私が「早くビールと釣銭りを寄こせ」と言うと何と!小姐が「あと3元足りません、支払っていただくまでビールは待ってください」と言うではないか!
 私が「メニュー表の料金8元を10元札で払ったのになぜ3元不足なのだ?」と聞くと、「ジョッキ代金を別に5元寄こせ」と言うではないか!          

 中央大街のエキゾチックな欧風建築物
 おかしい?!ジョッキ代金を別に寄こせなんていうビヤホールなんて聞いたことがない!
私を外国人と見抜いて小遣い稼ぎに吹っかけてきたのだろうか?と一瞬思った。
私は言った!「ジョッキは要らないビールだけを飲みたいのだ!」 すると小姐が「自分で容器を持ってきているのか?」と言うではないか! 私が「持ってきていない」と答えると、小姐が「どうやって飲むつもりだ!」と聞いてくるではないか!

 この歯車のかみ合わないやりとりを少し離れたところから見ていた責任者らしき中年男性が近寄ってきて私に説明を始めた。「ジョッキは買うのではないのです、保証金みたいなもので、ビールを飲み終わりジョッキを返却したらジョッキ代金は返します」。  また勉強になった、中国のビヤガーデンではジョッキ盗難防止のため保証金をとるのだ!
当時のままのカラフルな欧風建築ホテル

 現地中国人と少しばかり雰囲気の違う私が、一人でビヤガーデンの中央席で特大ジョッキで悠々とビールを飲み始めると、周りの席の中国人達がおしゃべりをやめて一斉に好奇の視線を私に向ける。やっぱり変な中国人に見えるのだろうか?!
 しかし世界第3位のビール消費量を誇る本場ハルピンで飲んだビールの味は、それほど旨い味ではなかった。 信じられないことにやっぱり冷えていなく生温かったのである、ウソではない本当の話なのだ!。

かっての悪しき残滓が残る店

 再びエキゾチックなストリート散策に戻った。かって日本のデパートだった松浦洋行の建物なども、今は新華書店と名を変えて立派に使用されているのが目に入ってくる。
旧日系デパートの松浦洋行(現新華書店)
 交差点角に欧風建築で中央大薬房という薬局があったので、買いたい物があるのを思い出し店内に入ってみた。
 中国に来る前に車の洗車とワックスかけで右肘を酷使したせいなのか、右肘に水が溜まり大きな瘤ができてしまっていた。半そで姿では不恰好な具合なので医療用サポーターを買おうと思いたったのだ。
 
 大きな店内には病状のジャンル別にいくつものコーナーのガラスケースに薬が並べられている。 ケースの後ろには白いガウンを着た薬剤師がコーナー単位に2〜3人ひまそうに立っている。ざっと見たところ20名以上の薬剤師がいるようだ。
 入り口近くのコーナーにいき、中年女性の薬剤師に腫れた右肘を診せてサポーターをほしいと言うと、一言「没有」メイヨーと言うではないか!(日本語の「無い!」の意味)と言ったきり、黙っていて私の相手をせず完全無視を決めこむではないか。
没用(無い)を連発された中央大薬房

 仕方がないので別なコーナーにいき、同じように右肘の瘤を診せサポーターをほしいと言うと、何と!またしても一言「没有」と言う。 何箇所かの売り場にいき尋ねるのだが、どの売り場も無視して私の相手をしようとしない。少々頭に来て、私が「どこのコーナーに行けばあるのだ!」と聞くと何と!今度はうるさそうに店内奥のほうに向かって「顎をしゃくる」ではないか!。
 
 とうとう出た!久しぶりに10年ぐらい前までなら中国のどこに行ってもお目にかかれた、社会主義の弊害だった「没有」のなげ売り言葉と「ふてぶてしくサービス精神のない態度」!この薬局で社会主義時代の悪い残滓を目のあたりにしてしまった!
 かって10年ほど前、中国のデパートに入るとで目の前に商品があっても「没有」と答えて客の相手をせず、店員同士おしゃべりしている場面に、かって私は何度も遭遇したものだ!
 客の相手をするのが面倒くさいので「没有」と言ってしまうのである。客が「何々がほしい」と言うと確かめもせず、条件反射的に「没有」と言う言葉が出てしまう習性が、長い社会主義生活の中で出来上がってしまっていたのだ。
エキゾチックな中央大街の街並み

 近年は競争と評価を取り入れたボーナス制度によって、店員間に優劣をつけるようになってからは、ほとんどこの「没有」は聞かなくなっていたのだが!。
 それが、この大型薬局では歴然と残っていたのだ!さすがに薬局の薬剤師までは自由経済のサービス精神が徹底されていないようだ。

 
 仕方なしに、薬剤師に「顎をしゃくって教えられた」店内奥のコーナーに行き、私は同じように肘の瘤を診せサポーターをほしいと言うと、またしても「没有」の答えである。
 もう我慢できない!腹が立ち思わず私は大声で言った!「あそこの店員がこの売り場に行けと言ったから来たのだ」「いったい、この店にサポーターが有るのか無いのかはっきりしろ!」「有るならその場所に案内しろ!」・・・突然の大声にびっくりしたのか一瞬店内に静寂が訪れ、店内の全員が一斉に視線を私に向けた。
 私の中国語は標準語だが片言である!イントネーションの違いで、やっと外国人とわかったようだ。 すると静まり返った店内の別のコーナーから手にサポーターらしき物を持った薬剤師が私に向かって歩いてくるではないか!。
 

中央大街から次の観光へ

 こんな散策を終えて昼食をレストランで済ますと、市内中心部の繁華街にある黒龍江省博物館に向かった。
 毎度おなじみの歴史文物、民族文物など、いくつもの展示室を観て歩く。 それぞれの展示室の片隅には小さな机があり、そこで監視員の若い女性が室内を監視している。
 どこの展示室に入っていっても全員が机の上に手のひらを乗せ、その上に顔を伏せ居眠りしている。
 見事なもので私達が入室しても起きようとしない! 気づいているはずだが、顔を上げようとしないのである!完全無視で自分の世界に入り込んでいる。これでは監視員の役目になっていないではないか!すでに午後1時半を過ぎている、これで給料がもらえるのであろうか?。
 
 中国の昼食時間は長い!たっぷり2時間ほど取り、ほとんどの人達は昼寝をするのが習慣になっている。最近はこんな習慣もなくなりつつあったのだが博物館では健在だった。                                   歴史は好きだが博物館の展示物にあまり興味のない私は、途中でひと足先に外に出て博物館の隣にある商店前の階段に腰をおろし道行く人をなにげなく眺めながらハルピンの感慨にふけっていた。やがて拝観が終わり旅仲間が出てきた、この博物館では展示品の売り込みはなかったようだ!
博物館前に腰を下ろし一服

 次は本日最後のイベントであるショッピングに案内された。例によって日本人専用土産物店で、流暢な日本語を話す小姐の売り込み攻勢にさらされながら、1時間近く無駄な時間を費やし、夕方16時頃にいったんハルピン駅前のホテルに戻った。
 ホテルでしばし休息後18時からロシア料理のレストランでの夕食である。
 旅仲間全員がロシア料理レストランでの食事の経験は無い、楽しみにしてバスでレストランに向かった。 ところが何と!これが「反日レストラン」で最悪の夕食となってしまった!
        (反日の内容は次回その6につづく)
                           

その6へつづく