静かな夜を返せ-新横田基地公害訴訟
1996年4月10日、横田基地周辺住民と飛行直下住民3138名がアメリカと日本政府を相手に「夜間飛行差し止め」と損害賠償を求めて八王子地裁に提訴しました。はじめてアメリカ政府を相手とした訴訟はマスコミを含め、内外から注目されています。
横田基地公害訴訟は、1976年から94年3月まで約18年間、横田基地周辺住民700余名が原告となり、「爆音のない静かな夜を返せ」と夜間飛行差止めと損害賠償を求めて国を被告としてたたかわれました。提訴当初の原告数は、148名でした。1981年1・2次訴訟判決では夜間差し止めは却下されましたが損害賠償を国に求める住民勝訴の判決が言い渡されました。1982年には、家族約600人が第3次訴訟を提訴しました。
1987年の1・2次訴訟東京高裁の判決では、「国防や米軍基地だからといって他の行政より公共性が優越しているとはいえない」と安保を優先し、米軍基地を特別扱いしてきた国の主張が否定されました。
1993年最高裁は、「国は横田基地における米軍機の飛行の違法状態を放置することは許されない。違法状態を解消する義務がある」「横田基地の米軍の飛行状態は住民に被害を与える違法なものである」として国の被害放置の姿勢を厳しく問いました。そして「国は被害住民に損害賠償を払う義務がある」とし被害住民は等しく損害賠償を受ける権利があることを明らかにしました。
1993年11月東京高裁は、国に騒音被害の軽減努力を要求する「和解案」を原告と被告双方に提示しました。しかし、国側の抵抗により「和解」は決裂しました。こうしたなかで、国は日米合同委員会を30年ぶりに開催し、「午後10時から翌日午前6時まで地上活動を含む一切の飛行活動を禁止する」など盛り込んだ合意事項を確認しました。1994年第3次訴訟の東京高裁判決は、八王子地裁、1・2次訴訟東京高裁の判決を踏襲したものでした。この判決を双方が受け入れ、18年間の長きにわたる裁判闘争に幕がおろされたのです。
18年間の訴訟のなかで原告住民は、爆音によって実際に耳が聞こえにくくなってしまったことや高血圧などの健康障害、睡眠不足や子育てなど日常生活に大きな支障が出ていることや常に墜落の危険におびえて暮らさなければならないことなど訴えました。しかし、国は最後まで安保条約をたてにし、「耐えられるはずだ。がまんしなさい」と被害を認めようとしなかったのです。
全国の基地闘争を励ました横田訴訟
この訴訟は、夜間飛行の差し止め請求を却下し、補償の範囲・金額を狭めるなどの点ではたいへん不十分なものでしたが、被害の実態についての原告の主張を認め、国側の「安保の公益性を考えれば被害は我慢すべき範囲」との主張を退け、日本裁判史上初めて、基地被害に対する国の責任を認めたのです。
これは同時に、米軍の基地活動に違法性があることがはっきり認められたという意味で、画期的なものでした。また、横田基地の基地祭での曲技飛行も違法であるとの判断を示し、自衛隊もこれを断念せざるを得なくなったのです。
人間としての権利を求めて
「静かな眠れる夜と住みよい生活環境を」という願いは人間として生きる最小限のごくあたりまえの要求です。この訴訟は、「静かな眠れる夜をかえせ」という一点で結集した運動であり、軍事行動反対や安保廃棄、基地撤去などをかかげてはいません。しかし、安保条約と基地が国民になにをもたらしてきたかを鋭く告発しているのがこの訴訟のたたかいです。
この裁判には1996年8月現在3500名が原告として名をつらねており、1万人原告をめざし秋には5千人の原告にして第2次提訴を行う計画です。
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