scene 3:震える山

「え、えええぇぇぇ〜〜〜〜〜〜!!!???」
教室にこだまする、驚愕と動揺とが綯い混ぜになった、素っ頓狂な叫び声。
声の主は、言わずと知れた悲劇のヒロイン・カイル。
…もとい、今はまだヒーロー。

あれから、パニックモードのアロエをどこからともなく現れて落ち着かせたルキアとクララ。
妙な手際の良さに、何かが仕組まれているような嫌な雰囲気を感じるカイル――未だ本気モード継続中。
彼女達に連れられて誰もいない教室に戻ってみれば、女の子のフリをするなんて大それたことを頼まれた。
あまつさえその格好で女子限定の魔法コンテストに出場しろ…とか、とんでもないことを言うのだ。

幾ら人が良くて他人の嫌がることを引き受けるタイプでも、カイルは人一倍高いレベルの良識と道徳観念の持ち主である。
公衆の面前で女装、などというアブノーマルな真似を平気でできるような精神構造は持ち合わせていない。
彼が否定的な響きで叫んだとしても、無理からぬことであろう。

すんなり行くとは思っていなかったが、カイルの渋い顔に、慌てて2人は彼を懐柔しにかかる。
しかし自席に座る彼は、物腰こそいつもとさほど変わらないものの、梃子でも動かない頑迷な空気を滲ませていた。
それには、理由があった。

カイルの思考は、前述の通り『アロエのために』を現在の合言葉としている。
そして、彼のこれまでの経験から、アロエが自分に女の子になるように言う…なんてことは考えられなかった。
ということは、彼女はルキアとクララにそう言うよう強要されたのではないか――彼はそう推論した。
現在、アロエが教室の隅に座り込んでしょげていることも、その認識を後押しする。
必然的に、カイルにとって2人はアロエの平穏を乱す敵、という結論に至るわけだ。
彼の性格に加えて、相手が女性と心得ているのもあり、あからさまに不快感を示したり、はっきり拒絶したりはしない。
それでも――常に己を殺す彼には甚だ珍しいが――眉間に不自然な力がこもり、嫌な皺が寄るのをカイルは自制できなかった。
 

「…どうしても、ダメですか?」
普段から内気なクララの声色は、更に若干弱めだ。
自分でも少し疚しい部分があるだけに、声のトーンが落ちるのも頷ける。
だが、いつも以上に硬いカイルの表情に、心のどこかで気圧されているのかもしれなかった。

「う〜ん…僕としては納得できる理由がないと、同意はしかねますね…」
勿論、それでは今のカイルと渡り合うことなど、どだい無理というものだ。
やんわりと、でもきっぱりと、彼女の上目遣いで感情に訴える搦め手作戦は退けられた。
普段の彼ならば通用したかもしれないだけに惜しまれる。

「いやあの、ほら、カイルが一緒に出場してくれることで、アカデミーの名誉にもなるわけだし…」
…ルキアが『学校の名誉』なんて言う時点で怪しいのだが、当然これはフランシスからの受け売りである。
が。

「…考えてみて下さい。仮に僕が女装したとして、それが怪しまれないようにできると思いますか?
身長とか体つきとか、人の目に付く部分ですからどうやったって誤魔化せないじゃないですか。
女装の男子を送り込もうとしていたことが知れたら、名誉どころかずっと拭えない汚点を残すことになりますよ?」
本気モードのカイル、舌好調。
実に正鵠を射た彼の反論は、ルキアの付け焼刃な理屈を一蹴した。
それ以外に説得力がありそうなネタを持っていなかったルキアは言葉に詰まり、下を向いてしまう。
…どうも今日の彼女は、口を開く度に自分を拙い状況へ追い込んでしまうようだ。

状況は切迫していた。
もとより正面からの論戦は分が悪い上、今のカイルは鉄壁の理論武装で身を固めているのだ。
並の説得では悉く論破されて、ますます状況が悪くなってしまうのは目に見えている。
彼を説き伏せるには、強引に無理を通すことで道理を引っ込めるしかあるまい。
そして、彼にそんな無理を通せる人は、1人しかいなかった。
しかし、カイルの視線を掻い潜りながら対カイル用リーサル・ウェポンをチラ見してみても、どうも動く気配がない。
計画頓挫か…と彼女達が肩を落としかけた、その時だった。

ガタッ。
椅子から立ち上がる、小さな体躯。

「カイルお兄ちゃん」
決戦兵器、リフトオフ。
悲壮感(主にアロエ)、そして一抹の希望(主に残り2人)。
最終決戦に付き物な感情を伴い、アロエはカイルに対峙した。

「何ですか、アロエさん?」
彼女に対しては、表情から険が取れるカイル。
だが、そこで彼の表情は再び強張った。

相手の気持ちが読める、ということは、悲喜どちらの感情も判ってしまう、ということである。
その点、今のアロエは喩えるなら、時雨れる寸前の空模様。
彼女を重圧から解放しようという自分の行動に、何か間違いがあっただろうか。

「…ごめんなさい」
唐突な謝罪の言葉に、カイルは当惑する。
何故、謝る必要があるのか。
それでも、アロエは翳を纏ったまま、沈んだ声で続ける。

「本当は分かってたの。こんな変なこと頼んで、カイルお兄ちゃんが好い顔をする筈がないって」
自責と懺悔に塗れた独白。
だが、今のカイルは彼女を慰めてあげる方法を知らなかった。
心中でどうしようかと慌て惑いつつも何と口にしたものか分からず、彼はアロエの言葉を受け止めるより他ない。
そして。

「でもね…でもね…」
そう言って、アロエが顔を上げた瞬間――
彼女の頬を、一筋の雫が伝った。

「アロエ、どうしても大会の事諦められなくて…グスッ…みんなにお願いしてみたんだけどどうにもならなくて…スンッ…
それで、どうしたらいいか分からなくって…ヒック…カイルお兄ちゃんしか…頼れる人がいなくって…ウゥ…」
震え、しゃくり上げながら訴えかけるアロエの姿は、それを受けるカイルの胸を深々と突き刺す。

「……ッッ!!」
彼にとっては、痛恨の瞬間。
そして、全国のアロエファンにとっては、カイルへの刺客が4096人に増員された瞬間である。

「だから…だから、今度だけ、アロエの我が侭聞いてくれないかな、お兄ちゃん。
女の子になって、大会に出てほしいの。もうこれっきり、アロエのことを嫌ってくれてもいいから……」

目に溜めた涙、そして想い人であること。
先のクララとほぼ同シチュエーションながら、これだけでカイルに与える影響は全く違った。
どんな攻撃にも動じない堅固な砦のようだった彼が、焦りと悩みと混乱に脆くも崩れる寸前の廃屋状態である。

(な、泣き落としだ……!!)
傍観者たる女子2人ですら、このクラス最年少の少女が最強クラスの女の武器を使っていることに、背筋が寒くなった。
無自覚のうちに何と空恐ろしい真似をするのだ、このオナゴは。
カイルの可哀想なまでの動揺っぷりには、流石にルキアもクララも同情を禁じ得ない。
だが、そんなことを気に掛ける時でないことは、2人とも分かっていた。
千載一遇の好機――今しか、ない。

「私達からも…お願いします。この通り」
平身低頭、と形容しなくてはならないほど、三つ編みが地面に擦れそうになるまで深く深く頭を下げるクララ。
ルキアも、申し訳なさそうな目線と拝み手で援護射撃する――どうやら自分が喋らない方がいいことは分かったらしい。

カイルがそうしたように、彼女達も、切り札を切ったのだ。
しかも、カイルより更に上手――ジョーカーを。

対するカイルは、それは大きな自責の念に駆られていた。
自分に女の子になってほしい…というのは、強要されたのではなく、彼女自身の望みだったことに気付けなかった。
それが原因で彼女を泣かせてしまうなんて、自分は一体何をしているんだろうか。
そして彼はそのまま黙考する。
彼女の笑顔を取り戻すために、自分は何をすべきなのか。
勿論、答えは始めから決まっている――彼女の望むままにしてあげればいい。
しかし、彼の羞恥心と自尊心が大きなわだかまりとなって、その答えの成立を阻もうとする。
彼の胸中の葛藤はいかばかりか――先とは違い、煩悶ゆえに寄せた眉根が、それをありありと物語る。

祈るような沈黙が支配する教室。
3人の願いは1つ。
彼女達の直向きな視線を受けるのは、それが叶うか否かの鍵を握る1人。
だが、状況がどちらに転ぶとしても、その場の誰かが心痛を経験する。
それが分かっているから、答えは口に出し難い。

――けど。

「できない…」
――言わなければ、ならない。

「できるわけ、ないですよ…」
――どんなリスクを背負うとしても。

「そっか……そうだよね……」
否と受け止め、当然だろうと思いつつも寂しそうに目を伏せるアロエ。
だが、カイルの言葉は続いていた。

「僕が…」
――自分にとって。

「アロエさんを嫌いになるなんて、そんなことできるわけないじゃないですか」
――貴方の笑顔は、何よりも大事なのだ、と。

「えっ…じゃ、じゃあ…」
ハッとしたアロエのその問いかけに力なく顔を上げた彼は、ほぞを噛む思いを押し殺しつつ、本当に…本当に微かに――

首肯した。

普段なら、アロエさんの願いでも断っていたかもしれない。
しかし先程、自分は彼女の言うことなら何でも聞いてあげると宣言したではないか。
そう。
決め手となったのは、自分の切り札たる言葉だった。
自縄自縛もいいところである。

それに――

「「「ぃやったぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」」」
教室内に響き渡る、喜びの三重奏。
座ったままのカイルの首に、裾の余った制服に包まれた腕が絡みつく。
直後、涙などどこかに消し飛んだアロエの笑顔が胸に飛び込んでくる。
見れば、ルキアとクララも、手を取り飛び跳ねて喜びを表現していた。

自分の恥とアロエさん達の無念を秤に掛けたとき、勝手に自分の方へバランスを傾けるような真似はできない。
人が傷付くぐらいなら、その傷痕は自分が請け負おう。
確かに、自分がこれから受けるであろう屈辱を考えると気が重い。
でも、こうして心から歓ぶ彼女達を見られたのならば、それで構うまい…。

――それは、いつもの彼の思考形態だった。
 

「決まったようだな」
唐突に教室のドアが開き、確認と祝辞と歓喜とが入り混じった言葉が投げかけられた。
入ってきたのは、カイルメンバー編入計画の立案者・フランシスである。

先生の姿を見た瞬間、カイルは自らの不明を恥じた。
こんな常軌を逸した計画の背後にこの男がいることを、何故察することができなかったのか。
考えてみれば、ルキアの直線思考でここまで込み入った計画が立つ筈がない。
内気で真面目なクララがこんな大胆かつ非常識なアイディアを出す筈もない。
ならば、その裏で蠢いているであろう黒幕の存在を悟るべきだったのに、二人にあらぬ濡れ衣を着せてしまった。
これは有り得ざる自分の落ち度である。
先の”勝負”に負けたことも相俟って、彼はかなりブルー入って頭を垂れた。

一方のフランシスは、最難関をクリアしたことに喜びを隠せないでいた。
実は彼、カイルが依頼を断った場合、教室から出てきた瞬間に当て身で気絶させるつもりで教室外に待機していたのである。
そして、禁忌の呪法――性別転換とか、洗脳系とか――を使って無理やりにでも出場させてやる気だったのだ。
そんな彼にとって、事が平和裏に進むという確約が得られたのは、僥倖以外の何物でもなかった。

「さて…これからが大変だぞ。彼を女の子に仕立て上げるという大仕事があるのだからな」
大変だぞ、と言いながらも、遠足前の幼稚園児ぐらいウキウキしてるのが分かる口調。

「でもさ先生、その前にカイルがやる演目を考えないといけないじゃん」
そこに、出場する側としては至極尤もな意見を口にするルキア。

「そんなもの別にどうとでもなるだろう。男だと分からないようにする工作の方が、今は大事だ」
しかし、先生はその進言を無下に切って捨てた。

「えぇ?いくらカイル君でも、やる演目も分からないんじゃ、手の打ちようが…」
重要課題としていた事を軽くあしらわれ、クララは健気に反論を試みるが、

「彼の腕なら何をやらせようが問題あるまい。だが、このままでは出場できないだろう?それでは話にならん。
バレないように今の内から準備しておく必要がある。君達としても、彼に人前でボロを出させるわけには行くまい?」
それすらあっさりシャットして話を元に戻そうとするフランシス。

「そ、それはそうですけど…出場する時は全員制服ですよね?僕に合う女子の服なんかあるんですか?」
強引な展開に、自分をショックから無理やり立ち直らせてカイルも口を挿む。
華奢に見られがちだが、実はカイルはガッシリした肩幅をしている。
身長だって、一番高いルキアでも20センチ、アロエに至っては36センチの差がある。
先程も懸念していた事だが、こんな大柄な女子はそういないだけに、着衣を用意するのは困難そうだ。
が。

「そのことなんだが…実は、少し大きめのが見つかってな」
待ってましたとばかりにフランシスは、どこからともなく下ろしたての服を取り出した。

シックな黒い上着、胸元に付ける大きなリボン、膝ほどの丈に白いラインが特徴のスカート――
それは、紛う事無きアカデミー女子の制服である。

…幾ら何でも用意周到過ぎる。

(あ…あれって…見覚えがある…)
その制服を見て、アロエは数日前のことを思い出していた。

用事があって購買部に出かけたアロエは、購買部担当のリエルにフランシスが何か説明していたのを見かけたのだ。
リエルは何か困った様子だったが、やがて先生を連れて購買部奥の倉庫に入っていった。
数分後、彼女は女子制服を携えて満面の笑みを見せるフランシスと、同じく妙に嬉しそうなリエルが出てくるのを見た。
今、目の前にある制服は、大きさといい形といい、それに瓜二つだった。

何でフランシスが女子の制服を持っているのか。
何で2人ともニコニコ…いや、ニヤニヤしてたのか。
その時は全く気にしなかったが、今ならよく分かる。
フランシスは、カイルの女装話を餌にリエルを篭絡し、この制服を用意させたに違いない。

事ここに至り、女子3人は漸く、先生最大の目的が大会への出場と優勝よりカイルの女子制服姿だったことに気が付いた。
カイルとの”勝負”に勝った、といっても、それは全てフランシスのシナリオの内。
要は、胴元が打った大掛かりなサマの上で全員がいいように踊らされていただけのこと――。

「見たところサイズも合いそうだ。さ、早く着てみたまえ」
手元の制服をずずい、とかざして、カイルに着用を迫るフランシス。
そんな傍目でも分かる彼の浮かれ顔を見ながら、カイルを含めその場の全員が心の中で呻いたという。

この悪魔め、と。

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