scene 4:戦慄のブルー

先生から女子の制服を渋々受け取り、カイルは今日何度目になるか分からない溜息を吐いた。
まあ、覚悟は既に決めたのだ。
自分は、自分のするべきことをするだけ。
…しかし、ちょっと待ってほしい。
これから自分がするべきことは、他の面々にも解っている筈だ。
なのに、何故、
全員、教室から退出する気がないのだろう?

そう、出るつもりがない。
幾ら待てども、誰もその場を動こうとしないのである――そこに居るべき理由など有ろう筈も無いのに、だ。
これはもしかして…自分に衆人環視の中で着替えるなんて恥ずかしい真似をさせようということだろうか。
厭な雰囲気は未だ鈍らない彼の直感に最悪の可能性を指し示し、カイルは制服を手にしたまま色を失った。

そんな彼に救いの手を差し伸べたのは、やはりというべきか、彼の大切な人だった。

「ねぇみんな、ちょっと、お外行こう、お外」
純真ながらも――いや、それだからこそか――人を動かすその言葉で、彼女は他の面々の背中を押す。
少女2人は少々口には出し辛い不満を抱えつつも、教室の外へと出てくれた。
しかし「見られりゃラッキー」程度の2人に対して「見るのは計画の一部」だった人は素直に出てくれる筈もない。
同じ男なのだ、見られて何を恥ずかしがることがあろうか――。
そんな理屈と教師としての立場を楯に、先生は最年少生徒が言葉の裏に発する無言の圧力を老獪にスルーしていた。

だが、恋する乙女は時として凄まじいパワーを発揮するものだ。

「よいしょっ!」
このエロ教師が自ら率先して動く気がないことを見て取った彼女は、実力行使に出た。
突然、彼の背中側から渾身のぶちかましを敢行したのである。

「ぅを!?こ、こらアロエ、止さないか」
40cm下の背後からいきなり自分を教室の外に押し出そうとする応力を見舞われ、フランシスは慌てふためく。
しかし、足を踏ん張って止まろうとしても、この非力な筈の女の子を止めることができない。
それもその筈、今の彼女からは物理的パワーを覆し得るような、何やら途方もないプレッシャーが滲み出ていたのである。
2人の身長が逆だったなら、フランシスは恐らく首根っこを引っ掴まれて文字通り教室からつまみ出されていただろう。
結局、殆ど何の抵抗もできないまま、フランシスは電車道一本で廊下へと追いやられた。
只今の決まり手は送り出し、送り出してアロエ山の勝ち。

プン、と頬を膨らませたアロエの唐突な行動には面食らったが、ともかく、彼の着替えを邪魔する厄介者は排除された。
環境を整えてくれた彼女に感謝しようと、いつもの微笑を向けたカイル。
だが、次の瞬間――彼の笑顔は凍り付いた。

教室から出る間際、アロエは笑っていた。
しかしその笑みは、彼が知っている無垢で爛漫な普段の彼女のそれではなかったから。
カイルの温顔を一瞥した瞳に宿る色は、嘗て無いほどに妖艶で――
喩えるなら、小悪魔…いや、どちらかといえば夢魔(サッキュバス)のそれに近いだろうか。
そして、彼女の表情は、彼の直感に明確なメッセージを伝えてきた。
 

見ていいのは、あたしだけなんだから――。
 

ガララララ…バタン。
そんなアロエによって閉じられた教室のドアの音で、カイルは我に返る。
…。
彼は、それはそれは深い溜息を吐きつつ、自分と彼女の関係を見つめ直すべきかちょっと考えたという。

そんな気力を萎えさせる思考を振り払うように、もう一溜息。
そうして漸く、カイルは改めて自分のするべきことに取り掛かった。
襟に括られた棒タイを解き、襟首から始めて制服のボタンを順に外していく。
服が肌蹴る毎に、シャツとその中に隠されている引き締まった肉体が露になっていき――
最後のボタンを外し終わった時点で、反射的に背中を向けていた廊下側を振り返ってしまうカイル。
…誰も居ないし、覗いてもいない。
疑心暗鬼になっている自分を苦く思いつつ、彼は自分の制服を脱ぎ捨て、椅子に引っ掛ける。
本来なら脱いだ服を整えてから新しい服を着るのが常なのだが、今は取り敢えず、自分の身を何らかの形で覆いたかった。
一瞬躊躇したものの、彼は与えられた制服――女子用――に袖を通し、羽織った。

見た目にはそんなに違わないように見える男女の制服だが、着てみると細かなところで結構な違和感がある。
やはり、男性・女性本来の体形に合わせた構造になっているのだな、と改めて感心する。
男女逆の留め位置であるボタンに戸惑いつつも、制服自体はちゃんと着られた。
リボンの結び方がどうかな…と思ったのだが、男子の棒タイと基本的に一緒だろうという読みで結んでみる。
アロエを始めとした女子のそれを頭に思い描きつつ、長さを整えてみると…読み通りというべきか、想定通りの仕上がり。
こうして、上半身は女子、下半身は男子という不気味な構図の生徒が出来上がった。

…違うでしょ。

律儀にセルフツッコミ。
そう。
今の段階でも胸のリボンに大きな抵抗があるが、こんなものは序の口である。
これから、この着替えにおける最大の難関(精神面で)に挑まねばならないのだ。

改めて、女子生徒と男子生徒の最大の差異…スカートを手に取ってみた。
よもや自分がこれを装着することになろうとは…と、一瞬涙に暮れそうになる。
…が、深く考え始めると思考がネガティブな方向に転がってドツボにはまってしまう。
こういう時に大事なのは、勢いだ。
目を瞑り、ズボンを穿いたまま、同じ色のスカートを腰の位置まで一気に持ち上げ、ホックを留める。
何だかプールの着替え寸前みたいな格好になったが、そのままでいるわけにはいかない。
けど絶対、目は開けられない。
目を開けたが最後、自分がどんな変態的なことをしてるか思い知らされそうな気がしたから。
ベルトを外し、チャックを下ろし、ズボンを足から抜き取る最中、たくし上げたスカートの中に手を突っ込んだままなのだ。
無理もなかろう。

下半身に装着されたのが下着とスカートだけになった瞬間、足元から這い登ってくる寒気に身震いした。
これを着ける人はこんな感覚にいつも耐えてるのかと思うと、世の中の女性に喝采を送りたくなる。
とはいえ彼には、その心許ない股下を補うためのアイテムが同時に用意されていた。
白いタイツである。
布地は薄くても透けないこのアイテムには、3つの意味合いがあった。
まず、今述べた、股座の違和感を軽減すること。
次に、脚を完全に覆うことで、その辺りの男性的特徴を隠蔽すること。
そして、万が一スカートの中を覗かれても、下着その他が見えないようにすること。
これさえあれば、パンチパーマの小男でもヒーローショーで女性役を演じることさえ可能だ――。
そんな、どこから入手したのか分からないようなトリビアと共にフランシスから手渡されたものだ。

…実は、フランシスとしては下着に至るまで女性用に統一させようかとも考えていたらしい。
無論、どうやって入手するのかという問題と、どうやってカイルに装着させるかという問題があるわけで。
入手は…そのまあ、どうにかしようと思えばできなくもない。
が、彼が拒絶する可能性大であると考えるに、それは止した方が良かろう…という先生の裏の打算を知る者は誰もいない。

引き続き固く目を閉じたまま、カイルは手探りでそれを手にした。
だってこれも、一歩間違えればカッコ悪いラクダの股引状態になることは容易に想像できるから。
間髪入れず、寒い日にズボンを穿き替えるように、立ったままで素早く足を通す。…通す。……なかなか通しにくい。
何しろ、タイツというのは身体にピッタリとフィットする構造になっている。
そんなものに、下腹部から靴下状になったつま先まで足を突き入れねばならないのだ。
片足立ちしつつ穿こうとしたカイルだったが、締め付けるような布地の抵抗に遭って上手くいかない。
取り敢えず右足を突っ込んで、無理矢理奥までねじ込む。
中腰で、そのまま穿き終えようと左足を上げ、タイツの中に入れた瞬間…体勢に偏りが生じた。

「わ、わわっ」
ツルツルしたタイツの布地と床は、それに耐えるだけの摩擦力を生み出すことができなかった。
彼の身体は一瞬宙に浮き、ドシン、という衝撃音と共に尻から無様に落下した。

「痛たた…あ」
着地点であるヒップの痛みに顔を顰めながら、つい、目を開けてしまった。
そして、何と間の悪いことか。

カイルの瞳に映ったのは、一人の少女だった――。

その少女は、見事な尻餅をついていた。
まるで、遅刻寸前だからとパンを咥えて走ってたら運命の人とぶつかって転んだかのような。
制服の上半身はさほど乱れてはいないが、下は凄いことになっていた。
内股で崩れた足には、半ば脱ぎかけのような白いストッキング状のものがまとわり付いていて。
黒いスカートは捲れ、それが隠さなくてはならない大事な部分からは、下着が見えてしまっている――それも、男物の。

そんなはしたない身なりの蒼髪の少女は、カイルが体勢を立て直し、乱れた服を直すと、全く同じ動作で身嗜みを整えた。
そして彼女はその姿で、彼に逃れようのない現実というものを突きつけていた。

何で、こんな所に姿見なんかがあるの…。
今まで見ないで済んでいた自分の痴態を嫌というほど見せ付けられ、カイルはへたり込み、目頭を押さえて懊悩に喘いだ。

「カイル、大丈夫?何かすごい音が…あ…」
何かと、間の悪いことは続くものだ。
廊下に控えていた彼女たちが、自分の身を心配してくれていることは分かっていた。
だが、その扉を開けることだけは勘弁してほしかった。
自分にはまだ足りないものがあったから。

「「「「…………」」」」
そう。
彼女たちの珍奇(若しくは期待)の視線に耐えるだけの、心の準備が。

教室外からの目線が、揃ってカイルの顔とその下の女子制服を行ったり来たりする。
その度にカイルの頭には、まるでポンプで吸い上げられるように血が上っていく。
最早、頬を赤らめるなどというレベルではない。
今や彼の顔面は、溶鉱炉から取り出された直後の金属を思わせるような色と熱を呈していた。

「か、可愛い〜〜〜〜〜!!」
真っ先に反応して教室に入ってきたのは、ルキアだった。
クラス随一の英知と整った紅顔、温和さと男らしさを兼ね備えた魅力的なクラスメイトが、愛らしい女の子に変貌した。
しかも、それがまた似合ってる――当人の意識はともかく、客観的な目線からして――ときてるから堪らない。
組んだ両手を左の頬に当て、彼女は子供の頃に新しいお人形を宛がわれた時のような気分で、ご機嫌な笑みを零した。

「こ、これが…カイル…君…?」
彼女に遅れて近寄ってきたクララは、未だ信じられないという顔つきだった。
如何なる時も平穏を失わない筈の秀麗な男子が女子の制服を着て、まるで童女のようにまごまごしているのだ。
奇妙な感覚に襲われるのも無理はないと思う。
けど、今までの印象が壊れるから、できれば涎は拭いてほしい。

(フフフ…素晴らしい…素晴らし過ぎる…)
ただまあ、涎ぐらいだったら可愛らしい方なのかもしれない。
鼻から紅いものを滴らせつつ、この上なく締まりのない表情を隠そうとすらしない人が後ろにいたので。
ファンが見たら泣きますよ、ホント。

そんな中、あまり浮かない顔をした少女が一人。
自分の想い人が、先生の片棒を担がされた自分の説得が元で、恥ずかしい目に遭わされているのだ。
玩具を見るような、他人が彼に向ける注目は、彼女にとって決して快いものではない。
フランシスを追い出すというさっきの行動も、元はといえばそんな衝動に駆られてのことだった。
…その後のあの嬌笑は、衝動がちょっぴり暴走しちゃった結果ということで。

「カイル…お兄ちゃん…」
ともかく、アロエは申し訳なさのあまりしゅんとしたままだった。

そんな彼女の曇り顔に、カイルはいち早く反応する。
アロエの気落ちした顔は見たくない、という行動原理は、こんな時であっても彼を動かすことにやぶさかではない。
外見がどうなろうと、彼は彼なのだ。

「大丈夫ですよ、アロエさん…」
先程よりも若干落ち着きを取り戻し、しかし未だ赤い頬ゆえに目は合わせづらいまま、カイルは彼女に呼びかけた。

「これは僕が望んだことです…アロエさんに非はありませんよ。ちょっと恥ずかしいですけど、これぐらいなら…」
無理をして、少しばかり強がって見せるカイル。
臨界点ではあるものの、ここまでならば自分はどうにか耐えられる。
それをアピールすることで、彼女に気に病まないでもらおうと思ったのだ。
心の傷を隠した彼のその態度は、アロエの表情から暗さを除き去るに足るものだった。

が、そこに、

「さぁ、最後の仕上げがまだ残っているぞ」
背後から、傷に塩を擦り込む冷徹な一言が投げ入れられた。

「…え?」
血の気が引くような思いで振り返るカイル。
そしてそこには、先程までのにやけ面をいつもの氷の仮面で隠した先生の顔があった。

「さ、最後の…仕上げ?」

「当然だ。人間の注目が最も集まるポイントは、頭部なのだ。ここに手を加える必要があるだろう。
それともカイル、君はその顔のまま出場して、バレない自信があるとでも言うのか?」
さも当たり前といったフランシスの言葉に、己が悪夢は未だ終わってはいないことを悟り、カイルは戦慄を覚えた。
そして、

「さて皆…カイルを魅力て…ゴホン、女にカモフラージュするために、協力してくれるな?」
ニタリ、という擬音が聞こえそうな笑みと共に、女性陣に誘いかけるフランシス。
話題が変わった途端に溶け去ってしまうのが、先の怜悧な表情が仮面である所以である。
それに対し、

「もっちろん!!」
「分かりました〜」
「はぁ〜いっ!!」
向日葵のような笑顔で、下心がありありな先生の誘いに揃って乗る女の子3人。
何故なら、その言葉が『実際にカイルを好きにいじれる』ことを意味するのを知っているから。
つまり、彼女達にも下心がありありなわけで。
ていうか、アロエもかよ。

(た、助けてくださぁい…!!)
彼の哀れなる魂の絶叫は、蒼い闇の中に掻き消され、誰の心にも伝わることはなかった。

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