scene 2:茶色の瞳に映るもの

所変わって、ここは図書室。
山と収められた知識の宝庫たる書物に囲まれ、独特の静けさに心地よさを感じられる場所。
その長机の一角、木製の椅子に腰掛けて読書に耽る青年が一人。
長めの蒼い前髪の隙間から、細められた目でレンズ越しに文面を追うのは、ご存知カイルである。

彼の象徴ともいうべき、平穏な微笑を湛えた細面。
不幸とは無縁であると主張するかのような表情は、彼が背負った痛ましく暗澹とした過去など微塵も感じさせない。
同時にその顔は、自分の運命を知らないことがどれほど幸せかを教えるものでもあった――。

「おや?」
1冊読了し、何気なく目を上げたカイルは、遠くからの視線を感じた。
座った自分の目線と同じぐらいの高さから投げかけられるそれは、彼にとって馴染み深いもの。
だが、遠距離からチラチラこちらを窺うだけというのは、あまりないことである。

「どうしたんですかアロエさん?」
それに違和感を覚えたカイルは、視線の元へ声を掛ける。

「ッ!?」
見つかった。
まだ、心の準備ができていないというのに。
どうしよう…。
見れば、彼の優しい眼差しは寸分狂わず自分をサーチし、網を引く漁師のように自分を手繰り寄せている。
全て、いつも通り。
でも、今ばかりは彼のその優しくも鋭い関心が恨めしい。
とはいえ、彼を目的としてここに足を運んだのだし、遅かれ早かれこの瞬間は来たのだ。
アロエは仕方なく、彼の許へひょこひょこと歩み寄った。

「あ…こ、ここにいたんだねカイルお兄ちゃん」
彼を前にして、何か言わないと…と思った挙句口にした言葉は、自分でも情けないほどその場しのぎだった。
だが、彼はそんな質問にも親切丁寧に答えてくれる。

「ええ、今日は読みたい本がありましてね。時間もあるし、こうしてゆっくりしてたんですよ」
勉強熱心なカイルであるが、今日は学習の為ではなく、純粋に読書を楽しむ為にここにいたらしい。
手元に置かれた本も、それが嘘でないことを物語るタイトルのものばかりだ。
『趣味悠々 男の食卓』
『落語 目黒のさんま』
『植木鉢の神秘 盆栽』
随分オジン臭…もとい、渋いタイトルが揃っているが。

「ところで、アロエさんは何か探しものですか?」
早速、本筋に話が及んだ。
これでは、心を落ち着かせる間などない。

「え!?ぁ、あぅ…うん、ちょっとね」
慌てて誤魔化しの言葉を並べるが、それすらもしどろもどろ。
はぐらかした言い方は下手な使い方だと時間を稼ぐには逆効果なのだが、そんなことを考える余裕など皆無である。

「僕も丁度暇でしたから、良ければ手伝いますよ。どんなものを探してるんです?」
そんなうろたえ気味のアロエを見て、カイルは彼女の探し物のサポートを申し出た。
勿論、彼女が探しているのは自分自身だということなど知る由もない。

「や、あの、だ、大丈夫!探してるものは見つかったの」
アロエはそう言って、すぐさま自分の口にした言葉を後悔した。
まるで、彼の親切を突っぱねたようになってしまったから。

「あぁ、そうでしたか…すみません、余計な事を言いましたね」
現に、カイルはそう言って、アロエの邪魔はしない、という態度になってしまった。
それでは、困る。
でも、アロエの内には有効な策などありはしない。

「…」

「…」

「…」

いきおい、こうなる。

「…あの」

「え?」

「そんなに見られると、その…困るんですが…」
女の子に『もじもじ落ち着かない仕草でチラチラ流し目攻撃』をされて平然と本が読めるほど、カイルの神経は太くない。
その相手がアロエとなれば尚更である。

一方のアロエは、未だ心の整理を付けかねていた。
自分がしなければならないことは分かっている。
ただ、それに踏み出すだけの勇気が、自分にはない。
そんなもどかしさが彼女を困惑させ、普段は純粋ながら鋭敏な思考を鈍化と混乱へと追い落とす。
余った制服の袖を握り込んで動揺を抑えつけるのが精一杯で、とても何か言える状況ではない。

暫くそんなアロエの様子を見ていたカイルは、事情は分からずとも彼女が重圧を感じていることを感じ取った。
彼の思考は即座に、その目標をアロエの救済に切り替える。
気楽な読書でアイドリング状態だった彼の頭脳は、人助けという課題を前にして俄かに回転数を上げる。

「アロエさん…もしかして、僕を探していたんですか?」
カイルは、彼女にそっと問うた。
ハッとして彼を見やるアロエ。

「何か言いにくいことを頼みに来たみたいに見えたんですけど…気のせいでしょうかね」
本気モードの彼の洞察力は、エスパーかと思えるような先読みの力を彼に与えていた。
迷っていたことをズバリ言い当てられ、アロエは肯くしかない。
カイルお兄ちゃんには、自分の逡巡など全てお見通しなのだ。
それでも、言い出せない。
彼が言いやすいように手助けしてくれていること――それが逆に、アロエの言葉を喉の奥に繋ぎ止めてしまう。

先程の計画を知らされたとき、

『いいかアロエ…この計画の成否の鍵を握っているのは、君なんだ。しっかり頼むぞ』

そう、フランシスに両肩を掴まれて特別任務を言い渡された。
だが、それは自分の大好きな人に相当の無理を強いることを意味していた。
全く気乗りしなかったが『優勝したい』と公言したのは自分だけに、断ることもできなかった。
大事な大会の優勝を取るか、大事な人への気持ちを取るか――深いジレンマに苛まれるアロエ。
 

(…あぁもう、じれったいんだから2人とも!)
(ちょ、ちょっと落ち着いてルキアちゃん…)
(落ち着けないわよ!パッと言って楽になっちゃえばいいのに!)
(言って楽になる部類の話じゃないから…とにかく今は我慢して…)
そんな2人を、図書室の入り口で扉に隠れながら残る当事者2人が覗いていた。
いざという時アロエをフォローする為、と密かにフランシスから遣わされた両名であるが、どう見ても野次馬である。
しかもルキアは、なかなか進展しない2人の会話に業を煮やして、こっそり来たのにその場へ乱入せんばかりの勢いだ。
彼女を宥めながら、クララは特攻天女のルキアには隠密行動が不向きであることを改めて認識した。
 

一方、外野2人の密かな騒ぎをよそに、未だ痛々しい沈黙に支配されていたアロエ。
そんな、言うべき台詞が紡ぎ出せない彼女の様子に、カイルは過去を重ね合わせていた。

あの日も、今日と同じような放課後。
机にそっと忍ばせられた手紙に誘(いざな)われて足を運んだ校舎裏の木陰に、待っていた彼女。
強烈な衝動と拒絶への恐怖、そして極度の緊張のせめぎ合いで、身を震わせ動けなくなっていた。
言葉と態度で軽く背を押してあげると、堰を切ったように彼女の口から溢れ出る、自分への慕情。
気障と思いつつも、答えの代わりに抱き締めて、自信無げな言葉と零れ落ちる嬉し涙に蓋をした。
そう、2人が互いへの想いを確かめ合い、共有した、あの日を――。

カイルにとっては、胸の奥と頬を熱くさせる光景。
そして、全国のアロエファンにとっては、カイルに最低でも256人は刺客を送り込みたくなる光景である。

過去の幻影に背を押され、カイルは椅子からすっくと立ち上がる。
そのまま、曇った彼女の目線まで自分の目線を下げると、

「大丈夫ですよ。僕はいつでも、アロエさんの味方です」
優しい言葉と共に必殺の『ふんわりお日様的女殺しスマイル』を炸裂させた。
半径20m内のマイナスイオンを一挙に増大させ、同時に和み系ボイスを乗せた微笑で解きほぐした相手の心を鷲掴みにする。
そのチャーム効果は、十数m離れた扉の裏にいるルキアとクララまで流れ弾でメロメロになるほどの威力。

それでも翳が拭いきれないアロエの表情に、彼は最後の一押しとして――

「アロエさんのお願いなら、僕は何だって聞いてあげますから」
切り札を使った。

そう、それは禁断のパスワード。
自分への無条件の命令権をプレゼント――即ちそれは、自らの生殺与奪権を相手の手中に預けるに等しい。
相手への絶対的な信頼がなければ、口にするのは躊躇われる、リスクの高い言葉。
だが、カイルは一点の迷いも持たずに言ってのけた。

それは、彼のアロエへの感情を雄弁に物語るものであると同時に、彼が”勝負”に出たことを意味していた。
そこまで、カイルにとってアロエは、そして彼女の笑顔は大事なのである。

男として、彼のその判断は正しいと言えよう。
…この後に、彼の知らない第2ラウンドが待っている、ということを考えなければの話だが――。
 

――彼女は、本能的にその言葉を待っていたのかもしれない。

「あ、あのね、すっごく大事なお願いがあるの」
カイルの発言が耳に入った瞬間、錆び付いていたアロエの中の歯車は、音を立てて動き始めた。
アロエにとって、彼の言葉は潤滑油か。

「カイルお兄ちゃんにしか頼めないことなんだけど…その…」
回りだした動力系は、アロエの中のあらゆる箇所で繋がっていき、アロエの口に言うべき台詞を押し出していく。

「アロエ達のためにね、あの…えと……ぉ…」
そして、アロエの心の中で、最後のリミッターが解除され…
掌で縮めたバネが解き放たれるように――

「お…ぉ……ぉ………女の子になってッッ!!」

静寂が支配していた図書室の中、全力でシャウトしてしまったアロエ。
…訂正、潤滑油じゃなくて起爆剤でした。
つーかニトロ。

「………………………………………………は?」
カイルが2テラ秒硬直してやっと口に出せたのは、これだけだった。
アロエ、感情大暴走から我に返り、自分がやってもうたことを悟って大混乱。
そして、彼女の様子を扉の影から見守っていたルキアとクララは、揃ってずっこけた。
これは何のコントですか?というツッコミが入りそうな勢いで…。

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