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      白い花・谷間に揺れて


1 江戸末期・多摩川上流

満開の桜の木の下に年の頃十四、五の娘が仰向けに横たわっている。野良着をまとった村人が十数人。

寅次郎「皆、お峰のことを山椒魚みたいだなんて陰口たたいておったが、ほんに気立てのええ娘じゃった」

太吉「ほんにすなおな、ええ娘じゃった」

与助「体の自由がきかんというのに、よう働いとったしな」

寅次郎「それに道端で会ったときなんぞ、かわいい顔でニコっと笑いかけてよう」

太吉「ほんに愛らしいい娘じゃった。それにしても、どうして崖から飛び降りたりしたんかのう?」

亀吉「母親のトメさんが亡なくなってからというもの、喜八っさん、酒ばかり飲んでたからのう」

与助「食べ物も、満足に食ってなかったそうだ」

寅次郎「(山道の向こうをみながら)それにしても庄太たち遅いのう」


2 多摩川に沿った山道。

木々の間に見え隠れしながら、村人のところへ走ってくるふたつの影。

与助「あっ、戻ってきただっ」

寅次郎「でも肝心の喜八っさんの姿がないようじゃが……」

庄太ら、息を切らせながら駆け戻ってくる。

寅次郎「喜八っさんは?」

庄太「ずいぶん捜したけど、見当たらないだ」

寅次郎「い、いったい、どうしたんかのう。仕方ない。ひとまずお咲を家に運んでから、通夜の支度をしよう」

3 喜八郎の家。

山を背に、いまにも崩れそうに朽ち果てた家が一軒、ぽつんと立っている。やぶれた障子、連子窓から
あかね色の夕日が棺の上に斜めに落ちている。つぎはぎだらけの袈裟をまとった僧侶。村人たちが−心に
念仏を唱えている。

そのとき、憔悴しきった喜八郎が庄太らに連れられ戻ってくる。

長兵衛「喜八っさん、どうしてた。たいへんなことになってしもうて」

喜八郎「あ、ああ(うなだれて、おびえた様子)」

長兵衛「とにかく、こちらへ来て座るだ」

喜八郎、棺の中をのぞいたあと、畳に伏し号泣する。

4 十五年まえ。穀物問屋・越前屋の店先を往来する町人。

子供たちのうたう手鞠歌が遠くから聞こえてくる。

忙しそうに立ち働く番頭や丁稚。その中にひとまわり大柄な越前屋の主人、助佐衛門の姿。

5 (たな)の裏。

数棟の土蔵が軒を並べ、辺りに人影はない。

6 土蔵の中。

米俵がうず高く積まれてある。その−角。

好美「♪金木つけわが飼う駒は引きだせず

わが飼う駒を人見つらむか」

好美「この意味わかりますか?(膝の上に本を置いてから、熱っぽい視線を弟の玉美に向ける)」

玉美「……」

好美「実は、このうたの意味、いまだに分かっていないんです。

ただ、このうたは考徳天皇が大和におられるお后、間人皇女さまにお送りになられたものです」

興味深げに身を乗りだす玉美。

好美「そのまえに、考徳天皇ってご存知でしょう」

玉美「大化の改新で有名な中大兄皇子、のちの天智天皇の叔父にあたるお方ですね」

好美「そうです。考徳天皇は都を飛鳥から難波にお移しになった。ところが、六年近い大工事で
新宮をお建てになったにもかかわらず、中大兄皇子さまを筆頭に中臣鎌足以下文武百官、こ
とごとく大和にお戻りになられてしまわれた」

玉美「では、難波宮にはお年をお召しになった考徳天皇おひとり残されたのですか?」

好美「考徳天皇の実子であられた有間皇子さまもお残りになられました」

玉美「それで、天皇のお后であられた間人皇女さまは?」

好美「お后さまも中大兄皇子さまとごいっしょに難波をあとになされました。残された考徳天皇は
寂しさのあまり、大和におられるお后さまを想い、このうたをお詠みになられたのです」

玉美「でも、どうして、お后であられた皇女さままでが?」

好美「おそらく、お若くして行動的であられた中大兄皇子さまとお若くてお美しい間人皇女さまは、
ご親密な関係であられたのでしょう」

玉美、目を白黒させ、姉の話しが理解できないでいる。

好美「この和歌で、駒をお后の間人皇女に、人を中大兄皇子に置き変えてごらんなさい。それに
見るという形容、つまり見るということは会う、密かに会うことなのです」

玉美「たしか、中大兄皇子さまと間人皇女さまは父親は違っても、兄と妹の間柄だったはずです
けど……」

好美「でも、なにも驚くことはありません。当時、こうした恋愛は、ごく当たりまえのことだった。それ
だけ性に対しておおらかだった。すばらしいことでしょう」

熱っぽい眼差しの好美、身をよじらせ、両手で玉美の手を包み込もうとする。こわばった表情の玉美。

好美「どうしたの。どうして手を引っ込めるの?」

玉美、泣き出しそうに震えている。

好美「分かってちょうだい。私は、あなたがいとおしくてならない」

さらに、すり寄る好美。

好美「あなたには私の気特が……」

玉美「私だって以前から、お、お姉さまのこと……」

好美、弟の手を自分の胸に誘い導く。姉に愛撫されながら、次第に本能に目覚めていく玉美。

一瞬、絹を引き裂くような姉の声。真っ赤なバラにとまった一匹の蜂。(イメージ)

7 翌朝。土蔵周辺。朝もやがいちめんに立ちこめている。

8 越前屋の店先。

忙しそうに立ち働く番頭や丁稚。大柄な体を揺すりながら指し図する助佐衛門。

9 同・蔵の中。

二つの影。好美と玉美。白布の上に置かれた手鏡や白粉。玉美の結綿に結った黒髪が重たげである。

好美「今度はあなたに白粉をして差しあげましょう。きっと綺麗になりましてよ」

少々、ためらった様子の玉美。

好美「(瞳を輝かせながら)ほらっ。ほっそりしたあなたのお顔には、お白粉が一番お似合ってよ」

手鏡に映った自分の顔をのぞき込んで、はにかむ玉美。

次の瞬間、表情を変え、入口の方に視線を移す。

好美「ど、どうしたの?」

玉美「お、おかあさまが……」

好美「おかあさま?」

玉美「ええ、おかあさまが物陰から、こちらを見つめているような気がしたんです」

好美、蔵の中を見まわす。辺りは静まり返っている。

好美「オホホホ……、気のせいですよ。

(険しい表情で)あんなお母さまのことなんか考えなくていいんです」

好美、ふたたび弟の背に手をまわす。

重なりあう影。通風用の鉄格子から差す一条の光。

10 翌日。越前屋の中。

東の空が朝日にほの白く染まっている。忙しそうに立ち働く手代や丁稚。

助佐衛門「今日は晦日だし、堺から荷が届く。皆、気を引きしめがんばってれ」

手代や丁稚「へい、かしこまりました」

、。

助佐衛門「(番頭台に歩み寄り)いまから堀留の松田屋まで行ってくる。よろしゅう、頼んだぞ」

11 山の端に傾いた夕日。暮れ六つの鐘。

蔵の中。白布の上に重なり合う好美と玉美。

しばらくして、鉄扉を開く音。

好美「(着物を手に取りながら)早く向こうの箪笥の陰に隠れて」

二つの影、箪笥のまえで立ちどまる。

お咲「なにか、物音がしたようね」

佐吉「てまえには聞こえませんでした。気のせいでしょう」

お咲「このところ鼠が増えているんで、おそらくその音でしょう」

お咲「鍵はちゃんと掛けたでしょうね」

佐吉「へい」

お咲と手代の佐吉。好美らが隠れている箪笥に歩み寄り、中から緋毛せんを取りだし、床に敷く。

お咲「さあ、しっかり抱いておくれ」

三十路まえの佐吉の筋肉質な体があらわになって、お咲、うっとりとし

た目つきで見つめている。

お咲「いつ見ても立派な体ですこと。オホホ……」

佐吉「冗談はよしてくだせえ」

お咲「冗談なんて、とんでもありませんよ。亭主の助佐衛門に比べりゃ、それこそ月とスッポンですわ。
 それはあの人、商いにかけては見上げたものですよ。でもあの人、私たちのことなど見向きもしない」

12 箪笥の陰。

好美「見たでしょう。虫酸が走るようなあんな男と……。あれがおかあさまの本当の姿なんです」

震えながら、押し黙ったままの玉美。

13 翌日の昼下がり。蔵の中。

白布の上に端座し向かい合った好美と玉美。

黒髪をすいている好美。彼女の明るくはずんだ様子と対象的に玉美の顔色は冴えない。

玉美「(頭をもたげ)お、お姉さま……」

好美「(手鏡から弟に視線を移し)どうしたの?」

玉美「もう、こっそり会うのは止しましょう」

好美、驚いて髪をすく手を止める。

好美「とつぜん、どうしたんです。なにかあったの?」

玉美「恐いんです」

好美「なにが恐いんです?」

玉美「なにが恐いか分からない。ただ、ぼんやりと……」

好美「ぼんやりとじゃ分からない。ねっ、はっきり言ってちょうだい。昨日、あれほど愛してくれたのに……」

玉美「ご、ごめんなさい」

玉美、姉の手を振り払うようにして蔵の外へ出る。

14 同・蔵の中。

格子窓から射す夕日。暮れ六つの鐘。

お咲「遅いわねえ」

しばらくして鉄扉を開く音。佐吉が入ってくる。

お咲「(強い口調で)遅かったわね。暮れ六つの鐘が合図だったでしょ」

佐吉「へえ。旦那さまの言いつけで呉服屋まで行っておりやしたもんで、へい。彼岸会も近いんで、お着物を
新調なさったんです。そんで代金を支払いに」

お咲「そうならそうと、まえもって言ってゆかないと」

佐吉「へえ、わかりやした。今後、気イつけます」

お咲、帯をとき、佐吉が敷いた緋毛せんの上に横になる。野獣にも似た佐吉の荒い息づかい。

15 箪笥の陰に人影。じっとお咲らを見つめている。

玉美「(思わず声をあげる)お、おかあさま……」

佐吉「おかみさん、いま何か聞こえやせんでした?」

お咲「えっ、なにか?」

佐吉「へえ、向こうの箪笥の陰で人の声が」

佐吉、半天をまとい、箪笥の方へ歩み寄る。

佐吉「こ、これは、お坊っちゃま!」

お咲「た、玉美かえ!」

あわてて着物で体を覆うお咲。

お咲「お、おまえ。どうして、こんなところに……?」

目の前に立ちはだかった佐吉から身をかわし、土蔵の外へ飛び出す玉美。

お咲「こ、これっ、玉美、お待ちなさい」

呆然と立っている佐吉。

お咲「佐吉。は、早く追いかけるんです」

佐吉、あわてて蔵の外へ飛び出す。

16 屋敷裏。

土蔵の屋根より高い木がおい繁っている。

裏門へ出て、四方をキョロキョロ見まわす佐吉。人影はなく、日はまさに山の端に沈みつつある。

17 同・蔵の中。

佐吉「残念ながら見失いやした」

お咲「(声を荒げ)見失ったじゃすみませんよ。一刻も早く見つけだして蔵に閉じ込めるんです」

18 越前屋の屋敷内。

辺りはすっかり暗くなっている。

お咲、屋敷内を歩いては、それとなく夫の様子をうかがいながら、佐吉

の帰りを待っている。

助佐衛門とお咲、廊下でバッタリ、顔を合わせる。

助佐衛門「玉美の姿が見当たらないようだが……」

お咲「ええ。私もちょうど、探していたところなんです」

助佐衛門「屋敷からほとんど離れたことのない玉美が、こんなに暗くなるまで屋敷に戻らないなど、
 かってなかったことだ。番頭に頼んで屋敷内はいちおう、探したんじゃが」

お咲「何事もなければ良ろしいんですが……」

助佐衛門「ところで、佐吉の姿も見えんようじゃな」

そこへ佐吉が戻ってる。

佐吉「申し訳ございません」

助佐衛門「番頭にも黙って、いままで何してた?」

佐吉「(頭を掻きながら)呉服屋から戻り、お庭の掃除をしてましたところ、小銭入れを落としまして。
 そいでもって、あっちこっち捜しておいやした」

助佐衛門の怒った形相に、佐吉あわてて、
佐吉「い、いえ。小銭と申しましても、田舎に一人残したおっかさんにと、こつこつ貯めたもので
 ございます。二度と手前勝手なことはいたしませんから、どうぞ、ご勘弁ください」

助佐衛門「ところで、こんな暗い中。見つかったのか?」

佐吉「(ニヤリとして)へ、へい」

助佐衛門「それにしても、こんな暗い中を、よう捜し出したな」

佐吉「今夜は月も出て、路地はそれこそ鏡の面のように明るうございます。おかげさまで、難なく
 探し出すことができました」

助佐衛門「ところで、玉美を見かけなかったか?」

佐吉「おぼっちゃまが、どうかなすったんですか?」

助佐衛門「玉美を見かけなかったか、聞いておる」

佐吉「あっしがですか。知りやせん」

助佐衛門「これからご番所へ行き、玉美がいなくなったから旨、伝えて来い。急いで、よいな」

佐吉「へい、かしこまりました」

佐吉、屋敷の外へ去る。

19 同・屋敷内の廊下

助佐衛門「佐吉のやつ、三十近いというのに、まったく新入りの丁稚より気がきかん」

お咲「あなた。そんなにお怒りになってはお体に毒でございますよ」

20 助佐衛門の部屋。

床柱を背に座っている助佐衛門。付書院に目をやったり、鴨居に目をやったり、落ち
 着かない様子。そばには、お咲が座っている。

助佐衛門「佐吉のやつ、遅いのう」

亥の刻を告げる四つの鐘。そのとき、あわただしく廊下を駆け上がってくる音。障子の
 方に目線を移す助佐衛門とお咲。

佐吉「だ、旦那さまっ。た、大変なことになりましたっ」

助佐衛門「どうした?」

佐吉「お城の濠が荒川にぶつかる辺りまで行きましたところ、十三、四になる男子の死体が
 荒川に浮いていたという話しを耳にしやして、さっそく現場にかけつけました」

助佐衛門「んで、どうだった?」

佐吉「まことに残念ですが……」

助佐衛門「息子だったんだな」

佐吉「へ、へい」

呆然と部屋の一角を見つめる助佐衛門。

助佐衛門「お咲、急いで外出の用意を」

21 店先の路地。銀白色の月が燦然と辺りを照らしている。

助佐衛門とお咲、佐吉、三人の影。

22      一刻のち。助佐衛門の部屋の前。燭台の明かりが内側からほのかに障子を染めている。
辺りを見まわしたのち、廊下から助佐衛門の部屋の中の様子をうかがう好美。

23 同・部屋の中

助佐衛門「与力、惣兵衛さまのお話しでは、玉美の死因には疑わしい点がいくつかあるとのことだ」

お咲「疑わしい点、と申しますと?」

助佐衛門「検視の結果たが、肺臓にはほとんど水が入ってなかった。つまり溺死じゃない。荒川に
 入るまえに、すでに死んでいたんじゃないか」

お咲「まあ!」

助佐衛門「それにきょうの夕刻、荒川の土手を、なにかを筵でくるんで、重そうに歩いている男を目
撃した者がいるそうな」

 そのとき、部屋の外で物音。助佐衛門、立っていって障子を開く。

廊下にうずくまって泣いている好美。

好美「(蚊が鳴くような声で)玉美は亡くなったんですね」

24 四ヶ月後、お咲の部屋。

お咲と娘の好美が向かい合って座っている。蝉しぐれ。

お咲「少々気になることがあって、来てもらいました。

実はあなたのおなかのことです。何かあったんですか?」

黙したまま答えようとしない好美。

お咲「嘘をついても、かあさんには分かりましてよ」

好美、依然としてうつ向いたまま。

お咲「おまえも強情な子だねえ。親のいない子を生んだとあっては越前屋の暖簾にかかわります。
それにおまえ自身、世間さまからどれほど恥ずかしめを受けることか。さあ、本当のことをお話しなさい」

好美、突然笑いだす。

お咲「まあ、この子ったら……。なにがおかしいんです」

好美「だって、そのまえに、こちらからおかあさまにお聞きしたいことがあります」

お咲「なんです?」

好美「おかあさまの不倫についてですわ」

お咲「まあ、この子ったら!」

好美「四ヶ月まえ、荒川に玉美が浮いていました。その前日、おかあさま、蔵の中で何をしておいででした?」

険しく表情を変えるお咲。

好美「いえ、四ヶ月まえのその日に限ったことではありません。その前日も、それに玉美が亡くなったあとも」

お咲「……」

好美「念のため申し上げておきますけど、おかあさまを問いつめようなどと、これっぽっちも思っていません。
 むしろ、だまされているおかあさまを哀れに思っています」

お咲「だます。あたしを……。だ、だれが?」

好美「お答えするまえに、ひとつお願いがあります。佐吉を殺して欲しいんです」

お咲「佐吉を!。そんなこと。おまえ、本気で……」

好美「ホホホ……。本気ですわ。おかあさま、玉美がだれに殺されたか、ご存知のはず。玉美が殺された話しは
迷宮入りになったとでもお思いになってらっしゃるかも知れませんけど。

ところが昨夕、おかあさまと佐吉が蔵の中で話しているのを耳にしたのです。もっとも、以前から気がついて
 はいましたけど……」
お咲「お、おまえという子は……」
好美「おかあさま、佐吉を殺さなければなりません。それも、自分が巻いた種です。ご自分の手で
殺るのです。
 シナリオはすでに、私が書いています」

お咲「ああ。もう止してっ。……。なにもかもおかあさまが悪かった。おまえが玉美を愛したように、おかあさまは
 佐吉がいとおしいのです。だ、だから、あんな男だけど、どうか許してやってちょうだい」

好美「おかあさまの目は、醜い佐吉のためにガラス玉にお変わりになられた。佐吉に騙されていることさえお分
 かりになってらっしゃらない。将来、佐吉はこの越前屋を乗っ取るつもりなのですよ」

お咲「ど、どういう意味ですの?」

好美「昨日の夕刻でした。おかあさまと佐吉が蔵を出てから、半ときほどたったころでした」

25 (回想シーン)前日の夕刻。蔵の中。

佐吉、下女のお菊を抱いている。

佐吉「息子が死んでからというもの、旦那も老いてしもうた。あれじゃ、そう長くもあるめえ。それに、おかみさんは
 色仕掛で手なづけてあるし」

お菊「ホホホ……。もう少しの辛抱ね」


27 ふたたび、お咲の部屋

お咲「佐吉とお菊が……。分かました。佐吉の様子をさぐったうえで、もしそれが本当なら殺りましょう。明後日ですね」

好美、お咲の部屋を出る。娘が出ていったふすまの方を放心したように見つめているお咲。

28 二日後。同・蔵の中。暮れ六つの鐘。

木に登り、通風用に設けられた鉄格子から蔵の中をのぞいている好美。

辺りの様子を窺いながら佐吉が入ってくる。しばらくしてお咲が。

佐吉、いきなり、お咲を抱こうとする。体を、うしろに反らすお咲。

お咲「きょうは、あなたにお話ししたいことがあります」

佐吉「急に改まって、いったいどうしたんです」

お咲「実はあなたとのお付き合い、今日限りにしたいと思って。

 と申しますのも、このままこうした関係を続けていますと、そのうち必ず、だれかに見つかってしまいます」

佐吉「見つからないから、こうして一年以上も続いているじゃねえですか」

お咲「本当に私のことを思ってくださるのなら、どうか意を汲んでくださいまし。私のわがままと思って、このとおり」

土下座して哀願するお咲。

佐吉「いや、そうはいかねえ。どうしてもっておっしゃるんなら、あっし

にも考えがあります。あっしとの不倫、それに息子さん殺し、それを知っていて隠していた。ただじゃすみませんぜ。

あっしには親も兄弟もいねえ。どうなったってかまわん。だが、家族

も地位もあるおかみさんにとっちゃあ、そうはいくめえ」

しばらく、沈黙ののち。

お咲「わかりました。私が間違っていました」

佐吉「分かってくださればそれでいい。あっしも昔から気の短けえのが欠点でして」

お咲「もとをただせば私がただ、臆病風に吹かれたまでのこと」

体吉「じゃ、いまの話はなかったことにして……」

お咲「(急に思いたしたように)あ、そうそう、今朝あなたのために心をこめて作ったお饅頭がありました。せっかくです
 から気分直しに召し上がってくださいな」

佐吉「うめえ、さすがおかみさんだ」

佐吉、二、三個口にした後、苦しそうに顔をゆがめる。

お咲「どうしたんです?」

佐吉「い、いや。晩めしの食いあわせが、ちょいとばかり悪かったようだ」

お咲「この暑さですもの。食べ物には注意しませんと」

佐吉「と、ところで水が一杯欲しい」

お咲、格子窓の方を見やる。好美と目が合う。首を横に振る好美。

佐吉「立ちてえんだが、思うようにならん。おかみさん。ちょ、ちょいと、手を借りてえ」

お咲、佐吉を立たせようとするが、佐吉、よろけて倒れる。

そのとき扉を開く音。白く濁った目を扉の方へ向ける佐吉。燭台を手にした好美、右手には壷を持っている。

好美「苦しそうに、どうなさったの?」

佐吉「こ、これはお嬢さま。食い物に当ったようで、へい」

好美「薄汚れたフンドシもつけずに……。それじゃ、まるで豚がお酒に酔って狂い踊りしているみたいだわ。ひどい
 恰好ったらありゃしない。ホホホ……」

佐吉「豚とはひでえ。いくらお嬢さんでもあんまりだ」

好美「豚がお気に召さなければ、悪魔の饗宴とでも申し上げたらいいかしら」

佐吉「(喉を掻きむしりながら)み、みずっ」

お咲、佐吉の様子にたまりかねて蔵の外へ出ようとする。

好美「どこへいらっしゃるんですか?」

お咲「あまり苦しそうなんで、水を取りに」

好美「でも、南蛮渡来の毒薬。すぐ楽になりましてよ」

佐吉「なにイ。きさま、わしをだまして、毒を盛ったのか」

好美「だましたのはおまえの方じゃないか。女中のお菊とぐるになって母をだまし、弟を殺して荒川に捨てたのは、
 いったいだーれ。それに、この越前屋を乗っ取ろうと企んでいるのはどこのだれなの?」

佐吉「なに?」

好美「いまさら嘘をついてもどうにもならない。せめて、往生際ぐらい極悪人らしくしたらどうです」

佐吉「ヒーッ。あ、あっしが悪かった。み、水をっ……」

好美「ホホホ……。往生際の悪い人ね。あなたも一応は悪人の端くれでしょ」

佐吉「あっしが悪かった。み、水をくれっ」

好美「じゃ、お飲み」

佐吉、好美が差しだした壷に手をのばそうとするが、好美は佐吉の手を振り払う。何度かそれを繰り返したのち、
 好美、壷に入った水を佐吉の頭にかける。

佐吉、床を転がり、しきりに何か話そうとするが声にならない。よだれを流しながら、やがて息絶える。

                                

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