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◆第52章 平安時代の戸籍について◆

みなさん、こんにちは。行政書士の高坂大樹です。今回は少し趣向を変えて、平安時代の戸籍について書きたいと思います。

講談社から出ている「京の歴史と文化」というシリーズの第1巻『雅 王朝の原像』(村井康彦編・平成6年)という本を先日読んだのですが、その中に平安時代の戸籍について大変面白い論文が収録されていました。瀧浪貞子京都女子大学助教授(現在は教授)の「都市の原像〜遷都に見る社会構造と人々の変動」という論文で、戸籍の問題はその中の「京戸の生態」という項に書かれています。

「京戸の生態」の「京戸」とは、京(みやこ)に登録している住民の戸籍のことです。この京とは平安京に限らず、それ以前の平城京なども全て京なので、それぞれの戸籍も京戸と言いました。瀧浪先生の論文はこの京戸に関するものですが、内容の紹介に入る前に、まず戸籍に付いての一般的な解説をから始めましょう。

日本人にとって戸籍はごくごく身近な制度で、日本国民のほとんど全員が戸籍に記載されています。しかし、日本に住んでいる外国人は、たとえ日本人と結婚していても戸籍には記載されません。外国人が戸籍に記載されるのは、日本に帰化して日本人になった場合です。戸籍は家族単位で国民を把握することが目的ですが、日本人と外国人とを区別する役割も持っているのです。戸籍が文献に出てくるのは、『日本書紀』の欽明天皇元年(540)8月の条に「秦人や漢人など外国出身の人々を集めて国や郡に配置し、戸籍に組み入れた。秦人の戸数は全部で七千五十三戸あり、大蔵掾(の役職に付いていた秦大津父)を秦伴造(秦氏の長)とした」という帰化についての記事が最初ですが、この時代から戸籍は外国人と関連して問題になっていたことがわかります。

戸籍は中国が起源で、唐の時代(618〜907)に確立し、中国から日本を含む東アジアに伝播しましたが、現在も戸籍制度が行なわれているのは、日本と日本の植民地であった韓国と台湾のみで、発祥の地である中華人民共和国にも戸籍制度は行なわれていません(戸口簿という少し異なる制度はあります)。世界では個人を単位に登録する制度がほとんどで、その是非はともかく、家族が単位の戸籍制度は現在では特殊な制度と言えるでしょう。

日本において戸籍制度が本格的に施行されたのは、天智天皇9年(670)の「庚午年籍」だとされています。孝徳天皇元年(645)に蘇我氏が打倒され、中大兄皇子(後の天智天皇)中心の政権ができ、翌年新政権の方針として改新の詔が発せられました。いわゆる大化の改新ですが、改新の詔の第3条に「初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造る」とあり、国として正式な制度として徐々に整備されて行きます。詔には「造る」とあり、その時点でできていたかのように書かれていますが、実際に制度が完成するのにはもう少し時間がかかり、670年の「庚午年籍」あるいは690年(持統天皇4年)の「庚寅年籍」が作られるまで待たなければならなかったようです。詔の中にある「班田収授」とは、教科書で見覚えのある方も多いと思いますが、戸籍に基づいて国が民に田(口分田)を与え、その代わりに租という税金(収穫の3パーセント程度)を収めさせる制度です。民に田を与えと言っても、この時代、土地の私有は禁止されており、すべて公の所有とされていたので、口分田はその民が死ぬと家族が相続するのではなく、国に返却することになっていました。また、租以外にも庸・調、雑徭(労役)という税があり、それらの課税台帳となるのが「計帳」で、これは戸籍を基に作られていました。

さて、戸籍の解説はこのぐらいにして、瀧浪論文の紹介に戻りましょう。平城京ができたのは710年(和銅3年)で、途中に数年間恭仁京の時代を経て、784年(延暦3年)に長岡京に遷都されました。長岡京は色々あって10年しか続かず、794年(延暦13年)には平安京に遷都されました。このあたりの歴史は「なんと(710)きれいな平城京」や「鳴くよ(794)ウグイス平安京」などの語呂合わせで有名です(ちなみに長岡京は「名は知(784)らぬ長岡京」と覚えます)。遷都に際してはほとんど何もないところに新しい都が造られるので、新都には最初は住民が存在しませんが、発展して行くにつれて、旧都からの移転者や新しく都の住民になった者たちで徐々に人口が増えて行き、反対に首都機能が移転した旧都は少しずつ寂れて行きました。平城京の人口は約10万人、初期の平安京の人口も約10万人と推定されています。今考えると小都市の規模ですが、当時としては世界的な大都市でした。平安京への遷都に関して記録した『日本後紀』(一部しか残っていないのでそれを抜粋した『日本紀略』)に、遷都の前年に班給使を派遣し、新京の宅地を班給したと書かれており、皇族・貴族から一般庶民まで一定の基準に従って宅地が分配され、新都に移住したことがわかります。

しかし、この時代は現在のように移動の自由がありませんでした。同じ日本国内でも勝手に引越しすることはできず、正式に移転するには公の許可が必要だったのです。国内においても言わば入国管理と同じようなことが行なわれていたわけです。新しく戸籍に登録されることを編戸、移転して戸籍から抹消されることを絶戸と言い、京の戸籍に登録することを京貫と言いますが、『日本三代実録』という歴史書には、平城京から平安京への編戸や絶戸の記事が、『日本後紀』などの六国史には京貫の記事が150件ほど記載されています。

平安京は一挙に全部が完成したわけではなく、遷都した後もどんどん造営が行なわれている建設ラッシュの状態で、街作りのため地方から課役の労働者が数多く動員されていました。また、衛士や舎人などの軍役で上京してきた者もいました。それらの者は戸籍を本貫地(本籍地)に置いたままでやってきて、一時的に指定された場所(つまり官舎)に住んでいました。彼らは言わば合法的な外国人労働者のようなものです。しかし、いくら許可が必要だとしても京畿(平安京と畿内)の方が地方よりも税金が軽かった(庸が免除され、調や雑徭が軽減されていた)ので、合法的な移民だけではなく、勝手に流入してくる人々は存在します。「京戸の生態」によると、戸籍を偽るなどして都に居住する者も少なくなかったそうです。つまり、平安時代にも不法入国・不法滞在・不法就労が行なわれていたのです。もちろん、現在と同じようにこれらの不法滞在者に対しては政府の取締りが行なわれていました。政府の取締りに対して、不法滞在者がみずから出頭するのを隠首(おんしゅ)、官の側が摘発することを括出(かっしゅつ)と言い、そこに仮登録する制度がありましたが、不法に流入してくる者が後を絶たないので延暦19年(800)に平安京では隠首・括出ともに編戸(戸籍登録)を禁止しました。しかし、やがて隠首した者の中でやむを得ない事情が認められる者に関しては編戸が認められることになりました。これは平安時代の「在留特別許可」と言ってもいいかもしれません。この辺りは、時代が変われど社会や制度の発想は似たようなものだという感じもします。

外国人(渡来人・帰化人)も、合法的に京に暮らせる編戸(京貫)を求める人が多くいました。瀧浪先生は次のように書いています。

「京貫とは正規の手続きで戸籍に登録されることをいう。(略)多くは大学(都の学校)での勉学や官途(役所勤め)を目的とする者であるが、渡来人が二十余例にのぼるのも留意されよう。彼らは平安京に一時期でも住んだという既成事実をタテに、個人または家族の単位で京貫を申請し、許されたというものである。」

平安時代の外国人が日本で権利を獲得する戦略は、現代の在日外国人のそれと重なり合う部分が多いことがわかります。

ちなみに、当時の戸籍は6年ごとに作り変えられ、班田収授もそれに基づいて6年ごとに行なわれました。古い戸籍は30年間保存した後廃棄される決まりでしたが、庚午年籍だけは戸籍の原簿として永久保存されることになっていました。ただし、庚午年籍や庚寅年籍は現存せず、現存する最古の戸籍は、正倉院に伝わり、現在は奈良国立博物館に収蔵されている大宝2年(702)の筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡です。戸籍は政府が民に口分田を支給し、税をとるための基本台帳として作られたものなので、律令制が崩壊し有力者の私有財産である荘園制に移行した平安時代後期には作られなくなります。戸籍制度が復活するのは明治5年の壬申戸籍で、それ以降何度か改正されて現在まで続いています。

平成20(2008)年10月1日

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