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◆◆◆メールマガジン国際結婚◆◆◆

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◆第51章 歴史の中の国際結婚(1)◆

みなさん、こんにちは。行政書士の高坂大樹です。本メルマガでは国際結婚をめぐる様々な話題を取り上げていますが、歴史上の人物にも国際結婚をしている人たちが少なからず存在しています。そこで、「歴史の中の国際結婚」と題して、そうした歴史上の国際結婚を紹介して行きたいと思います。第一回は、ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと青山光子(クーデンホーフ光子)の結婚です。

日本人と外国人との国際結婚は、平成18年(最新の統計)に4万4701人(前年比3200人増)と過去最高を記録していて、右肩上がりで増加を続けています。今回は「歴史の中の国際結婚」というテーマですが、大和朝廷の時代の帰化人(渡来人)との結婚はひとまずおくとして、ヨーロッパとの接触が始まった戦国時代、1542年にポルトガル人が種子島に漂着して以降、南蛮人(紅毛人)との国際結婚の記録が残っています。たとえばウィリアム・アダムス。アダムスはイギリス人航海士で、貿易途上で豊後(大分)に漂着し、その後、徳川家康に仕えて旗本となり、三浦按針という日本名を名乗って、御用商人の馬込勘解由の娘お雪と結婚しています(ちなみに部下のヤン・ヨーステンも日本人と結婚しています)。しかし、これらは国籍という観念もない時代のことであり、現在使われているような意味で国際結婚と言えるようになるのは、幕末以降のケースになるでしょう。もっとも、幕末の頃は来日する外国人も少ない上に、結婚というよりは妾(現地妻)という形が中心でした。アメリカの初代駐日公使ハリスと唐人お吉(斉藤きち)、ドイツ人医師シーボルトと楠本たきなどが有名で、シーボルトとたきとの間に生まれた楠本イネは日本最初の女医として知られる人物で、小説やテレビにもしばしば登場しています。

現代に通じる国際結婚が本格的に始まるのは、明治時代のことです。明治時代になると、戸籍や国籍が法制度化されるようになります。まず明治5年に近代的な戸籍制度(壬申戸籍)が作られます。明治の初めは華族・士族・平民といった身分があり、原則として身分違いのままでは結婚できませんでしたが、壬申戸籍と同じ頃、明治4年には華族と平民との結婚が認められるようになっています。この時期に日本にも近代的な国民が生まれたと言えるでしょう。国籍法(旧国籍法)が制定されるのは明治32年を待たなければなりませんが、お雇い外国人や貿易商などがどんどん来日するようになり、その中から妾ではなく正式な国際結婚が行なわれ始めます。今回取り上げるハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと青山光子との結婚は、まさに典型的な国際結婚のケースです。

ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵はオーストリア=ハンガリー帝国の貴族で、明治25年(1892)に駐日代理大使として来日しました。来日後まもなく新宿の骨董品屋の娘青山光子と出会い、双方の家族の反対を押し切って結婚しました。光子は平民の出身だったようですが、日本人でヨーロッパの貴族と結婚したのはこれが最初です。当時は、皇族・華族高級軍人などは結婚に際して天皇や宮内省などの許可が必要だったようですが、伯爵が貴族だったためか外交官だったためなのかわかりませんが、この結婚も許可が必要だったようで、東京府知事三浦安の結婚許可証が東京都公文書館に残っているそうです。公式的に結婚が行なわれたという点で、この結婚は初期の正式な国際結婚の例と言えます。

二人の結婚生活は大変うまく行ったようで、日本にいる間に2人の子供が生まれており、1895年には伯爵の家族にも認められて、オーストリア=ハンガリー帝国でも正式に入籍しています。その後、1896年に伯爵が帰国することになり、光子もオーストリア=ハンガリー帝国に移住しました。帰国の際には光子も一緒にローマ法王やハプスプルグ皇帝にも拝謁しています。二人は7人の子供に恵まれ、幸せな結婚生活を送りますが、1906年に伯爵が急死してしまいます。財産を受け継いだ光子は、黒い瞳の伯爵夫人として社交界でも活躍し、子供たちを立派に育て上げ、1941年に亡くなりました。お墓はウィーンのシェーンブルン宮殿のすぐ近くにあります。光子は当時のヨーロッパで最も有名な日本人女性になりました。フランスの有名な香水メーカーゲラン社の「ミツコ」という香水は、クロード・ファレールの『戦場』という小説のヒロインの名から採られたと言われていますが、もともと小説のヒロインの名はクーデンホーフ光子から採ったそうです。

日本では、戦後長らく光子のことは忘れられ、稀に香水「ミツコ」のモデルは日本人だという話題が出ても、それがどういった人物なのかはほとんどわからない状態でした。光子が現在のように知られるようになったのは、東京で生まれた次男のリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーが、EC(ヨーロッパ共同体)の父と呼ばれるようになったためです。リヒャルト栄次郎は1923年に『汎ヨーロッパ主義』を出版して「汎ヨーロッパ構想(ヨーロッパは一つという思想)」を提唱し、第二次世界大戦後もヨーロッパ共同体の進展に力を尽くした人です。1967年にECが誕生した後は、EC(ヨーロッパ共同体)の父と呼ばれ、現在ではEUの父と呼ばれています。光子の名前が日本で甦ったのは、ECが誕生した後の1970年代のことです。70年代の初めに鹿島出版会からリヒャルト栄次郎の全集が翻訳されたのですが、期を一にして同じ出版社から『クーデンホーフ光子伝』(昭和46年、木村毅著)が出版され、光子はECの父の母である日本人女性として知られるようになりました。73年にはNHKスペシャル「国境のない伝記」で吉永小百合が光子の足跡を辿るというドキュメンタリーが制作され、その後も様々な媒体で取り上げられ、少女マンガ(大和和紀『レディーミツコ』)や小説(松本清張『暗い血の旋舞』)などでも描かれています。そして今では、日本人で最も有名な国際結婚カップルの一人になっています。

平成20(2008)年9月1日

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