彫金クラフター、森れい氏の作品の展示、即売会が小樽の「あとりゑ・クレール」で開催された。といっても、わたしにとっては”詩の森れい”でしかなく、そこの朗読会ということで参加してきたのであるが。 まずは森氏が彫金への思いを語り、その思いを綴った作品「銀の手しごと」を聞くにつけては、なるほど彫金という炎を叩く人であるのかと思った。二編目は森氏には珍しく「アフガン」という政治的な作品であった。 森れい氏 そのほかに、捨てられた兵隊の歌をうたった大原登志男、軽い調子でのリフレインで魅了する木田澄子、移動する生のベビーユニバースは青木崇、自分以外の作品に挑戦する小田節子、以前書いていた少女の連作から下田修一、0・5秒の生と死を捕える綾部清隆、朗々と風の歌を語っていくうちに”枯れ葉”へと移行していった中野頼子、柔らかな口調の谷内田ゆかり、後悔しない景色を見つづけていく”クレール”の高橋明子、居酒屋の主と化した萩原貢、お日様のこっこトマトの詩さらに当日の司会を勤めた嘉藤師穂子の各氏と、わたし村田譲が朗読。スイングするサックスは白鳥修一氏の構成であった。 あとりゑ・クレール (クレール通信NO.29によると)この後もあとりゑ・クレールでは絵画展などが予定されている。 あとりゑ・クレール:小樽市梅ケ枝町21-2 tel.0134-22-1354 |
北海道立埋蔵文化財センターでは現在、約5000〜4000年前の円筒土器文化のテーマで、様々な遺物を見ることができる。 ホールには土器が並び、なかにはひときわ大きな(80センチくらいはあろうか)破片に穴をあけ直接ひもで結びつけたものなども展示されている。その横にある黒曜石を削ったヤジリの薄さが、透き通るように美しい。 奥の展示室への通路から屋外展示されているストーンサークルが望める。展示室には地面を垂直に切り出した、発掘の現場そのものの壁面があり、1M以上掘り返さないといけないということが実感できるようなつくりである。 ママチ遺跡の土製仮面(複製)は鏡の前でじかに持つことができる。被ると思ったより視界は狭い。ザラザラとした土器の破片に触ったり、ジグソーのような復元作業の紹介。また見事な装飾品のヒスイの出来映えと、それをどのように作るかの説明板と実演の展示。木の実を石板の上で割ることもできるなど身近に感じられ楽しい。 ただ、センターの場所が思った以上に分かりにくく、通行留めかと勘違いするようなU字路を曲がった(腹立つ)ところにあります。 土器の接合 と き:11月17日(日)まで 月曜・祝日休館 ところ:北海道立埋蔵文化財センター 江別市西野幌685-1 TEL011-386-3238 入館料:無料 http://www.domaibun.or.jp/ |
工藤知子氏による”イタリア詩”ではジャコモ・レオパルディとマーリオ・ルーツィが取り上げられた。 レオパルディは1798年生まれの著名な詩人であり、夏目漱石の『虞美人草』、トマス・マンの『魔の山』などで彼の詩が引用されているとのこと。レオパルディ本人は非常に不遇な人生を過ごしたとのことであるが。 また現在88歳のマーリオ・ルーツィの朗読をテープで聞かせてもらった。しかし版権が高く邦訳されてはいない。 またイタリアというお国柄は、中央に通じようという発想がうすいという。中央集権の意識があまりなく、地方は地方の独立独歩。知る人ぞ知ればよく、無名で生きるという歴史的な性格・・・があると。 確かにイタリアという歴史性がそうした選択をしたのだろうが、実際にそうした生き方ができるのか、ということを考えてみた。確かに発言するべきものもないのに、有名になりたいという発想は、消費・資本世界に踊らされているものだろう。 ところで、NHK文化センター札幌教室では10月期の受講生を募集中。講師の一人にオペラの歌詞で学ぶ・楽しいイタリア語入門(火曜18:00〜19:20)工藤知子氏とある。で、その講座カタログの隣には工藤正広氏、絵本で楽しむロシア語入門とある・・・さてお申し込みは何語で・・・!?・・・などと。まずは文化センターへ。 |
「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」
このフレーズに覚えがないだろうか。
19歳で亡くなった女性が、アイヌ民族に語り継がれてきたカムイユカラをローマ字を用いて書き綴った『アイヌ神謡集』の”梟の神の自ら歌った謡”の最初の一節である。この梟の神の話の筋そのものは単純だが、おおらかな自然の恵みの、なんと美しい語りであろう。 展示場に掲載されていた知里真志保の著作集1(平凡社’73)によると、 アイヌの物語は、まず韻文(詞曲)と散文(ウエペケレ)に分かれる。その韻文は神のユーカラ(神謡)と人間のユーカラ(英雄詞伝)に分類される。さらに神のユーカラはカムイユカラとオイナに分けられる。 特徴的なのは、主人公の神が「私は、私は」と繰りかえす「折返し(sakehe)」で、物語全部をこの節で謡いあげること。 会場には「怪鳥フリと白ギツネ」というカムイユカラを平取町在住の平賀さたも(萱野茂録音’65)の朗読が、まさに読経のように流れており、とても力強いオーラルがここにあることこそが最大の催しであると思える。 知里幸恵『アイヌ神謡集』 北海道立文学館にて9月23日(月)まで開催中。 本人の習字や成績評、金田一京助との書簡やメモなどの展示が中心。 |
6月に開催された、東アジア詩書展でカッコのよいものを選べと言われたなら、斉藤征義氏「星の位置」を選ぶだろう。余白の在り方が美しく思え、文字の形も自由にみえる。 ところでわたしたちは意外なほど書道に憧れる。そして自分の稚拙な文字を恥ずかしがる。そのくせ活字のような字を、整った綺麗な文字としてみる傾向がある。あの無個性な!カクカクとした形を。楷書で読み易く書くようにという指示は至る所にある。だから”自由に”といわれると、まるで反動のようにサラサラ、グネグネさせて満足させているのかも・・・。 そうした見方を援用すれば斉藤氏の書は似非書道、余白という絵画の模倣かもしれないし、ただのスピード文字なのか。 がしかし、それ以上に斉藤氏の書は変である。それは、文字が最初から割れている。”氷”の文字などはありえない二重のラインだ。これは筆で書いたのか?と本人に確認したところ、生の木の枝を折ってそのまま書いたのだという。 筆ではないもので掻きつけるという遊び心の位置に敬意を払う。掻くことに必要なのは、まず意思である。切り裂く強さだと思うからだ。 斉藤征義氏「星の位置」 |
ルネサンスの巨匠の素描展が、札幌芸術の森美術館で8/18まで開催されていた。掲示板でとりあえず掲載してはいたが、改めての遅い報告になる。 なんといってもヴォロッキオ工房でレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたとされる「《キリストの洗礼》の天使の習作」これが素晴しかった。 ぞくぞくするこの強さは、現物に触れるということの重要性を再認識させられる。果たして本当にレオナルドの作であるかどうかに関わりないのだ。大体がヴォロッキオ工房当時はただの小僧でしかなかった。そもそもわたしは《モナ・リザ》という作品が嫌いで、レオナルドも嫌いなのだが、見直したと言ってもいい。 それほどに深さがあり、奥行きがある。あの病的な眼差し、何者もみていない視線はたいしたものだ。 四谷シモンの天使の像も素晴らしかったが、それは天使はのありかた、つまり天使とは基本的に現在を捨てているし、希望の未来などない。ひたすら神の栄光という完璧さに”もどる”ことの要求しかない。それが満たされている。 《キリストの洗礼》の天使の習作 ほかに気になったのは、スライドコーナーでみた、ミケランジェロ・ブオナローティの彫刻である《ピエタ》の柔らかさ。とても石と思えないほどの滑らかさがなんなのか、だ。 ふと思った、長崎にある奇妙な指を持つ平和祈念の像がかもし出す威厳は、東洋的な解釈のシスティナ礼拝堂の《最後の審判》のイエスであり、すべてを自己に飲み込んでいるようだ。しかし本来あれは怒りの前兆だろうに。あの生き生きとした”動”しか描けないであろうミケランジェロの天使があるなら見てみるか、そんな気になったのだ。 |
わたしも所属している「こだま」の編集人である保坂登志子氏の作品「土の中」を紹介。 字を真直ぐに書こうとか、行ごとにわけようとか、そんなこと全く考えていない。文字は絶対にひとつの音ではない。つらなりである。四行目の”からむのか”なんて並びが斜めじゃあないか。六行目のまぶしいの”い”は、まぶ”し”の真横だぞ。歪みに歪んで世界は曲線で出来ていく。それはまるで一枚ごとの筍の皮。ひとつひとつ重なって、ゆっくり土の中から芽を出してくる。 重なることが暖かい。つらなる言葉が持ち上げる。”登志子”というご自身の名前もまた土くれの形として支えていく。”根はまっすぐに白く”あれば、芽もまた真直ぐにあるのだ、と言っている。とても素敵な書ではないですか。 保坂登志子氏「土の中」 「こだま」は世界のこどもとの触れ合いをする詩誌・・・とでもいうところ。台湾の陳千武氏が「ビンロウ大王物語」というSFを掲載中。また20号には韓国の金光林氏も参加していた。 |
北海道立近代美術館で開催中(〜8/25まで)の「ゴッホ展」だがおもしろくない。 今回の催事は”ゴッホとテオ”ということらしいが、どうして生まれだの、家族だの、弟のテオであるだのという付け足しに気が散るのだろうか。みる必要はないぞぉ。絵描きのことは絵が話す。それで充分だ。 見るならば見てみろ。ゴッホは”美”ということを気にしていないだろ。黄色の画家というイメージが強いが、今回の展示作品は暗い色合いのものが圧倒的に多い。来てはいないが・・・例えば”ひまわり”。太陽といわれる黄色の色より、疲れて半分枯れているような形にこそ注目するべきだろう。 こうした形態は、否定の内在化ではないか。逆説的に聞こえるかも知れないが、これは強くありたいという”力”の信奉者である可能性が高い。だから、ゴッホは「美」ではなく「生」に執着するタイプの絵描きなのだ。 今回の展示会では、作品”3つの鳥の巣のある静物”が独特だ。黒の背景に黒茶の鳥の巣。鳥の巣など見えない。しかし感じるのは(解説として本人の手紙にもあるが)「(概略)・・・物体というものはその自然な周囲の中ではなく、むしろ慣習的な背景に対置させた場合にくっきり浮かびでてくるということを・・・自然の中の生きた巣は全然違う。人は巣そのものはほとんど見ずに小鳥の方を見るからだ」こんな奴は実のところ色よりも形だ。そうだろう? ローヌ河畔の星空 作品”ローヌ河畔の星空”このタッチの一部みられる、あの捻じ切れるようなラインに進む予感。このタッチにゴッホの本質がある。どこまで伸びて曲がり落ちるのか。わたしがゴッホに求めるのはそれだけだ。 |
7月のボッセの会例会は「東アジア詩のつどい」の反省会と打ち上げであった。 実行委員会事務局長の斉藤征義氏から開催期間中の報告がなされた。おおむね好評であったようだ。特に6月8日の講演会と自作詩の朗読、22日のシンポジウムと朗読会は大盛況であった。詩書展の入場者数は約200名。 つづいて実行委員長の原子修氏より、今回の「東アジア詩のつどい」は北海道でやりたいとの要望が各人より強くあり、また来道された各国の詩人の方たちから満足の言葉を受けたとのこと。次回は再来年の1月に台湾で開催の予定とのことである。 同時にボッセの会の会員である今村博光氏の詩集「夜行列車」出版の祝賀会が行われた。 (中央)今村博光氏 詩集の作品を石井真弓氏と、わたし村田譲が一遍づつ朗読。詩集の感想を谷崎眞澄氏がのべられた。 今後ボッセの会会員の詩集出版の度にこうした会を催したいとの話が原子座長よりあった。 次回8月の例会は10日。 |
韓国のハン(正)クル(文字)は"偉大なる文字”として世宗大王により1446年「訓民正音」として公布された、漢字(真書)に対する”気”の文字である。 儒教国である韓国では”理”という道徳への志向性が強く、発音という”気”にも”理”を求める志向性が高い。 ハングル文字はわれわれには馴染みが少ないが非常に論理的であり、例えば○はくちを開いた形であり、□は閉じた形。┐や└は舌の置き方などを表す。ほとんど発音記号と思えばよく、日本のひらがなと同じく表音文字である。 ただ、ひらがなと違い漢字とは混在させて用いないのが普通だ。またハングルは横書きであり、つづき文字は基本的にはない。 さて、今回の詩書展には多くの韓国の方が参加されたのだが、そのなかから印象に残った許英子氏の「銀髪」。 あえてハングル文字を縦書きにし、漢字を組み込んでの作品。漢字しか分からない、わたしに落としてくれた形・・・銀の第一画「ノ」が頭頂部から長く、二本垂れてきた。う、ん。少し年を取った自分に気づく、長さ。 頭の上に/銀髪が増えつつあるから/銀の重量ほど/私/頭を下げよう (権宅明氏訳による) |
リンク記念です。佐川亜紀氏とリンクして頂いたのは、けっこう前の気も・・・否、否、気のせいです! さて、佐川氏の作品。漢字だけを追いかけると”返信”のしんにょうのつくりが大きくて強い。自分への捕らえ方がはっきりとする。いつも書いている日本語の、漢字とひらがな。ついつい漢字は大きく、ひらがなは小さくする。そうすることで安心感がつくられる。それは慣れ親しんだ錯覚とも思えるが・・・なかなか否定のしようもない。 しかし”書”というものは、活字であれば見逃すような、たった一文字に立ち止まらせ振り向かせる力がある。 「返信」 佐川亜紀氏 佐川氏の書にひとつの違和感を感じないだろうか。それは「へ」という字を普通、こんなに太くは書かないだろう。これは”私=夢”という以上に、そこまでの”道程”の強調であるのだろう。故意か偶然かということより、”の”ではなく、”への”という言い回しも含めて。返信したという結果以上に、そうあるべきプロセスへの強烈な意識を見逃してはいけない。 |
漢字の国という表意文字に含まれている、書きっぷり。 日常触れている、いわゆる活字は楷書体の模倣であり、役割は教育の普及という重責を担うものだが、個性はない。 このことが分かるかどうかは、紙に直接どれだけ書いたことがあるかにかかっている。そうです、ワープロとかの画一された市販品ではない、その汚い(?)読みづらい文字。あなただけの字。 そこには見た目の印象がある。表意文字はその書かれた文字の形が意味を造る。ということから、漢字は始まるのです。 「雑食」 浅田隆氏 この浅田隆氏の作品。 一見乱雑にみえるかもしれない筆書きというものは、ひじょうな力強さに通じる。それが「雑食」のタイトルとマッチしていく。そのなかで”人間だけ”というところを軽そうにすんなりと書くことで、違和感を作っていく。食らいつくすものの主人公としての自分たち。そのうえで作られた”おとぎばなし”という異様に大きな書き物。そのことで、わたしたちが何を作っているのかという疑念にさえ辿り着くように思えるのだ。 |
「東アジア詩のつどい」の華、シンポジウムが開催された。当日はあいにくの小雨模様で(わたしも札幌駅でまずビニル傘を買うこととなった)来場者のことが気になったのだが、会場の椅子はきれいに埋まった。 シンポジウムの冒頭は、まず、ボッセの会の座長である原子修氏がスピーチ。韓国の詩人や台湾の詩人と日本との出会いと繋がりを、直接の交流やそのたびに出版されてきた詩誌を示しながら、今回の「つどい」について話された。 基本スピーチ 原子修氏 その後パネラー登場。基本的に講義形式で4人にそれぞれ13〜14分の持ち時間。パネラーの大貫喜也氏は韓国への実際に行った経験を中心に。また、菅原みえ子氏は中央アジアのキルギスの伝統的叙事詩「マナス」を。わたしと同年代である若宮明彦氏は、まず地理的な極東のことから始め、来日された各国の詩人とのことを交え、東アジアの歴史性を中心に話を展開。特に崔華国氏の話を熱心にした。 わたし村田譲は三番目に発言。東アジアの詩書展ということから、お箸の国。漢字の国という表意文字に含まれている、書きっぷりについて。 見ただけの印象というものから、すでに漢字は始まっている、その書かれた文字の音について話をした。だって詩書展じゃあないですか、って・・・。 「東アジア詩書展」 発行・東アジア詩のつどい実行委員会 |
「東アジア詩のつどい」の講演会と自作詩朗読が行われた。 あいにく下の子の運動会と重なり、昼からは妻に任せて直行。会場はびっしりで椅子が空いていない。 金光林氏の講演には間に合わず、なんとか陳千武氏の「台湾の詩の状況」の講演を拝聴した。 台湾には、中国を中心とした詩と台湾という地元の詩のふたつがある。まず、自分たちはなにものか、という問いがあるのだ、とのこと。また、詩の書きかたとして、特に”詩は志を現わすもの”であるから、いわゆる言葉遊びは、やめた方がいい。”比喩”ということとは、はっきり違う。使命感や責任感のない作品はいけないとことであった。 ついで詩人の自作詩朗読が行われた。 金宗吉氏は漢詩を朗読。その際に、中国では漢詩はさらりと読むが、日本では詩吟という形で、韓国では詩唱という形でうたうのであるとおっしゃって、両国語でうたわれた。 そのほかに韓国からは、文徳守、金圭和、許英子の各氏が、台湾からは、岩上、陳填の各氏。 日本からは、小海永ニ、山口惣司、相沢史郎、麻生直子、李承淳の各氏が登壇した。 それから一行詩創作にうつったが、なにせ満席なので全員参加は不可能と判断。朗読した詩人たちに参加者をしぼった。とにかく学校の教師が多いのだろうか、実に真面目に議論をする。タイトルは「深い声」。 一行詩冒頭 タイトルは矢口以文氏に決めていただいたのだが、そこで”深い”とはなにかと、日韓台語で翻訳の嵐になる。韓国・台湾のご年配の方は日本語が堪能なのだが、わたしなどにはわからない。これだけ近い国なのに言葉が遠いと隣席の方。つまり、翻訳ということを目の当りにしてしまった。ものすごい(意味は不明だったが)一行詩体験をした。 |
北海道詩集 NO.48(2001年度版)に掲載された作品「1/6」を披露したのは、稲留佳子氏。 まず驚いたのは、すごい早口であること。通常の朗読タイプのパターンと、違うからなのだけれど、おもしろいと感じた。 徹底的にすべてが1/6であるといって、その繰り返す言葉は連呼するほどに虚ろに聞こえてくる。月の上にしかいられない気分・・・という中途半端な実感。 この口篭もる声。あらゆるものが地球上の重力に縛られないという前提によっている。 こうした朗読は、わたしの抱くイメージと全く違う。もっといえば、伝達しようという意思の”欠落”ではないのかとすら感じる。 しかし、作品上の気分とマッチしている。だから、おもしろいし、次への継承が存在してこない。この声が、どこまで届くものかに不安を感じもするが・・・。 叫びにさえなりえない連呼は、現代の気分の代弁といえるのではないかとも思う。 稲留佳子氏 |
* オムニバスライブ 寺西勝仁 参加 と き:2002.6.15(土曜 19:00〜) ところ:ベッシ−ホール(札幌市中央区南4西6 晴ればれビルB1) 前 売:1000円 『THE SALT CLUB』というラテンインストルメンタルバンドにギターの寺西勝仁氏が参加。 寺西勝仁氏には、実は以前、詩の朗読でギターをお願いしたことがあります。 その時の朗読(吟遊詩人大賞コンテスト・作品名「ノイズ」)で優秀賞をいただいたことがあります。 ちなみに、今回のライブでの曲は、勇気があれば(?)踊れますとのことです。 * 『ジプシーロマンス』 10周年記念ソロライブ開催 と き:2002.7.6(土曜 19:00〜) ところ:ベッシ−ホール(札幌市中央区南4西6 晴ればれビルB1) 前 売:1000円 寺西勝仁氏がリーダーバンドである『ジプシーロマンス』が10周年を迎えるにあたり、ソロライブを開催。 『リズム&クラッシック』という新しいコンセプトのもと、ラテン色ありジャズありポップスありと様々なカラーを取り入れながら、コンピュータとのシンクロサウンドが楽しるとのこと。CDも好評発売中。
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