日本イタリア声楽教育アカデミー
ACCADEMIA ITALIANA DI DIDATTICA VOCALE (KYOTO)
イタリア声楽に関する250人の歴史的証言
本アカデミーで指定する教材の中から
イタリア声楽の実践や教育に携わった歴史的人物の証言を集めてみた。
実践の入門者にとって興味深いと思われる文章を選んである。
マルケット・ダ・パドヴァ
[Marchetto da Padova 作曲家]
「音楽家」とは、ボエティウスによれば、拍子、律動、声部の類別などについて、自らの音楽的知識の思弁と合理に従う能力を持つ人をいう。どんな学芸も、職人の手や行為からなる技巧よりも、合理を尊重している。「音楽家」は、音楽における数的比率の特性と合理を知った上で、実際の音のみに頼ることなく判断する。一方、「歌手」は、「音楽家」にとっては楽器のようなものであり、職人としてその楽器を使う仕事をする。しかし「音楽家」は、合理的に認識した事柄を実践させるのが仕事だ。かように、「音楽家」と「歌手」は、法官と伝令のごとき関係にある。法官は秩序を定め、その秩序を行き届かせるために伝令を遣わす。これが、「音楽家」と「歌手」である。すなわち、「音楽家」は知識に関する一切の事柄を認識し、感じ、判別し、選び、秩序を与え、整理する。そして、「歌手」をまるで自分の使者のようにして、実践を命ずる。(『解明の書』、14世紀初頭)
ジョルジョ・アンセルミ
[Giorgio Anselmi 音楽理論家]
確かに人間の歌声は、適正で技術的に築かれていれば、どんな楽器とも異なるものだ。歌声は人の耳を慰め、肉体の苦しみや魂の憂いを緩和することでは他のすべてを見事に凌駕し、それに及ぶ音など存在しない。有能な歌手ならば適量で、均質で、整然たる声を甘美な音色で用い、その抑揚と加減の程度が、あらゆる生物の声や楽器の音に勝る。また、声の量を操りながら鋭く、または優しく発し、技巧によって何でも随意に、歌の形式に作り変えてしまう。(『音楽論』、1434年)
ヨハンネス・ガッリクス
[Johannes Gallicus 音楽理論家]
「歌手」の誰もが「音楽家」だとすれば、鶯のことをどう呼ぶべきか。たとえ美しく歌い、声を見事に刻み、時間の基準を守っていても、「音楽家」ではない。例えば、神学者は神の言葉を唱えねばならぬが、神の言葉を語る人をみな、神学者と認めるわけにはゆかない。同じく、歌い方を知らない人が真の「音楽家」にあらざるのは事実だが、「歌手」の全員を「音楽家」と見なすことはできない。ゆえに、「音楽家」の誰もが「歌手」である反面、「歌手」の誰もが「音楽家」だとは言えないのである。さもなければ、鳥ばかりか多くの大小の動物まで、あるいは、教会で歌う大勢の子供のみか、この世の中で数知れない無教養な大人までも、「音楽家」にされてしまうだろうから。(『歌の作法』、15世紀後半)
ヨハンネス・ティンクトリス
[Johannes
Tinctoris 作曲家]
完全な歌手は五つの要件を満たす。すなわち、技術、拍節、旋律、発音、そして美声である。天性、または模倣しか用いない歌手は、男女を問わず、まるで小鳥のように歌っている。人々がそれを褒めるのは勝手だが、私は黙認できない。彼らがどんなに珍しい歌い方を発明しても、他人はいざ知らず、私は(あえてこう言わせてもらうが)、理性とは無縁なものと見なして聴くつもりだ。(『音楽の発明と用途』、15世紀末)
二コラ・ブルツィオ
[Nicola Burzio 音楽理論家]
ゆえに、「音楽家」の誰もが「歌手」である反面、「歌手」の誰もが「音楽家」だとは言えない。さもなければ、鳥ばかりか大小の動物までもが、無知で粗野な歌手たちと一緒に、学識がないのに「音楽家」にされてしまう。思弁は実践に優越する。各人の行為を知ることは、知った物事を実行するよりも、はるかに重要で尊ぶべきだ。これについては、かのグイドも述べている。「音楽家と歌手の間に大きな隔たりがある。後者は歌い、前者は音楽の構成要素を知っている。自分が知らないまま、何かを実行する者は、動物と見なして構わない」と。(『音楽小冊子』、1487年)
フランキーノ・ガッフリオ
[Franchino Gaffurio 作曲家]
自分の演奏が好まれると思って軽率な歌い方をする者たちは、多くの人々から嫌われる。かのグイド・アレティーノ自身が、往時の華やかな多声曲で教会にふさわしい音の動きを復元しようとしたのも、それが主な理由だった。彼らについては(言いたくはないが)グイドも、「今の時代は、他の人々よりも歌手たちのほうが愚かだ」と述べている。(『音楽実践論』、1496年)
ビアージョ・ロッセッティ
[Biagio Rossetti オルガン奏者]
技術の精妙、効力、用途に関わる事柄を最初に認識せずに、ある学芸に熟達した教師になれるはずはない。ゆえに、歌う内容を把握せず、頭脳もなく、いい加減な音を発している生半可な歌手たちの悪癖を見習わないこと。むしろ、自分の口で唱え、心で理解できるように、技術の根本に従ってもらいたい。(『音楽入門』、16世紀初頭)
ピエトロ・アーロン
[Pietro Aaron 作曲家]
「音楽家」と「歌手」の間には大きな隔たりがあるという。本来、「音楽家」は作曲法に通じていて、「歌手」が受け取って演奏すべき物を考案し、技巧で秩序を与える人である。しかし今日、作曲に従事しながら、そのごく一部しか習得せず、勝手気ままに曲を作りたがる人が大勢いるのは、大きな非難をこうむるにふさわしい。彼らは作曲法について訊かれると赤面するか、黙り込んでしまう。自分さえ知らない作曲技巧を素人たちに自慢してはばからず、多人数を味方につけ、「音楽家」として認められたいがために、俗人から賞賛を掠め取る彼らは、「歌手」よりも性質が悪い。我々が現在用いている音楽に多大に貢献し、名誉を与えたあのグイドも、「歌手」がいかに「音楽家」と異なるかについては全く疑いの余地を残さない。いわく、「音楽家と歌手との距離は大きい。前者は知識があり、作曲もするが、後者は歌う」と。要するに、作曲家は「音楽家」である。「歌手」は、「音楽家」から伝えられた物を演奏する。(『音楽原論』、1516年)
ジョヴァンニ・マリア・ランフランコ
[Giovanni Maria Lanfranco 作曲家]
歌手は声を、語る言葉の内容に一致させようと努めるべきだ。楽しい事柄を悲しげな声で歌わないように。また、その逆の歌い方もせぬように。(『音楽の煌き』、1533年)
ステファノ・ヴァンネオ
[Stefano Vanneo
作曲家]
「音楽家」は、歌唱の知識を理性によって導く。実行には及ばず、思弁の働きを掌握している。そして音ではなく、思弁に基づいて判断を下す。「歌手」は歌い、音楽を長く実践し続けるうちに規則を学び取り、音を使って表現し、動作を行う。オルガンやリラ、その他の楽器の演奏者も、「歌手」のうちに含まれる。彼らは聴覚に訴える技術だけを用い、人々に快感の記憶しか与えない。詩人が作品の出来栄えを、理性的な思弁ではなく、生来の感覚に従って見定めるのと同様だ。ロレンツォ・ヴァッラがいみじくも主張する通り、「音楽家」と「歌手」の差異は、修辞学者と弁士の差異によく似たものと思われる。(『レカナーティの黄金音楽論』、1533年)
二コラ・ヴィチェンティーノ
[Nicola Vicentino 作曲家]
注意しておくが、世俗曲の演奏では聴衆を満足させるために、言葉を作曲家が意図した通りに歌うことだ。また、言葉がついた音楽的抑揚を時と場合によって、陽気な、悲痛な、柔和な、冷酷な感情で表現せねばならない。強弱を使い分け、言葉と音符を明瞭に発すること。音楽には、楽譜に書けないような演奏方法もありうる。つまり、用いる声量の大小、語り口の緩急、そして言葉と音楽に含まれる様々な感情の効果を聴かせるために、音符の長さを変えることなどである。(『現代的実践に応用された古い音楽』、1555年)
ジョゼッフォ・ザルリーノ
[Gioseffo Zarlino 作曲家]
歌手に属するのは次の事柄である。歌う際には、旋律の動きを作曲家が書いた通りに表出すべく細心の注意を払うこと。そして、分別のない者たちが他人よりも立派で賢く見せかけようと、自分で作った(あえて言うつもりだが)野蛮な、全く当を得ない装飾を時折つけているのを模倣しないこと。彼らは聴く者を不快にさせるばかりか、歌の誤りも無数におかしているからだ。[...]歌手は作曲家の意向を尊重して、書かれた通り正確に歌うように気を配らねばならない。音程を正しくとり、声を音の動きに従わせ、協和音との融合を目指し、歌詞の性格を生かして歌うこと。すなわち、楽しい内容の詩であれば、陽気で溌剌たる律動をもって歌い、悲しい題材ならば、それらしく歌うように。(『調和の原理』、1558年)
カミッロ・マッフェイ
[Camillo Maffei 医師]
大勢の歌手が、わずかな音符を少し優雅に演奏できるというだけで、歌いながら自己陶酔に陥り、周りの人々から嘲笑される。そして歌ってから、喉で創作旋律を聴かせたのと同じ勢いで市中を闊歩する。彼らは自尊心が強く高慢すぎるため、みんなから敬意を表されるよりも、むしろ疎まれている。ゆえに、歌を職業にするか否かは別として、自己満足を避けてもらいたい。(『書簡集』、1562年)
カスパル・ストッカー
[Kaspar Stocker
作曲家]
人々が出会ってお互いに協力し合える確率は三分の一にすぎない。しかし歌の演奏では必ず、歌手と作曲家が協力し合う。作曲家は記譜と様式を、歌手は声の発し方を用いる。つまり、作曲家が創作中に行い、実現しようとした事柄を、歌手は演奏の際に行い、模倣して、両者が一致せねばならないのである。結果的に、作曲家自身が記譜した音楽は、書かれた通りに歌うべきであり、それ以外の規則は存在しない。(『言語音楽論』、1570年頃)
ジョヴァンニ・アニムッチャ
[Giovanni
Animuccia 作曲家]
その後、オラトリウムは神のお恵みにより、非常に身分の高い僧侶や紳士の皆様にご参加いただき、規模を拡大いたしました。そこで私も、この第二巻では音楽を様々に変化させ、調和と快い音響を増大させるべきだと思うにいたりました。歌詞はラテン語とイタリア語を用い、声部の数を多く、または少なく設定し、ある種の脚韻と別のものを使い分けたりもしました。そして歌詞の理解を妨げないため、フーガやその他の新発明はできるだけ除外しました。言葉の有効な働きが音楽的調和に助けられ、聴く人の心により優しく浸透するようにとの願いからです。(『賛歌集』第二巻の献辞、1570年)
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ
[Giovanni Pierluigi da Palestrina 作曲家]
閣下のお書きになったモテトゥスとマドリガーレを、私が歌手に演奏してもらい、自由に意見を述べるようにと承りました。さて、申し上げます。閣下は何事でも普通以上の能力を発揮なさるので、音楽においても、立派で完璧に作曲できる人々に優越していらっしゃいます。私はモテトゥスを十分に吟味すべく、総譜に書き直しましたが、通常の作曲法から見事な技巧を用い、しかも歌詞に生気を吹き込まれているとお見受けいたしました。そして語義も考慮しながら、単語を間引きすれば音楽がより良く鳴り響くと思われる数個所に、注記をつけておきました。例えば、異なる声部が六度や同度で共に上下する場合や、フーガの声部が陥ってしまう幾つかの同度重複です。フーガの声部が近接すると、聴く人に歌詞が分かりにくくなり、普通の音楽ほどには楽しめません。閣下が私などよりも、このような詳細をよくご存知なのは明らかですが、ご用命に従うため、申し上げたのでございます。(書簡、1576年)
フランシスコ・デ・サリーナス
[Francisco de
Salinas 音楽理論家]
音楽は悦楽の母であるかのように言われる。それならば、少数ではなく多数の人々の悦楽になるほうが、はるかに有益だと思う。テーノル声部が目立った優美な声で適切な歌詞を唱えれば、専門家にも素人にも等しく喜ばれる。さて、とりわけ専門家の中に、四つかそれ以上の声部を用いた技巧を、ほんの少しでも把握できる人が果たして存在するだろうか。とはいえ、曲を聴く人の全員が褒めるという理由で、貶す人が素人だと思わないでほしい。今日のミサの作曲法で、いたる個所に古い単旋律を借用せぬなどということは、ほとんどありえない。つまり、多声曲の作者が旋律の作者に対して一歩を譲っている事実は、現在だけでなく、すでに何年も前から明らかである。ところで、身分の高い人々に属し、祝宴の主催者が用いたりする音楽的な歌は、楽譜を見ずには歌えないような、複数声部の技巧的な曲ではない。そもそも、心地よく上手に歌える四、五人の演奏者が揃うことは非常に稀であり、いつも何らかの歌い間違いに陥り、聴く人の耳をはなはだ不快で退屈にさせるものである。また、歌詞自体も、複数の巧妙な歌声で隠されてしまう。歌詞は、旋律がただ一つでなければ聴き取れないからだ。(『音楽論』、1577年)
ヴィンチェンツォ・ガリレイ
[Vincenzo
Galilei 音楽理論家]
現代風作曲法の珍しい工夫は次の二つに限られる。一つは、然るべき方法で配列され、適切な判断により解決される不協和音の使用。もう一つは、美しくて魅力的な協和音。両方とも、聴く人に感情を伝えるべき歌唱表現にとって極めて不都合なばかりか、むしろ最悪の毒物である。その原因は、様々な不協和音に若干の酸味と苦味を混ぜ合わせた和声の絶え間ない変化だ。他にも、今日の作曲家たちは耳を楽しませようとして、過剰な技巧性を発揮するのにとても熱心だが、退屈になるので詳しくは論じないでおく。前述の通り、二つの技巧は聴く人の心に何らかの感動を与えるには極めて不都合だが、心はそういった技巧の悦楽に縛られているので、歌詞の発音が悪くても、それを理解したり考えてみたりする余裕がない。(『古代と現代の音楽に関する対話』、1581年)
オラツィオ・ティグリーニ
[Orazio Tigrini
作曲家]
愚かな人々は、「音楽家」と「歌手」の間に「法官」と「布告係」ほどの相違があるとは知らず、「歌手」をも「音楽家」と呼び習わす。「歌手」の中には、辛うじて音符を読める程度の能力で、厚かましくも公然と教会の「礼拝堂楽長」になる者もいる。[...]私がここまで議論を突き進めたのは、彼らがその機会を提供して恥じないからだ。そこで私も臆面なく言わせてもらうが、向こうからもお許しを願いたい。彼らは教会で楽譜をいくつも開き、両腕を精一杯に持ち上げて、自分が礼拝堂楽長であることを誇示する。私は彼らの姿を決して見たくない。アンドレア・アルチャート氏が巧みに描いた例の驢馬を思い起こして、笑いを禁じえぬからだ。この驢馬は、聖体の容器を担いでいると通行人たちが跪いたので、自分が敬意を表されたと勘違いして立ち止まり、いくら頼んでも、脅しても、棒で打っても歩み出そうとしなかったのである。ところが、上記の楽長たちは大抵、独力で様々な音楽を作曲したと見せかけるため、別の楽譜に転写し、それを自分たちよりもはるかに有能な歌手に演奏させる。(『音楽提要』、1588年)
ジョヴァン二・バッティスタ・ボヴィチェッリ
[Giovanni Battista Bovicelli 作曲家]
作文では単語が矛盾しないように、文章全体に注意せねばならない。一方、単語を上手に並べるあまり、文章が拙く不備になるのも避けるべきだ。歌の場合も同様で、とりわけ創作旋律を演奏する時は、音符だけではなく、言葉をも念頭に置かねばならない。言葉を上手に配分するには、高い判断力が求められるからだ。(『音楽の規則と創作旋律』、1594年)
ロドヴィーコ・ザッコーニ
[Lodovico Zacconi 作曲家]
さて、天分と技術のどちらが歌い方を教えてくれるのか、との問いである。ここで知っておくべきは、天分は我々に素質を与えるが、技術はそのような才能を受け入れて、歌に調和の形を与える方向へ我々を導いてくれることだ。会話の仕方を教わらない人は、どんなに年をとっても、他の重要な事はもちろん、パンを求める能力すらないだろう。たとえその人が自由に舌を使えて、言葉を発するに適した声があっても。なぜならば、もしも我々の会話能力が技術や学習から得られるのでなければ、誰でも意思が伝わって、フランス語、スペイン語、英語、イタリア語、ポーランド語、ドイツ語の間に全く違いがなくなるはずだから。ところが、学習から得られる能力だからこそ、言葉の意味が学んだとおりに理解されるのである。同じことは音楽にも当てはまる。音楽を学ばなければ、歌の調和は実現できない。(『音楽実践論』、1596年)
オラツィオ・ヴェッキ
[Orazio Vecchi 作曲家]
私の音楽劇を、歌えないからと言って貶す人も(例のごとく)いるかもしれない。その人は、私が劇中で曲をつけたあらゆる主題が、他ならぬ彼自身の感情に託されているのだと理解してほしい。感情は、賢明な歌手により見出され、認識され、首尾よく整然と表現されて、この音楽作品に魂を吹き込まねばならない。(『アンフィパルナーゾ』序言、1597年)
ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージ
[Giovanni Maria Artusi 作曲家]
ルーカ:一人かあるいは集団で歌ったり、楽器を弾いたりする人の目標は、何でしょうか。
ヴァリオ:以前に説明した、詩人の目標と同じだ。
ルーカ:詩人の目標は、人の役に立って楽しませること。だから、歌手や楽器奏者の目的も、役に立って楽しませることですね。
ヴァリオ:さよう。この歌手たちが役に立って楽しませているかどうか、注意して、よく考えてみなさい。そうすれば、彼ら自身が到達しようと志した目標に、到達しているかどうかが分かるだろう。(『ラルトゥージもしくは現代音楽の不備』、1600年)
ヤコポ・ペーリ
[Jacopo Peri 作曲家]
ところで、詩劇であるからには、歌で話し声をまねるべきだ(決して歌いながら話したわけではない)。私は、古代ギリシャやローマの人々(彼らは舞台で劇の全体を歌って演じたというのが支配的な説である)が、通常の話し声を超えつつも歌の旋律までにはいたらない中間の形での調和を用いたのだろうと考えた。[...]喜びや悲しみ、それに類する物に役立つ抑揚や口調に配慮するとともに、低音を適切な速さで動かし、情感に即した緩急をつけ、変則的か規則的な比率のうちに維持した。そして最後には、話者の声が様々な音符を駆使しながら、通常の会話に音をつけて、新たな諧調に道を開く所にまで達した。(『エウリディーチェ』序言、1600年)
ジュリオ・カッチーニ
[Giulio Caccini 作曲家]
この方式で作曲して歌う良き流儀では、情感に満ちた諧調と、情感を伴う歌の表現ゆえに、対位法などよりも、意味と単語の理解や味わいとその模倣のほうがはるかに役立つ。私が対位法を用いたのは、二つの声部を一致させて顕著な誤りを回避し、幾つかの不協和音を繋げる方法に過ぎなかった。それは作曲技巧の披露よりもむしろ、情感の伴奏が目的である。(『新しい音楽』序言、1601年)
アントニオ・ブルネッリ
[Antonio
Brunelli 作曲家]
私は勉学だけを目的に、ローマをはじめ他の多くの都市でも、数々の音楽教室を巡り歩いた。そこで、歌手のみか教師すらも、作曲家でないがために、多くの先達が編み出した知識や規則よりむしろ、ある種の実践法に拠りながら歌を教える様子を、見たり聴いたりした。あたかも土台なしに宮殿を建設したり、布を裁断し、縫い、形を与えることなく服を着たりするようだった。それゆえ、誰かがこの美徳から疎遠になり、早くも忘れ去るか、完全に失ったとしても、驚くには値しない。さらに言えば、今日の傾向として、上記の規則が教えられないだけでなく、私たちの先祖が発明してくれたからこそ、音楽作品が一般的に有しているあの諧調、甘美、旋律から、ますます離脱してゆく。ついには対位法が守られなくなった。こんな作曲法が長続きするかどうかは疑わしい。(『極めて便利な諸規則』、1602年)
アゴスティーノ・アガッツァーリ
[Agostino
Agazzari 作曲家]
歌の声部が少なければ、楽器は使う音栓を減らして、わずかな協和音を奏するにとどめる。曲を出来る限り純粋で正確に演奏し、創作旋律や変更は控えめに。コントラッバッソで補強して、高音域をしばしば避けねばならない。ソプラノ歌手や「ファルセット」の声部と重なるからだ。ソプラノ歌手が発するのと同じ音符は、なるべく弾かぬように注意すること。(『低音に基づく伴奏』、1607年)
シピオーネ・チェッレート
[Scipione Cerreto 作曲家]
ここで楽器奏者は、自分の感情を抑えられずに言うだろう。完璧な奏者は、完璧な歌手よりも重要性が低いはずがない、なにしろ作曲家たちは楽器で鳴らす音に頼るほうが、特に自作をヴィオラ・ダ・ガンバで合奏させるほうが、作品に含まれる美しく良質な全ての要素をたやすく考慮できるのだから、と。なるほど、実にごもっともな意見だ。しかし、重要性はそれで決まるわけではない。(すでに何度か述べたように)歌手は天然の声を、楽器奏者は人工の声を用いる。天然は人工にはるかに勝るので、奏者と歌手の差は、肖像画と、描かれた当人の姿との違いに匹敵する。だから前掲の「音楽の木」では、歌手が奏者よりも優遇されているのだ。(『音楽の木』、1608年)
オッタヴィオ・ドゥランテ
[Ottavio Durante 作曲家]
歌手には、自分が歌おうとする内容を理解する努力が必要だ。とりわけ一人で歌う時は、意味を把握し、十分に心得て、聴いている他の人々にも分かるようにすること。それこそが歌手の主目的だからだ。(『敬虔なるアリア』序言、1608年)
マルコ・ダ・ガリャーノ
[Marco da Gagliano 作曲家]
何の目的も意図もなく、「グルッポ」、「トリッロ」、「パッサッジョ」、「エスクラマツィオーネ」を幾つも聴かせようと努める多くの歌手たちは、勘違いしている。もちろん、私はかような装飾を排除するつもりはない。時と場所を選んで用いてほしいだけだ。[...]物語にとって不必要な個所では、一切の装飾を捨ててもらいたい。杉の木が上手に描けるからといって、画面を杉で一杯にしたあの絵描きのまねをしないこと。むしろ、言葉がよく分かるように音節を明確に発するべきであり、それがどの演奏でも常に、歌手の主要目的であってほしい。朗読的な歌唱ではなおさらである。音楽の本当の喜びは、言葉の理解によって高まるのだと心得てもらいたい。(『ラ・ダフネ』序言、1608年)
ジロラモ・ジャコッビ
[Girolamo
Giacobbi 作曲家]
オルガン奏者の楽譜には、通奏低音に慣例の様々な指示記号を加え、歌の最高声部をも添えておいた。それは、オルガンが歌声を重複し続けねばならぬわけではない。むしろ歌の声部を読みながら、歌手を補佐して、慎重に伴奏するための配慮である。とりわけ独唱の個所では、控えめな伴奏であるがゆえにこそ、歌手が強弱を変化させ、自分の好みの創作旋律を用いて、この多声楽曲に相応しいと思えるほどの、完璧な演奏を実現してほしい。(『多声的詩篇』序文、1609年)
ジャン・パオロ・チーマ
[Gian Paolo Cima 作曲家]
私の多声楽曲を楽しんで歌っていただける諸賢には、記譜してある通り、しかも最大限の感情を込めて演奏するようにお願いしたい。曲を歌いながら、その優美さを少し追加したければ、強弱変化と「トリッロ」だけにしてほしい。有能なオルガン奏者も、私の(通奏低音と最高声部だけでなる)作品に内声をつけて伴奏する際に、できる限りの注意を払ってもらえるならば頼もしい。心地よい伴奏は、歌唱をも心地よくするからだ。幾らか自在な楽句を思い付いたとしても、歌詞、あるいは音楽の情感を考慮に入れてもらいたい。そうすれば、すべての事柄が適正な判断から成り立っているのが分かるはずだ。総譜には歌の声部と同じく、多くの個所に装飾音が記されている。これは、歌唱様式を明示するためだが、時おり装飾音を奏でると、歌手にとっても大きな助けとなる。(『宗教多声楽曲』後書き、1610年)
アドリアーノ・バンキエーリ
[Adriano Banchieri 作曲家]
それはさておき、歌手たちは少しばかりのお金が欲しさに歌の学校を開くが、彼らは音楽について全く無知なので、生徒を習熟させるどころか、無能にしてしまう。生徒は、有能な教師ならば二年で学べるはずなのに、四年を費やしてしまう。また、たとえ学べたとしても、根拠のない我流の歌い方を身につけて、カササギかムクドリのようだ。生徒の父親は、教授活動や作曲で自らの専門能力を示せる優秀な教師を雇うべく心がけてもらいたい。(『音楽帳』、1614年)
アマディオ・フレッディ
[Amadio Freddi 作曲家]
この作品の演奏者は以下の点に留意されたい。すなわち、コルネットとヴァイオリンは器楽曲を奏でるために、そして歌手が続けざまに歌わなくても済むように、声を少し休ませるために役立つ。さらには総奏の部分、歌手の付き添い、そして声と保つべき相互関係にとっても便利である。なお、熟練の歌手には容易に理解できるだろうが、総奏では他のすべての楽器も演奏に加わる。(『ミサ、晩祷、終祷』序文、1616年)
セヴェロ・ボニーニ
[Severo Bonini 作曲家]
通奏低音を演奏する人は、音符を細分化したり、「グルッポ」をつけたりしないこと。さもないと、歌手が表現する感情や装飾音符をかき乱し、覆い隠してしまうからだ。優美さとは声を強め、あるいは弱めながら、時おり「トリッロ」や「グルッポ」、そして幾らかの細分音符を添えて歌う方法である。(『宗教的叙情曲』後書き、1618年)
フィリッポ・ヴィターリ
[Filippo Vitali 作曲家]
ローマは、卓越した歌手を得るのに最も好都合な土地なので、役者たちがどのように演じたかは容易に想像できるだろう。彼らは生き生きとした動作で、言葉とその意味に霊気を吹き込んだ。すべての所作が優雅で必要で自然だった。顔つきを見れば、彼らが口で説明する様々な情動を、本当に心で感じているかのように思えたはずだ。(『アレトゥーザ』序言、1620年)
フランチェスコ・ロニョーニ
[Francesco Rognoni 作曲家]
歌の優美は主として、唱えるべき言葉を十分明確に表現することにある。ゆえに私はここで、選ばれた達人たちの足跡を追いかけようとする歌手の注意を促したい。言葉を発音する声は、魂が抱く内容を説明する道具に他ならないから、何かをするための道具、あるいは、そのすべき何か自体をさらに深く考慮してもらいたい。そして我々の問題は、言葉を歌う声と歌われる言葉の、どちらをより良く聴かせねばならないかだ。(『創作旋律選集』、1620年)
ジロラモ・ディルータ
[Girolamo Diruta 作曲家]
学習の初めに誤った音を歌う悪癖がつくと、それを取り除くのが困難だろう。音の正しい歌い方を教わるため、有能な教師に習うように、あらゆる努力をしてほしい。正しい音は書くことも、例示することも不可能だ。耳で習得するしかない。(『トランシルヴァニアの人』第二部、1622年)
ジョヴァンニ・ブルネッティ
[Giovanni
Brunetti 作曲家]
私は、伴奏に弦楽器を用いないことにした。オルガン奏者ならば、前後の音符を考慮し、歌手の声部にも耳を傾けるだけで、それに見合った伴奏がたやすく理解できると想定したからだ。歌手は作品の趣意を然るべく伝えるために、記譜された通り、しかも出来るだけ感情を込めて演奏してもらいたい。(『多声的詩篇』序文、1625年)
クラウディオ・モンテヴェルディ
[Claudio Monteverdi 作曲家]
ヴェネツィアに到着したあのボローニャの青年はまだ落ち着いておらず、どんな用事でも礼拝堂に来るように熱心に努めておりますが、ミサには参加しません。しかし、ラパッリーニ氏よりも優美な声で歌い、作曲を少し心得ているので、確かな演奏ができます。言葉を非常に分かりやすく発音し、創作旋律をずいぶん楽にこなせて、若干のトリッロも身につけています。声にそれほど深みはないのですが、室内でも舞台でも、貴殿のお気に召すことでしょう(そう期待いたします)。(書簡、1627年)
イニャツィオ・ドナーティ
[Ignazio Donati 作曲家]
この種の旋律を独唱する際に、決して拍節を打たないこと。むしろ可能な限り音価を拡大して歌うように心がけるべきだ。声を随意に加減しながら、感情を込めて、嘆息を発し、時と場所に応じて声を出来る限り弱め、あるいは強め、不安や恐れを歌で表さないように。オルガン奏者は、歌手が発する言葉のすべてを自分の楽譜から読み取れるので、別の創作旋律が歌われても伴奏は常に待機して、歌手が技巧を聴かせる時間を設けてくれる。ただし、これには忍耐力が必要である。(『モテトゥス集第二巻』序文、1636年)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ドーニ
[Giovanni Battista Doni 音楽理論家]
第一に、役者たちが歌にきわめて熟達し、いとも確実に歌えるならば好都合です。[...]耳が鋭く繊細であること。なぜならば、彼らの語り口の声色が楽器の音と調和し、順応するほうが、逆に楽器が語り口の声色に従うよりも容易だからです。[...]第二に、舞台の歌手が音楽家と一緒に演奏する際に、自分が使える発音と朗読の方法のうち、最も適切で安定しており、自然で使い慣れたものを選ぶことが必要です。(『音楽の類別と方式の概要への注釈』、1640年)
ピエトロ・デッラ・ヴァッレ
[Pietro Della Valle 作曲家]
あとは歌に関する議論だけが残されており、やはり多くの事柄を考慮せねばなりません。一人で歌うのと集団で歌うのとの違いの他に、声の良さ、歌手の技量、そして歌おうとする曲の美しさをも論じる必要があります。独唱には、歌声の優しさと技術の精妙さが要求されます。ただし、その両方を正しい判断によって用いなければ、聴く人には何も伝わりません。(『今日の音楽』、1640年)
オラツィオ・スカレッタ
[Orazio Scaletta 作曲家]
もしも楽曲に歌詞があり、「死」、「痛み」、「苦しみ」、「悲しみ」、「責め苦」、「心痛」、「悲嘆」、「厳酷」、「苛烈」などを意味する場合は、装飾旋律を決して用いてはならない。むしろ上記の言葉を(既述の通り)、「苦しみ」、「悲しみ」、「責め苦」といったあらゆる感情と繊細さをもって表現すべきだ。歌詞が楽しさや喜びを意味するならば、元気かつ陽気で機敏な歌い方をすること。作曲家は言葉の感情や意味に従い、それに適した音楽を付け、楽譜に書いた通りの方法で歌ってもらえるように最大の努力を払う。ゆえに、歌手が自分の立派な装飾旋律を聴かせる目的で、作品を損なわねばならぬ道理はない。この配慮を怠るのは、本当の歌い方を知らない大きな証拠である。歌手の任務は、歌う曲を尊重し、理解し、言葉が含む感情を歌声で表現することだからだ。(『初心者のための音階練習』、1642年)
アタナシウス・キルヒャー
[Athanasius Kircher 音楽理論家]
複数声部の音楽で、聴いている人の心に共感が起こらなければ、原因は音楽作品自体ではなく音声を発する者、つまり歌手の不手際に帰するべきだ。[...]知識がない者はあいにくながら、他の歌手たちの声に頼ってしまう。伴奏が欲しいためであったり、自分の無学を恥じてみたり、理解も実現もできない事柄を侮るのがその理由だ。また、技能を確実に身につけていないのに、音楽の演奏で何か成功を収めた者は、歌いながら誤りを犯し、熟練者にひどい不快感を与える。(『音楽総説』、1650年)
ロレンツォ・ペンナ
[Lorenzo Penna 作曲家]
二つ、三つ、四つの声部からなるどの曲でも、オルガン奏者は注意深く手と目と耳と精神を準備し、鍵盤を用いて歌手の声を伴奏すること。しかし独唱曲で歌声に付き添う場合は、きわめて慎重に振舞わねばならない。(『音楽入門』、1684年)
クリストフ・ベルンハルト
[Christoph Bernhard 作曲家]
それとは別に、はるかに重要なのが言葉の理解である。歌手はドイツ語、すなわち自分の母国語に加え、少なくともラテン語とイタリア語は熟知せねばならない。歌手たちは多分、これらの言語をまったく知らぬだろうが、本物の完璧な習得を志す者がごく僅かだとは嘆かわしい。彼らは何度も自分の無知をさらけ出し、玄人の聴衆を大いに侮辱する。ラテン語の「固定」という単語を創作旋律で歌ったり、「深淵」という語で創作旋律を聴かせようとしながら、声を高音域で駆け巡らせたりする。感情は、理解された言葉から生まれるものだ。音楽の中で再現できる最も顕著な感情は、喜び、悲しみ、怒り、優しさ、等々である。(『歌唱の技術』)
アンジェロ・ベラルディ
[Angelo Berardi 作曲家]
現在、音楽家の活動内容は昔よりもはるかに多彩なので、歌手たちの性質や才能を理解することが非常に重要だと考えられる。歌手たちの中にはそれぞれ、悲しい物語、陽気な物語、創作旋律の奇抜さ、歌い方の変更、教会音楽、室内音楽、さらには劇場音楽やオラトリウムの音楽などに秀でた者がいる。ゆえに熟達した作曲家は、歌の声部を調和に等しく一致して組織するため、人間の声の異なる音質を把握できる必要がある。(『音楽論集』、1689年)
ジョヴァンニ・アンドレア・アンジェリーニ・ボンテンピ
[Giovanni Andrea Angelini Bontempi 作曲家]
ローマの学校では生徒たちが毎日、複雑で扱いにくい曲を歌って体得するために一時間、「トリッロ」に一時間、創作旋律の稽古に一時間、読み書きの学習に一時間、そして歌の授業と訓練に一時間を割くように、義務づけられていた。生徒は教師が聴くかたわらで、腰、額、眉、口などに不適切な動作なく歌える習慣をつけるため、鏡の前に立たされた。上記はすべて、午前中の課題だった。午後は音楽理論に半時間、単旋律曲を用いた対位法に半時間、対位法の規則を学び、音楽帳で実践するのに一時間、読み書きの学習にさらに一時間を費やしてから、その日の残りは気の赴くまま、クラヴィチェンバロ伴奏法を練習するか、詩篇唱、モテトゥス、カンツォネッタ、その他の旋律を作曲していた。これが、生徒たちが外出しない日の、普通の修行生活だった。(『音楽史』、1695年)
フランチェスコ・アントニオ・ピストッキ
[Francesco Antonio
Pistocchi コントラルト歌手]
諸賢は、私が自分の母国語ではない言語で独唱曲を創作、出版するのを見て、かくも大胆な所業に呆れ果てることだろう(私は十分に承知のうえだ)。そのいかにも確かな証拠として、ご覧の通り、私はフランス語の声楽曲では、比類なきジャン・バプティスト・リュリ氏の作曲様式を、自力が及ぶ限り模倣しようと心がけた。ドイツ語で作曲するに際しては、私の平素の様式を用いた。なぜならば、ドイツ様式はイタリア様式から派生しているからだ。私の(イタリア語のカンタータと二重唱曲、そしてフランス語とドイツ語の独唱曲からなる)小品がお気に召し、三つの国で楽しく歌われて役立つだろうと信じたい。(『音楽の諧謔』)
ジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニ
[Giovanni Battista Bassani 作曲家]
リッツィエーリ氏は前述の音楽協会に属するソプラノ歌手で、現在も修行中ですが、歌声をとても自在に操り、大役も果たせます。当地フェッラーラでは実に人気があり、この前の謝肉祭公演期には、ピナモンテ伯爵が作曲なさったオペラの上演に加わりました。リッツィエーリ氏がボローニャに赴いてしばらく滞在する間に、歌手として仕事が見つかるならば、氏はクラヴィチェンバロ伴奏や写譜の能力もありますので、ペルティ先生の保護にお任せします。氏の実力を吟味の上、その結果に応じてお世話いただけますように。私は、いかなる結果もそのままに受け止め、貴殿のあらゆるご要請にお応えします。リッツィエーリ氏は、誰か子女に歌を教える機会でもあれば任務を果たせますし、必要な場合は伴奏もできます。(作曲家ジャコモ・アントニオ・ペルティへの書簡、1700年)
ジュリオ・カヴァッレッティ
[Giulio Cavalletti ソプラノ歌手]
この謝肉祭公演期に、私はナポリで多数の出演依頼を受けました。しかし、公爵夫人は契約をお許し下さいません。それは、歌手の一座が貧弱すぎるため、大して私の評価が高まらないとの理由です。ブラウンシュヴァイクにいるニコリーノ氏も、ジェノヴァの劇場に出張なさるはずでしたが、副王様の承認が得られませんでした。(作曲家ジャコモ・アントニオ・ペルティへの書簡、1702年)
マルゲリータ・サリコラ・スイーニ
[Margherita Salicola Suini ソプラノ歌手]
ヴィーンの身分のある方から、どなたか高名な音楽家の作品をお求めである旨、私のほうにお便りがございました。しかし、このような場合に、私は自分の近くにいる作曲家について、腕前どころか価値すらも期待していません。そこで、貴殿の類まれな美徳と比類なき技量を念頭に置きつつ、まことに厚かましながら本状にて、貴殿を正しく評価する者をお助け下さいますよう、お願いに上がった次第です。[...]私といたしましては、レチタティーヴォを一つだけ含み、ホ長調で書かれたアリアと、あとは楽章を適宜に設けたカンタータであれば嬉しく存じます。とはいえ、貴殿がその極めて高い技量で、いかに多くの作風と変化を生み出せるかは承知しております。そこで、私が貴殿から、実に得難い優美な作品を賜るこさえ可能ならば、ご随意に作曲していただいて結構です。ただし、これは私の切なるお願いですが、音楽と歌詞が全く新規である分だけ、より珍しく独自な作品として重んじられることを、どうかご考慮くださいませ。(作曲家ジャコモ・アントニオ・ペルティへの書簡、1702年)
アレッサンドロ・スカルラッティ
[Alessandro Scarlatti 作曲家]
私は自分の任務を果たすため、どんな機会も逃したくありません。そこで恐れ入りますが、曲の演奏者について、情報を頂きたいのです。歌手の声と技量に音楽を適合させるのが、その唯一の目的です。第一幕への付記には、《アステリア》役のヴィットリア・タルクイーニ夫人と、《バジャゼ》役のジュゼッペ・カナヴェーゼ氏の名前しか見当たらず、他の役はすべて空白でした。《ロッサーネ》役は(付記に、「《ロッサーネ》役は去年と同じくコントラルト歌手」と書かれているので)レッジャーナ夫人ではないかと想像しますが、それ以外の四つの役が誰なのか、私は存じません。それぞれの歌手の声と技量に即した音楽づくりは、彼らの声と技量そのものを確実にする方法の一つです。こうして、聴く人から喜んでもらえるように、上演全体を成功へと導くことが出来ます。(書簡、1706年)
ザッカリア・テーヴォ
[Zaccaria
Tevo 音楽理論家]
言葉は音楽に付加されるようになった。それは、音楽が言葉を助けたというよりむしろ、言葉が音楽を助け、さらに完全ならしめたのである。音楽に言葉が加わり、精神がそこに吹き込まれたのだから。ゆえに、声楽は器楽よりも尊重される。逆に音楽は、たとえ独唱曲であっても、常に言葉を不明瞭にさせる。(『音楽の織物師』、1706年)
カルロ・フランチェスコ・ポッラローロ
[Carlo Francesco Pollarolo 作曲家]
貴殿には常日頃、私の非才ぶりに大きなお情けを頂戴しております。そこで、元老院議員カルデリーニ殿から新たに受け賜りましたオペラを上演する際にも、相変わらぬご厚意により、なにとぞ私の不行き届きをご容赦いただけますよう、心よりお願い申し上げます。マルゲリータ・プロスドチモ夫人には、歌手として最高の敬意を抱いております。私にいたらぬ点は多々ございますが、夫人にはあらゆる優遇と配慮をもってご奉仕いたします。夫人が、私のご尊敬する貴殿の庇護の下にいらっしゃる以上、当方に関しましては、夫人についての一切の事柄につき、ご安心いただいて結構かと存じます。(作曲家ジャコモ・アントニオ・ペルティへの書簡、1708年)
べネデット・マルチェッロ
[Benedetto Marcello 作曲家]
二つ目のマドリガーレは、ソプラノ歌手とコントラルト歌手が自らの弁明のために演奏し、テノーレ歌手とバッソ歌手を打ち負かす。彼らの声部は、ここでも宗教的な言葉をともなっている。ただし、内容が荘重かつ厳格であるにもかかわらず、陽気な調子と敏活な速度で演奏し始める。彼らが何もかも冗談半分で歌い、言葉の意味をまったく理解せず、マドリガーレの音楽が自分たちの好みに合わせて作られたと信じている証拠である。緩徐楽章では、彼らが様式感覚と麗しき流儀にかなうと主張する装飾句をつけて歌う。こうして、対位法に基づく規則的な音型を崩し、耐え難い効果を醸し出す。同じことは、マドリガーレの終結部でも起こる。(作品の趣旨に沿った演奏ならば、どの声部も四分音符や八分音符を保って歌うはずだが)歌手たちは音符の細分化を競い合い、お互いに甚だしい不協和音を奏でる。この逸脱ゆえに、対位法が本来の好ましい効果を発揮できない。従って、去勢歌手たちよりもむしろ、礼拝堂楽長こそが犠牲にされてしまう。(『二つのマドリガーレ』解説、1715年頃)
フランチェスコ・ガスパリーニ
[Francesco
Gasparini 作曲家]
レチタティーヴォの伴奏をいくらか粋な感じで始めるため、協和音をアルペッジョに近い弾き方で展開するが、これを続け過ぎないこと。歌の音符に和声を付けた時点で鍵を押えて保ち、歌手が満足して、詩の表現が赴くまま自由に歌うのを待つべきだ。分散和音を連発したり、創作旋律を上下に伸ばしたりして、歌手の迷惑や妨害にならないこと。幾人かの奏者は「過剰伴奏者」と呼ぶべきか、「未熟伴奏者」と呼ぶべきかは知らぬが、彼らは速い手の動きが奇抜だと思って、それを誇示しようとして混乱を持ち込む。[...]以上のような跳躍や不協和は優れた歌手に、音楽作品の効果と様式感覚をより良く表出する可能性を与えるだろうと思われる。しかし前述の通り、伴奏者は分別を携え、自分を大いに満足させる以前に、歌手と聴衆が一層満足できるように配慮することだ。(『クラヴィチェンバロ伴奏者』、1722年)
ピエルフランチェスコ・トージ
[Pierfrancesco
Tosi 声楽教師]
稽古に力を注ぐことと、美しい声を維持することの両立は、不可能に近い。この二つの要件の間には深いよしみがあり、いずれも等しく重要でありながら、両方を同時に満たすのはとても難しい。しかし、声の良さは生まれつきの素質だが、技術的完成は苦労の賜物である。そう思えば、稽古への精励はより価値が高く、一層の賞賛を得てしかるべきだ。(『古今の歌手たちの見解』、1723年)
ジュゼッペ・リーヴァ
[Giuseppe Riva 外交官]
イギリスで上演されるオペラは、音楽と歌声が美しいのと同じ程度に、詩の観点からして拙劣です。王立音楽院が発足した当初、私たちのパオロ・ロッリ氏が台本を書く役目を負い、二つの秀作を生み出しましたが、のちに氏は経営者たちと悶着を起こしたため、代わりにヘイム・ロマノなる人物が採用されました。この人物はチェロ奏者であり、文学には全く無知で、楽団員席から厚かましくもパルナッソスに登りつめ、すでに三年前から発注を受けています。いやむしろ、最初から粗悪な昔の台本を彼がますます下手に焼き直した代物を、オペラの作曲家たちが用いています。(書簡、1725年)
声楽作品の創作は、歌詞に従わねばならない。さらに明言すれば、音楽家の主要な関心事は、歌詞の意味を表現することである。たとえ特上の音楽があったとしても、この目的に沿わないならば使用を控え、月並でより表現に適した他の音楽で満足すべきだ。それでこそ、良識が必要とする効果を、音楽の理解者ばかりか、歌詞に注意を払う人々にも呼び覚ませるだろう。(『作曲家と歌手への忠言』、1728年)
エマヌエーレ・ダストルガ
[Emanuele D’Astorga 作曲家]
この一世紀以来、イタリアとスペインで出版された音楽作品は、言わば同一の模範形式に拠っていると見て差し支えない。しかし、両国の作曲家が荘重な教会用の音楽に使った様式が完全に等しい一方で、それと同じことが(原因は何であろうと)、室内声楽曲や劇場向けの音楽ではまったく認められない。私は出来ることならば、この不一致を解消したいと考えた。幼い頃から作曲法を楽しんで学び、両国に対して自然な興味を抱いていたからだ。それに私は、自分が生まれたイタリアのみならず、先祖の故郷であるスペインをも祖国と見なしている。かような企てを実行し、体験的知識の検証に耐える試作を行うべく、私はこれらのカンタータを作曲した。スペイン語とイタリア語の歌詞に、その想念を自然に表出するに最適と思われる性質の音楽を当てはめた。スペイン語はイタリア語からの訳詞だが、いずれも音楽と融合して、お互いに独立した原詩のような格好である。私が自ら据えた目標に達したかどうかを見定めるには、二つの言語、すなわちカスティリャ語とイタリア語が完全に理解できねばならない。それぞれの言語において、文節どうしの差異をよく判別し、両国の音楽的嗜好に慣れ親しむことである。上記の諸条件のうちどれか一つでも欠ける人は、この作業の困難さが認識しづらいだろう。適正な見識をもって評価するのは、なおさら難しいはずだ。(『室内カンタータ集』、1726年)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
[Georg
Friedrich Händel 作曲家]
貴殿にお手紙を差し上げた後に、私は再びメリーギ夫人を起用する術を得ました。夫人はコントラルト歌手なので、今度はイタリアから、女性ソプラノ歌手を起用せねばなりません。この件について、私はマックスウィニー氏にも同便にて書き送り、氏が貴殿にご推薦なさる女性歌手が、女役だけでなく、男役をも担当できるようにとも、お願いしておきました。貴殿はまだ、女性コントラルト歌手を契約なさっていないとお見受けします。もしも契約が結べるならば、以上の点を考慮すべきでしょう。なお、勝手ながら、出演契約書の文面には主役、準主役、脇役などの記述を避けて下さいますよう、改めてお願いいたします。劇の選択にとって制約となるばかりか、大きな諸問題が発生しかねないためです。また、貴殿のお力添えにより、本年10月から1731年7月にいたる次の公演期に、男性歌手と女性歌手をそれぞれ一名、確保できるようにと期待しております。(書簡、1730年)
カルロ・ベナーティ
[Carlo Benati 作曲家]
アドルフ・ハッセ氏が(自発的に)ボローニャに来られる前に、ペルッツィ嬢の庇護者であられるリチニオ・ペポリ伯爵が、ブランビッラ氏を彼女のもとに遣わされ、その歌唱力について明記した書面をナポリにいたハッセ氏に届け、氏がペルッツィ嬢に適した曲を作れるようにとの旨、手配を命じられました。[...]ハッセ氏がボローニャに到着するやいなや、ペルッツィ嬢は氏の自宅を訪れ、ファウスティーナ夫人と氏に挨拶しました。氏がその場でペルッツィ嬢に話したのは、彼女が自分の技量に関する手紙をナポリに送る必要がなかったこと、氏はヴェネツィアで二年前に彼女の歌を聴いたので、いかに作曲すべきかを心得ていること、そして、氏が誰かを贔屓して他の誰かを蹴落とすようなことはない善良な人物であるということでした。ペルッツイ嬢は、決して自身にそのような考えがなく、庇護者のペポリ伯爵が彼女の歌唱力に関する手紙を書くように勧めなければ、書くつもりはなかったと、ハッセ氏に伝えました。貴殿は、ハッセ氏がこの局面で二つの過ちを犯しているのがお分かりでしょう。一つは、ペルッツィ嬢が、ハッセ氏が自分ではなく他の歌手を贔屓するだろうと疑って、自分の歌唱力について書き送ったなどと考えたこと。もう一つは、ペルッツィ嬢がナポリに送った手紙に氏が返事をせず、曲を演奏してくれる職業歌手に対し、敬意を欠く態度を取ったことです。なるほど、氏は旅行中だったので返事が出来なかったと弁解しました。しかし、ペポリ伯爵に返事をお送りすれば、然るべき礼儀作法に従い、ペルッツィ嬢宛ての書面も添えて少しは返事ができた、いやむしろ、返事をせねばならなかったはずです。職業歌手としての彼女の地位は、ハッセ氏の返信がもらえないほど低くはありません。とはいえ、それにはこだわらず、些事と見なしておきましょう。ハッセ氏は、彼女の歌をヴェネツィアで二年前に聴いたのだと伺いました。これは氏のさらなる過ちであって、ペルッツィ嬢の歌を聴いた当時の実力で判断するのではなく、現在の実力で判断すべきでした。彼女はその職業生活において、絶えず発展を遂げているからです。(アントニオ・マリア・ベルナッキへの書簡、1733年)
カルロ・ブロスキ
[Carlo Broschi, detto Farinello ソプラノ歌手]
もう一つの劇場の状態をご報告いたしますが、やがて閉鎖されるだろうとの噂をロンドン中で聞きます。神のおかげで、私の用心に効果があり、当地の気候は現在のところ、健康にも声にも全く害を及ぼしていません。(書簡、1734年)
こちらに着いた最初の日から毎晩、君主様の足元で歌う生活をそのまま続けております。現在の生活が維持できるように、私を健康に保って下さることを、神にお祈りします。毎晩必ず八、九曲のアリアをわが身に注ぎ込みます。休暇は皆無です。(書簡、1737年)
アントニオ・ヴィヴァルディ
[Antonio Vivaldi 作曲家]
稽古の段階ですでに、彼はレチタティーヴォをいかに伴奏すべきかの見当がついていない、との報告を受けました。その後、私のレチタティーヴォを、彼は大胆にも自分の技量と悪意に合わせて書き直したのです。かくして、伴奏能力の欠如と改変とで、どれも台無しにされてしまいました。
それらは、最初にアンコーナで創作したのと同一のレチタティーヴォです。音符を変えないままでも、とりわけレチタティーヴォの場面が絶大な拍手で迎えられたのは、上様もご存知でしょう。
ヴェネツィアでの稽古で、フェッラーラの第二テノーレ歌手、ミケリーノが同じものを歌うと、見事な出来でした。ミケリーノが室内で稽古すれば、秀作が駄作かは誰にも分かるはずです。つまり、私の楽譜の原本は、音符や数字の一つでも、小刀やペンで消されてはなりません。すべては、あの巧妙な演奏家の仕業です。
上様、私にとっては絶望です。あんな無知な人物が、私の哀れな名声を傷めつけて、彼自身の幸運を確立するのも我慢がなりません。(書簡、1739年)
ジュゼッペ・ティバルディ
[Giuseppe Tibaldi テノーレ歌手]
ヴェントゥーラ・ロッケッティ氏は、第三幕の叙情アリアの途中で退場せねばなりませんでした。さもないと、観客が罵声を浴びせたことでしょう。この歌手は、「トリッロ」、「モルデンテ」、「アッチャッカトゥーラ」、小節の半分を占める「アッポッジャトゥーラ」などが盛り沢山の古い流儀を用いるからです。それらは、当地では一向に好かれませんし、もはや他の場所でも歓迎されないと思います。好評だったのは脇役の男で、彼は美声ですが、歌手とは全く言えません。お気の毒なヨンメッリ氏は実に尊敬すべき音楽家ながらも、落胆なさっています。(書簡、1753年)
ジャン・ジャック・ルソー
[Jean-Jacques Rousseau 音楽理論家]
すべての言語の中で最良の文法を有するのはどれか、との質問には、最も思考が得意な民族の言語だと答えよう。どの民族が最も優れた音楽を持っているか、との質問には、音楽に最適の言語を用いる民族だと答えよう。私はそれをすでに証明したが、後にこの手紙の中で再確認する機会があろう。さて、ヨーロッパで音楽に適した言語が存在するならば、それはもちろんイタリア語である。イタリア語は他のどの言語よりも柔和で、響きが良く、調和的で、強弱が明確だが、この四つの特質はまさに、歌唱に最も適しているのである。イタリア語が柔和なのは、構音動作が複雑でなく、子音どうしの衝突も稀でしかも硬くないのに加え、音節の大多数が母音のみからなり、頻繁に起こる母音省略で発音が滑らかになるからだ。イタリア語の響きが良いのは、母音の多くが明瞭で、複合二重母音がなく、鼻母音が僅かもしくは皆無であり、構音動作が少なく簡単なので、音節がよく聞き分けられ、清澄で均質な声になるからだ。(『フランス音楽に関する書簡』、1753年)
フランチェスコ・アルガロッティ
[Francesco Algarotti 音楽理論家]
さて、音楽作品の場合、それが醸し出すべき効果を論じただけでは済まされない。作品が与える効果の大部分は、歌手がいかに演奏するかで決まるからだ。多くの歌手は、自分の言語をしっかりと発音する稽古がどれほど必要なのかを、考えたこともなさそうに見受けられる。[...]作曲家はレチタティーヴォの完成度をほとんど気にしないが、歌手もまた、レチタティーヴォを上手に朗読しようとはまったく考えない。精神と心に言葉を刻み込むあの表現を用いて、そこに生気を吹き込もうともしない。だが、他ならぬレチタティーヴォこそ、声楽作品の最も重要な基礎なのである。また、アリアそのものも、正しく朗読されねばならない。この点に関して、ニコラ・グリマルディ氏は、「オペラ公演の貼り紙には音楽を『朗読する』<si recita>と書いてある。『歌う』<si canta>とは書かれていない」と述べている。しかし歌手たちは、アリアを歌うどころか、むしろ創作旋律とアルペッジョを施すことのみに全力を注ぐ。(『音楽作品評論』、1755年)
ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ
[Giovanni Battista Martini
作曲家]
ここで注意しておくが、「芸術修行」なる語から、歌の熟達を願う人のための規則や教授法のみを把握してはならない。歌うのに最適の資質を持つ人が、優秀な歌手の演奏を長期にわたり聴き続け、熱心に模倣に励むうちに、彼と比肩するにいたるのは、常日頃から見られる通りだ。その理由は、規則や教授法が実践の習得を早めて確実にする反面、本当に能力を得たいならば、稽古に励むしか方法がないからだと思われる。「芸術修行」が目指す到達点は、この能力獲得である。ゆえにどの学芸でも、実践力を身につけるために重要なのは、説かれた規則や、それに従う人を真似る稽古ではない。いかなる稽古も、あくまで「芸術修行」の一環として、天性の素質を完全ならしむ勤勉と苦労の助けのもとに行うべきである。(『音楽史』第一巻、1757年)
ジュゼッペ・サンタレッリ
[Giuseppe
Santarelli ソプラノ歌手]
コーリ氏の身に降りかかった事件の際に、私は長大な論考を十二の批判項目に分けて書くにいたりました。そこで、イタリアではグレゴリウス聖歌と多声曲、作曲家と演奏者、劇場と教会などの区別を問わず、音楽能力が極めて低下している事実を、覆い隠さずに記しました。とはいえ、私はパレストリーナの権威にすがってまで、当今の歌手たちから一斉の非難を浴びたくはございません。常に慈愛と礼儀にかなった振る舞いを心がけ、たとえわが民族と歌唱芸術の誇りに背いていたとしても、それなりにすべての人士を称揚しようと努めました。貴殿のご賛同がいただけるならば、いつかこの書を出版したいと考えております。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1759年)
ヨハン・クリスティアン・バッハ
[Johann Christian Bach 作曲家]
確かに先週、私はレッジョに参りましたが、あまりにも多忙なので、オペラ公演の最終日を観るため、一泊したに過ぎません。そして直ちにパルマへと赴き、二晩だけ留まってからミラノに戻り、旅行の全日程は六日間でした。私の仕事に時間が割かれ、なるべく早く終えるために、駅馬車で駆け回らざるを得なかったのです。出張を行った唯一の目的は、レッジョの劇場で二人の歌手の演奏を聴くことです。彼らはトリノでも、次の謝肉祭公演期に歌う予定なので、両人の技量に関する知識は、私にとって有益でした。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1760年)
ガエターノ・オッターニ
[Gaetano Ottoni テノーレ歌手]
有難くも楽曲を解説して下さるジャン・フランチェスコ・デ・マイオ先生のご様子から、同先生がいかほどに私をご贔屓いただき、貴殿からの紹介状をも念頭に置いていらっしゃるかが、大変よく理解できました。数日前にはレチタティーヴォの楽譜を拝受し、それが私の声域に合わせて見事に書かれていたので、たいそう感激いたしました。アリアのほうも、やはり大満足できるものではないかと期待しております。デ・マイオ先生からのすべてのご厚遇と、私がアリアを演奏して、聴衆から得たいと望んでおります拍手は、作者であられる同先生の技量のみならず、ご親切なお力添えをいただいた貴殿のおかげでもあると、承知いたしております。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1762年)
アントニオ・ロッシ
[Antonio Rossi バッソ歌手]
本状にて、私が先生を真心から敬う下僕なることを改めてお伝えし、さらに甚大なるご好意を頂戴いたしたく、お願いに上がります。バイエルン選帝侯に仕えていたバッソ歌手のゾンカ氏がすでに亡くなったか、または亡くなりかけたため、あの宮廷では、バッソ歌手で滑稽役の演技が得意な者を一名探し求めていると聞きました。そこで、私がそちらを立ち去る時にお頼み申し上げました通り、貴殿から何らかの推薦状をお書きいただきたく、神の愛にかけてお願いいたします。どうか先生、神の愛にかけて、このお慈悲を賜りますよう、私が家族を扶養するために仕事の場所が得られるかどうか、お確かめください。貴殿の温厚でご親切なお人柄に頼りつつ、私のこの厚かましい申し出にご容赦をと、切に願う次第でございます。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1763年)
ジョヴァンニ・マルコ・ルティーニ
[Giovanni Marco
Rutini 作曲家]
貴殿がお望みなので、こちらの情報を差し上げます。ジュゼッペ・アプリーレ氏は万人を驚愕させています。誰もが、かつてこんな歌手は聴いたことがない、との意見で一致しています。技巧性と叙情性の両方で見事に歌い、朗読が予想できなかったほど素晴らしいのです。この朗読力だけでも、私は氏が傑出した歌手だと認めますが、前述の技巧と叙情を加えると奇跡にまで達します。私のオペラは『エツィオ』と題し、今月26日に上演されます。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1764年)
ガエターノ・ラティッラ
[Gaetano Latilla 作曲家]
貴殿の実にご丁寧な書面から、ヴェネツィア統領の聖堂に関わる件につき、いかほどの心配りと誠実さでお力添えいただいているかが見て取れます。私は貴殿がもう一通のお手紙で、モロジーニ財務官様が最もお気に召されるはずのソプラノ、コントラルト、テノーレ、バッソ歌手に言及して下さると期待いたしております。歌手たちは実力において際立ち、自らの手柄となし、聴衆にも喜ばれなければなりません。これが、来る降誕祭に欠かせない、現時点での具体的な要請の本質です。さて、財務官様は最初に優秀な歌手を確保し、凡庸な歌手を後回しになさりたいご意向なので、貴殿からご紹介のあったテノーレ歌手は検討に値するでしょう。モロジーニ様の利益に関わる事業を、どうか熱心にお進め下さい。平素の然るべき配慮(貴殿はそれを十分に携えておられますが)をもって最善の結果に寄与し、そのことにより、財務官様の栄光が誇示されねばなりません。 私の過分な口出しを、なにとぞお許し下さい。私とベルトーニ、ペシェッティ両先生が大いに気に掛けているからこそ、自らの任務遂行に関し、かくも厚かましく、貴殿に催促せざるをえないのです。ペシェッティ先生は、コントラルト歌手のチコニャーニ氏をご推薦なさいます。もしもチコニャーニ氏が妥当ならば、眬人の承諾を得るべく、貴殿にご手配をお願いいたします。ボローニャからお越しの別の先生によれば、シチリア出身のソプラノ歌手、サルヴァトーレ・カロベーネ氏も適任者だとのことです。この件につきましても、私の受けた報告が事実に沿うものかどうか、貴殿から情報をいただければ幸いです。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1765年)
アンドレ・エルネスト・モデスト・グレトリー
[André-Ernest-Modeste Grétry 作曲家]
私は、フランス語オペラをパリの王立劇場で上演するため、たいへん困難な作曲活動に入りました。貴殿もご存知の通り、フランス音楽は現在まで、いくぶん無表情で味気ないものでした。最も優れているのがジャン・フィリップ・ラモー氏の合唱曲であり、私もこれには限りない喜びを感じます。しかしアリアになると、この都市に集う全ヨーロッパ市民の言う通り、不快で、聴けるような代物ではありません。多くの作曲家が、イタリアの様式で音楽を書こうと試みて失敗しました。それは、イタリア語の歌詞を正しく用いなかったからです。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1767年)
アントン・ラーフ
[Anton Raaff テノーレ歌手]
彼は実直であり、風采もすぐれていたので、私は欺かれました。音を聴き、教えに耳を傾け、約束し、礼儀正しいのですが、我流で歌い、我流で練習するのです。[...]私や他の人たちとは常に正しいイタリア語で話し、良い発音の習慣を身につけること。例のヴェネツィア、パドヴァ、ボローニャ、ナポリやどこかの訛りを取り除くこと。私は彼に何度も繰り返し、さらに厳しく言い聞かせました。私の教えや助言が間違いだと思うならば言ってほしい、そうすれば、神と万人から見ても友人同士でいられるだろう、と。彼はすべてを約束しながら、何も実行しませんでした。ですから私は、この煩わしさと相当の不快感から逃れて、ナポリを去るのが大満足でした。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1768年)
ドメニコ・グラティナーラ
[Domenico Gratinara バッソ歌手]
貴殿には、本状の持参者であるフランチェスコ・ディ・ドナート君のご奉公と、私からの格別のご挨拶をお届けしたいと存じます。同君は、貴殿もよくご存知のフランチェスコ・ドゥランテ氏と、惜しくも他界されたニコラ・ポルポラ氏の弟子であり、歌唱と対位法の両方に優れております。こちらの宮廷で二年余りの間、首席テノーレ歌手として仕えてきましたが、音楽的能力だけでなく、礼儀作法の面でも感心な人物です。彼は貴殿にお仕えしたいと望んでおります。私も、当地で貴殿のお役に立てることがございましたら、ご用命の通りに最優先で成し遂げます。つきましては、彼をお見知りおき下さいますよう、よろしくお願いいたします。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1768年)
アントニオ・ネンチ
[Antonio Nenci オルガン奏者]
彼は18歳にもなりませんが、こちらの礼拝堂の第二合唱隊で、首席バッソ歌手をつとめるほどに技量を高めました。しかし、この到達点だけに甘んじず、対位法の技術を重視した、より完全な音楽実践に進むことを望んでいます。彼は、シエナに留まっていても無理だと見越し、自ら他の都市に移り住みたがっています。特にボローニャで、どなたか著名な方、とりわけ最も名高いマルティーニ先生のご指導のもとに、真正の歌唱技術を習得したい意向です。さて、彼の前には二つの困難が立ちはだかっています。マルティーニ先生が果たして、自分を弟子の一人として受け入れて下さるかどうか分からないこと。そして、仮に入門させていただいた場合、彼自身の能力だけで、せめて衣食だけでも支払える保証があるかどうかです。ボローニャのような都市で生活費をまかなえるほどの財産や、裕福な親類はまったく持ち合わせておりません。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1768年)
クリストフ・ヴィッリバルト・グルック
[Christoph Willibald Gluck 作曲家]
『アルチェステ』の作曲に着手した頃、私は歌手たちの間違った虚栄心、あるいは作曲家たちの過度な甘やかしゆえに持ち込まれた数々の逸脱を、まったく除去しようと決意しました。それらは長らくイタリア語オペラの姿を歪めており、すべての中で最も華麗で美しい見世物を、最も滑稽で退屈なものに変質させています。私は音楽に、物語の表現と状況に応じて歌詞に奉仕するといった本来の役割だけを担わせようと考え、劇の進行を中断したり、不要かつ余分な飾りで興ざめさせたりせぬよう配慮しました。そして音楽はそもそも、よく手を加えて整えた絵画において事物の姿に生気を加え、その輪郭を歪めないような光と影の色彩の鮮やかさ、上手に工夫された対照のような働きをなすべきだと信じました。ですから、対話が最高に盛り上がる所で、リトルネッロの演奏を待つために歌手を立ち止まらせたり、単語の中に含まれる歌いやすい母音を伸ばさせたり、長い創作旋律で美声の敏速性を誇示させたり、カデンツァ部で管弦楽が息継ぎの時間を与えることを認めたくありませんでした。どんなに情熱的で重要なアリアでも、その第二部で演奏速度を高めたり、第一部の単語を例のごとく数回反復したりすべきだとは考えませんでした。アリアの終結部も、歌手が一つの創作旋律を気まぐれに幾通りにも変える腕前を披露させるため、歌詞の意味が完結しないままで音楽を切り上げる義務など私にはないと思いました。つまり私は、良識と理性が長きにわたり異論を高らかに唱えていたすべての逸脱を排除しようと努めたのです。(『アルチェステ』総譜の献辞、1769年)
ジャン・フランチェスコ・フォルトゥナーティ
[Gian Francesco
Fortunati 作曲家]
貴殿からのご挨拶をまだ行政官殿にはお伝えできていません。その後、お話しする機会がなかったからです。しかし、私が作曲するオペラの件で、近いうちにご面談をいただく予定です。私はその上演に適した人材について質問を受け、リギーニ氏を第一男性歌手、トッツィ先生の弟子であるコントラルト歌手を第二に推薦しておきました。採用を期待しますが、私も恐らく何らかの役目を担うでしょう。その際には貴殿にもお知らせいたします。両人へのお世話いただいているようなので、それが良かろうかと存じます。私はカゼッリ氏を第一男性歌手として確保し、さらに氏は若くて非常に有能だと評したので、信用してもらえました。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1769年)
フランチェスコ・コッキ
[Francesco Cocchi テノーレ歌手]
クイリーノ・ガスパリーニ先生へのご紹介状を頂き、有難うございました。このたび、同先生は大喜びで貴殿からのご要請に応じて下さいました。先生は月末までしかトリノに滞在せず、それから二ヶ月間は、ベルガモ郊外の別荘に行くので残念がられています。 歌はもちろんのこと、クラヴィチェンバロの授業も大いに重視なさるのですが、ご出発後はあいにく、今まで通りの教えが授かりません。習った僅かな事柄だけでも覚えておくため、稽古の継続に努めます。ガスパリーニ先生からは、私を介して、貴殿に真心の敬意をお伝えするようにと承りました。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1772年)
ヴィンチェンツォ・カゼッリ
[Vincenzo Caselli ソプラノ歌手]
ベルトーニ先生は貴殿にご一筆なさり、お返事が得られなかったとのことです。そのことを本状にて貴殿にご報告し、私のために同先生への紹介状をお願いしたく存じます。ヴェネツィアには物見遊山で参ったとはいえ、勉学の継続はあきらめません。ベルトーニ先生は私の指導者として、必ずや、あらゆる事柄において熱心なお力添えをいただけましょう。貴殿から私をご紹介いただければ、ベルトーニ先生はなおさら、ご尽力くださるでしょう。ご親切な貴殿から、この贈り物をお待ちいたしております。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1773年)
ガエターノ・グワダーニ
[Gaetano
Guadagni コントラルト歌手]
そちらに、カファリエットと称する若いコントラルト歌手が、貴殿の手厚い庇護を得ていると伺っております。これからお話しする事柄の解決には、現在にまして、貴殿にまったくおすがり出来る機会はありえないかと存じます。歌手は劇場、室内、教会で奉仕できねばならず、美貌ではなくとも無難な容姿と十分な知識、そして良質の声が必要です。さて、このカファリエレット氏が、貴殿の変わらぬご見識により有能と認められれば(求められる資質に関して)、千フィオリーノの年俸と往復の旅費で、移籍の合意が得られるはずです。加えて、もしも氏が私のご主人様のお気に召せば、当然ながら氏の財力を窮乏させないように、契約は6年先まで延長されることでしょう。そちらにもう一人、歌手でロレンツォ・ジラルディ氏のお孫様が、貴殿の学校に通われていると伺いました。二人のうち、貴殿がより適材と判断なさる方を、このような折衝にふさわしい秘匿と警戒にて、ご手配いただきたく存じます。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1774年)
ジャンバッティスタ・マンチーニ
[Giambattista
Mancini 声楽教師]
16歳から18歳くらいの少年に、どんな長所があろうか。良い声と、結構な素質しか認められないだろう。残る分は数々の困難と苦労を経ながら習得せねばならない。さて実際には、将来を有望視された少年がかつて何人、入港の直前に座礁する船のような運命をたどったことか。この手違いはどこから来るかが問題だ。きれいな声で粋なポルタメントができ、身だしなみがよく、愛らしく美しい容姿に恵まれた青年がいるとしよう。それら生来の美質が彼に喝采と好評をもたらすや、彼はうぬぼれて、自らを空気で養い、もはや勉強しなくなる。[...]不断の学習、本当の素直な従順、大きな苦労への有難味、真の謙虚さ、キリスト者らしい態度、これらが良き職業歌手を作り上げ、際立たせ、世間での名誉を授けてくれる美徳である。(『歌唱についての実践的考察』、1777年)
クイリーノ・ガスパリーニ
[Quirino Gasparini 作曲家]
ベルナルド・オッターニ先生が作曲なさったオペラに関しまして、貴殿には確実な結果をようやくご報告できます。衣装と大道具、さらには歌手の演技を伴う初日の演奏には、より完全に気合が入るからです。実に率直に申しますと、音楽はたいそう好まれて、オッターニ先生も、聴衆の歓声と、王族の方々がご退席の際にお示しになった賛意にはご満足なはずです。オペラの音楽全体を支えるには、この数年、観客が完全に沈黙して聴き、人気を博した一曲のアリアだけで、いつも足りていました。作曲家が今回その結果を得られたのは、著名なデ・アミチス夫人のおかげです。第一幕では最初の「中庸な速度」のアリア、第二幕では敏捷な声を聴かせるアリア、第三幕では二重唱とオペラを締めくくる場面が好まれました。他にも三重唱と、ジュゼッペ・アプリーレ氏が歌った幾つかの独唱曲も成功でした。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1777年)
カルロ・レンツィ
[Carlo Lenzi 作曲家]
恐れながら、貴殿にあえてご面倒なお願いを申します。ベルガモの聖マリア大教会で雇えそうな少年ソプラノ歌手が、そちらで見つかるどうかお知らせいただきたいのです。[...]謝肉祭の全期間と四旬節の大部分は、劇場で歌っても、教会の給料は支払われます。秋は、9月8日から11月1日の万聖節までが休暇です。万聖節の当日も、オペラの出演契約があれば休暇の扱いにして、凡庸なテノーレ歌手を代役にします。[...]声が良く、健康、聡明で、こちらの礼拝堂で奉仕する意欲のある若い人物を、貴殿に見つけていただければ、私にとっては大変喜ばしく、本人もこの職務に満足してもらえると思います。(ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニへの書簡、1779年)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
[Wolfgang Amadeus Mozart 作曲家]
ラーフ氏は何もかも規則どおりに望み、表現については考えようとしない。僕は四重唱をめぐって、氏とはずいぶん争った。この四重唱が舞台で演奏されるのを想像すると、大きな効果を発揮するように思えてくる。ピアノ伴奏で聴いた人たち全員が気に入ってくれた。でもラーフ氏だけは、この曲が不成功だろうと言い張る。彼は、「声を伸ばせる所がなく、短かすぎる」と僕に打ち明けた。四重唱の歌詞は本来、歌うよりもむしろ、語らねばならないのに。氏はそれを一向に理解しない。僕は答えた。「親友よ、僕がこの四重唱で一つの音符だけでも変更すべきと判断すれば、直ちに実行するつもりだ。でも、僕のオペラの中で、この四重唱ほど好ましい曲は他にない。一度でも演奏を聴けば、君の見方も変わるだろう。僕は二つのアリアを君の好みに合わせるため、あらゆる苦心を払ったが、三つ目の曲もそうしようと思う。だが、三重唱と四重唱に関しては、作曲家の一存にゆだねてもらいたい」と。氏は、この点については満足してくれた。その後、ラーフ氏は最後のアリアで、単語<rinvigorir>と<ringiovenir>の発音にたいそう立腹していた。特に、<vienmi
a rinvigorir>には母音<i>が五つも含まれている。なるほど、アリアの締めくくりには、かなり歌いにくそうだ。(父親レオポルト・モーツァルトへの書簡、1780年)
エステバン・デ・アルテアガ
[Esteban
de Arteaga 音楽理論家]
今日のイタリア音楽をかくも有名ならしめたのは、アルプス以南で活躍する歌手たちの卓越性と、その人数である。[...]作曲家や楽器奏者の技術は結局のところ、意図する事柄をごく遠まわしにしか表現できない。これに反して歌は、諸学芸が目指す模倣の中では、最も完全で興味深いものだ。最も完全である理由は、人間の語り口を直接にまねることにより、表出の対象を形成する要素そのものが表出手段として役立つからだ。最も興味深い理由は、あらゆる可能な模倣の中で人間にとって一番好ましいのが、自分の感覚と情緒の模倣だからだ。絵画や彫刻は、いわば人間の表皮だけを模倣するが、歌は魂にまで入りこみ、その存在を知らしめ、動きを呼び起こし、最深部の変移を描き出す。(『イタリア音楽劇の発展』、1783年)
ヴィンチェンツォ・マンフレディーニ
[Vincenzo
Manfredini 作曲家]
様式に即して歌うとは、感情を込めて、魂で歌うことのみを意味する。声を支えて陰影をつけ、何よりも、あらゆる音楽作品を、その真意と性格に基いて表現することである。装飾音は確かに、様式に即した歌い方にも関わってくる。ただし、時宜に適った幾らかの優美な「トリッロ」や「アッポッジャトゥーラ」、「グロッペット」、創作旋律や装飾句の臨時的な変更だけにとどめ、しかも歌詞に決して背かない、高い見識をもって用いられる。良き音楽、すなわち本当に表情豊かな音楽は、ごくわずかな変更しか許さないからだ。(『調和の規則』、1797年)
ルイジ・ボッケリーニ
[Luigi Boccherini 作曲家]
音楽は人の心に語りかけるために出来ていますから、私は可能な限り、その目標に達するべく努力いたします。感情や情熱を伴わないような音楽は無意味です。だからこそ作曲家は、演奏者がいないと何も得られないのです。演奏者は、作者の意向を十分に汲み取る必要があります。さらに、作者が記譜した内容をすべて心で感じ、作者の精神活動に加わり、それを体験し、探り、学び終えてから、楽曲の演奏に臨まねばなりません。その時点でようやく、作曲家から喝采を奪い取るか、せめて彼と共に栄誉を分かち合うにいたります。「何と素晴らしい作品だろう」と評されるのも誇りでしょうが、「何と清らかに演奏されたのだろう」と言い足してもらえれば、なおさら結構です。(書簡、1799年)
カルロ・ジェルヴァゾーニ
[Carlo Gervasoni 作曲家]
器楽作品は、明らかに判別できる姿や特定の感情を人の心に伝えなくとも、耳を快感で溢れるように満たせば、それだけで足りる。軽やかで曖昧な表現を素早く聴き取り、各人が自分の心理状態に応じて何かを恣意的に想像し、感じられればよい。しかし声楽作品には、美しい詩が描く思想や情感の一層忠実な模写が求められる。正確な表現なしに模写しようと思っても無駄である。そして表現とは、より敏活で華やかな模写に他ならない。音楽の楽しみには、単純でありのままの模写のみならず、快感をもたらす模写も含まれる。一定の感情を描出する場合も、それとは不可分な秘められた楽しみを加味せねば、空しい試みに終わってしまう。さらに、聴く人の耳を完全に満足させない間は、決してその人の心を感動させるにいたらない。演奏者の第一の任務とは、歌う曲の性格を完全に理解し、言葉と音楽の関係を明確に見定め、詩人の作品に対して、作曲家がすでに加えた表現力と、演奏者がこれから加えうる表現力を認識することだろう。(『音楽学校』、1800年)
テレザ・ベッロック
[Teresa Belloc ソプラノ歌手]
数日前の稽古でセッシさんが言うには、『アデラシアとアレラモ』の作曲家と台本家は、彼女を生贄にするのに最大限の努力を払った、だのに彼女が助かったのは、自分の肺活量のおかげだ、でも昨日、音楽自体が不出来では、肺活量でも救われないと納得した、とのこと。私は笑って楽しんでいます。今晩、『アデラシアとアレラモ』が再演され、ダヴィッド氏ではなく、代役が歌います。気の毒なダヴィッド氏は、自分で作ったアリアが他のどの曲よりも好まれなかったので、とても不運です。最初はヤンノーニ先生を手放しで褒め称えていましたが、今では、先生がナポリに戻って10年間、音楽院をやり直されるべきだと言っています。(ヨハン・シモン・マイルへの書簡、1807年)
アンナ・マリア・ペッレグリーニ・チェローニ
[Anna Maria Pellegrini Celoni 声楽教師]
歌手は無数にいても、ティモテオスはめったに見当たらない。私は、優秀な歌手が乏しい理由は二つだと考える。一つは、歌うべき内容を認識するに必要な教養が彼らに欠けていること。もう一つは、多くの人々が、歌を指導する権利をお咎めなしに得て、有害な教え方をしていること。かつては、世俗を超越する名の哲学者や詩人だけが、歌に携わったものだが。上記の理由に、三つ目を追加しても差し支えない。すなわち人間において、生まれつき心の感受性が授かっている例は多くない、ということだ。(『良き歌唱の文法もしくは規則』、1809年頃)
アントニオ・カレガーリ
[Antonio Calegari 声楽教師]
以上、本書に示されたすべての理論に基づいて熱心かつ入念な稽古を行うのが、学習者の責務である。とりわけ、次の事柄に最大の注意を払ってもらいたい。すなわち、様々に異なる音、楽曲の性格、演奏速度、登場人物の感情に即して、上記の理論を正しく適切な個所に応用することだ。(『装飾旋律の方法と流儀』、1809年)
ジロラモ・クレシェンティーニ
[Girolamo
Crescentini ソプラノ歌手]
音楽は、専らそれに携わる者の心と魂を知らしめる。歌手が宗教、恋愛、陽気、興奮などを表す曲を完璧に演奏できる状態になるには、繊細で敏感な心と洞察力、正確な思考力が必要である。これらなしには、様々な音楽の性格に応じた抑揚や色彩を与えられないのみならず、すべての芸術でそうだが、とりわけ歌唱芸術では許容されえない表現の矛盾に陥ってしまう。(『声楽練習曲集』)
ジョヴァンニ・パイジエッロ
[Giovanni Paisiello 作曲家]
今月の2日にフォンド劇場で行われた『恋に狂える娘』(私はその音楽の作者なのですが)の上演でお受けになった喝采に、私も改めて加わらせていただきます。あなたの紛れもない歌唱力はもちろんのことながら、女優としても、この題材に求められる真実味を決しておろそかにせず、かくも立派にお役目を果たされました。私から、真心の賛辞をお届けいたします。(ソプラノ歌手マルゲリータ・シャブランへの書簡、1816年)
アントニオ・サリエーリ
[Antonio Salieri 作曲家]
生徒にはこの序文を暗唱してほしい。歌の学習にとって二重に有益な稽古になるからだ。周知の通り、イタリア語はすべての言語の中で最も歌唱に適している。ゆえにこの教本でも、イタリア語については優先的に論じた。著者は、この言語を読者に熱心に学んでもらいたい。[...]言語の教師は、イタリアに生まれて教育を受けただけでなく、純粋なイタリア語を話す地方の出身者を選ばねばならない。出来る限り、「ローマ人の会話にもトスカーナ語」という諺に従うべきである。そしてこの点において、教え方の違いも考慮せねばならない。言語を単に商談のために教えるのと、公衆の前で使えるように教えるのとは別問題である。イタリア語で上手に歌えるようになれば、他の諸言語でも上手に歌えるだろう。歌唱に関しては、そう言って差し支えない。(『声楽教室』序文、1816年)
ガスパレ・スポンティーニ
[Gaspare Spontini 作曲家]
二つの非常に興味深いカヴァティーナ、「君の心を返しておくれ」と「あなたの娘が涙で」は当然ながら、稽古中にも甘美な効果を醸します。しかし、《リュンケウス》役と《ヒュぺルムネストラ》役は、曲の結尾が少し冷ややかで、聴衆に拍手の号令がかからないとの理由により、何小節かの延長を求めました。これは、現今の堕落した嗜好の影響ですが、私たちは不幸にも、歌手に事の成否を握られています。ですからペルシュイ氏は、彼らに意欲をもたせて味方にするために、この小さな犠牲を必要と判断して、私に編曲を委任なさいました。さほど大きな損失はありませんので、ご安心ください。カヴァティーナの追加小節には、作者本人の主題動機を引用します。私の仕事はそれだけです。(書簡、1817年)
ジェルトルーデ・リゲッティ・ジョルジ
[Geltrude
Righetti-Giorgi コントラルト歌手]
『ラ・チェネレントラ』の主役の声部はかなりの苦労を要しますが、言い表せないほど変化に富み、楽しく、華美だと申し上げましょう。私はボニーニ嬢が果たして、この困難な役を歌ってパリの聴衆を納得させられるかどうか存じません。確かに、《チェネエレントラ》がソプラノ歌手のためには書かれておらず、とりわけ「稲光」の疾走をソプラノ歌手たち全員が多かれ少なかれ、拙く改変して歌っています。《チェネレントラ》の演奏は、十八度に及ぶ声域が、すっかり均質で、敏捷かつ柔軟な歌手でなければ十分な成功が得られません。もとより、このような資質を持たずに、《チェネレントラ》をロッシーニ氏の意向に即して歌えるなどとは考えないでいただきたいのです。(『ある女性引退歌手のジョアキーノ・ロッシーニ氏に関する見解』、1823年)
ルイジ・ケルビーニ
[Luigi Cherubini 作曲家]
貴殿は今後、王立音楽学校の通信員として、当校の寄宿舎に受け入れを望む男女の受験生に関し、すべてのご提案を私あてに直接お送りくだされば光栄に存じます。生徒が受け入れ許可を得るために満たすべき資格については、それを明記した要綱をお持ちと推察いたします。要綱がお手元になければ、こちらから届けさせますので、どうかご連絡をいただけますように。現在の音楽学校には、とりわけ王立音楽院の劇場に見合う女性歌手とテノーレ歌手の補充が求められています。そこで重要なのは、男女ともに恵まれた体格で、容姿が好ましく、しかも声が美しく、強く、伸びやかなこと。音楽能力がよほど優れている場合を除き、20歳未満であること。なおかつ、知性、聴覚、音楽的抑揚を備えていることです。[...]このような人材を探し当てるため、必要な調査を実施して下さい。もしも見つかれば、必ず正式の手続きを経た上で、私にご報告をお願い申し上げます。(書簡、1823年)
ニコロー・パガニーニ
[Nicolò Paganini ヴァイオリン奏者]
僕は何度もあくびをした。彼女の強くて敏速な声は、この上なく美しい楽器なのだが、節度を欠き、音楽的哲学も伝わってこない。彼女の得意技をいくつか例示する。高音から低音まで弱声で歌う。とても力強く歌えるすべての旋律を、とても柔らかく、最弱音を用いてでも歌える。それでこそ、あのまったく不可思議な効果を醸し出すわけだ。モルラッキ氏の独唱曲「いとしく優しい音が」を、聴衆は好まなかった。アンジェリカ・カタラーニ嬢は、著名な声楽教師に習っていれば、もっと魂をこめて歌えたはずだろう。クレシェンティーニ氏、パッキエロッティ氏、バビーニ氏、そして僕らの有名なセッラ氏のような教師に。(書簡、1823年)
ガエターノ・ドニゼッティ
[Gaetano Donizetti 作曲家]
最後のロンドー以外の幾つかの声部をお届けします。ロンドーは、あなたがご到着の際に、登場のカヴァティーナと一緒にお渡しするつもりです。ご承認いただければ、大変嬉しく光栄に存じます。私への友誼を遠慮なく用いていただき、どの曲についても感想をお聞かせ下さいますよう、お願いいたします。ただ、私の能力不足が、より良い仕事への意志を妨げたかもしれません。楽譜を修正した曲をできる限り取り除くため、第一幕の終結部も新しく作りました。三番目と四番目の曲だけは、あまりにも有名で改変が不可能なので、無難に移調してあります。
もしも、私が書いておりますロンドーの声部を、そのままでお受け取りいただけるどうか、返信にてお知らせ下さるならば、心から感謝いたします。(ソプラノ歌手ロズムンダ・ピサローニへの書簡、1823年)
マヌエル・デル・ポプロ・ヴィセンテ・ガルシア
[Manuel del Pópulo Vicente García テノーレ歌手]
大勢の人々がしばしば、まったく声が出ない、出ても貧弱だ、悪質だ、などと信じ込むが、これは誤解である。一般に、声はすべて、発する方法の良否で決まるのだから。私は、自分が上記に該当すると考えた多くの生徒に、その誤りを示してきた。私が手助けしながら、彼らも出るとは思わなかったような声を、発見するまでに導いたのだった。(『声楽練習曲集』)
ジャコモ・マイヤベーア
[Giacomo Meyerbeer 作曲家]
ロンドンで『エジプトの十字軍兵』の上演が全く見事な成功を収めたから、君には喜んでもらいたい。ジャコモ・ヴェッルーティ氏がイギリスで歌うのは初めてだった。氏は初日の演奏で、聴衆の強い反感と闘わねばならなかった。これは氏の技量よりも、むしろ人物そのものに対する反感だ。聴衆の一部分が、去勢歌手が舞台に出ることを不適切で非道徳と見なしたからだ。ヴェッルーティ氏は平静を保ち、聴衆の囁き声や口笛にも動揺しなかった。氏は評論家たち全員を堂々と打ち負かし、大きな話題を巻き起こした。僕が訳したイギリスの新聞記事を同封するが、上演の二日目と三日目には、この偉大な歌手が非常に好意的に迎えられたと報告している。僕の音楽が成功したなどと、自分で言うにはふさわしくないと思う。だがせめて、その人気をいかに急速に高めたかを示す事実を伝えておこう。『エジプトの十字軍兵』の初日から八日後に、英語のオペラ『不履行の約束』が上演され、その中で、『エジプトの十字軍兵』から三重唱と独唱「若い騎士は」が英訳の歌詞で演奏された。僕の作品が現地で編曲されたのだ。(書簡、1825年)
ドメニコ・バルバイア
[Domenico Barbaja 興行家]
春の公演期には、サヴェリオ・メルカダンテ先生が新しいオペラで一座を組まれ、その声種で今日ただ一人になったジョヴァンニ・バッティッスタ・ルビーニ氏と、第一級の才能を確実に備えたブリジダ・ロレンツァーニ嬢が加わります。ロレンツァーニ嬢の長所について、私の評議員であらせられる貴殿には、謝肉祭公演期の後にご感想を伺いたく存じます。そしてバッソ歌手アントニオ・タンブリーニ氏、アルカンジェロ・ベッレットーニ氏、テノーレ歌手フランチェスコ・ピエルマリーニ氏がおられ、アデライデ・コメッリ・ルビーニ夫人もミラノまでお越しです。この女性歌手は常に抜きん出ていました。ルビーニ氏と結婚なさった現在も、イザベッラ・コルブランやジョゼフィン・フォドルの時代以後に書かれたすべてのオペラと『セヴィリアの理髪師』では、比肩する者がいません。ちなみに、『セヴィリアの理髪師』も曲目として常備するため、上演しておくのがよろしいかと思います。ルビーニ夫人に加えて、バッソ歌手タンブリーニ氏のご夫人もお越しです。タンブリーニ夫妻は四旬節最後の土曜日まで、パレルモに逗留を余儀なくされるため、春の公演期は『湖の娘』を皮切りに、ルビーニ、コメッリ、ロレンツァーニ、そしてベッレットーニと、他のどの興行家を雇っても調達は不可能な三人の逸材を揃えてご覧に入れます。こうして、メルカダンテ先生のオペラではタンブリーニ夫妻も起用し、ロレンツァーニ嬢にも見合うオペラがあれば、第一女性歌手として出演してもらえるでしょう。(スカラ座運営評議員への書簡、1826年)
ヴィンチェンツォ・ベッリーニ
[Vincenzo
Bellini 作曲家]
当地で噂の通り、謝肉祭公演期間の最中にジュディッタ・パスタがそちらに行けなければ、代わりにアンリエット・メリック・ラランドが行かねばなりません。さて、貴殿がご自身にとって最良のオペラを演奏なさった後、もしもラランドと共演せねばならないとすれば、いかがなさいますか。こちらの劇場で過ごされた頃をお忘れではないでしょう。貴殿が卓越した女性歌手との共演で勝利を収めたのに、そのあとで誰よりも見下げられ、一曲のカヴァティーナしか歌えないと思われた、などと貴殿の敵対者たちが言いふらしたではありませんか。なぜならば、ラランドが彼女のために書かれたか、彼女の声に合わせて書き換えた楽譜で歌ったのに対し、貴殿はカヴァティーナ一曲のみに頼らねばならなかったからです。貴殿の支持者の方々もやはりご立腹だったでしょう。[...]ラランドは彼女の声域に合わせた楽譜を無数に持っており、貴殿は鼻歌で片付けるにふさわしい楽譜をあてがわれるでしょう。その楽譜の声域が貴殿には低すぎるのです。ですから、ラランドが貴殿に勝るように見えてしまいます。しかしミラノの聴衆は、貴殿が賢明にもご自分のために書かれたオペラをお歌いになれば、どれだけ彼女を凌駕されるかを目撃したのです。『海賊』の上演がどこかの町で、他の歌手たちのせいで失敗し始めたら、貴殿の敵対者たちが噂を流すことでしょう。[...]親愛なるルビーニ様、このオペラが当初の評判を保ち、他の都市でも、貴殿の演奏によってこそ聴きたがられるように、お力添えいただきたく存じます。(テノーレ歌手ジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニへの書簡、1828年)
あのオペラで、ラランドが自分の出番が多すぎて文句を言うことだけは知っている。彼女はいつもこうだ。もう名声を得ているので、これ以上の苦労はしたがらない。(書簡、1828年)
ジャコモ・ゴティフレード・フェッラーリ
[Giacomo Gotifredo Ferrari 作曲家]
本書の第一部でも述べたが、その昔、楽器奏者たちは楽器で歌おうとし、歌手たちは自分の声で楽器を弾こうとした。今日においては、男性歌手よりもむしろ女性歌手に逸脱が増えている。彼女らは器楽の旋律や節回しを拝借して歌詞をあてがうが、その言葉と音楽の結びつきには全く必然性が欠けている。そして何もかも歌っては歌い散らし、彼女らに聴き入る人々の目と耳に埃を吹きかける。楽器奏者たちは、かような歌手の惨劇を羨んで、演奏をますます困難にしようとする。結果は次の通り。まず、弦楽器は弦が太く、弓が頑丈に作られ、より大きな音を発するために毛を多量に用い、十分に堅く取り付ける。そして管楽器は、音の輝きを増そうとして、いっそう高い調律を要求し、歌手を殺して葬り去る。(『楽しく興味深い逸話』、1830年)
ジュリア・グリージ
[Giulia Grisi ソプラノ歌手]
本日、私があなたと交わした出演契約書を拝見しました。こう指摘するのは恐縮ですが、書面では私が「第一女性歌手で第一演奏者」と称されています。私の希望としては第一演奏者、つまり「ソプラノ声部を歌う演奏者」と記していただければ嬉しいのです。仮にこの契約が他の興行家に譲渡されると、私がコントラルト歌手の役をあてがわれ、喉を傷めるかもしれませんから。(興行家アレッサンドロ・ラナーリへの書簡、1830年)
ドメニコ・ドンゼッリ
[Domenico
Donzelli テノーレ歌手]
私に適した歌の形式、声域、声質に関する情報は、貴殿にとって無益ではなかろうと存じます。貴殿の着想を方向づけるため、そして私がその着想を貴殿のご希望どおりの効果に即して実現するため、さらにはその効果によって貴殿の音楽と私の芸術がともに成功を収めるためにです。[...]貴殿ならびに台本家フェリーチェ・ロマーニ氏からは、気取った優雅さよりも語り口を強調する、そのような自分に向いた音楽形式に私が力を得て、音楽を成功に導き、公演への期待に応えうるような役をいただけると信じております。(ヴィンチェンツォ・ベッリーニへの書簡、1831年)
二コラ・タッキナルディ
[Nicola
Tacchinardi テノーレ歌手]
声楽教師は一つの教授法にこだわってはならない。むしろ、生来の才能や声の質に応じて、一人一人の生徒に見合った教授法を決定するだけの知識と、意志の伝達能力が彼には必要である。
ごく少人数だが、歌を心得た教師はいる。彼らは自らも歌い、生徒を育て上げる能力がある。しかし、裕福な人々から授業を求められて高い報酬を得ており、結果として、すべての資質を備えた生徒がいても、彼らが手ほどきしてくれるのは難しい。手ほどきしかけても時間がないので、生徒がいよいよ援助を必要とする時に放置される。すると、生徒は芸術家の水準まで進歩するどころか、逆に悪い癖がついてしまう。あれこれの教授法を模倣して、次々に変えながら、いつまでも自分に合った一つの方法が見つからない。(『イタリアの劇場における音楽劇とその欠陥』、1833年)
ジョヴァンニ・ダヴィッド
[Giovanni David テノーレ歌手]
貴殿がモデナにお住まいで、このたび劇場の公演事業を請け負われ、契約者の中に、若手のテノーレ歌手ジョヴァンニ・バザドンナ君がいることを伺いました。彼は、私に貴殿と長年の交友関係があると知って、紹介状を頼んできました。私はバザドンナ君が、全面的に貴殿の利益となるように働いてくれると確信し、同君をご推薦いたします。彼は昨日ようやく、サレルノから当地に着き、海路にて直ちにそちらへ赴こうとしました。しかし残念ながら、汽船は二日前に出航しておりました。ですから今日は間違いなく旅立ちますが、仮に一日か二日遅れて参上しましても、貴殿の損失にはならないのでご安心下さい。彼はきわめて優秀な職業歌手で、どんなオペラをもわずかな時間で習得し、舞台に臨むことができます。(書簡、1834年)
二コラ・ヴァッカイ
[Nicola
Vaccaj 作曲家]
イタリア声楽は疑いの余地なく、音楽において他のいかなる言語にも優るイタリア語そのものから、大きな利益を授かっている。良き歌唱を志す人は、イタリア声楽から始めるべきであり、これを習得した人は、自分が話せる他のすべての言語で、歌うことが容易になる。(『イタリア室内声楽用実践教本』、1834年)
オット・ニコライ
[Otto Nicolai 作曲家]
管弦楽団は指揮者なしで演奏します。首席ヴァイオリン奏者が時折、演奏速度を示すだけです。それにはしかし、実に不愉快な手段がほとんどの劇場で用いられます。首席ヴァイオリン奏者が床で足を踏み鳴らして大きな音を発し、まるで大太鼓のように聴こえます。この雑音は、残りの音楽全体に勝るのが普通です。[...]とはいえ、歌手たちは本当に素晴らしい歌い方をします。何たる歌声、技巧、流儀を身に付けているのでしょう。イタリア人は生まれた時点ですでに歌手なのです。喫茶店では、身元の怪しい放浪者たちがロッシーニの独唱曲を歌いますが、わが国の劇場歌手よりもはるかに優れた技量です。(書簡、1834年)
マリア・マリブラン
[Maria
Malibran ソプラノ歌手]
私が貴殿の劇を演じたいと願うのと同様に、貴殿も私のために台本を書こうと誓われたはずです。なぜいまだに、この一致した願いが実現せず、近いうちに実現する望みもないのでしょうか。[...]去年の夏も、私のために音楽を書く任務を受けた作曲家と話しながら、私は貴殿のお名前を熱心にお勧めし、積極的で率直な約束をいただきました。[...]どうして期待が外れてしまったのでしょうか。よろしい、まだ好機を完全には逃していないはずです。貴殿のお書きになった劇を私が演じる姿を、ご覧になられたくはありませんか。今すぐ、ヴァッカイ先生に手紙をお書き下さい。先生はこちらにいらっしゃいますから。私の熱望を察していただきたく存じます。貴殿お一人にかかっています。成功も失敗も。(台本家フェリーチェ・ロマーニへの書簡、1835年)
イニャツィオ・パジーニ
[Ignazio Pasini テノーレ歌手]
劇場の仕事は、私が実力を出せる役をもらえると、より順調に運ぶでしょう。昨晩は『コリントスの包囲』でしたが、このオペラでの役はうまく歌え、聴衆も喜んでくれました。さて、新聞記者とはいかなる者か、どの程度の信頼に値するかを、貴殿にはお察しいただきたく存じます。この前のオペラでは、あまりにも愛らしい役をあてがわれ、これが私の持ち前に合わず、良い格好が出来ませんでした。とはいえ、二日目には拍手を浴びて、舞台に呼び戻されました。私は自信があり、平然たるものです。新聞評論は気になさらないで下さい。興行家は私に満足していますから、他のテノーレ歌手を契約することなど考えてもいません。私を嫉む敵方が、そのように言いふらしているだけです。あえて申し上げますと、私は自分の持ち前に適した役さえ受け取れば、いつでも歌う用意がございます。(書簡、1836年)
アントニオ・ガッツオーリ
[Antonio Gazzuoli 興行家]
オペラが不人気な場合、その欠陥が音楽にあるのか、歌手の演奏にあるのかを判断するのが専門家の役目だ。さて、僕にも感想を述べる権利があるはずだから、遠慮なく言わせてもらう。台本はうまく書けており、非常に効果的な劇的局面も設けてある。今回、それが理解されなかったとすれば、失敗の原因は、題材を扱う音楽家たちに知性が乏しいか、または皆無だったことだろう。音楽は全体として上出来で、美しい旋律や、独創的で実に劇的な楽句をも含んでいる。ただし、イタリア語というよりもむしろ異邦人の言語で歌われたのに加え、歌手のうちの誰かは、イタリア流の音楽的抑揚が身に付いていなかった。特にこれらの欠点が指摘されうるのは、アマリア・シュッツ嬢だ。彼女は動作もまったく不自然で、滑稽役に成り下がってしまう。ゾボリ氏とフラッシ嬢には弁解が許されよう。しかし、聴衆は主役女性歌手の立派な演奏を期待していたので、彼女の不振が他の全員に影響を及ぼしたわけだ。(同僚アレッサンドロ・ラナーリへの書簡、1838年)
アドルフ・ヌリー
[Adolphe
Nourrit テノーレ歌手]
本当のことを言うと、ドニゼッティ先生と別れる時、僕は自分に不満だった。あまり道理はないが。稽古を再開するまであと一日、待たねばならなかったから。僕の声はまだ、先生と一緒に着手する仕事の負担に耐えるほど回復してはいなかった。また僕の焦りが高じてしまい、落ち着きを得るために、もう一つ別の稽古が必要になった。[...]このイタリア語の音楽的な響きを周りで聴き始めて、僕の耳はより敏感になり、これまで気づかずにいた新たな困難を、毎日一つは発見している。あいにく、僕の耳が楽に感じ取れるものを声にして出すのは、さほど容易ではない。難しくてもかまうものか。成功するのに時間がかかるだけさ。(書簡、1838年)
ニコラ・イヴァノフ
[Nicola Ivanoff テノーレ歌手]
親友よ、僕は実に落ち着かない状態だ。周りの人々は、僕がボローニャで出演契約を結んだと知ってから、残り少ない勇気を奪い取るために結束しているかのようだ。彼らはこれを、一種の災難だと言う。何よりも驚いたのは、僕がここで多額の報酬を得ているなどと勘違いしていることだ。ある人によれば、イタリアから受け取った手紙に、ジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニ氏ですら、ナポレオーネ・モリアーニ氏のあとで『ルチア』を歌いに来れば、自分が聴衆にまったく好まれないのを悟るだろう、と記してあったとのことだ。僕は初めの一歩を踏み誤らないという安心感を求めて、君に手紙を書こうと考えた。もしも、初舞台には『夢遊病の娘』のほうが(聴衆の気分に従って)無難だと思うなら、僕の友人として、君がそちらで使える影響力で、出来る限りのことを実現してほしい。しかし、僕の件について、興行家がもうすべて決めてしまったならば、せめて『ルチア』の二日目から出られるように交渉してもらいたい。要するに、君が最善と判断する通りに動いてくれたまえ。僕は今から、フィオーリ氏のお手紙に返事を書く。氏は、僕が興行家の規定に沿って出演契約したと見なしている。そこで、『夢遊病の娘』を歌いたい僕の意向を伝えるように依頼し、両方のオペラが同時に準備できていれば、興行家には心から感謝する旨を記しておく。どちらもよく知られた作品だから、それは簡単だと思う。(声楽教師ジョヴァンニ・タドリーニへの書簡、1839年)
ルイジ・ラブラッシュ
[Luigi
Lablache バッソ歌手]
歌唱芸術においては、考慮に値する三つの要件がある。一つ目は「心」、二つ目は「声」、三つ目は「演奏」。「心」と「声」は、主に天性に由来する。確かに、それらは学習によっても発展、強化できるが、もとより全く持ち合わせていない人には授けられない。一方、「演奏」については、個々人の素質のよしあしに従い、多かれ少なかれ苦労しながら習得、完成に達しうる。
さて、「上手に行う」よりも前に、「しかるべき方法にて行う」ことを目指さねばならない。ゆえに、ここでは何よりも先に、「声」とその仕組みについて論じよう。(『歌唱芸術総論』)
ジルベール・ルイ・デュプレ
[Gilbert-Louis
Duprez テノーレ歌手]
詩人は自分自身の中に着想を見出す。作曲家は詩人の中に着想を探す。歌手は、詩人と作曲家の両方の中に着想を探さねばならない。歌手は本当に、この三者では最後の位置を占める。確かにそうだ。だが、歌手の任務は俗人が考えるほど容易ではない。発声器官の物理的な質が、真の意味で呼ばれるところの「歌手」を作り出す最も重要な天分だ、などと思い込んではならない。もしもそれが事実ならば、有名歌手たちの大部分は聴衆の支持を得られなかっただろう。ルビーニ、パスタ、ピサローニ、サンティ・ダモロー、他にも大勢の歌手たちは、自分の手段を用いる技術以外に何も驚異的なものを持たなかった。彼らと私の考えからすれば、「歌手」とは、生来の声の良し悪しに関係なく、その声によって興味を抱かせ、感動させる技量のうちにこそ認められるべきだ。(『歌唱芸術論』)
フランチェスコ・フロリモ
[Francesco Florimo 作曲家]
正しい発音を習得する努力が必要だ。そのため、次の一般的な規則に従うしかない。すなわち、歌詞の意味に応じて音節をある程度の強さで発しながら、母音、子音ともに本来の音を与えること。イタリア語は他のどの言語よりも抑揚が明確で、しかも母音と子音が量的に釣り合い、単語の語尾変化も多彩なので、音楽には最も適している。(『声楽教本』、1840年)
サヴェリオ・メルカダンテ
[Saverio
Mercadante 作曲家]
『ウェスタの巫女』が完成し、ナポリに発送するための楽譜を提出した。台本にとても満足で、幸せな結果に希望を抱きながら、愛情とたゆまぬ探求とで音楽をつけた。しかし結果を得るには、良い演奏が大いに寄与してくれねばならない。さて君は、僕の心を読み取った上で、かくも厳格であり、通俗的でも大衆的でもない部類の作品が求める炎、色彩、抑揚を他人に吹き込める唯一の人物だ。だから、このオペラをお任せする。
拒まないでくれたまえ。君の友人と芸術と祖国のためだ。クラヴィチェンバロの伴奏でする稽古は、一座の歌手たちにとっては実に必要で教育的効果もあるから、最大の熱意をもって監督してほしい。ここに同封した、台本家カンマラーノ氏に僕が宛てた手紙を読んでから総譜を観察してくれれば、僕の構想がどんなものかが分かるだろう。(フランチェスコ・フロリモへの書簡、1840年)
マヌエル・パトリシオ・ガルシア
[Manuel
Patricio García 声楽教師]
音楽の知識をいくらか表面的にかじるだけでは足りない。芸術家は急速には生まれず、むしろ、きわめて緩やかにしか育たない。彼らの才能は、丁寧な 教育と熱心な稽古により、時間とともに開発する必要がある。優れた教育がもたらす利益については一言で十分なはずだ。つまり、知力が培われていない芸術家にとって、役の全体像を把握し、重要性を理解し、劇中人物にまったく独自な性格を与える特徴的要素を認識することは困難だろう。(『歌唱芸術総論』、1840年)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニ
[Giovanni
Battista Rubini テノーレ歌手]
装飾音を用いるならば、カデンツァ部でも曲の途中でも、作者が自作に与えようとした性格から、決してかけ離れてはならない。情熱を極めて激しく表現するか、この上なく柔和な哀感を基調とした曲で、自分の喉の技量を大いに披露するようなカデンツァを使うべきではない。その場合にはむしろ、作品の趣向にふさわしく、わずかな音符を加えるだけでよい。(『現代歌唱のための練習曲集』)
ジュディッタ・パスタ
[Giuditta
Pasta ソプラノ歌手]
私が劇場で現役だった頃、何人かの非常に著名な先生方は、私を弟子にしたことがあるとおっしゃいました。そのような発言に十分な根拠が無くても、私は自分が携わる芸術に捧げた苦労への有難いお褒めの言葉として、常に受け入れてまいりました。しかし、私がどの先生をお手本にしたかを言うべきならば、告白いたしましょう。数々の舞台で見て聴いた先生方を研究し、学びましたが、ある人には、うまく進歩を遂げるために選ぶべき道を示していただき、ある人には、つまずかないように避けるべき道を教えていただきました。(ある手記より)
エマヌエーレ・ムツィオ
[Emanuele
Muzio 指揮者]
歌手、そして芸術家としてのメドーリ嬢の才能に、僕は魅了された。彼女の伸びやかで丈夫な声はとても好感を抱かせ、人の心に染み渡り、慰めてくれる。力まずに歌い、身体を捩ることもない。どんなに発声が困難な音符も、彼女の喉からは泉の清水のごとく湧き出てくる。見事だ。適切で十分に制御された声の敏捷さも備えている。現代の芸術家らしい感性を持ちつつも、かつての芸術家たちのように「ポルタメント」を使いこなす。感情表現と様式を心得ている。[...]メドーリ嬢について詳しい情報を記したのは、歌手として見事な成功を収めるだろうし、君も彼女に厚意をかけてくれると思うからだ。(楽譜出版業者ジョヴァンニ・リコルディへの書簡、1850年)
ロール・サンティ・ダモロー
[Laure
Cinti-Damoreau ソプラノ歌手]
私自身の修行について語るならば、芸術家の職業生活の頂点にあった時期にも、決して学習を中断しませんでした。熱心な稽古と、一日に一つは新たな進歩を遂げようとする確固とした意志によってこそ、聴衆の支持を得て人気を保てるといった、計り知れない名誉が授かります。[...]私の大事な生徒たちにもう一言。現在、褒め言葉はかつてないほど安易で月並みです。そんな欺瞞のえさで釣られないようにして下さい。他人が親切だと信じる前に、自分で自分を厳しく見定めねばなりません。今日では、どんなに凡庸な新人歌手でも、新聞記事や広告ではしばしば、偉大な秀才として紹介されます。(『声楽教本』、1850年頃)
ハインリヒ・パノフカ
[Heinrich
Panofka 声楽教師]
大事なのは、教師が様々な声の個別の特徴や、声の生成に関わる諸器官について完全に理解していることだ。声の性質と利用法をも研究しておかねばならない。生徒の身体的条件や才能に応じて、声を育てる能力があること。声に無理を強いないこと。[...]声は美しいが知性に欠ける歌手は、声が平凡でも並外れた知性を持つ歌手に較べて劣る。自分が歌え、数回の稽古の後にアリアを教えたがる人なら誰にでも声楽教育を任せるのが、あいにくながら周知の習わしである。しかし、歌手であるだけでは、声楽教師を自任する十分な資格にはならない。(『歌唱芸術』、1854年)
ジョアキーノ・ロッシーニ
[Gioachino Rossini 作曲家]
私は子供の頃、とても美しい声だったので、両親は私を教会で歌わせて、幾らかお金を稼がせることを思いついた。[...]ああ、確かにあの時代には、声を育てるのが、歌の楽器を作るのが、大変な仕事だった。初めはただひたすらに、清純で素朴な音声の発し方の練習だ。均一な音色、異なる声区の同質性が入門の基本であり、後続の稽古はその上に成り立っていた。この実技の習得は、少なくとも三年間に及ぶ訓練を必要とした。[...]発声器官が望ましい柔軟性と安定を得た時、つまり、未来の職業歌手が彼の「ストラディヴァリ」を手に入れた時にようやく、それを使う方法としての「技術」を習い始めることが出来た。[...]劇場歌手になるのを断念して再びボローニャに移り住んでからも、私の関心はすべて、音楽学校での声楽教育に向けられ続けた。(ある談話より)
ポリヌ・ヴィアルド・ガルシア
[Pauline Viardot-García メッツォソプラノ歌手]
《マクベス夫人》の声部が私には高すぎるので、移調の場所を示します。使用楽器の変更が必要な最も難しい移調は、カヴァティーナの部分です。先行するレチタティーヴォを変ニ(D)調、アンダンテ楽章「来て、早く」を変ロ(B)調、アッレグロ楽章「さあ、みんな決起して」が変ニ(D)調。従って、全体が短三度低く移調されます。結構なものです。あとは幕切れまで原調です。カバレッタ「私は勝った」は歌いません。第二幕の宴会の場面は、合唱が「心の命じるままに」との言葉で締めくくる最後の数小節から移調して、「乾杯」を変イ(A)調で歌いたいと思います。アッレグロ楽章(《刺客》の場面の後)は書かれた通りのヘ(F)調で演奏します。「乾杯」の第二節は、歌の楽章が始まる5小節前に長二度低く移調し、直前に位置するヘ音の和声に、譜例のごとく変記号を付けることによって、変イ(A)調に導きます。[...]夢遊病の場面は長二度下げねばなりません。つまり、リトルネッロとレチタティーヴォが変ホ(E)短調、アンダンテ楽章がロ(B)長調です。楽団員たちが、調号に六つの変記号と五つの嬰記号を見て嫌そうな顔をするのが目に浮かびます。先生、この三曲のパート譜を複写させる必要がありましょう。何しろ私たちの管弦楽団は、動詞<trasportare>の意味を「移調する」ではなく、聴衆を「夢中にさせる」としか取りたがりませんから。(ルイジ・アルディーティへの書簡、1859年)
ジョルジュ・ビゼー
[Georges Bizet 作曲家]
僕は珍しくイタリア音楽を作曲しています。お父さんが喜んでくれるでしょう。風土と気候は影響するものです。僕の考えはもちろん変わりませんし、だからこそ、良質なイタリア音楽を聴いています。ロッシーニとパエルの作品、ドニゼッティの半分、ベッリーニの四分の一、ヴェルディの十分の一、メルカダンテの百分の一、その他にも。(母親への書簡、1859年)
ヴェルディは大きな才能がある人なのに、巨匠としての本質的な要件、つまり作曲様式を欠いています。しかし、彼は驚くべき情熱の勢いを備えています。彼の情熱は確かに粗暴とはいえ、一般に情熱的なのは、まったくそうでないのと同じくらい望ましいことです。ヴェルディの音楽は強烈すぎることもありますが、僕は決して退屈しません。(母親への書簡、1859年)
僕は余りにも飽き足りない状態です。昨日、自分のイタリア語オペラを見直し、きわめて貧弱な出来だと思いました。ここだけの話ですが、アントワヌ・ルイ・クラピソンの音楽や、ダニエル・オベールの幾つかの作品などよりは優れているでしょう。でもそれは、僕のオペラが秀作である理由にはなりません。(母親への書簡、1859年)
アブラモ・バゼーヴィ
[Abramo Basevi 作曲家]
歌手は作曲家の利益に反し、いつも優位に立とうと試みてきた。作曲家は常に歌手を従わせるため、いわば「水面下で」歌唱芸術を挫こうとした。大昔から、作曲家たちは演奏者を自分より低い地位に置くことを望んだ。かのグイド・ダレッツォは『音楽小論』の中で、歌手たちの自惚れに憤慨した。そして、音楽家は自分のなすことを熟知しているが、歌手は自分が知り及ばないことをする点で動物に似ていると、すなわち、「おのが業を解せぬ者は禽獣と称すべし」と述べた。オラツィオ・ティグリーニは歌手を、聖者の遺物を運ぶ驢馬になぞらえる。しかし彼らは言い過ぎだ。歌手は機械でも家畜でもない。きわめて高い知性と感性が要求されるからである。だからといって、あいにく歌手にありがちなように、威張ったり、作曲家を目下や価値なき者のごとく扱ったりするのは良くない。(『ジュゼッペ・ヴェルディ作品研究』、1859年)
エンリーコ・タンベルリック
[Enrico
Tamberlick テノーレ歌手]
私は現在、パリのオペラ劇場から、三年間にわたる出演契約の提案を受けております。有名作曲家のオペラの初演で私が主役を担う、という約束つきなので、承諾しようかと考えました。しかし、その交渉は中止いたします。私が、たった一度でも貴殿の高邁な着想を直接に解釈できるならば、他のどんな志も大喜びで諦められるのは、容易にお察し下さるでしょう。サンクト・ペテルブルグの劇場は、貴殿が次の公演期に向けて新作をお書きならば、ご所望のすべての便宜を図ります。主題も台本家も貴殿がお選びになり、作曲契約の条件も示していただき、オペラの著作権も貴殿に帰属いたします。この聴衆は貴殿の姿を見ずとも敬愛しており、ご招待できると嬉しいことでしょう。歌手たちが、いかに盛大に迎えてくれるかも申すに及びません。(ジュゼッペ・ヴェルディへの書簡、1860年)
ジュゼッペ・ヴェルディ
[Giuseppe
Verdi 作曲家]
なるほど、『運命の力』を歌うにあたっては、読譜能力を披露する必要はない。しかし、魂をもって言葉を理解し、それを表現せねばならない。(書簡、1863年)
私が歌手に求めたいのは、音楽に関する広範な知識と発声の訓練、かつて行われていたような極めて長期間にわたる読譜の練習、明瞭で完璧な発音による声と言葉の訓練だ。また、修行の最終段階を受け持つ教師が歌の表現方法を教えなくても、音楽をしっかりと身につけ、鍛えられた柔軟な喉をもつ若い歌手は、自分の心ひとつに導かれて歌ってほしい。それは学校で教わる歌ではなく、むしろ心から湧き上がる歌だろう。音楽家はひとつの独立した人格、「彼自身」であり、オペラの中で演じるべき人物そのものであれば、なお好ましかろう。言うまでもなく、以上のような音楽の稽古は、深い文学的教養と結びつかねばならない。(書簡、1871年)
「歌手のためのオペラ」なのか、「オペラのための歌手」なのか。興行家の誰一人として実践化できなかった古くからの命題であり、これを無視して劇場での成功などありえません。スカラ座のためには結構な配役を組んでいただきましたが、『シモン・ボッカネグラ』には不適切です。若いバリトノ歌手で、声と才能と感性をいくら持ち合わせているとしても、《シモーネ》役に欠かせない沈静、貫禄、舞台上でのある種の威厳は、決して得られないでしょう。《シモーネ》役をつとめるのは、《リゴレット》役と同程度の労力でも、難しさでその千倍に値します。《リゴレット》は役が出来上がっており、若干の声量と感情移入だけで、上手に歌い通せます。《シモーネ》役の場合、声と心だけでは足りません。《フィエスキ》には深みがあり、低音域はヘ(F)音までよく聴かせる声と、情け容赦なく、預言者のようで不気味な何かが必要です。エドゥアルド・デ・レスケ氏の声は、いくぶん空虚でバリトノ声域に近すぎ、上記のすべてが欠けています。アンナ・ダンジェーリ嬢も厳密に言えば、声の強度と体格からして、慎ましく控え目で修道女のような娘の役には不向きでしょう。私はダンジェーリ嬢ご本人も、この役には満足できないと思います。(楽譜出版業者ジュリオ・リコルディへの書簡、1880年)
フランチェスコ・ランペルティ
[Francesco
Lamperti 声楽教師]
私が思うに、優秀な歌手が乏しいもう一つの原因は、しばしば興業家たちの振舞いでもある。今日の音楽では、歌手たちにとって未熟なままで舞台に出るのが昔よりも容易だから、劇場で儲けたい人々は、技術的指導を経ていなくとも美しい声さえ聴けば、いつもの取引きをする。こうして、技術的指導をまったく受けない宝物の喉が、最も美しい音符を無闇に発するうちに、短期間で潰されてしまう。規則も節制も顧みず、呼吸の方法も身についていないため、声の資源は連続的で、あいにく急速な破壊を被るのである。昔の音楽はそもそも上述の宝物を、確かに気長で困難だが、疑いなく有益な方法で、とにかく消耗させないように用いていた。(『歌唱の手引き』、1864年頃)
ジョヴァンニ・パチーニ
[Giovanni Pacini 作曲家]
デル・ジッリョ王立劇場で選ばれた演目は『ルクレツィア・ボルジャ』であり、私が指揮者としてご用命を賜った。ベルガモの白鳥が残した素晴らしい作品が、いかに熱狂的に迎えられたかは、説明を聞くよりも想像するほうがたやすい。フェッラーラ公爵夫人に扮したエリーザ妃は、オペラ劇場で最も卓越して選び抜かれた女性歌手たちを凌駕した。何と強力な声、何と優雅な歌い方、何と適切な身のこなしだろう。音楽芸術のまったく完璧な範例と呼んで差し支えなかった。この令夫人がなぜ、かくも多くの美点を携えているのか。天性の才能に加えて、常にたゆまず学習につとめたからである。当今においては、それを顧みない風潮がある。人間の発声器官が大切に保全されず、訓練も受けなければ、朝から夕べにかけて萎れてゆく花であるのを知らずに。(『わが芸術回想録』、1865年)
アントニオ・バッツィーニ
[Antonio Bazzini 作曲家]
君もご存知だろうが、あのバリトノ歌手はすでに解雇された。昨日のオペラでは最初の二幕と、第三幕の女主人公のアリアしか演奏しなかった。このアリアは気に入られて、歌手が幕の前に呼び出された。新しいバリトノ歌手は水曜日から出演するはずだ。[...]果たしてどうなるか。君が推薦してくれた女性歌手が、大嵐の中でただ一人、無事にやり過ごせるほどの水準であってほしい。それだけでも大したものだろう。僕は現在の結果について、自分がまったく関与しなかったとは言えないのを承知している。初めに君の推薦状、それからガブリエッラ夫人ご本人のために、尽力したのだから。夫人はとても優しくて控えめな性格だ。声はきれいで好ましく、音高も正確に歌っている。ただ、大きな身振りで力強く動き、発音を改善せねばならない。いずれ、出来るようになるだろう。(書簡、1867年)
テレザ・シュトルツ
[Teresa Stolz ソプラノ歌手]
ミラノの聴衆は、かの有名な作曲家に再び拍手できる機会を得た素晴らしい夕べを、末永く記憶に留めるに違いありません。テレジーナさん、あなたも当日の演奏を聴きに来たら、きっと言い尽くせないほど感激してくれたでしょうに。だって、歌わねばならない私ですら、感激で目からいつでも涙がこぼれそうだったのよ。もういいの。何もかも済んだし、ヴェルディ先生が私の演奏に十分満足して下さった、私はそれで幸せな気持ちなのだから。(書簡、1869年)
アンジェロ・マリアーニ
[Angelo Mariani 指揮者]
『運命の力』のピアノ伴奏による稽古はもはや好調だ。シュトルツ嬢も昨日の朝、ご親切にもパドヴァから来て、自分の曲を練習してくれた。すべてが見事に進捗している。スピッツェル嬢は《プレツィオジッラ》をずいぶん好ましく演じる。特に、全く正確な音高で歌ってくれるのが大きな長所だ。バリトノ歌手のコリーニ氏が少し鈍いとはいえ、いずれは動き出す。この一座は全体として優秀だと思われる。フラスキーニ氏は、ティベリーニ氏ほどの芸術的志向を持たないが、それでも構わない。あのとても美しい歌声には、全員を魅了してしまう効果があるから。フラスキーニ氏も愛情と熱意をこめて稽古している。合唱団も良好で、僕は満足だ。舞台でのしかるべき振舞いを教えてみたいのだが。スパラパーニ氏(《メリトーネ》役)はかなり年が若く、歌がいくぶん先走りする。しかし彼も、この容易ならざる役をこなすに必要な知性と声があるので、うまく出来るようにはなるはずだ。バッソ歌手のカッポーニ氏は格別の《修道院長》だろう。脇役もみんな結構で、管弦楽団が相応の演奏をしてくれれば、素晴らしい出し物になると思う。(ジュゼッペ・ヴェルディへの書簡、1869年)
エンリーコ・ペトレッラ
[Enrico Petrella 作曲家]
君が『マンフレード』で歌うことになる役のパート譜が近いうちに届くだろう。僕が君をどんなに評価しているかはご存知だし、オペラを主演してもらえる喜びも察してくれるはずだ。君は芸術家として良心的であるばかりか、見事な適役なのだから、きっと熱心に稽古して、この登場人物をまさしく創出できるに違いない。多分、僕はボローニャに赴くので、そこで一緒にオペラを練習できるかもしれない。(テノーレ歌手フリアン・ガイヤッレへの書簡、1872年)
フィリッポ・マルケッティ
[Filippo
Marchetti 作曲家]
ご親切な手紙をくれて有難う。また何よりも、僕の『ルイ・ブラス』の世話を焼いてもらって感謝している。でないと、オペラの成功はきっと不可能だった。君は僕の音楽をよくご存知だから、改めて理由を述べるまでもない。僕の作品に取り組んでいただいたモンテジーニさんや他の歌手の皆さんにも、お礼を伝えてほしい。聴衆も、君の演奏を評価してくれたのは救いだった。再演では、もっと評価してくれるだろう。ただし、君の才知が実に生き生きと興味深く指し示した詳細は、表面的にのみ聴く人は一向に把握できないので、全てを初日から印象づけるのは無理だったけれども。わが親友よ、もう一度、心の底からお礼を言わせてもらう。(バリトノ歌手レオーネ・ジラルドーニへの書簡、1874年)
アミルカレ・ポンキエッリ
[Amilcare Ponchielli 作曲家]
私は週明けに、そちらに戻れる見込みですので、『ラ・ジョコンダ』の後半二幕を拝見できるかと存じます。ボーイト氏がお書きになった二つの幕を何度も読み返し、とても素晴らしい出来だと思っております。ただし、この台本の難解さに音楽が対応できるかどうかが心配です。そこで私は自問します。聴衆の反応はどうだろうかと。『リトアニア人』の音楽を不可解と見なしたこの聴衆ですから。私は、イタリアの聴衆を相手にする以上は、芝居作りにこだわり過ぎてはならないと思います。さもないと、聴きごたえのない律動に陥り、しかも殊更に管弦楽を用いながら、最終的には、もはや存在しない歌手、ロッシーニやベッリーニの時代にも希少だった類の歌手に期待せねばなりません。適正な朗読、身振り、そして(芝居に必要な)役者にふさわしい資質はすべて、オペラ劇場の優秀な一座ではなく、低劣な芝居小屋に行くほうが容易に見つかります。だからこそ、私は劇的歌唱を大いに重視する必要性を確信いたします。それでもやはり、使い古しの伴奏やリズムと闘い、そして...
歌い方を知らない歌手と付き合わされるでしょう。私は恐らく、多くの見当違いを申し上げました。しかし、新作オペラの出来ばえについて、あらかじめ弁解しておくつもりは毛頭ありません。とにかく、信念を抱きつつ(弦楽四重奏団の一員さながらの言い回しですが)、勇気を持って作業に取り組みます。(楽譜出版業者ジュリオ・リコルディへの書簡、1874年)
ルイジ・フェルディナンド・カザモラータ
[Luigi Ferdinando Casamorata 作曲家]
では、概論から詳論に移りましょう。貴殿のご監修になる『セヴィリアの理髪師』改訂版には、当地フィレンツェのグイディ出版社が八つ折判二巻で刊行したこのオペラの総譜と、ボローニャ音楽学校の資料室に所蔵のロッシーニ自筆譜を併用なさるのが最もよろしいかと存じます。自筆譜は、ガエターノ・ガスパリ先生の意向で、閲覧用の複写譜がもう作成されています。そこには疑いなく真作である「私ほどの博士様に」のほかに、「愛に火をつける心に対して」も見つかるはずです。[...]私は、貴殿が冒頭の音符を記されたアリアを存じません。恐らくは、歌手の誰かが歌の稽古の場面に持ち込んで喝采を浴びた、大量の「引き出しのアリア」のうちの一つでしょう。ここの美しい原曲を、歌手の勝手な都合から「コケコッコー」で置き換える習慣が、後に広まったからです。(音楽学者アミントレ・ガッリへの書簡、1874年)
ジュゼッペ・ベッレッティ
[Giuseppe Belletti バリトノ歌手]
僕は毎日三時間ほど、歌唱技術を勉強することにした。親友の著名なバリトノ歌手、ヴィクトル・モレル君の賢明な忠告を聞き、幸いにして、声の基礎を固める新たな方法が見出せた。日々の進歩が自分でも感じ取れる。正直に言うと、これが自分の声だったとは思えない。僕がどんなに喜んでいるか、察してくれたまえ。ああ、もっと昔にこの勉強を始めておけば、僕の並外れた発声器官で、職業生活のどんな高みに達しえただろうか。しかし、「遅くても無いよりはまし」という諺もある。何しろ僕は、技術の勉強を中断したくないので、秋の公演期に出演契約を幾つか断ったほどだから。つまり、ボローニャ、フィレンツェ、そして最近はトレヴィーゾの劇場だ。バリトノ歌手ステルビーニ氏が病欠のため、ガルディーニ氏が僕を代役に望んだ。『アフリカ娘』と『寵姫』を歌えば、三千リラの出演料が払われるはずだった。(フランチェスコ・タマーニョへの書簡、1875年)
フリアン・ガイヤッレ
[Julian Gayarre テノーレ歌手]
大事なのは、どんな立派な声で歌うかではなく、むしろ、技術的な困難をすべて克服できるように声を操作し、優雅な歌を蘇らせることだった。残念ながら、そんな歌は今日ではもう忘れ去られているが。聴衆の騒ぎと歓声は、君には想像がつくまい。僕は拍手の大音響の中で、「優しき魂よ」の演奏を反復させられた。
[...]僕はローマ、ボローニャ、パレルモ、サンクト・ペテルブルグ、モスクワ、ヴィーンですでに成功を収めたが、今度はパリのオペラ座という(芸術的観点からして)第一級の劇場で歌う必要がある。ただし、聴衆がある種の不信感を抱き、厳しい審判を下そうと固く決意して聴きに来るようにはしたくない。僕は、第一幕の独唱で早くも戦いに勝ち、喝采を浴びてから、第四幕で熱狂を巻き起こしたい。僕の話に誇張はない。初日の一ヶ月前から猛練習をして、オペラを最も小さな詳細にいたるまで完璧に身につけたのだとも言わせてもらおう。君が親友だからこそ、安心して打ち明けている。この手紙を大勢の前では読まないでくれたまえ。僕が謙虚さを失い、誇大妄想を抱いていると思われそうだから。(書簡、1876年)
エンリーコ・デッレ・セディエ
[Enrico
Delle Sedie 声楽教師]
一つの役または登場人物をしかるべく演じるためには、何よりも次の三つの分析が必要である。
1.詩(台本)
2.音楽、それと詩との緊密な関係
3.演奏者が備える技量
その最初の分析は、次の三つの要素に分けられる。
(1)詩が取り扱う主題の完全な理解
(2)演じるべき登場人物の性格と社会的身分、さらに、その人物が劇展開の中で経験する出来事についての研究
(3)その人物が、他の人物との関係においても発せねばならない単語や台詞の、正確で厳密な意味の把握
(『歌唱の技術と生理学』、1876年)
ジョヴァンニ・ボッテジーニ
[Giovanni Bottesini 作曲家]
マレスカルキ君は少しためらってから、スカラ座での出演契約を受諾して、ペッシーナ氏に打電したと話してくれた。彼は知的な青年なので、今の人材不足のもとでは、『ファウスト』か『リゴレット』でお披露目すれば、スカラ座でも予備軍の歌手として通用するだろうと思う。美声で、舞台でも目立ち、容姿も好ましい。スカラ座で『ヘロとレアンドロス』が上演される時は、バッソ歌手ミッレルを必ず排除しよう。彼は他のどの役にも増して、《アリオファルネ》を打ち壊してくれるから。ただし、このことは内緒にしてくれたまえ。(リコルディ出版社代理人エウジェニオ・トルナーギへの書簡、1879年)
《アリオファルネ》をバリトノ歌手の役に書き直したいが、君はどう思う?そのほうが、適任者が見つかりやすい。当地ジェノヴァでは、ヴィッラーノ氏が立派に歌ってくれるだろう。あとは、ブッリ嬢とジロー氏が結構な組み合わせだ。バッソ歌手だと音高が下がり気味で、表情も氷みたいに冷淡だから。僕はバリトノ歌手への変身を試してみたいが、許可してくれるだろうか。(楽譜出版業者ジュリオ・リコルディへの書簡、1881年)
ロベルト・スターニョ
[Roberto Stagno テノーレ歌手]
君の電報にお答えしておく。ボッテジーニ君が僕に、『ヘロとレアンドロス』をローマで上演したいとの希望をブエノス・アイレスで語ってくれた事実は保証する。だから僕は、南アメリカから君に手紙を書いて、見識の高いローマ市民が、彼のこんな傑作を聴いてくれるようにと催促した。思い出してくれないか。繰り返すが、ボッテジーニ君は大喜びのはずだ。ヨーロッパに戻った時点で先約がなければ、彼自身がローマに赴いて、『ヘロとレアンドロス』の上演を監督するという。この件に関して僕に自信がなければ、あえて君に彼の意向を伝えはしなかったはずだ。(興行家ヴィンチェンツォ・ヤコヴァッチへの書簡、1879年)
フランコ・ファッチョ
[Franco
Faccio 指揮者]
あの曲の声域はタマーニョに最適です。感情が頂点に達するくだりで彼が放つ声は、絶大な効果をもたらすものと確信します。従って、貴殿がミラノにお越しになり、あのアリアを実際に二つの異なる調でタマーニョに歌わせてご覧になるまで、移調するか否かの決定を保留なさるのが賢明だろうと、私は考えます。仮に移調するとしても、伴奏を書き改める必要は全くなさそうです。この先、貴殿にとってますます大切になるはずの時間を、失わせるようなことはございません。(ジュゼッペ・ヴェルディへの書簡、1881年)
フランツ・リスト
[Franz Liszt 作曲家]
すぐれて俊敏で才能のある女性が、あなたへのご紹介状をお望みです。彼女の著作のうち幾つかは、すでに何度か版を重ねる幸運に恵まれています。私はあなたに関して、彼女のみならず万人に知れわたった事実をお伝えしました。つまり、ポリヌ・ヴィアルド嬢は、今日では最も絶妙な技量を備えた劇場歌手であり、しかも完成された音楽家、きわめて繊細で活発な知性を携えた作曲家なのだと。件の女性は、出版準備中の自著であなたについて論じ、この周知の評価を、豊かに格調高く記述なさりたいご意向です。なにとぞ、この新しい文通仲間をご歓迎くださいますように。(ポリヌ・ヴィアルド・ガルシアへの書簡、1881年)
ジュール・マスネー
[Jules Massenet 作曲家]
昨晩はひどかった。とても素晴らしい場面があったのに、第一幕の終わりから最後まで妨害の気息、口笛、哄笑が止まなかった(あるいは僅かに弱まっただけだ)。あるイタリア人(若手作曲家)によるオペラの人気が落ちてきて、私の作品が続演されると非常に不都合なので、抵抗を受けたのだ。加えて、予想された通りに政治的な反感もあった。それに、演奏が並の水準を下回っていた。君たちから二通のお手紙を受け取った。別の時ならば大喜びしただろうが、今は笑える気分ではない。さて、私は数日後、パリに帰る。契約上、公演の二日目、三日目までスカラ座に留まる義務があるのかどうか分からない。いずれにせよ、パリに戻った後でブリュッセルに招かれている。ミラノでの失敗(君なら大丈夫だと思うが、この失敗について口外しないように、一応お願いしておく)は、パリのオペラ座での私とアドルフ・デヌリー氏の合作に、悪影響を及ぼすかも知れない。(書簡、1882年)
アンジェロ・マジーニ
[Angelo Masini テノーレ歌手]
私は歌唱芸術を敬愛し、愛情と熱意を込めて歌います。仮に私が芸術生活で精神的な充足を得て、喜ばしい勝利を収めるとしても、私の手柄ではありません。鶯に、なぜこんなに上手に囀るのか、とお尋ね下さい。薔薇に、なぜこんなに美しいのか、ともお尋ね下さい。彼らはそれぞれの言葉で答えるでしょう。「生まれつきこうだから」と。つまり、私も生まれつきの声に恵まれました。この天性を、学習と技術によって改良したのです。自分の人生にとって恐らく唯一の誇りは、「すべてをわが身に負っている」と言えることでしょう。座右の銘は、「欲すれば可能なり」です。かような駄弁を、なにとぞお許し下さい。(書簡、1884年)
フランチェスコ・パオロ・トスティ
[Francesco Paolo Tosti 作曲家]
ご親切な手紙をいただきながら、今までお返事できなかったのは申し訳ない。頼むから悪く思わないでくれたまえ。この間、手紙の他に、君の女友達が書いた詩も受け取った。彼女はそれで僕に作曲してほしかったわけだ。彼女の詩集を送ってくれないか。君が取り次いだあの作品は気に入らない。詩集の中に、音楽づけが可能な作品も見つかるだろう。僕が、彼女をきっと可愛らしいご婦人だろうと想像していることを、本人に伝えてもらいたい。そうでなければ、君が小切手も、銀行も、報酬も度外視してまで世話を焼くはずがないのだから。(書簡、1886年)
僕の声楽曲を同封する。英訳版も近いうちにお届けしよう。言っておくが、「音楽のために」書かれた美しい詩の入手は、深刻な問題になってきている。フランチェスコ・チンミーノ氏には、作詩料の支払いをよろしく頼む。それも、出来るだけ値切ってほしい。(楽譜出版業者ジュリオ・リコルディへの書簡、1905年)
アルフレード・カタラーニ
[Alfredo
Catalani 作曲家]
この間の晩から自問しています。ヴェネツィアでブージ主演の『エドメア』はあれほどの成功を収めたとして、ヴィルジニア様がお歌いになればどうだったろうか、と。電報でも申し上げましたが、ブージは知性を備えた芸術家であり、舞台上での動作は得意です。それに彼女は、あなたとも共演したヴァゼッリと一緒に歌う幸運に恵まれました。しかし、どうしてもある種の事はかないません。彼女の声は敏速な旋律には向かず、どちらかといえば弱々しいからです。第一幕の最初の独唱曲と三重唱は、彼女の声に適していません。逆に、狂乱の場面は上手にこなしました。第三幕のアリアも魂を込めて歌いました。二重唱でもヴィジニア・フェルニをまねて、いやむしろ複製して、大きな名誉を得ました。ですから、第一幕は他の幕よりも拍手が乏しかったのです。[...]土曜日の晩にオペラの演奏が始まった時、どれほどあなたを思いやったことか。私はずいぶん緊張していました。上演の失敗を恐れて。幸いに、聴衆は親切でした。(ソプラノ歌手ヴィルジニア・フェルニへの書簡、1887年)
フランチェスコ・タマーニョ
[Francesco Tamagno テノーレ歌手]
申し上げますが、お許し下さい。私が状況を誤解しておりましたとはいえ、先生の耳元で誰かが私を中傷しようと試みたのは事実であり、それがいかなる理由によるのかは存じかねます。私が喝采を受けた晩に、若干の音符を「非音楽的」なまでに誇張していたと、先生が人づてに聞かれたという末筆のお言葉から、私はそう推察いたします。先生、私は最初にミラノで、そしてローマで歌いましたが、ヴェネツィアではそれ以上でも以下でもありませんでした。声について率直に申しますと、私の場合、(これは自分の手柄ではないので申せますが)天性がずいぶん優遇してくれますので、無理な力に頼る必要などございません。芸術的側面に関しては、どの劇場でも常に能力を出し切って参りました。そしていつまでも、自分が職業として選んだ芸術に出来るだけ相応しい行いを心がけます。やはりこの点でも、演奏者として先生にお迎えただき、お褒めの言葉まで頂戴しますと、さほど謙虚な姿勢は保ちにくいのですが、従うべき道筋をこうしてお示しいただけるからには、それを踏み外すべきではないと確信いたします。私が昨晩、ヴェネツィアで体調を崩していたことの弁解は控えます。仮に私より50メートル以上背が高くても、劇場歌手たる者にそれが起こり得て、しかも彼の芸術的価値が下がらないなどと申しますと、先生に対して失礼だと思います。(ジュゼッペ・ヴェルディへの書簡、1887年)
アッリーゴ・ボーイト
[Arrigo
Boito 作曲家]
二度と聴きには参りません。どの音符にも幾らかの知的価値が含まれているオペラを、愚かな連中に歌わせるのは不可能です。憤りを感じます。テノーレ歌手は狂犬病です。舞台上で、これ程のならず者にお目にかかったことはありません。あの馬鹿は結構な声ですが、しかし何たる馬鹿なのでしょう。女性歌手のほうは、よく食べて丸みがかった無能、つまり、数字の「0」です。
とはいえ、モレルの出番では、二年前のままに豊かで奥深い、大きな芸術的印象に再会できました。当時よりも演技が素朴で完成度が高く、同じくらい強烈に見えました。声はさらに頑丈になったようです。彼は、まだ十五年は歌い続けることでしょう。劇場は満員で、桟敷席に場所を借りなければなりませんでした。聴衆はテノーレ歌手と女主人公をおとなしく受け入れながらも、関心が逸らされてはおりません。
私たちの要求はさらに厳しく、芸術の優美なる印象を期待します。これが私たちの過失、そしてこうむる罰です。我慢するしかありません。(ジュゼッペ・ヴェルディへの書簡、1889年)
ヴィクトル・モレル
[Victor
Maurel バリトノ歌手]
言葉に当てはめられた歌はどれも、表現すべき歌である。歌手は、台本の文面と楽譜を正確に読むだけでは任務を果たせない。台本の言葉に、語義に応じた多様な表現を加える能力が不可欠だ。この条件を備えれば、歌手は自分の歌に必要な説得力を与え、その情動の働きで、歌っている言葉を、何よりも表情豊かなゆえに、何よりも美しい音楽となしうる。(『講演録』、1890年)
ヴィンチェンツォ・デ・ジョルジョ
[Vincenzo De Giorgio 声楽教師]
特別に大きく驚異的な声など必須条件ではない(そんな声のほうが確かに好都合かもしれぬが)。上手に歌うためには、声に正常な音域と伸びやかさがあればよい。ただし念入りに訓練されて、歌の色調と微妙な明暗にある程度は対応できる声でなければならない。そして歌手は、「芸術家」という言葉のすべての意味に当てはまり、博識とまではいかなくても、高い教養を備えた芸術家たるべきだ。小さな声でも名歌手になれる反面、たくましい声で...
吠え叫ぶ立派な犬もいる。その実例は、私たちがしばしば目にする、というよりは「耳にする」ところだ。(『歌唱と歌手』、1891年)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ランペルティ
[Giovanni
Battista Lamperti 声楽教師]
生徒は、発声技術の稽古だけでも数ヶ月間持続できるほどの忍耐がなければ、歌手には決してなれない。基礎練習を嫌がり、階名唱法を意欲的に学ばない生徒には素質が欠けている。どんな旋律に出会っても、その美しさを感得できる生徒には才能がある。(『講義録』)
チャールズ・サントリー
[Charles Santley バリトノ歌手]
私は、イギリス人歌手たちが英語でなくイタリア語で歌いたいと言うのを、何度も聞いたことがある。英語で歌うよりはずいぶん楽だからとの理由だ。彼らはそのほうが快適で、容易だと思っているらしい。しかし、イタリア語の美しさと繊細さに慣れた聴衆には、イギリス人歌手の口ごもった発音が、母音の醸し出すべき効果を全く台無しにしているように聴こえる。イギリス人は、歌う曲をすべて母音歌唱課題に編曲したほうが、はるかにましだ。イタリア語の歌唱は他の多くの物事と同じで、「やり通す」のが簡単でも、本来の仕方で行うのは難しい。これは単に、知性と応用力の問題だ。「人間がなしえたことは、君も人間だからなしうる」。その意志さえあればだが。言葉だ、そして言葉だ、なおかつ言葉だ。言葉なしに抑揚はありえない。抑揚なしに歌唱はありえない。ある人(彼はイタリア語を一言も理解できないイギリス人音楽教師だが)は私に、英語よりもイタリア語のオペラを愛好していると語った。私は、「歌詞については、どうお考えですか」と問うてみた。すると、「いいえ、歌詞は聴かないことにしています」との答えだった。私は彼のような人物のために自分の文章を書くつもりはない。(『学生そして歌手』、1892年)
シャルル・グノー
[Charles Gounod 作曲家]
昨晩、君は自分自身をまったく超えた。こう言うと君は驚くかもしれないが、それは僕も同じだ。でも、事実なのだから仕方ない。あの朗読と身振りの美しさ、抑揚の正確さと表現性、そして発声器官の制御を、君がこれほどの高みにまで持ち上げたことはなかった。要するに、芸術家として大きく成長し、無能者を永遠に誘惑する両極端の危険をも見下しうる、あの唯一で完全な均衡が実現されたわけだ。ありがとう。見事な腕前だ。これからも常にそうであってほしい。願わくは、神様が出来るだけ長く、君の素晴らしい技能を加護し給い、私たちにお残し下さいますように。(ジャン・デ・レスケへの書簡、1893年)
アルフォンソ・ガルッリ
[Alfonso Garulli テノーレ歌手]
こちらでは今週中に『道化師』が上演される。君の指示に従い、『ボエームの生活情景』を読み終えた。確かに《マルチェッロ》は見事な性格で、オペラの登場人物に作り変えれば上出来かもしれない。しかし正直に言うと、《ロドルフォ》の役柄ははるかに重要だから、僕にはよほど好ましい。ただし、君がこの役をヘ音記号の声部で書かなければの話だ。題材はとても魅力的で繊細なので、君が選んだのも十分に納得できる。(ルッジェーロ・レオンカヴァッロへの書簡、1894年)
ジャン・デ・レスケ
[Jean De Reszke テノーレ歌手]
劇場歌手の人生において、新たに挑む役はそのどれもが芸術的頂点を、美と無限を追求する長旅の通過点だ。僕にとって昨晩の《ヴェルテル》は、心(自分の聴衆の心を打ち、しかも自分が聴衆の前で心を打たれる能力)が本当に個々の技術と釣り合った、異論の余地なき成功の一つだった。真の道筋、感動への道筋、つまり、僕が人生のすべてをかけて到達しようと奮闘している目的は、歌詞を理解しない聴衆の前で成就した。登場人物に対する僕の認識は、思考する芸術家が歳月と成熟ゆえにのみ授かる素朴さから、そして純粋で誇張しない現実味から、浮かび上がった。聴衆はそれを本能的に感じ取ったのだ。(書簡、1894年)
ルイジ・レオネージ
[Luigi Leonesi 指揮者]
人間の声は最も完璧な楽器と見なされてきた。それは音色の変化に言葉が伴い、内心の様々な感情をすべて表現できるからに他ならない。実際に、喜び、悲しみ、願望、驚き、満足、幸福、怒り、憎しみ、不安、恐れなどの感情(ここに全部は挙げられないが)は、それぞれが異なる声色、または音色に対応してはいないだろうか。[...]聴衆の心をつかむために必要なのは、声の大きさではなく、むしろ歌声の正確な抑揚、強弱の加減、そして多彩さである。歌手たちはこのことを理解してほしい。(『歌唱芸術の衰退』、1894年)
フェルナンド・デ・ルチア
[Fernando De Lucia テノーレ歌手]
返事が遅くなって申し訳ない。君の新作オペラを初演で歌えるのは幸いだし、僕に見合った役を作ってくれるのだろうと想像する。僕としては、君が満足できるように、あらゆる努力を払おう。出演契約なんか結ばずに、君の指図だけに従うことを約束する。どんな良い出来事も僕に知らせてほしい。君がそのつもりならば、パート譜を送ってくれたまえ。真心と愛情を込めて稽古しておくから。(ジャコモ・プッチーニへの書簡、1895年)
フランシス・ウォーカー
[Francis Walker バリトノ歌手]
彼ら全員がイタリア声楽の流儀で訓練を受け、大多数は他ならぬイタリア本国で学んでいる。「イタリア声楽の流儀とは何か」と問われるかもしれない。それは真正の流儀であり、「イタリア声楽」と呼ばれるのは、最初の偉大な教師たちがイタリア人だったからだ。その教授法は自然にかなっている。イタリア声楽の緩やかで、健康的で、賢明な手順を習得しようとする人は、この忙しない現代社会ではごく少数だ。だからといって、伝統は失われていない。僕たちは実験への情熱が衰えてしまうと、興奮状態の反動から、次の事実に気付かされる。すなわち、あらゆる学芸の修行者が、何か新規の方法を見つけようとして時間を無駄にするのは、実は古い方法から学ぶべき内容が多すぎるからだ。例の歌手たちは、どの教授法のおかげであれほど偉大になれたのか。ニコラ・ポルポラ以来、イタリアの声楽教師が今日まで用いている教授法のおかげだ。他の国民は何も貢献していない。ただし、ドイツ国民だけは例外で、音楽的知見を現在のような最高の発展段階に導き、歌手にとっては、音楽教育の平均水準を向上させてくれた。フランスやドイツの声楽に固有の流儀を論じる必要はない。それはノルウェー、アイルランド、アメリカなどの声楽教授法について語るにほぼ等しい。どの文化的な国にも優秀な教師はいる。しかし彼らが優秀なのは、イタリアに負うところが非常に大きい。歌唱芸術はそこで生まれ、育まれ、気高く成熟し、すべての国々に影響を与えたのだから。(『あるバリトノ歌手の手紙』、1895年)
ジュリオ・リコルディ
[Giulio Ricordi 楽譜出版業者]
お便りを頂戴し、有難うございます。貴殿には相変わらずのご文勢にて、状況を描いていただきました。『ラ・ボエーム』のごときオペラを上演するにはどれほどの忍耐が必要か、正しく理解されてないとお見受けします。電報でも申し上げましたが、ヴォルディとボーイトは私を補佐役として、舞台上での細かな動作について、歌手たちと一緒に稽古を二十三回も繰り返しました
。演技を伴う曲を(忍耐強く、物柔らかに)十五回ないし二十回も反復しながら改善してゆきましたが、それは「歌声なしで」行われました。喉は鋼鉄で出来ているわけではありませんし、声帯が疲れ始めた時は、もはやお手上げですから。お約束しました通り、日曜日に私がそちらに伺えば、月曜日には稽古を何回かうまく運べるでしょう。それ以前はこちらで商用があり、出発できません。(台本家ルイジ・イッリカへの書簡、1896年)
アルトゥーロ・トスカニーニ
[Arturo
Toscanini 指揮者]
管弦楽は、ブレッシャから来た団員だけで稽古している。この連中の演奏を聴けば誰でも恐れをなすだろう。全く音楽に慣れない耳にすら不快で、嫌悪感を催すはずだ。もう、歌手たちとは稽古をしていない。彼らは皆、このオペラを歌ったことがあるから。《ショナール》役の哀れな男と取り組んでいる。僕の美声が彼の耳元で声部を歌い喚きながら、この役に生気を授けてやろうとするが、空しい努力だ。彼はますます馬鹿になる。理解力に欠けているというよりも、むしろこういった登場人物に必要な、喜劇役者の才知のようなものが足りない。(書簡、1896年)
ルイジ・アルディーティ
[Luigi Arditi 作曲家]
私はこの花形歌手、アデリーナ・パッティ夫人に、アンコール曲が必要ならば『口づけ』を演奏しようと提案した。しかしパッティ夫人は、他の曲も含めて楽譜を全部、女中がニュー・ヨークに置き忘れてきたのだと言う。女中はこの悪戯を楽しんだのかも知れない。問題の時が来ると、聴衆はアンコールを求め、例の曲名を何度も叫んだ。パッティ夫人は私の目を見据え、「アルディーティさん、『口づけ』で最善を尽くしましょう」と囁いた。私はたいそう驚き、不安に駆られた。もはや議論する隙もなく、管弦楽団が歌の旋律を奏で始めた。楽団員たちはパート譜を見ずに弾かされたので、音を外したり、不協和音を響かせたりした。それでもなお、彼女が演奏をためらわず、恐れも誤りも一切なしに曲を最後まで歌い通したのは、実に大胆な行為であった。聴衆はこの小さな珍事をすぐに察知し、歓声と真心の拍手で賛意を示してくれた。(『回想録』、1896年)
マティルデ・マルケージ
[Mathilde
Marchesi 声楽教師]
声楽教師には、声の欠点を単に指摘するだけでなく、治療する能力も求められます。理論的に言えば、科学の諸法則は存在しても、生徒一人一人の素質に従ってその応用の仕方は異なるべきです。声は肉体の楽器であり、個々人の特殊な身体的条件により変化するからです。自然体が歌声を育ててくれる最良の教師だ、といった考えは大きな誤りです。一般に、若くてまだ訓練を受けていない声は、荒削りで硬く、音域が狭く、強さも音質も不均一で、よく揺らぎます。何年にもわたる我慢強い稽古と、細心の注意を用いた指導の後にようやく、声がしかるべき音域、柔軟性、均一性、持続性を獲得し、芸術音楽の要請をすべて満たせるようになります。(『マルケージと音楽』、1897年)
ルッジェーロ・レオンカヴァッロ
[Ruggero Leoncavallo 作曲家]
エドアルド・ソンツォーニョ氏は、第三幕終結部のアリアを削除なさりたかったのですが、私には、新たな幕切れを作曲する以外に方法が思い浮かびません。しかし、この曲がヴェネツィアの初演でいかに不適切な歌われ方をしたか、貴殿はお察しのことと存じます。削除を決定する前に、たった一度でも、上手に歌われるのを聴きたいものです。(書簡、1897年)
ウンベルト・ジョルダーノ
[Umberto Giordano 作曲家]
『フェドーラ』の《ロリス》のパート譜は完成しておらず、まだご発送できません。この三幕のオペラで重要な役なのですが、第二、第三幕だけ歌い、第一幕は歌いません。前にも申し上げましたように、これは「貴殿のために書かれた」役です。ですから、オペラが私の期待どおりに成功を収めれば、貴殿にとりましても頼れる武器の一つとなりましょう。貴殿ならば、何の苦労もなしに大きな効果を発揮なさるはずです。
私は現在、『アンドレア・シェニエ』を貴殿の演奏で聴きたいと切に願っております。先日、シャルル・デルマ氏がリリコ劇場で歌って大成功を博しました。それがもしも貴殿でしたら、いかほどだったかご想像なさって下さい。《シェニエ》の声部は全体を低く移調しましたし、以前ご一緒に移調しました楽譜を私にお届け下されば、さらに他の部分も移調して差し上げられます。第一幕のアリアでは、先行レチタティーヴォの「私が大事に隠している所に打撃を加えられた、云々」<Colpito qui m’avete ov’io geloso celo, ecc.>で、「隠している」<celo>から「ニ(D)」に上行せず、「変ニ(D)」に下げ、半音低く移調してアリアの最後まで続きます。(テノーレ歌手フェルナンド・デ・ルチアへの書簡、1898年)
バルバラ・マルキジオ
[Barbara
Marchisio コントラルト歌手]
いつも通りの推薦状を書くつもりはございません。イタリア人芸術家としての貴殿のお心意気を十分に存じております。一つだけ申し上げますと、私にはこの生徒がとても大事なのです。彼女はペロージのオラトリオを熱愛しており、《マルタ》の控え目な声部を歌わせれば、他のどの女性歌手にも勝る効果が得られます。当人が実感し、信じているからです。声は大きくありませんが、そのかわりに「しかるべき歌い方」を心得ています。これは、今日の不安定な状況下では、多くも少なくもない要件です。(書簡、1899年)
ピエトロ・マスカーニ
[Pietro
Mascagni 作曲家]
テノーレ歌手アッティリオ・マウリーニは本当に駄目なようです。指揮者ムニョーネ氏は、《オーサカ》役を交代させずには、ボローニャ市立劇場で『イリス』を上演するなど不可能だと言います。私はとても心配です。カルーゾと張り合えるテノーレ歌手は一人しかいません。ジュゼッペ・ボルガッティです。出演契約できるでしょうか。できなければ、私は楽譜を取り下げます。
この件で、ムニョーネ氏に手紙を書きました。私がボローニャまで上演を中止させに行く決意をする前に。
ボローニャは私にとって危険きわまりない場所です。上演が大々的な失敗を喫するにしても、ひとえに私が書いた音楽の罪であり、演奏の不手際ではないことを望みます。ムニョーネ氏は、マウリーニではどうしても無理だと断言しています。ですから、『イリス』の上演はより良き時まで延期するのが無難でしょう。ボルガッティさえ使えれば、すべては救われるのですが。(書簡、1900年)
三人のテノーレ歌手、ラザロ、ラウリ・ヴォルピ、フレータが立ち去ったので、現地の犬ども二匹と、ドイツ人歌手キルホフとで続けている。キルホフは彼の言語で僕らのオペラを「吠えて」いるが、吐き気を催させる演奏だ。(書簡、1922年)
アルベルト・ジョヴァンニーニ
[Alberto Giovannini 作曲家]
ジョアキーノ・ロッシーニが、歌うための三つの要件は「声と、声と、声だ」などと語ったらしい。このような言い伝えは、たとえ短期間でも声楽教育に携わった人ならば簡単に論破できるだろう。声というものは、長期にわたる忍耐強い学習を通じて洗練、彫塑され、敏活な音楽性、芸術的才能、感受性、様式感覚によって支えられねばならないと認識しているからだ。確かに、声が出せない人は、たとえ上記の素質をすべて備えていても、声楽の修行には着手できない。しかし、一応の声を持ち合わせながら、それ以外に何の取り柄もないような人もやはり、ほとんど成果が望めない。(『声楽教師志望者のための手引書』、1902年)
クレオフォンテ・カンパニーニ
[Cleofonte
Campanini 指揮者]
君のオペラを演奏する音楽家一座に満足してくれることを願う。言っておくが、僕は明日、妻と一緒にサルソマッジョーレへ向かう。そこで、ピアノ伴奏譜が入用だ。今すぐ、複写してもらえないだろうか。君が管弦楽を付けている間に、有能な複写係がこの仕事を一気にやり遂げてくれるだろう。妻がなるべく早く練習できるように、それを何とかお願いする。
ところで、妻は台本を読んで、出番がとても長いと感じている。前に話した通り、彼女のために、第二幕を出来るだけ軽くする配慮を頼む。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1902年)
エンリーコ・ジョルダーニ
[Enrico Giordani バリトノ歌手]
来る秋に、ミラノのリリコ劇場で上演される君の『アドリアーナ・ルクヴルール』で、僕が《修道院長》を歌わせてもらえるとは嬉しいことだ。君には当然の華々しい成功が訪れるようにと願っている。一昨日、親友のカンパニーニ、テトラッツィーニ夫妻と昼食を共にした。君とその新作について長談義をしながら、最も好ましい結果を祈念した。君はいつものように、美しく繊細な音楽を書いたに違いのだから。ああ、何と素晴らしい台本、何と見事な劇展開だろう。僕は自分の《修道院長》役に惚れ込んでしまった。[…]僕は明日、ボローニャに戻る。マスカレッリ通り83番だ。君の正確な住所を知らせてくれれば本当に有難い。君はいつまで、そちらに留まるのだろう。少しでも君に時間があれば、僕が立ち寄るから、《修道院長》について教えてくれないか。どうだろう。パート譜は用意できているのだろうか。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1902年)
アレッサンドロ・ヴィーニャ
[Alessandro Vigna 指揮者]
『ファウストの劫罰』の楽譜が揃ったのでお届けする。喜んでくれることだろう。君の声部に部分的な変更を記しておいた。[...]6ページのあとに手書きの楽譜が続くが、これは歌わず、(ベルリオーズがした通り)管弦楽だけ演奏させて、「精霊の世界が」という言葉で歌を再開するようにお勧めする。157ページから君が歌う《ファウスト》の大きなアリアは一全音高く移調させた。これは局部的な書き改めがきかない唯一の曲だ。原調だと君の声には低すぎるが、全体を移調したから、「この静寂が好きだ...」という所の「変ロ(B)」以外はうまく演奏できると思う。君がお望みなら、この音符だけ「ト(G)」に変更しても構わない。206ページで、作品を傷めない程度の小さな省略を施した。君がここを歌いたければ、僕は必要な書き直しをするつもりだ。217ページで君が歌う立派な楽節の結尾を書き改めたのは、気に入ってもらえるだろう。(フランチェスコ・タマーニョへの書簡、1902年)
ジュゼッペ・デ・ルーカ
[Giuseppe De Luca バリトノ歌手]
私は今月26日の火曜日にフィレンツェに立ち寄り、当日の晩まで留まります。その際にぜひとも貴殿のご面識を頂戴したく存じます。もしも可能ならば、月曜日の夕刻も、しばらくご一緒できればと願います。来る秋の公演期に、私はミラノのリリコ劇場で貴殿の新作『アドリアーナ・ルクヴルール』の《ミショネ》を演じることになりましたが、その演奏解釈を巡って、貴殿のご意向を伺いたいのです。私のローマのあて先にお返事をいただけますよう、よろしくお願いいたします。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1902年)
ルイジ・チェザーリ
[Luigi Cesari 興行家]
同僚のアルジェンティ氏は、二流の劇場で辛うじて通用する程度の歌手を、書面で次々に推薦してきます。当方では、歌声と演技で聴衆から人気が得られるテノーレ歌手を用い、確実に成功を収めねばなりません。こちらの求める要件を満たさない歌手は、試しても無駄です。最後までフランチェスコ・バルディーニで通すのが得策でしょう。少なくとも、比較の競争で深刻な結果を招くことなく済ませられます。何しろ当方も、敵に睨まれている状況ですから。アルジェンティ氏は事の重大性を認識していないようです。そうとしか考えられません。氏には、パレー、ラヴァッツォーロ、フロジーニ、ミエーリ、その他の歌手よりも、バルディーニで続けるほうがましだと手紙で伝えておきました。耳の肥えていない聴衆ならば、誰か前述の一人でも間に合いますが、このデッラ・ペルゴラ劇場では問題外です。ボローニャの劇場で、ピエトロ・ゼーニの出演料を一晩あたり700リラも支払うなど、私には絶対に不可能です。劇場の運営はそれほど儲かりません。[...]貴殿の作品は本当に、あまり時間を空けず、すべての劇場で紹介されてゆくに値するものです。楽譜出版業者がこの作品を流通させようと望むならば、各地での初演にともなう多額の出費に同意してもらう必要がありましょう。一流の劇場の場合はなおさらです。そこでの評価こそが、出版社の商業的な成功ばかりか、作者の芸術家としての名望をも左右するのですから。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1903年)
エドゥアルド・デ・レスケ
[Edouard De Reszke バッソ歌手]
一年前から、労働運動の高まりで甚大な被害が生じている。この混乱のために、僕は祖国と家族から離れられなかった。でも今では、声楽教師を変えて勉強する決意を固めた。二週間後にパリに赴くつもりだが、きっとどこかに歌う場所が見つかるだろう。僕はいたって健康だし、声も完全な状態だ。(書簡、1906年)
レンツォ・ソンツォーニョ
[Renzo Sonzogno 楽譜出版業者]
スカラ座での『カルメン』の稽古期間中に、君に手紙を書きたかったが、やはり初日の結果を待つことにした。テノーレ歌手ジョヴァンニ・ゼナテッロは歌唱力が落ちたので、『グロリア』の初演には絶対に向かないと思う。太い声になってしまって、音符を一つも紡げない。昔は、聴衆にせめて好感だけでも与えていたが、今は誰もが文句を言うし、新聞評論も彼が歌った《ドン・ホセ》を容赦しなかった。トスカニーニと相談する前に、君の意向を聞いておきたい。僕としては、アメデオ・バッシを起用するためなら、どんな手段でも試みるつもりだ。仮にそれが無理でも、ゼナテッロよりはジュゼッペ・ボルガッティが望ましい。ボルガッティは少なくとも登場人物を創り出し、注目を集めるだろう。彼は相変わらず聴衆に大きな魅力を感じさせ、中音域の声質もゼナテッロほどには悪くない。サロメア・クルシェニスキは大丈夫だ。昨日、『サロメ』で彼女の歌を聴き、最高の印象を得た。バリトノ歌手は、パスクワーレ・アマートがいかに成功を博すかが見ものだ。しかし、ジュゼッペ・デ・ルーカもまだ好ましく、僕は諦めきれずにいる。アマートだとすれば、声の力強さでデ・ルーカをはるかに凌ぐ必要があろう。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1906年)
アレッサンドロ・ボンチ
[Alessandro Bonci テノーレ歌手]
本状にて、ニュー・ヨークのレジーナ・ヴィカリアーノ嬢を推薦させていただきます。長年こちらに定住しているスイスのご家系で、彼女も当地の出身です。イタリア語はほとんど話せませんが、フランス語はかなり上手です。声楽はこちらで、リンダ・ミクッチ夫人の妹君でいらっしゃるイタリア人の先生に学びました。彼女の歌を私が聴いた限りで申しますと、短い学習期間にもかかわらず、歌声の基礎固めと質、そしてアメリカの若い女性には到達しがたい一定水準の芸術性と感性ゆえに、非常に好ましく思われました。歌える曲目も一応は揃っています。もちろん、まだ勉強を続けねばなりません。特に発音がそうです。しかし繰り返しますが、優れた指導者がいれば必ず上達すると確信します。そこで、私は彼女を強くご推薦いたします。(書簡、1907年)
アデリーナ・パッティ
[Adelina Patti ソプラノ歌手]
今日の音楽評論に広く見られる欠点は、無知なことであり、評論家の大部分は正しい歌い方と誤った歌い方を区別できないと、私は考えます。とはいえ、世間の人々にそれをどう語ればよいのでしょうか。評論家は、結構な晩餐や愛想の良い取り巻きなど、その刹那に気に入った物に影響されるのだと、いかに説明すべきでしょうか。彼らは、自分たちの礼賛する歌い方が、若い歌手に全くの悪影響を及ぼすとは、思ってもみないのでしょう。だとすれば、私がそれについて記述し、話さないでいられましょうか。(『わが回想』、1908年)
ルイザ・カップ・ヤング
[Louisa Kapp-Young 声楽教師]
歌手は声を、一連の音を作り出す装置ではなしに、自然界で最も美しい存在物、すなわち人間の魂を顕示する手段だと考えねばなりません。最初に習得すべきは、自然の法則にかなう音の発し方です。その後に、無数の技巧を身につけることです。忍耐の欠ける生徒たちは、もう歌手になれたと思い込み、世に出ようと急いで、しばしば聴く人の耳に硬い声を投げつけます。しかし決して人の心をとらえ、拍手を頂戴するにはいたりません。それは聴衆の罪ではありません。無いものはどうしても聴こえないからです。これに対して本物の歌手、すべての困難を辛抱強く克服して自分の感情を思い通りに表出できる歌手が演奏すれば、人々は魂の実感した歌が語る美しい想念を聴き取り、歌手が最後の音符を歌い終わるまで魅了されてしまいます。(『完全な歌唱のための実践的な示唆と助言』、1908年)
ヴィンチェンツォ・ロンバルディ
[Vincenzo Lombardi 指揮者]
君の素晴らしい傑作『アドリアーナ・ルクヴルール』の初日と二日目は、本当に成功だった。歌手の全員が、オペラを最高の熱意で歌ってくれた。初日は、第一幕で《アドリアーナ》のアリアと《ミショネ》の独白が反復演奏され、ソプラノ歌手とテノーレ歌手の二重唱も、繰り返しの要求がかかった。第二幕では、新人のテノーレ歌手が少し不調で、かなり動転していた。間奏曲は大感激を呼び起こし、すべての観客が反復演奏に満足した。第二幕のあとで演奏者の呼び出しが四回あった。第三幕も拍手のうちに終わり、呼び出しが二回。舞踊は諸般の事情から実現しなかったが、第三幕は好評で、劇的な重要性も失わなかった。第四幕は順風満帆。前奏曲では管弦楽団が大喝采を浴び、演奏を反復した。『哀れな花』のアリアも繰り返しが要求された。オペラは見事に締めくくられ、歌手たち全員が四回も呼び出された。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1908年)
エンリーコ・カルーゾ
[Enrico
Caruso テノーレ歌手]
美しい音の出し方にすべての注意を払う一方で、大抵はそれと同じく美しいか、少なくともそうあるべき言葉をなおざりにする歌手が、何と多いことだろうか。[...]確かに、どんな歌手でも朗読が上手でなければ、大した芸術家とはいえない。美声だけでは、他の様々な欠陥を繕えないからだ。生来の声が小さいか、あまり声質がすぐれない歌手も、大きく印象的な声がありながら朗読が出来ない歌手に較べて、はるかに聴き心地が良い。(『歌唱芸術』、1909年)
リッカルド・ザンドナーイ
[Riccardo
Zandonai 作曲家]
私は、声を軽んじようと思ったことは決してありません。声はすべての楽器の中で、最も美しくて魅力的だからです。貴殿は、管弦楽には何の値打ちもない、と断言なさいますが、そのご意見には賛同しかねます。さらに力説させていただきますと、オペラの真髄である肉の香辛料や付け合せにできる物は、管弦楽しかありません。貴殿のお考えについて、私は芸術的観点からの議論を望んではおりません。ただ、単純にお訊ねできれば満足です。つまり、貴殿は現在の聴衆が、かつてベッリーニやドニゼッティ、その他の作曲家が供したような肉だけの料理に甘んじると、率直に思っていらっしゃるのでしょうか。私は逆だと思います。偉大な作曲家たちが聴衆の味覚を洗練させて(それとも破壊して?)しまったからこそ、聴衆は薄味でしかも消化に悪そうなあのシチューよりもむしろ、香辛料だけで満足するようになったのです。(楽譜出版業者ジュリオ・リコルディへの書簡、1910年)
エンマ・アルバーニ
[Emma Albani ソプラノ歌手]
ここで私の意見を言わせていただくと、フランチェスコ・ランペルティ先生は当時、発声技術と本物のイタリア式教授法において、世界で最も優秀な声楽教師でした。この教授法は現在、残念ながら失われつつあります。先生は、「この教授法を徹底的に学びなさい。どんな種類の音楽でも演奏できるようになるから」とよく仰っていました。そこで、私はそれを徹底的に習得しました。ランペルティ先生の言葉が正しかった証拠に、ヴァグナーとリストの友人だったあの偉大なピアノ奏者、ハンス・フォン・ビューロウ氏は、私が『ローエングリン』で歌ったのを聴いて、こう述べられました。「もしもアルバーニ嬢がドイツに行ってくれるならば、ヴァグナーの作品を『歌う』ことが可能である事実を、ドイツ国民に示せるだろう」と。(『歌の四十年』、1911年)
ジャック・イズナルドン
[Jacques
Isnardon バッソ歌手]
最も著名な声楽教師の一人である巨匠二コラ・ポルポラが生徒をいかに教育したか、読者はご存知だろうか。五年間にわたり母音歌唱課題の一ページ、一つのページだけを稽古させて、それを完璧に歌えるようにした挙句、ただ単にこう告げて生徒を卒業させたそうだ。「行きたまえ。君はもう立派な歌手になったよ」と。
すると、ポルポラは実際にはそんな台詞を一度も発しなかったか、さもなければ、彼は名声を不当に手に入れた無能者に過ぎなかったわけだ。私はこの話を信じたくない。音楽家たちに笑止千万な言い伝えがつきまとうことは十分承知しているのだから。
たとえ歌の機械的な技巧において完璧に達したとしても、それしか会得していない生徒を「立派な歌手」などと、優れた教師がはたして呼ぶだろうか。しかも長期間、音楽作品の演奏を練習せねば、大きな広間で聴衆の前に姿を見せるにはいたらないだろう。当然それは、別の新たな訓練の必要を意味する。
この「逸話」で語られないのは、ポルポラが生徒に母音と子音を発音させただけなのか、練習課題に歌詞をつけさせたのか、文章や単語の区切り方、意義づけ、音色、重みなどを教えたかどうかである。生徒は朗読法や文体表現を学んだのか。音楽様式に対する感性を磨いたのか。自分が演じる様々な登場人物の異なる性格について最低限の認識があったのか。それらの人物の心理が彼に解き明かされたのか。表情や動作について考えたのか。[...]
ああ、どんな伝説も誤解を永らえさせるだけだ。ポルポラの逸話は、ロッシーニが述べたとされる次の言葉(つまり本人の言葉ではありえないのだが)を再確認させてくれる。「成功に必要なのは声、そして声、さらに声あるのみ」。(『劇場歌唱』、1911年)
オットリーノ・レスピーギ
[Ottorino
Respighi 作曲家]
たった今、完成したばかりの真新しいロマンツァをお届けします。この日付(今日は13日)が献辞と、ロマンツァと、哀れな作曲家に幸運をもたらしますように。あなたに、その心と声に、お任せします。世界中で、永遠に。(ソプラノ歌手キアリーナ・フィーノ・サヴィオへの書簡、1911年)
本日、二つの新たなロマンツァをトリノにお届けします。作曲途上の『六つのリリカ』のうち、最初の二曲です。前作と同じく、この新しい一連の曲をあなたに献呈いたします。二曲のロマンツァは、『昔のクリスマス』とアーダ・ネグリ作詩の『夜』。この二曲も前作のように、あなたの声と心にお任せします。(同上、1912年)
『夜』と『昔のクリスマス』を含む一連のロマンツァの残り半分を完成するため、少し作業をしています。あなたの声に適った仕上がりを期待します。(同上、1912年)
私が作った室内楽曲の演奏会を聖チェチーリア音楽院で催すため、立ち働くつもりです。あなたがお越しになり、私のロマンツァを歌って下さることを期待します。これは、ベルリンからお戻りになってからです。ところで、その後なぜ、『欠けてゆく月よ』と『雨』をお歌いにならないのですか。
ベルリンでは卓越した伴奏者たちに会われるはずです。彼らは私よりも上手でしょう。私の曲を一つも歌っていただけないならば、とても残念です。私の作品に魂と心を注がれるのはあなたです。ピアノ伴奏者ではありません。(同上、1913年)
ジュゼッペ・ルザルディ
[Giuseppe Lusardi 興行家]
スカラ座に関する新聞の噂は気にしないでくれたまえ。演目については、君が知っている事のほかは何も決まっていない。劇場の外にいる連中ばかりか、内部の者ですら想像がつかないほどの困難を、乗り越えねばならない局面だ。君は、『ラ・ジョコンダ』が『テンダのベアトリーチェ』になったのかとのご質問だ。だが、カルロ・ガレッフィが『ラ・ジョコンダ』で出演契約を結んだ以上、彼がどんな大金を積まれたとしても、このオペラを手放さないのは分かるだろう。君もご存知の物質的、経済的側面を一切考慮しないとしてもだ。『オリンピア』も、やはりテノーレ歌手が見つからず、まったく決定が下せなかった。あれだけのお世辞を並べても、エットレ・チェーザ・ビアンキ氏を説得できなかった。君に言わせると、もはや歌手のためにオペラを上演せねばならないとのこと。あいにくその通りだ。悪戦苦闘しながら、雇える歌手を基準にして、上演すべきオペラを選ぶ必要があろう。この不自由から逃れようとすれば、破滅が待ち構えているのだから。(ジーノ・マリヌッツィへの書簡、1914年)
ヴァルテル・モッキ
[Walter Mocchi 興行家]
今年は、スカラ座にジルダ・ダッラ・リッツァが来る。僕は他ならぬ彼女のことで、君に個人的なお願いと相談をするために手紙を書いている。この若い歌手には、素晴らしい将来が待ち受けている。彼女をうまく起用して援助するにあたっては、僕がこれから言う事柄を念頭に置いてもらう必要がある。彼女は『西部の娘』で衝撃的な成功を収めてから、絶妙な『メフィストフェレス』、無難な『ラ・ボエーム』、そして...いかにも凡庸な『道化師』を歌った。それは、この歌手が特殊な気質を持っており、誰に師事し、いかに稽古したかで結果が大きく左右されることを意味する。彼女は『西部の娘』、『メフィストフェレス』、『イザボー』を、エンマ・カレッリから学んだのだ。だが、何よりも選ばねばならないのは、歌わせるオペラの種類だ。さて、気をつけてもらいたいが、ダッラ・リッツァが自らの気質に適したオペラでスカラ座に初登場すれば(僕は、ザンドナーイの『フランチェスカ・ダ・リミニ』を歌う彼女が特に素晴らしいと思う)、大きな発見として受け止められるだろう。君にとっても、今期の大黒柱になるはずだ。[…]だが、もしも彼女に合わない脇役や滑稽役を歌わせると、君は彼女を台無しにして、出世を三年ばかり遅らせてしまうのみか、君の演奏にとってすら何の利益にもならない。(ジーノ・マリヌッツィへの書簡、1914年)
イルデブランド・ピッツェッティ
[Ildebrando
Pizzetti 作曲家]
音楽は、詩が表現するどんな感情も表現できるのみならず、詩的表現を生み出した情動そのものをも表現できる。その情動の幅と奥行きの全部にわたり、詩が言葉から必然的に受ける制約を超えた表現ができる。本当に美しい詩は、他の表現手段にさらされると自らの美を損なう、というのは愚かな説である。詩がどんなに美しくても、完璧でも、詩人と同じ心理状態になれる音楽家は、詩人が言葉で表した情動を感得し、その情動を、旋律と律動と和音を用いて表現できるだろう。詩ただひとつでは到達できない威力と妙味がそこにある。(『今日の音楽家』、1914年)
ジョヴァンニ・ビネッティ
[Giovanni Binetti 声楽教師]
その昔、ラブラッシュ、パスタ、マリブラン、ルビーニらが退屈な曲芸の稽古に費やした、伝説的で果てしない「十二年間」は確かに、現代社会の目が眩む性急さと恐るべき対照をなしている。しかし当時の「十二年間」と、今日ある種の声楽教師が生徒に課する「二年間」や「十ヶ月間」のたぐいとは...
距離が開きすぎだろう。こう反論する人がいるかもしれない。前世紀の聴衆が褒め称え、喜びを味わった、あの音の滑らかさ、声の敏捷性、離れ業を、現在の音楽は人間の喉に要求しないのだと。では私も答えさせてもらおう。どんなに近代化を欲したところで、「歌唱」という単語は今も将来も決して、「呻き」、「口笛」、「叫び」、「雑音」の同義語にはなりえないだろうと。(『歌手の職業生活のために』、1915年)
ルイジ・マンチネッリ
[Luigi
Mancinelli 指揮者]
演奏会の数日前にローマへお越しいただき、私とご一緒に、『清教徒』の《アルトゥーロ》の声部に目を通して下さるお約束です。このオペラの中で、貴殿が今まで歌われなかった曲を習得なさるために。[...]以上の曲を学んでいただき、高音域の発声にご注意いただきますよう、お願いいたします。『清教徒』の初演で、かの有名なテノーレ歌手ルビーニがほとんど「ファルセット」のようにして歌った高音を、当時の慣習に従い、「ピアニッシモ」でお聴かせ下さい。ベッリーニの音楽は、すべての楽句を「歌う」べきであり、「叫ぶ」のは禁物です。(テノーレ歌手ディーノ・ボルジョーリへの書簡、1918年)
フェッルッチョ・ブゾーニ
[Ferruccio Busoni 作曲家]
高齢のネリー・メルバ(60歳を過ぎただろうか)は、アデリーナ・パッティのようになるだろう。年老いて大金持ちなのに、聴衆の前で歌うのをやめられずにいる。現在の彼女にとっては大変な苦役だが、あのクラリネットみたいな発声は、今でもそれなりに快くて模範的だ。ただし、「楽器」の使いこなしを唯一の目的として月並みな結果を得る、こんな「芸術のための芸術」のたぐいは、僕にはもう理解できない。イギリスの大衆が期待し、求め、魅了されるのはこの流儀だけだ。それが相変わらず「時代遅れ」ではない証拠に、この方向に沿って同様の野心を抱く若いテノーレ歌手が登場した。僕は彼を、エンリーコ・カルーゾと給仕係の中間とみなす。要するに、調教された動物の見世物と大して変わらぬ代物だ。(書簡、1919年)
ヴィットリオ・リッチ
[Vittorio Ricci 作曲家]
歌手は詩の内面的な趣意を把握できねばならない。自分よりも先に作曲家が感じた事柄を理解せねばならない。作曲家を取り巻いていた雰囲気の中に自分を置かねばならない。オペラやカンタータの演奏に加わる際には、自分が演じる登場人物の性格に染まり、その人物の情熱、悲しみ、喜び、美徳、また必要ならば悪徳をともなう生活を体験せねばならない。歌手が上記の感情を抱いていれば、顔の表情や体の姿勢が適切なばかりか、声そのものも、最も繊細な明暗と、きわめて多彩で効果的な色合いを帯びることだろう。すると彼の演奏解釈は、実生活の忠実で生き生きとした再現となる。しかも、このような解釈は真実味に加えて説得力があり、何よりも個性的であるはずだ。(『歌唱の技法』、1920年)
ジェンマ・ベッリンチョーニ
[Gemma
Bellincioni ソプラノ歌手]
オペラ『田舎騎士道』は、マスカーニ先生の出世作であると同時に、私にも歌手としての名声を確立させてくれました。私は長い間、《サントゥッツァ》という人物に憧れていました。シチリアの田舎娘の粗野で素朴な心は、その裏切られた愛情の痛烈な悲劇で、あれほどの真実味を帯び、マスカーニ先生の音楽によって全く均質に表現されています。だからこそ、聴衆に私の本当の芸術的理想を披露できたのです。私は恐れることなく、オペラ劇場のあらゆる因習から抜け出し、素直に歌唱朗読<recitare cantando>に専念しました。この調和的で複雑な音楽構築の中では、《サントゥッツァ》の魂のかくも人間的な悲しみを余す所なく、歌いながらも心底から泣くことができました。(『私と舞台』、1920年)
ジョルジュ・クネッリ
[Georges
Cunelli 声楽教師]
筆者は音楽学校にはあまり感心しない。音楽的才知が学校の中で育つような草木でないことを十分に承知しているからだ。
歌唱を教える人にはむしろ、特殊な資質、経験、心理的な洞察力、またどんな教育法でも授からない、生来の際立った人間性が必要となる。教師はいかに優れた直観力を有していても、せめて基礎的な知識がなければ指導方針を欠き、生徒に大損害を与えかねない。教師は解剖学と生理学、とりわけ呼吸と発声に関わる諸器官について、凡そながらもある程度の勉学を修めるべきである。
教師は第一に「声の医者」たるべきだ。発声器官の自然な機能を正確に知り、声の衛生について深い造詣を備え、実験的音声学と音響学の法則を学び、さらには「歌い方を知り」、正しい発声技術を身に付けていなければならない。(『歌声と歌手と芸術家を台無しにする方法』、1920年)
ルイザ・テトラッツィーニ
[Luisa
Tetrazzini ソプラノ歌手]
歌の世界で最高の栄誉を授かろうと志すならば、厳しい訓練に耐えることが不可欠です。そのような訓練を好まない人たちがいるので、大きな才能を備えた歌手が不足しています。しかし、より深刻な別の理由が存在します。生来の恵まれた声が未発掘で、訓練を待つばかりだとしても、その訓練を施せる立派な教師がいないのではないかと、私は懸念するのです。あまりにも大勢の教師が、自分自身と生徒たちを我流の訓練法で欺いて、平気な顔をしています。彼らの過ちは数多く、罪深いものです。(『私の歌手生活』、1921年)
ジャコモ・プッチーニ
[Giacomo
Puccini 作曲家]
さて、テノーレ歌手のことだが、彼の参加は保留つきで認めよう。つまり、稽古の段階で最も優秀な演奏者ではないと分かったら、僕が彼を失格にしてやれること。以上、『外套』について。(書簡、1921年)
これは叙情オペラです。たしかに小規模とはいえ、独立した曲の間に対話の断片を挿入できるようなオペレッタではありません。結論を申しますと、そのかたがオペレッタに携わられているならば、『つばめ』に求められる種類の歌手ではありません。このさい、他の人が必要です。(書簡、1921年)
『リゴレット』は実にうまく演奏された。ヴェルディが書いたフェルマータの部分を無視して、楽譜にも修正(?)を施さずに。トーティ・ダル・モンテは特上で、カルロ・ガレッフィとラウリ・ヴォルピも無難。トスカニーニの速度は適切で正確だった。第三幕は、演出の観点からしても上出来だ。四重唱はたいしたことはないが、歌える声を備えた歌手が少ない。この曲は僕が見る限り、テノーレ歌手に劇的な歌声が必要だし、《ジルダ》役にも、もう少し情熱が求められているからだ。トーティ・ダル・モンテの歌声は水晶さながらだけれども、表情がやや冷めている。(書簡、1922年)
しかし、一体誰がこのオペラ『トゥーランドット』を歌うのだろう?卓越した女性歌手が一人と、狂いのないテノーレ歌手が必要だ。もういいよ、いずれ分かることさ。歌手はあとで生まれてくるのだから。その昔、演奏者たちはオペラと共に育て上げられてきた。今でもそうだろう。(書簡、1924年)
エマ・カルヴェー
[Emma Calvé ソプラノ歌手]
声楽の授業は身体、特に頭、喉、肺の仕組みに関する厳密で正しい知識に基づかなければなりません。知識だけで立派な歌手が育つわけではありませんが、知識の欠如は、優れた歌手を台無しにします。演奏経験のない教師や好い加減な教え方は、甚だしい損害をもたらします。知識、実際の経験、細部への注意、無尽蔵の忍耐力。それらは、歌手に訓練を授けようと志す人にとって、様々な要件の一部に過ぎません。(『わが人生』、1922年)
マッティア・バッティスティーニ
[Mattia Battistini バリトノ歌手]
ルビーニからガイヤッレ、マジーニ、タマーニョ、コトーニ、パッティ、カルーゾにいたるまで、偉大な歌手たちの全史が私の言説の正しさを証明してくれる。ここに名を挙げた人々は皆、発声器官の訓練、養成と音楽的教養の習得に数年間を費やしたのである。若い歌手たちにも、イタリアの美しき歌の伝統が栄光の遺産として託されている。だからこそ、かのラテン語詩人が語った真実を自覚してもらいたい。すなわち、「技術なき天然は不完全なり」と。生まれつきの声は貴重だが、確実に身につけた歌唱技術と、完全な音楽教育に支えられねば、急速に減ってゆく元手にすぎない。技術と教養は、長期間に及ぶ賢明な勉学の成果である。(ある雑誌記事より、1922年)
リリアン・ノーディカ
[Lillian Nordica ソプラノ歌手]
自己宣伝を望む教師は当然、門下生を世に出そうと急ぎ、修行の継続を得策だとは考えません。一方、良心的な教師は、土台を完全に固める必要性をいち早く理解し、その土台こそが永続するのだと知っています。あなたが目標とする難度以上の曲を課する教師は、警戒してください。アデリーナ・パッティが全盛期に歌った曲を、数ヶ月か一年間ぐらい勉強しただけで歌えるはずがありません。そんな曲は予習だけにしておいて、演奏会では歌わないこと。実力に見合う曲だけを根気よく学び、歌えない曲は決して人前で披露すべきではありません。(『歌手たちへの示唆』、1923年)
アメリータ・ガッリ・クルチ
[Amelita
Galli-Curci ソプラノ歌手]
「歌う曲目」は決して、「歌う方法」ほどに重要ではありません。[...]アメリカ人歌手たちは、曲目としての「歌」の稽古に多大な時間を費やしています。しかも、実にお粗末な「歌」です。『夢遊病の娘』、『ノルマ』、『ルチア』を学ぶ一時間は、月並みな「歌」の稽古の五時間に値します。(ある雑誌記事より)
ジェーニ・サデロ
[Geni Sadero 作曲家]
演奏会での曲名を同封しますので、貴殿から市民大学に転送していただいた上で、すべての文言をそのまま正確に表記してもらえるように、よろしくお願いいたします。後日、マルチェッロ・ドゥドヴィッチ氏による色刷りの肖像画を二枚、お届けします。実に見事な仕上がりですので、私の演奏会の二週間前から、市民大学の構内に掲示して下さい。ご親切にお世話をいただき、まことに有難うございます。私は1917年以来の発展により、あの頃と同じメッツォソプラノ歌手には見えないだろうと確信しつつ、自分の労作が貴殿のお気に召すようにと祈ります。(書簡、1924年)
フランチェスコ・メルリ
[Francesco Merli テノーレ歌手]
『エケブーの騎士たち』の最終日で歌った。声は絶好調で、共演者全員と一緒に、今まで通りに新たな成功を実現した。とはいえ、自分は疲れ果てた。オペラの役が非常に難しく重荷だったのに加え、このコスタンツィ劇場で果たした仕事の量も原因だ。三ヶ月と少しの間に、44回のオペラ上演(そのうち15回が『アイーダ』だった)と数多くの演奏会で歌うため、勉強に勉強を積み重ねたのだから。(日記、1925年)
ネリー・メルバ
[Nellie Melba ソプラノ歌手]
私はいつもあの稽古を思い返します。細長く涼しい部屋で、窓から陽光が注いでいました。ヴェルディ先生はピアノの前に座り、オペラの最初から最後までひたすら弾き続けました。先生は示唆に富む声楽教師でした。楽句をご自分がお感じになる通りに、生徒にも感じ取らせながら、ある種の情感をそれぞれの楽句に加味して下さいました。稽古の締めくくりに、私が哀れな《デズデモナ》の最期を告げる高音を歌い終えると、先生は振り返り、滅多になさらない笑顔で私を見つめながら仰いました。「誰からこの役を学ばれたのですか」。私は、「フランチェスコ・パオロ・トスティ先生です」と答えました。先生は頷きながら、「ああ、仲良しのトスティさん。そうだろうとは思いました。あなたがこうして私のオペラを歌うように教えられるのは、彼しかいませんから」と。(『旋律と追憶』、1925年)
アルトゥーロ・ブッツィ・ペッチャ
[Arturo Buzzi-Peccia 作曲家]
優れた歌手の演奏を聴き、一緒に稽古して利益を得たければ、彼らの歌声が表現する芸術的着想をできる限り学び取り、彼らが自らの芸術的成長の中で、声をいかにして自分の特質と才能に適合させているかを認識するしか方法がない。ただし、それには知性が必要だ。すべての優秀な歌手は、最大の長所をお互いに学び合っている。だが、違う歌手が同じ歌い方をすることは決してない。もしも彼らが「個人的に学ぶ」のではなしに「機械的に模倣する」ならば、大きな魅力となる個性を失い、全員が同じ歌い方をするはずだろう。(『歌で成功を収める方法』、1925年)
グスターヴォ・マグリーニ
[Gustavo
Magrini 声楽教師]
歌手の任務は以下の通り。音楽的思想を解釈し、そこに作曲家が意図した表現を授け、自己と作曲家の人格を共に際立たせ、作曲家が創作過程で抱いた感覚や情景を表出し、作曲家と同じ境遇と心理状態になりきること。要するに、音楽的思想に本来の意味を与え、その創造物の美学的可能性を完全に実現することである。かような結果を得るため、芸術家が気高い魂、知性、洗練した嗜好を備えねばならないのは自明である。これらの素質に加えて、一般教養、熟考する習慣、人間心理の不可思議に関する知見を忘れないでおきたい。(『歌唱』、1926年)
ヴィットリオ・グイ
[Vittorio Gui 指揮者]
演奏解釈者の役割は神聖だ。この言葉はどの場所でも、どんな局面でも聞かれる。かような畏敬の念は、解釈者が持つ専制的な力への恐れから来るのだろうか、といった意地悪な見方もできよう。それは否定的に捉えれば、巨大な力かもしれない。実際に、解釈者が芸術作品を裏切りたければ、何も不可能なことはないはずだ。考えてみてほしい。想像するのも恐ろしい。それは、芸術の分野で連日、無数の犯罪が遂げられながら、まったく罰を免れていると思い至った時と同じ恐ろしさだ。しかし、中世に言われていた通り、人間が人間に与える力、つまり神に由来せぬ力は、真の永続的な力ではなく、従って、ほとばしる生命力でもない。それは、恐怖心を煽って他者を遠ざけるだけの力である。解釈者の役割は、普遍性と博愛の表出行為として、個人的かつ狭小な枠組みを越え、自尊心なしに認識されるのでなければ、高潔で貴い役割とはなりえない。(『演奏者の役割』、1926年)
フョードル・イワノヴィチ・シャリアピン
[Feodor Ivanovich
Chaliapin バッソ歌手]
私はミラノの町と、敏感で評論好きな聴衆が気に入ったので、もう一度スカラ座で歌いたい気持ちが強かった。パリではオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全曲をロシア語で歌ったが、スカラ座の総監督はイタリア人の歌手と合唱団を用いようとした。つまり、私もイタリア語で歌わねばならないわけだ。このオペラのイタリア語訳はまだ存在しなかった。しかし総監督は、もしも私が演奏を引き受ければ、今すぐにでも、誰かロシア語とイタリア語の両方が堪能な人の訳詞を手配できるばかりか、その人はもう翻訳の仕事を承諾しているとも話してくれた。オペラがすっかり編曲できるかどうか、私にとっては疑わしかったが、出演には同意した。ただし、間もなくミラノ市民から、こんな「異邦人の」オペラが上演不可能と宣告されるだろうとは大いに予想した。
ロシアに帰る途中、スカラ座運営部がゴロウィン氏に舞台の図案を注文したのを知った。早速、イタリア語の訳詞を添えた楽譜も届いた。だがそれは、音楽のリズムを変更し、音符を加えたり削除したりと、実に稚拙なものだった。これは容認できなかった。
私はペテルブルグ帝国舞踊劇場の指揮者リッカルド・ドリーゴ氏に頼んで、訳詞の書き直しを手伝ってもらった。こうして二人で、新しく完全で満足な訳詞を作るのに成功した。(『わが人生の記録』、1927年)
ジュゼッペ・ボルガッティ
[Giuseppe
Borgatti テノーレ歌手]
イッリカ氏は私の肩を叩き、大喜びで、「とうとう、《アンドレア・シェニエ》を見つけた」と叫んだ。
氏は、私がすでに事情を知っているような話し方だったが、私には何のことかも分からなかった。台本家はいかにも偉大な発見をしたらしく、興奮して熱弁をふるい、私には一言の余地も与えなかった。
要するに、私はこの新作を出来るだけ早く習得せねばならない、なぜならば、特別な演奏解釈力を求めるオペラだが、テノーレ歌手が見つからず、上演に漕ぎ着けない恐れがあるから、とのこと。
イッリカ氏に、「どの劇場で初演の予定ですか」と訊ねると、「スカラ座」との答えだった。私は跳び上がった。台本を氏の手から奪い取って早速、『アンドレア・シェニエ』の稽古を始めた。音楽も、その六時間後にはもう暗譜できていた。
この楽譜の輝かしさは、音楽的着想の独自性でも、管弦楽の様々な色彩を組み合わせる妙技でもない。むしろ、音楽による注釈が巧みに均衡を保ち、生命力の溢れる劇展開に絶えず付き添って強烈な色に染め、劇自体に疑いなき効果をもたらしている点だ。私はそれを認めたのである。(『わが芸術家人生』、1927年)
ジルダ・ダッラ・リッツァ
[Gilda Dalla Rizza ソプラノ歌手]
トリノの劇場で、『椿姫』があれほどの焦りと不安の後に完全な成功を収めたことを、先生と奥様にお伝えできて、私は喜んでいます。聴衆も評論も、成功を認めてくれました。[...]先生がお越しにならなかったのは、何とも残念です。私の厚かましさをお許しいただくとして、それは本当に、忘れられない見世物でした。第一幕の前奏曲だけでなく、第四幕のほうも、拍手なしで通り過ぎたのです。昨日の上演には、スカラ座を代表して、アニータ・コロンボ夫人とアントニオ・ヴォット先生が聴きにいらっしゃいました。もう可笑しくてたまりません。私の声がまだ大丈夫かどうか、確かめに来られたのでしょう。上演が終わってから、私の楽屋をお訪ね下さり、お褒めの言葉を頂戴しました。(ジーノ・マリヌッツィへの書簡、1928年)
アントニオ・ズマレッリャ
[Antonio Smareglia 作曲家]
私もスカラ座とは合意できたと確信しており、うまく手配したと思います。私が要請したルイジ・ロッシ・モレッリ、ウンベルト・ディ・レリオ両氏を、それぞれ《ウベルト》と《モリオ》の役につけてもらえました。これは『蛾』の話です。マリオ・ノルディオ氏からの情報によると、あとは、イレーネ・ミンギーニ・カッタネオ夫人が声部の音域に持ち堪えてくれさえすれば、上演は完璧だろうとのことです。(書簡、1928年)
ジュリオ・シルヴァ
[Giulio
Silva 声楽教師]
生徒たちが自分の内部と、自分から離れた自然界にある物理要因を、芸術的に制御、発展できるようになるまで、我々は彼らの心的活動を教化する。これらの物理要因は、我々の知性とは別個であるところの感覚によって認識される。ゆえに「音楽を実践する人」、たとえば歌手には、正確な認識だけが求められ、物理要因の科学的知識や言葉での説明力は必須ではない。しかし、教師には科学的知識が必要である。歌手が自分の心的能力を用いて物理要因に働きかけるのとは異なり、教師は自分の感覚をたよりにして他人、すなわち生徒の中で起こる現象を制御せねばならないからである。教師は従って、歌手の声が生み出す物理要因を「感覚的」に認識するのみならず、これら物理要因自体の感覚的認識に関する厳密な、いわば「先天的」な観念を持たねばならない。その上で、歌手が物理要因を音楽に作り変えようとする心的努力と、音楽を芸術に作り変えようとする精神的努力を、教師は「知的」な方法で見出さねばならない。[...]
ある芸術の本質を実際に教授するにあたり、言葉で説明でき、従って記述が可能な事柄は、ごくわずかな部分に過ぎないのだと、読者には心得てもらいたい。芸術家にとって、自分が携わる芸術について一冊の書物を著すとはいかに困難で苦痛を伴うものかを察してほしい。たとえその芸術家が広範な知識を携えており、長年の実践活動を経ているとしても。(『声楽教師』、1928年)
ジャン・フランチェスコ・マリピエロ
[Gian Francesco Malipiero 作曲家]
モンテヴェルディは『タンクレディとクロリンダの決闘』において、次のような指示を与える。すなわち、「語り役の声は、歌詞が良く理解できるように明瞭で、安定し、発音が正しく、楽器の声部からは幾らか距離を保たねばならない。夜の場面が始まる詩節以外の個所では、創作旋律やトリッロを用いない。その他の部分では、発音を歌詞の様々な感情と合わせるように」と。さて、モンテヴェルディは、創作旋律もトリッロも記譜せず、例の個所だけに、恐らく不本意ながらもそれを容認した。彼はもはや自分自身が作り出した「美しき歌」に従わざるをえないからだ。しかし、たとえ様々な「歌詞の感情」を強調する目的だったとしても、同語の反復を強調し、歌声に優位性を与えたがために、あいにく「歌詞の感情」が「独唱への情熱」へと変化し、歌詞が脆弱になる結果を招いてしまった。実際に、彼の楽器声部は、歌唱声部に較べると常に低音域で、控えめに作られている。(『クラウディオ・モンテヴェルディ』、1929年)
フランコ・アルファーノ
[Franco
Alfano 作曲家]
今頃はもう、私が新作『最後の貴族』を初演する際の主役として、君を指名したことをご存知だろう。君がかつて、スカラ座で当然の人気を博したのは、私もよく知っている。だがそれは指名の理由ではない。むしろ君の才能と、私の音楽に対する、ほとんど特別とも言える感受性だ。今回のオペラは劇的というよりも、しばしば滑稽な調子を含むが、同時に、情熱に満ちて感動的でもある。それはあくまでも私の音楽であり、「躍動的な」解釈者を必要とする。君がそうであることは、私の室内声楽曲を演奏してくれたので記憶に残っており、あれは君にとって最初の成功でもあったはずだ。(ソプラノ歌手マファルダ・ファヴェロへの書簡、1930年)
ブランシュ・マルケージ
[Blanche
Marchesi ソプラノ歌手]
歌手が、舞台に現れるために必要な第一の資質に加えて、感情、様式、そして精神的な洞察力を備えているのは、遥かに望ましいことです。価値が低い音楽作品であっても、演奏者は解釈能力のおかげで、それに成功をもたらします。しかし作品の真髄に入り込めなければ、欠陥を生じさせたり、破壊したりします。作品は、解釈者の人間性しだいで存続し、滅びもします。知力に欠ける解釈者は、作品を変質させ、その山場を誇張し、美を台無しにして葬り去ることすらあります。歌手は音楽の中で際立った役割を帯びています。彼は作品とほぼ同様に重要であり、演奏すべき作品について熟知したうえで、長所を前面に押し出し、短所を覆い隠さねばなりません。(『歌手の教理問答と信条』、1932年)
アウレリアーノ・ペルティレ
[Aureliano
Pertile テノーレ歌手]
私は、生徒たちには一般的知識を余す所なく授けるべきだと考える。発声器官とその機能についての明確な認識もそこに含まれる。さらに、あらかじめ簡潔に示された理論的観念を、実践の中で少しずつ再確認してゆけるように、生徒の思考力を養わねばならない。
いかなる芸術分野でも、その確固たる礎として、技能習得が必要だ。それなくしては、偉大な本物の芸術家にはなれない。思考と感情において芸術的素質を最大限に備えた人はいる。しかし、彼がもしも無能な教師に習い、悪い癖をつけるなどの不幸を重ね、初歩の重要で基礎的な技術項目により補強されることがなければ、心力と知性の高まりから授かるべき芸術表現を、適切で完璧に際立たせることなど決して出来ないだろう。(『声楽教本』、1932年)
フェリア・リヴィン
[Félia Litvinne ソプラノ歌手]
ジョアキーノ・ロッシーニは、歌うために三つの要件があり、それは「声と、声と、声である」と語りました。あいにくながら、私はこの巨匠の見解にまったく賛成できません。声はもちろん、歌手に成功を約束してくれます。しかし、私が知り合った生徒たちは、貧弱な声で初舞台を踏みながら、歌唱の様式と柔軟性において、天分に恵まれた歌手を凌駕することもありました。他にも、声が立派でないにもかかわらず、舞台で勝利を収めた偉大な歌手の例は数多く存在します。私は長年の経験から、一人前の歌手になりたければ三つの事柄が不可欠だと理解できました。すなわち、納得ずくの定期的な稽古、発声に必要な器官、そして忍耐力です。(『私の人生と歌』、1933年)
パオロ・グウェッタ
[Paolo
Guetta 声楽教師]
あわてず、いつもの慎重さで練習を何度も繰り返し、新しい困難な課題を、いとも簡単というよりはむしろ、随意にこなせるほどに慣れ親しんでもらいたい。音楽の形式的な美のみならず、その精神をも、明瞭さを欠いたり曖昧にすることなく表現できるまで。
それが不可能ならば、つまり真剣で良心的な稽古を経ても、自分の美的感覚が、目標とした完璧な演奏、芸術的完成度に到達できていないと警告してくれるならば、曲の演奏を将来に延ばすか、あるいは未練や迷いなしに、自分の演目から抹消してほしい。熱心な支持者たちや、利得のためにお世辞を使う人の言いなりにならず、金銭欲や誤った自尊心で判断することのないように。(『歌声の仕組み』、1935年)
リーナ・カヴァリエーリ
[Lina Cavalieri ソプラノ歌手]
「オペラを歌う。一定の人格を携えて、舞台上で行動する。ある性格を具現する。完全な芸術を作り上げる」。私は、歌謡喫茶店での仕事が、具象的な芝居ではないと常に思っていました。役者ならば多分、そこでも一定の人格に達することが可能かもしれません。しかし芸術家の魂は、カンツォーネや踊りを通じても、一晩のうちに人間の化身状態を完結できません。確かに、羽ばたいて、飛び跳ねて、感性の赴くままに、自分の芸術的な魂を充足させる出し物を選ぶことはできます。でも私は、頭脳と心と感受性をもって、より均質的で、完成された、申し分なき芸術表現に関わりたいと思うのです。(『私の真実』、1936年)
ティッタ・ルッフォ
[Titta
Ruffo バリトノ歌手]
歌手にとって、美しい声は確かに不可欠の要素だ。しかし芸術家は、音楽的に自己表現する前に、舞台にのせる登場人物を分析し、練り上げ、同化できねばならない。より生き生きとした感動を聴衆に与えるためである。歌唱技術を完全に習得したうえで、歌を忘れて、自分の中に解釈者を、役者を作り出すこと。この点に関して私は、声は完璧だが知性の輝きに欠ける歌手よりも、平凡な声で知性を備えた役者のほうを好む。(『わが盛衰』、1937年)
フランセス・アルダ
[Frances Alda ソプラノ歌手]
マティルデ・マルケージ先生は、私の生きる道をすっかり変えてしまいました。弟子入りしてから初舞台を踏むまで、先生と学んだ十ヶ月の間、私のすべての行動を管理なさいました。その後もパリを訪れる度に、先生に教えを請いました。[...]毎朝9時から、ジュフロワ通りにある先生宅での授業に出席しました。私はなるべく多くの事柄をしかも早く学び取るため、他の生徒全員の授業を聴講するように命じられました。これがマルケージ先生の教え方で、今は私も自分の生徒に対して同じ方法を用いています。そこでは歌の稽古のほか、フランス語とイタリア語を習っていました。マルケージ先生は、私がオペラの役を勉強し始めた頃、かつてオペラ座の有名なテノーレ歌手だったヴィクトル・カプル氏に、演技指導を受けるように手配なさいました。(『男性と女性とテノーレ歌手たち』、1937年)
エドワード・ジョンソン
[Edward
Johnson テノーレ歌手]
エクトル・パニッサ氏が公演期を最良の出来にしている。氏もやはり、来期はどうしてもメトロポリタン劇場に戻って来たい意向なのは確かだ。僕が君を誠実な芸術家、また友人として、常にこの上なく評価し、敬意を抱いてきたのはよくご存知だろう。イタリア語オペラの監督に関して、劇場の運営部会が将来、何か改定を決める際に、僕自身が君を熱心に推薦できるならば、とても嬉しいのだが。(指揮者ジーノ・マリヌッツィへの書簡、1937年)
オリヴィエーロ・デ・ファブリティイス
[Oliviero De Fabritiis 指揮者]
ローズ・ポリーとの話はまとまり、ザルツブルクでの契約書もすでに発送してあります。この女性歌手は、要求が多すぎましたが。ベンヴェヌート・フランチとジャン・ヴワイエの出演契約を交渉させました。彼らとは必ず合意に達するでしょう。あとは、ソプラノ歌手が未定です。アンジェリカ・クラフチェンコも恐らく使えるはずですが、歌詞の発音が非常に拙く、ポリーもまた同じなので、朗読が不確かになり過ぎる予感がします。ニニー・ジャーニはこちらで、《アイーダ》も上手にこなしました。彼女が低音を強調すれば、歌声の面では通用すると思います。もちろん、歌手としてはクラフチェンコのほうが優秀です。しかし、高音域がさほど確実ではなさそうに見受けます。貴殿がジャーニを除外なさるご意向でしたら、さらに低い音が歌える劇的なソプラノ歌手を優先的に考慮すべきでしょう。とにかく、適任者を失わないうちに早く決めるのが賢明です。(ジーノ・マリヌッツィへの書簡、1937年)
リッカルド・ピック・マンジャガッリ
[Riccardo Pick-Mangiagalli 作曲家]
あなたの《エリーザ》役の解釈に対し、私の賛辞をお伝えできて本当に光栄です。あいにくラジオ受信機の調子は良くありませんでした。しかし、甘美な(いかにも味わい深い)場面でも劇的な場面でも、あなたの歌声の美しさを聴き取ることが出来ました。私はこのオペラを、また近いうちに頻繁に、あなたの絶妙な演奏にお任せしたいと心から望みます。そこで、ささやかなお願いを述べさせて下さい。「憐れみを。私は彼だけのために生きているのです」の演奏速度を少し落としていただくと嬉しいのです。私自身が楽譜に指定した速度が高すぎたのはよく存じております。ですから、「わが罪なり」と申し上げるべきでしょう。いずれにせよ、本来の速度は四分音符が毎分およそ52回です。そして愛の二重唱の終結部も調子を抑えて、正確には「愛の喜び」という台詞から最後までですが、ここで加速しすぎないように。とはいえ、あなたの解釈全体について、私の感激そのものを重ねて表明いたします。特に第二幕の演奏は実に妙味があり、あなたの芸術性と熱情のおかげで、「いらっしゃい、小声で話しましょう」に拍手が起こったのを聴き、私は大喜びいたしました。(ソプラノ歌手マグダ・オリヴェーロへの書簡、1939年)
ジーノ・マリヌッツィ
[Gino Marinuzzi 指揮者]
未解決なのは、テノーレ歌手が不足している問題だ。たとえ幾らか美声でも、若い人材がいたとしても、声以外の多くの要件を欠き、声の質だけというのでは、指揮者も聴衆も納得させることができない。加えて、近頃は歌の教育がほとんどなされず、その方法も拙い。従って、期待の人材が次第に悪化してゆき、やがては薄い影のように消え去るのも、驚くには値しない。[...]さて、フランコ・べヴァル君の件だ。君は彼の面倒をみたい様子だが、僕も君たちがお互いの利益を図ってくれるようにと願う。べヴァル君がスカラ座で歌ったのを僕はよく覚えており、彼がカッリャリに行こうとした時に、イタリア旅行社でも出会ったと思う。健康的な声で、『アンドレア・シェニエ』の二日目にガッリアーノ・マジーニが急病のため、代役をつとめたのも記憶している。とはいえ、彼がミラノで修行中に、その成長ぶりを見定めるべく舞台で歌わせた結果...
採用しなかったのも覚えている。発声と、発音の欠点もあったのだろうが。僕は今、べヴァル君が進歩を遂げた可能性を否定しないどころか、むしろ遂げたと確信している。だから、聴き直せる機会がいち早く訪れるならば嬉しい限りだ。ただし、彼はすでにスカラ座の運営部に名を知られているから、もう一度、監督官に聴いてもらう必要があろう。僕が世話をしてあげても構わない。良質の人材が足りない現状の下で、若手を見捨てるつもりはないが、正直に言うと、僕は信頼の気持ちを少し失いかけている。(書簡、1941年)
ジュリオ・ガッティ・カザッツァ
[Giulio Gatti-Casazza 興行家]
毎年、メトロポリタン歌劇場で実施する歌手の採用試験で大勢の若い声を聴くが、正しい判定を下せる場合とそうでない場合がある。一般に、試験なるものには同じことが当てはまる。周知の通り、試験の時は立派で完璧なまでに振舞えたにもかかわらず、後の人生において何も達成できない受験者がいる。他方、審査は失敗の連続だったが、やがて実生活で圧倒的な成功を収める受験者もいる。その理由には多分、一つの説明の仕方があろう。つまり、非才な芸術家は、絶え間なく熱心に学習に励んだ人々である。彼らは強い意志の力を持っている。そして、たとえ方法に問題があっても、好ましい歌唱に通じる秘訣をすべて心得るまでにはいたる。これに対して、偉大な芸術家は通常、幸いにも天分を備えており、一切を自然体に委ねてしまうため、生徒に教えるべき数々の技巧に関しては無知なのである。(『オペラ劇場の思い出』、1941年)
ベニアミーノ・ジッリ
[Beniamino
Gigli テノーレ歌手]
声のほかにも別の第一義的な資質が必要とされる。それなくしては、極めて美しい声も、未加工のダイアモンド原石のように価値が認められぬままだ。すなわち、技術的洞察、芸術家としての良識、責任感、幅広く深い感性、活発で柔軟な感受性と表出、分析と芸術の総括的な把握の力、敏活な知力。声は乏しいが高い知性を持った歌手は、上記の資質をすべて備えていれば、声により恵まれながらも、それらの資質を欠く歌手に較べて、はるかに優秀である。[...]芸術に関する限り、とりわけ歌唱芸術においては、理論はしばしば無力である。繰り返すが、実例だけがいくらか役に立つ。実例は、適切な修練と創造的精神の有機的な産物であれば、その分だけ豊かな効果をもたらす。(『打ち明け話』、1942年)
フランチェスコ・チレア
[Francesco
Cilea 作曲家]
改訂版に小さな修正を施すため、ピアノ伴奏譜第104ページ最後の小節を添付する。《グロリア》の独唱曲の終わりに出てくる高い「ハ(C)」にいつも不信があった。だから、君に送った草稿ではそれを消して、「ト(G)」に改めておいた。僕が以前の手紙で、(「ト(G)」を本来の音符として)あの「ハ(C)」を選択肢の形で復活させたのは、考え過ぎだった。サン・カルロ劇場で聴いた、ジャンニーナ・アランジ・ロンバルディの見事な、澄み切った、「ピアニッシモ」の高音が念頭にあったからだ。しかし、声が美しく声域も広い歌手など稀有だから、任意の「ハ(C)」を用いた「危なげな技巧」の恐れを回避するため、君が書き直してくれた通りに「ト(G)」だけを記そう。そのほうがより単純で適切だ。(楽譜出版業者ピエロ・オスターリへの書簡、1945年)
ピエロ・オスターリ
[Piero Ostali 楽譜出版業者]
僕がどれほどマファルダ・ファヴェロに立腹しているか、君は想像がつかないだろう。彼女は出番を失いたくないので、大小の劇場、あちこちで歌い続けた挙句、もう疲れ切ってしまい、トリエステばかりか、恐らくローマにも行けない状態だ。ヴェネツィアでは『マノン』、パドヴァでは『友人フリッツ』に出演する予定だったが、代役を頼むことになった。アウグスタ・オルトラベッラにトリエステでの出演を引き受けさせるのに、僕はなんと煩わされたことか。彼女いわく、他人の「穴埋め」をする気は起こらないそうだ。このところ、ファヴェロの《アドリアーナ》はどの興行家からも贔屓されている。だからオルトラベッラもイリス・アダーミ・コッラデッティも、ファヴェロが体調を崩して出演を辞退した場合、代役になりたがらない。フランチェスコ君、本当に僕は、『アドリアーナ・ルクヴルール』の演奏で注目を集められる二、三人の若くて知的な歌手が見つかるなら、どんな方法でも講じてみせよう。目下、このオペラを勉強している若手は大勢いる(エリザベッタ・バルバト、レナータ・テバルディ、フランカ・サッキ、そしてもう一人の名前が思い浮かばないが、みんなほとんど準備態勢に入っている。だがご存知の通り、興行家は主役の名前で客集めをするから、いつでも最高の歌手を使いたがる)。ピアチェンツァからも、ファヴェロに出演の依頼がきた。彼女が通例の三日間ではなく、七日間にもわたる続演で大成功を収めた記憶が向こうにあるからだ。しかしあの劇場でも危険を避けるため、誰か別の歌手を検討すべきだろう。(フランチェスコ・チレアへの書簡、1946年)
イポリト・ラサロ
[Hipólito Lázaro テノーレ歌手]
繰り返して言うが、初舞台を急ごうとしないことだ。末永く歌いたければ、しかるべき時を待ったほうがよい。初舞台は、あなたの劇場生活の長短を決定する。何が起きたとしても、原因はあなたの声楽修行に帰せられると心得てもらいたい。ゆえに、私の忠告にはすべての注意を払っていただきたい。恐怖心があるのは、初めての舞台でどう振舞うべきかの確信がない証拠だ。当然、この気持によって、あなたがいまだに準備不足なのが明らかとなる。逆に自信がついていれば、不安を抱かず、最初から恐れることなく平常心で、聴衆の前でも歌える。この記念すべき夕べが、将来における職業活動の礎となるだろう。それはあなたの劇場生活の成就であり、人生の終わりまで維持できる。もちろん、聴衆が先にあなたを見放してしまわない前提での話だが。(『私の声楽教本』、1947年)
ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ
[Gianandrea
Gavazzeni 指揮者]
劇場では、我々が「偉大な『イリス』」を演奏するだろうとの評判が広がる。これが通常の言い回しだ。歌手たちとの了解も迅速で効率的。職員にすら、意志の伝達が早く済む。ごくまれにしか起こらない事。マグダ・オリヴェーロから、わが望みの物をすべて引き出す。音節の異なる色合い、母音の明暗、「滑らかでない」、「わずかに滑らかな」、「滑らかな」歌い方、隣接する単語の時間的間隔、息継ぎの場所、楽句作りが異なる場合の異なる息継ぎ、遅らせる、切迫させる、等々。『蛸のアリア』では、柔軟性の極限に彼女を慣らす。どの四分音符も、互いに同じ長さであってはならないからだ。稽古が順調な時には、創造者としての芸術家の声を聴くような感覚、そして音楽の動きを指し示す手の動きをとらえるような感覚を得る。(日記、1951年)
エクトル・パニッサ
[Héctor Panizza 指揮者]
ネリー・メルバ嬢は、常にクレオフォンテ・カンパニーニ氏の指揮で歌い、他の指揮者には関知しなかった。だが本当は、彼女は冒険を避けたいがために、いつでも同じ指揮者で歌うほうが気楽だったに過ぎない。さて、カンパニーニ氏はある公演期の途中で突然、旅立たねばならなくなった。そこで私が全部のイタリア・オペラを指揮する責任を負わされ、その中には、花形歌手のメルバ嬢が歌うオペラも含まれていた。権威的な彼女は(上述の通り、何も試したがらないので)、上演の前日に私を楽屋に呼びつけ、『ラ・ボエーム』について、「ご存知ですか」と素っ気なく訊ねた。私が「はい」と答えると、彼女は、「では、お手並みを拝見しましょう」と言い返した。私は血が凍る思いだった。彼女はあの劇場の大きな権威だったので、何もかも順調に運べば好都合だが、もし失敗すれば、私は鉄道切符を買ってイタリアに戻り、コヴェント・ガーデン劇場のことはすっかり忘却せねばならないのだと理解した。幸いに、私の指揮はオーストラリアの女神様のお気に召し、この公演期の締めくくりのみならず、後続のすべての公演期で毎晩、私が彼女の歌を指揮し、何とかやりこなした。(『音楽生活の半世紀』、1952年)
ルイジ・コッキ
[Luigi Cocchi 声楽教師]
教師になった歌手の重大な欠点は、生徒の全員に対して、常に「自己流の」歌い方を強いようとすることだ。自分がその歌い方で得た良い結果が、他人にも同様に得られるだろうとは、もっともらしい言い訳である。だが実際には、それは決して起こりえない。一般に、個々の生徒の声は性格が非常に異なっている。従って彼らの声は、非常に異なるか、しばしば正反対の手順で指導(あるいは開発)されねばならない。教師の何らかの特質を(それが彼自身においては美質だったとしても)、生徒が大げさに変形して受け継ぎ、まさに戯画の様相を呈する場合が少なくない。ただし、歌手が本当に新鮮で、安定的で、確実で、あらゆる柔軟な動きに応じる発声技術を保持し、加えて、その他すべての音楽的、様式的、教育的資質を備えていれば(しかし、このような状態の歌手は、高収入の職業生活から引退して教授活動に携わろうとはしないので、現実には稀な話である)、彼自身の演奏経験は必ずや、声楽教育にとって貴重な要素となろう。(『芸術歌唱』、1953年)
ヴィンチェンツォ・ベッレッツァ
[Vincenzo Bellezza 指揮者]
『西部の娘』に関しては、サンパオリ氏とレティーツィア氏からお手紙が届いたことと思います。あなたの才能、学習への厳格な取り組み、目標に達しようとする強固な意志、そして神が豊かに授け賜うた他のすべての美質により、この音楽作品を、あなたの職業生活において最も輝かしき芸術的実現となそうではありませんか。私はプッチーニ先生の至近距離で働いておりました。ですから、この巨匠のあらゆる意向を、とりわけ印刷譜に記されていない分まで存じています。その論理的帰結として、私はあなたのご用命に従います。(ソプラノ歌手マグダ・オリヴェーロへの書簡、1956年)
ナッツァレーノ・デ・アンジェリス
[Nazzareno
De Angelis バッソ歌手]
さて、念のために言っておくが、歌においては、本物で「唯一」の教授法など絶対に存在しない。他人同士の喉が似ているわけがない。個々の歌手が自分の教授法を持つべきだ。教師の優秀さは、まず生徒の喉を研究した上で、その喉の種類に最も適した教授法を選ぶことにある。私が「トリッロ」を教える方法も、根本原理は改めないが、一人一人の喉に従い、異なる意図で用いている。とはいえ、こんな議論を進めてゆけば、私も自分自身の教授法を著すところまで行き着くだろう。(『回想録』)
アドリアーノ・ルアルディ
[Adriano Lualdi 作曲家]
この均衡を実現したのは、例えばヴェルディの『フォルスタッフ』、プッチーニの『トスカ』第二幕中心部と第三幕冒頭、『蝶々夫人』、『トゥーランドット』、マスカーニの『田舎騎士道』と『イリス』における多くの挿話、『仮面』、『パリジーナ』、ジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』と『フェドーラ』の最も劇的な場面、さらには、真実派にまったく属さないヴォルフ・フェッラーリの『四人の頑固者』などである。歌唱至上主義と管弦楽至上主義、レチタティーヴォとアリア、時代、場所、劇進行、音楽的環境の間に実現された驚異的で完璧な均衡。かくも生命力と説得力に満ち、作品群として高い密度でこの均衡に到達できたのは、イタリア音楽劇のみである(それは実際に、ヴァグナー、ドビュッシー、リヒャルト・シュトラウスの作品には見られない均衡だ)。この見事な均衡は、一方で、管弦楽至上主義への傾倒により解消し、いかにも通常的な歌唱の様式に害を及ぼした。他方で、音楽的に無味で不活発な、際限なきレチタティーヴォもしくは朗唱の導入に伴って破壊され、軽蔑すべき「叙情表現」を貶めるいたった。さらに、我々の感性とはおよそ無縁な外来の作曲法や流行に敬意を表すべく、イタリア式作曲法に固有の「古めかしい慣習」が義絶されたのである。(『ジャコモ・プッチーニ、その誹謗者と今世紀の国民オペラ』、1960年)
ティート・スキーパ
[Tito Schipa テノーレ歌手]
聴衆が歌詞をよく理解できるように、単語を明確に発音すること。聴いた人に、「きれいな声だが、いったい何を歌ったのだろう?」と言わせてはならない。上手に歌うのは当然ながら、発音がそれ以上ならば、完璧な成功が得られるはずだ。演奏会で歌う時は、決して身振りを使わないでほしい。個々の声楽曲を歌いながら手を動かすと、悪趣味なばかりか、聴衆に不快感を与える。演奏会歌手は舞台で、両手を組んだ姿勢で立つか、できれば黒い皮表紙の冊子を手に持つのがよかろう。この冊子は歌手の動作を妨げると同時に、台詞補佐係として、歌詞をいくらか思い出させてくれるかもしれない。演奏会歌手は感情と、心と、顔で、歌の内容を表現すべきである。手は用いない。腕などはさらに以ての外だ。(『ティート・スキーパの告白』、1961年)
カルロ・ガレッフィ
[Carlo
Galeffi バリトノ歌手]
日曜日の演目は、昼にマスカーニの『アミーカ』、夕刻にビゼーの『カルメン』だった。マスカーニ氏は当然、他のバリトノ歌手を私の代役には望まなかった。そこでカレッリ夫人は、もう一人の歌手に《エスカミッロ》役を委ねざるをえなかった。私はその晩、家に籠もっているよりもむしろ、一度ぐらいは劇場の椅子にゆったりと腰掛けて楽しく見物しようと思い、アドリアーノ劇場に行った。さて、不慮の手抜かりか客寄せの工夫かは知らないが、ビゼーのオペラの看板には、私の名が代理歌手の名に書き換えられなかった。劇場は満員で、第一幕の終わりは万雷の拍手だった。しかし、第二幕で闘牛士が現れるやいなや、観客は彼の背丈の低さを見て私ではないと気付き、最初は頻りにささやくだけだったが、彼が歌いだした途端に明白な抗議と敵意の叫びを爆発させた。それがあまりにも執拗だったので、指揮者は退場を余儀なくされた。突然、劇場の案内係が私のところに来て、カレッリ夫人が至急に話したがっている旨を告げた。あとは想像に難くない。私は急いで《エスカミッロ》の衣装をまとい、危機的な状況を救わねばならなかった。(『自叙伝』)
トーティ・ダル・モンテ
[Toti
Dal Monte ソプラノ歌手]
バルバラ・マルキジオ先生は即座に結論なさいました。私には歌を無償で教えるのだと、断固として譲らず、それ以上は議論を許されませんでした。ただ一つの必須条件は、授業には最大の熱意で臨み、真摯かつ絶対服従の姿勢で学ぶと、私がお約束することでした。ピアノの練習は呼吸活動の負担になり、歌にはまったく有害なので、中断を命じられました。数か月間の休養を取って、次の春まで歌わないでおくように、ともおっしゃいました。先生はナポリに出立される間際でしたが、同地の音楽院で最後の講座を終えて戻られる春の季節に、私の稽古が始まることになりました。(『世界に一つの声』、1962年)
ローザ・ライザ
[Rosa Raisa ソプラノ歌手]
私はそこで、毎日一時間の授業を受けました。この偉大な歌手[バルバラ・マルキジオ]が、私にどれだけ刺激を与えてくれたかは言い表せません。彼女からは本当に多くの事を学びました。立派な女性でした。あの夏休みの間にも、私は恐るべき進歩を遂げました。そして二年間にわたり、母音歌唱と階名唱法だけを訓練しました。三年目は、イタリアの古典声楽曲と、シューベルト、シューマン、ブラームスの歌曲を学びました。四年目には、『セミラミデ』、『ハムレット』、『アイーダ』、『仮面舞踏会』、『シチリアの晩祷』など、オペラのアリアを勉強し始めました。(『自叙伝』)
ルイジ・ダッラピッコラ
[Luigi Dallapiccola 作曲家]
私は、オペラ劇場が様々な目的で保護されるべきだと考える。もはや、概して低俗性と紙一重の大衆演劇になったり、娯楽の便宜を供したりしてはならない。むしろ、歌手(音楽と演技において)や管弦楽指揮者を完成する学校となるのが望ましい。制作過程で不必要な奇抜さを排しながら音楽の演奏を準備すれば、偉大な芸術形式たるオペラの伝統との接点を全く失うことはない。「活動的な伝統」の存在を忘れないでおきたい。オペラ劇場は生きた博物館と見なされてよかろう。私は「博物館」なる用語を恥ずかしいとは思わない。音楽は、演奏されなければ、大部分の人々にとっては無いのと等しい。世界各国で運営されている絵画館や、古代美術品の展示館を閉鎖しようなどとは、誰も思いつかない。するとオペラ劇場も、膨大な文化遺産の管理者として機能し続けてよかろう。[...]以上を考慮すれば、私には劇場を破壊する必要性がまったく認められない。最高の審判者たる時間は、もはやかなりの部分を片付けてくれたが、今後もより多くの物を滅ぼしてゆくだろう。ところで、ジュゼッペ・ヴェルディは、「私は未来の音楽を恐れない」と書き残している。ならば、宇宙飛行士の世代が過去の音楽を恐れることもなさそうだ。(『オペラに関する付言』、1969年)
ミルト・ピッキ
[Mirto Picchi テノーレ歌手]
大勢の歌手を名指せるだろうが、その必要はない。彼らは次の一点でもよく知られている。すなわち、現役時代の短さだ。私に関して言えば、最初の時期には自分の声の力量を超えるオペラにも挑んだが、無事に切り抜けることができた。それは、厳酷すぎると思えるまでに自己批判を行い、多方面から頂戴する褒め言葉やお世辞も、十分に割り引いて考慮してきたからこそである。(『太陽に迫る王座』、1978年)
マグダ・オリヴェーロ
[Magda
Olivero ソプラノ歌手]
評論家:あなたが真実派(ヴェリズモ)のオペラを好まれているのは、きっと何か具体的な理由があるのでしょう。お話いただけますか。
オリヴェーロ:もちろんですとも。私は音楽や歌を志す以前に、劇場にあこがれていました。私を若い頃から力づけた野心は、自分の内なる外向性や劇的な情動を解放するような人物を舞台で演じることでした。ですから私は当然、閉鎖的で様式化されたロマン主義オペラの登場人物ではなく、より生き生きとして、性格がきわめて強烈な真実派の劇に惹かれたのです。
評論家:それは、いわば勇気のある選択でしょう。あなたのご専門である真実派の劇は、今日の聴衆の嗜好から少し外れていますから。プッチーニだけが大きな例外ですけれども。
オリヴェーロ:先生は音楽評論家の観点からおっしゃいますね。私は歌手として、演奏解釈者として個人的な意見を述べましょう。現在、真実派オペラは上演の機会がかつてより少ないのは確かです。だからといって、聴衆が嫌っているわけではありません。私自身の経験から申し上げることができます。むしろ、今の歌手たちが腕試しをしたがらないのです。真実派オペラは声を破壊する、といった風説があります。これほど間違った考え方はありません。たとえばマスカーニ、誰もがこの作曲家を「声潰し」だと認めています。しかし歌手たち、特にロベルト・スターニョ、ジェンマ・ベッリンチョーニ、フェルナンド・デ・ルチア、エマ・カルヴェー、エンマ・カレッリなど、黄金時代の本物のマスカーニ歌手たちはみんな、実に長年にわたる現役生活を送りました。この事実からして私は、ひとえに歌唱技術の問題だと言わざるをえません。
評論家:すると聴衆ではなく、歌手と音楽評論家の両方に罪あり、と結論づけてよろしいでしょうね。(あるインタヴューより)
質問:若い歌手の教育は、あなたにとってどんなものですか。
オリヴェーロ:とても大事です。私は全霊を注ぎます。何時間も延々と教え続け、一人一人に接し、生徒たちの心理状態も把握しようと努めます。私の一言一句を理解する集中力を得る所まで、生徒を導かねばなりません。私の言葉は直接、生徒の内部に、頭脳に伝わらねばなりません。呼吸ができ、声が支えられるとはどういうことか、しっかりと説明するために。呼吸と支えは単純ですが、出来るようになるまでがとても難しいのです。(あるインタヴューより)