日本イタリア声楽教育アカデミー

ACCADEMIA ITALIANA DI DIDATTICA VOCALE (KYOTO)

 

ジャコモ・ラウリ・ヴォルピの思想

 

ローマ大学法学部に学び、職業的な声楽実践の道を選んだジャコモ・ラウリ・ヴォルピ(1893‐1979)は、

当時のイタリア人歌手としては並外れた教養と文筆力を備えていた。彼は著作(L’equivoco, Cristalli viventi, A viso aperto,

Voci parallele, Incontri e scontri, Misteri della voce umana, Parlando a Maria など)の中で、

劇場の同僚たちを代弁するかのように、自らの芸術思想を直截に綴っている。

ここに、本アカデミーの教材から、実践の入門者に有益な示唆を与える

ラウリ・ヴォルピの文章を掲げておく。

 

 

 

近代のオペラは、声に対しても、音楽劇における人間の声の主権に対しても、陰謀を企つべきではない。血筋が異なる北方の国民さえも、われわれイタリア人の声を愛し、19世紀オペラの歌手たち、とりわけヴェルディのオペラ歌手を愛している。イタリア歌唱を国民的水準に位置づけなければならない。イタリア国民に声への自覚を授けねばならない。なぜならば、歌は芸術であるのみならず、科学でもあり、また、教育的、健康的、商業的な必要性でもあるのだから。新たな類の芸術家を創造すべきだ。精神と肉体がともに健康で、教養を備え、礼儀正しく、体が鍛えられた芸術家。最も名の知られた舞台の上ですべての人々の賞賛を呼び起こすような人物、象徴、イタリア気質の伝達者。どの心をも、誰でも分かる言葉づかいで虜にしてしまうイタリア大使。たとえ歌を衛生上、健康上、教育上の要求から学ぶ人であっても、若者たちがそこから疑いなく得られる利益については、理解できるはずだろう。L’equivoco

 

 

私は聴衆の前に出る時はいつも、自分が挑もうとする危険を知り尽くしている。楽屋に閉じこもり、自分の体の動きとそれへの喉頭の反応を熟察する。額に冷汗がにじむ。血液は容赦なき力に押されるように、脳から逃げ出す。思考が混乱する。胃は痙攣する。この自失の中で、色あせた魂は肉体を見つめ、迫り来る試練におののく。壊滅が襲い掛かるかのごとく、声は粘膜の間に埋まり、捕われ、脱出できないかのように思われる。以上のすべてを、私は頭脳を用いて観察する。不測の事態を恐れる。しかし私は、偽の現象への不安から解放してくれる、最も内に秘められた魂の生命力にすがる。舞台に登場する瞬間が近づくにつれて、私の心では、肉体組織や気分の対立から来る抑圧と自失の動揺に、確信と安静の感覚が取って代わる。さあ、舞台だ。疲労は消え去る。微笑を浮かべて最初の音符を発する。劇場がそれに共鳴する。疑念は既成事実に場所を譲る。私の声はここにいて、付き添ってくれる、共鳴と抑揚に全体を包まれた水晶の鎧だ。聴衆は、目の前で生き生きと振動する人物が、つい先ほどまで怖気づいていたとは夢にも思わない。私が肉体を信じ切っていたら、決して歌いはしなかっただろう。昨晩、まさにその通りの印象を得た。出演を辞退したはずだ。私は動転していたから。でも、自分に言い聞かせた。「いや、歌いたい、歌わねばならない。心よ、しっかりしろ。脳よ、澄み渡れ。両足よ、真っ直ぐに立て」。そしてすぐさま、科学が「現実」と名付ける物を見届けた。つまり、神経、筋肉、体液をそなえた有機体が頭脳に制御され、意識に命令されて起き上がったのだ。聴衆はその時、惨めな自然要因を支配する行為から歌声が生ずるのを聴き、音声が喉頭の産物だと思い込んだ。数分前には、擦り切れて変色した組織のように見えた、あの喉頭の産物なのだと。こうして私は、声を築き上げながら、自分自身を築き上げてゆく。そう、自分自身を築き上げる。これが大事なのだ。A viso aperto

 

 

1971年2月12日。マリア、宗教だけではなく、歌唱芸術でも改宗する人たちがいるよ。僕のレコードを聴き、発表した文章や最近のインタヴューを読んでいる知人や支持者たちだ。ロベルト・カプラ君のことはすでに話したが、今度はピゴッツィ通り5番地に住むもう一人の医学生、ジョルジョ・ダル・ファッブロ君がこう言ってきた。

「私にオペラへの愛情を授けて下さったのは貴殿でした。貴殿は、『君は輝かしい声質だから、オペラを愛したまえ』とおっしゃいました。私は従いました。それが私の性格に好ましい影響を与えたのです。しかも貴殿は、歌と著作を通じて、歌唱芸術が生き生きとした感動や道徳的価値を豊かに含んでいることも教えて下さいました。その感動と道徳的価値が、もはや医学に対するのと同じ愛情を私に注ぎ込んでいます。私は、美しき歌を愛するように学友たちを促すため、行動するつもりです」。

マリア、見ての通り、君が僕の内に育み、導いてくれた声が、君の教えの実を収穫しているのだ。

流行歌の陶酔や音楽フェスティバルでの集団的熱狂の裏で、若者たちは気づき始めている。彼らには未知だった世界、ドラム、電気ギター、マイク、増幅器で耳を聾する音響の野性的なリズムによって遮断されていた、歌の世界を発見しつつある。貴く高邁で超越的な一切の事物の否定から生じた現在の不吉な志向があるが、彼らの発見は恐らく、次の世代をこの志向の根本的な見直しに追いやるだろう。打楽器群の動物的な振る舞いや、卑しきエロチシズムに引き裂かれた喉声が、魂と肉体を傷めつけてしまった。これから始まろうとしている浄化作用に希望を託そう。Parlando a Maria

 

 

声楽実践では、音と言葉、思考と感覚、空想と意志が成熟にいたる。歌の科学は実験的な科学だからだ。実践が理論に先行し、実践が理論を解明する。音と言葉と思考の間での論理的なつながりを見出すため、結果から原因へ、詳細から全体へとさかのぼる。音の知覚は、模倣と範例に基いている。生まれつき耳が聞こえない人は、音の観念がないために、話すことができず、たとえ喉頭が健常に育っているとしても、それで音を作れはしない。感覚から幻影、幻影から観念、観念から判断と理知、これこそが、歌の職人がじかに経験する認識の過程である。声の神秘に携わる者は、力の世界、時間の律動、空間の共鳴にすっかり入り込んでいる。歌手は音と声の現象を体験しながら、自分が外的、内的宇宙の係数だと、宇宙空間が共鳴するための道具だと感じる。すべての能力の緩やかな発達過程に沿って認識が展開するにつれて、歌手は聴き、自分の声を確認し、別の目と耳で世界を見て感じ取ることを学ぶ。自分に敵対的な力が戦場に居並ぶのを知り、見通している。敵対的な力の抵抗から、彼は自分の歌の調和を導き出さねばならない。「自分」と世界とが対峙する。そして世界は、彼自身の体から始まる。体の気紛れに従うと災難が降りかかる。知的能力の娘であるところの声が、その第一の犠牲者だろうから。どんな感覚と情動の秩序にあっても、入信者にとって劇的な生活の一切は、知覚可能な世界の中で、様々な出来事を経て始まる。最初は物質(音、可能性、必要性、体、天性)が形態に、自由に、精神に反抗する。声は音の技術に屈しない限り、統制を拒み続ける。ところが歌手は、声が自分の音楽的本質に適応することを望み、振動を、彼の内的人格の、表情豊かな生きた形に変換しようとする。すると、音楽の休止が上記の本質を含蓄し、さらに上方の想念世界の共鳴を通じて、物理的空白を名状しがたい直感で満たしているかのように思われる。ゆえに歌手は、認識の過程を逆にたどりながら、自らの発達を開始するのである。認識から自覚へ、自覚から瞑想へ、直感へ、至上界の啓示へと向かう。彼は、至上界とは夢想状態で、解釈の覚醒と陶酔のうちに交信する。完全な人間存在を音楽的に開花させた調和としての生命は、人間と宇宙の本質的命脈たる純粋観念と同一化した物質ならびに形態においては、浄化と解放のみを意味しうる。芸術家が外面にとらわれ、それを脱却できないと、物語は果てしなく、純化を欠いた悲劇に転ずる。しかし、彼が選択の自由を手に入れれば、自分に番号を授ける能力、つまり、天性の発展と歩調を合わせる能力の芽生えを、にわかに察知するだろう。最大の無限と極小とが協和する目覚しき多声音楽に包まれた、完成段階への終着を視野に入れながら。

ライプニッツによる音楽の定義は見事である。「自分に数字を付けられない魂の、隠れた算術的訓練」。人間は世界の秩序に適応し、神に従うためには、累進的に上昇する律動に組み込まれねばならない。自分が精神的存在だと認め、自分の運命を予感せねばならない。

存在の支えを見出すために自分自身の内に入ることにより、地面から立ちあがり、無限へと伸びてゆく音の階段の上で、定義されえない力を形成できる。この旋律的単子の階段では、物質が、普遍的な「音符」で奏される無数の種別と調和する。そこに心的能力の性質が認められる。自分の中に入るのは、自分の数字を受け取るため、規則に従うためである。外に残り、事物に囲まれている者は、律動を失い、自制もなく、滅びてしまう。<Nolis foras ire; in te redi>、外に出るな、自分に戻れ。滅びたくなければ。

自分の数字が得られれば、旋律的意識はより優れた何かを感じて、それに結びつき、その声を聴き始める。すべての能力に「穏やかな高揚」が引き起こされる。魂は、自らの中心と一致する宇宙の中心と繋がり、「視野を大きく広げ、力強く自覚する」。Misteri della voce umana

 

 

著述活動は、25年にわたる絶え間ない実験の末に、私の二つ目の天性となった。自分の思想を明確化し、秩序を与えるという、精神からの要請である。言うなれば、意識の検証と把握だ。今日、自らの内奥の実在を理解するための集中力、または騒音や浪費からの隔離生活などは、あまりはやらない。騒音や叫びが支配する時世。それに耐える能力は、19世紀のある哲学者が述べた通り、知的能力とは反比例する。低い精神性は雑音に甘んじる。私は心を集中して自己表現するのに、コーヒーを何杯も飲み干す必要は感じない。脳細胞を沸き立たせるために痛飲する気もない。内心に抱える何かを自由に発散させたい欲求を実感した時、それに適切な形を与えるのは、さほど困難ではないのだから。オペラ劇場の舞台で一人前の歌い方をしたければ、思索活動を断念すべきだ、などという説は偽りだと、私には理解できた。文芸復興の時代には、同一人物が画家、彫刻家、建築家、細工師、詩人、小説家、科学者でありえた。これに反して現代では、芸術家が普段と異なる分野で活動すると人々が訝しがる。歌手が自分の信条を記述し、正確かつ率直に表現する方法を自分自身の内に発見したところで、異常でも不条理でもないはずだが。

芸術家は学者よりも、真理に近い所にいる。芸術家は、個別の中に普遍を見出して、素人や門外漢にも認識できるように示す行為においては、学者に勝るとも劣らない。我々のもとでは、歌手に機械的動作の檻から逃れる力を認めない、特殊な「思考様式」がはびこっている。歌手とは一種のジュークボックスなのだろうか。硬貨を投入すれば、機械が歌い出すわけだ。[...]

以上から読者には、私が二重の活動を行う理由がお分かりいただけるだろう。「歌声」と「ペン」はお互いに協調し、研ぎ澄まし、支え合ってきた。両者は同じ母親の娘で、その母親の名は「頭脳」である。Incontri e scontri

 

 

トップページに戻る アカデミーの芸術・教育活動 イタリア声楽に関する250人の歴史的証言