遊 旅人の 旅日記
立川町狩川から羽黒山へ | |
今日は、まず羽黒山の宿泊場所<休暇村・羽黒>まで歩く。その後、羽黒山の神社に参拝、参道の石段を下りながら<南谷別院跡>を探し、芭蕉の足跡を辿る予定。 AM5:20分出発。町並みを抜けると、羽黒山に通じる道が庄内平野の中を真っ直ぐ伸びている。 今日は曇っているが、空気が冷えていて気持ちの良い朝だ。しばらく そのヒンヤリした空気の中を歩いていると、何処からともなく、懐かしい良い香りが漂って来る。懐かしいといっても5年や10年前の記憶ではない。子供の頃の遠い昔、出会った覚えのある香りだ。 周り周囲2〜3kmの範囲には田圃・畑以外何も無い。しばらく記憶を辿って、思い出そうとするが、思い出せない。 子供の頃の記憶を辿って歩いているうちに、道が上り坂になり、道路左側に「歴史の道」の案内を見つける。案内板の横には勾配の急な、古の道が山の上に向かって伸びている。 案内板には「羽黒山に登った芭蕉も、この道を通った芭蕉の道でもある」と説明されている。 昔の人たちはこの様な急な坂道を羽黒山に向って登って行ったのである。<登る>と云う表現がぴったりの道である。今では杉並木の舗装された快適な道が伸びている。左手下を見渡すと、庄内平野が広がっている。 突然「そうだ、桜の臭いだ」と、先ほどの臭いを思い出す。子供の頃、母が、桜の葉で包んだ饅頭(パン)を蒸かしていた。その時の桜の葉の臭いだ。 しかし周辺には桜の木など何処にも見当たらない。2kmも3kmも遠く山の彼方から、そよ風が、そっと香りを乗せて来ているのだ。 町並みが始まる。各家の軒先には、お祭りの花が飾られている。 道がT字路にぶつかり、右、鶴岡方面、左、羽黒山となっている。羽黒山方面に曲がる。 両側に<宿坊>が並んでいる。宿坊の軒下には<魔除けの引綱>が掲げられている。 左手に国の重要文化財に指定されていると言う<黄金堂>がある。 羽黒町<手向(とうげ)>である。 少し行くと道が十字路になる。左に行くと羽黒山の神社に入ってゆく。右に行っても、まっすぐ言っても羽黒山の頂上まで行ける。車は右の広い道を走ってゆく。私はまっすぐの旧道と思われる道を歩く。 左方向<いでは文化記念館><国宝・五重の塔>の案内が出ている。 左、彼方には深い杉の森が続いている。その中に羽黒山頂に向かう長い石段の参道があるのだ。私の歩いている道は、言ってみれば、参道のバイパスである。 私はまず、羽黒山頂の宿泊場所に向かう。 しばらく歩くと、山登りの道になる。かなりきつい登り坂だ。時々立ち止まって、登って行く坂の先を見上げる。何度目かのカーブの坂の先に、鬱蒼として続いていた木々が開けてくる。やっと頂上にたどりついたのだ。 ホッとして歩いてゆくと、左側に<出羽三山神社>に行く有料道路の料金所がある。そこで<休暇村・羽黒>の場所を尋ねる。すると「すぐそこ」と言われる。言われた方向を見ると、<休暇村・羽黒>の看板が見える。 きれいに整備された自然の公園の中に建物も見える。AM 9:00 今日の宿泊場所<休暇村・羽黒>に到着。荷物を預け神社に向け出発する。 |
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再び、先ほどの料金所で神社に行く道を尋ねる。有料道路は自動車専用道路のため、歩いては通れない。旧道を教えてくれる。 鬱蒼とした山の中に向かって道がある。雨が今にも落ちてきそうな空模様である。旧道の中は夜のように暗い。また道はぬかるんでいて、苔むした石が飛び石状態に並んでいる。この道は芭蕉が月山に登ったとき通った<月山道>のようである。今はめったに人は通らないのであろう。 途中、<峰虫籠堂>と<吹越神社>がある。30分程で土産物屋が並んでいる駐車場に着く。 今日はお祭りのため沢山の参拝客で賑わっている。観光バスも沢山並んでいる。この駐車場は、神社の奥にあたるのようだ。人々の流れに沿って歩いてゆくと、神社の境内に出る。 右手の一段高くなっているところに<大雷神社、稲荷神社、大山祇神社、白山神社、八坂神社、健角身神社・・・>などの<末社>と言われる社が並んでいる。そこを過ぎると鐘楼があり、その右手奥に茅葺屋根の、大きな朱塗りの建物が霧の中に聳えている。<三神合祭殿>である。 <月山、羽黒山、湯殿山の三神>を祀ってあると言う。 祭殿の入り口の上に、真中に<月山神社>、左に<湯殿山神社>、右に<出羽神社>の額が掲げられている。 大勢の人が祭殿の中を熱心に見ている。小鼓の音が聞こえてくる。階段を登って中を見ると、能を舞っている。意味は解らないがしばらく見とれてしまった。 祭殿を後にして左方向に行くと、鳥居があり、下りの石段がある。この階段こそ、正面の<随身門>から登ってくる<表参道の石段>なのである。全長1,7km、2446段有るという。下り始めは、しばらくかなり急な石段である。 下ってくると三の坂の左側に<南谷別院>の案内がある。案内に従って、杉林の中しばらく行くと、「おくの細道」の標柱が立っている。ドクダミの花が咲き誇る草むらの中に細い道が伸びている。芭蕉の登った<月山道>である。今でこそ草に埋もれてしまっているが当時は多くの参拝客や修験者が通り、はっきりとした道であったに違いない。とは言っても、今の様に、石段が合ったわけでもなく、きつかったことは間違いないだろう。 ぬかるんでいる道に置いてある丸い石の上を500m程、歩いてゆくと、少し開けた空間に出る。大小の池に囲まれ句碑が建っている。芭蕉が6日間逗留し、{六月三日羽黒山に登る・・・・・南谷別院に舎して憐憫の情けこまやかにあるしせらる」と言っている、南谷別院のあったところである。良い空間である。 有難や 雪を かほらす 南谷 参道に戻りさらに下ってゆくと、芭蕉の<三日月碑>がある。 涼しさや ほの三か月の 羽黒山 ニの坂に茶店がある。登ってくる人の息継ぎの場所だ。景色が良く、鶴岡、酒田方面が一望できる。天気が良いと日本海まで見えるという。 咽を潤し小休止の後、再び石段を下る。 一の坂を過ぎたところに、<国宝五重塔>がある。古色蒼然とし、杉の古木に溶け込んで、どっしりとした感じの素晴らしい五重塔である。塔の横に<爺杉>という国の天然記念物に指定された、樹齢1、000年の古木が立っている。 小学生が三々五々写生をしている。 さらに下ってゆくと、朱塗りの橋が見えてくる。<祓川>に架かる<神橋(かむばし)>である。川に滝が落ちている。<須賀の滝>である。滝の近くに、社と東屋のようなものが見える。羽黒山を参拝する人や修験者がここで身を清めたのであろうか。 石段が上り坂になる。登りきると参道入り口の<随身門>がある。随身門から出ると、大きな鳥居が立っている。 |
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しばらく、門の前で休憩をとる。明日、月山に登るため、携帯電話で宿泊場所を検索する。 月山の頂上に小屋がある。標高1,900メートルの場所である。TELをするとOKである。高山の状況と云うものを私は全く知らない。服装も夏のシャツと長袖はワイシャツ状のもの2枚しかもっていない。再度TELをして状況を聞く。「昼間はそんなに寒くない、長袖に防寒具一枚あれば良い」という。衣料品店を見つけて、そこで買えば良い と簡単に考える。 昨夜お世話になった宿の親戚のお土産物屋さんを探しにゆく。すぐ近くに見つかる。 よく来たと歓迎してくれる。ちょうど昼時のため、そのお土産物屋さんで、蕎麦を食べる。美味い蕎麦である。明日、月山に登り、山小屋に泊まると話をすると、山小屋のオーナーとは知り合いだという。また防寒具の話をすると、衣料品店は、少し離れた町まで行かなければ無く店のご主人が車で連れて行ってくれるという。 ありがたく送ってもらい、ジャージーの中学生の運動着を一着買ってくる。 頭の中が、<車に乗ってしまった、歩いての旅の主旨に反するのではないか>という意識で一杯になっている。一方で、「今回は、歩いている、途中ではないから良いのだ」と自分に言い聞かせている。 お土産物屋さんの皆にお礼を言って、今度は、随身門から参道の石段を登り始める。 ニの坂の茶店によると、先ほどの話のなかにあった、石段を登りきったという<認定証>を書いておいてくれた。また今日はお祭りだからといい、お赤飯を出してくれる。ご馳走になって、ここでも お礼をいい、頂上に向かう。 頂上に着くと、参拝客が境内を埋め尽くしている。雨が激しく降ってくる。しばらく、何が始まるんだろうと思い待っていると、祭殿から、山伏、巫女さん、献燈をもった人たち、神輿、神主さんが行列を作り出てくる。境内から<鏡池>の周りを回り始める。お祭りのメインパレードだ。 先ほどの祭殿での能の舞、このパレード、たまたま訪れた羽黒山で、素晴らしい祭典に出会った。行列の最後の神事をみて帰路に着く。 境内の横にある道を歩いていると、杉林の中、下から旧道が登ってきている。本当に登山道である。今日のように雨が降っていたら、滑って登れないだろうと考えながら歩いていると、芭蕉の像と句碑を見つける。 芭蕉が訪れた時代に、この花祭りはあったのだろうか、などと考えながら、駐車場を走り去る車を、横目で見ながら、<月山道>を歩いて、宿に向かう。 道は一層暗くなっている。 宿の手前右側に<月山ビジターセンター>がある。月山を中心とした自然環境や野鳥など動植物の生態系が解りやすく解説されている。 宿にチェックインをし、明日の準備をする。 月山の<頂上小屋>には明日と、湯殿山に行って、帰って来る明後日、二泊する予定だ。リュックには二泊三日の最小限の荷物をつめる。残りはダンボールに入れ、宿に預かってもらう。パソコンはリュックに入れる。 明日は、ここから歩いて月山に登る、とフロントで話すと「ここから、八合目までバスが出ていますよ」と教えてくれる。私が歩いてゆく事情を話すと、フロントの若い女性二人と、一人の男性はびっくりして顔を見合わせている。 明日の昼飯の用意も出来るといわれ、朝飯と昼飯両方用意してもらうことにする。 今日は、<休暇村・羽黒>の直前の急坂で、かなりきつい思いをしたが、羽黒山の石段の2,446段の往復は、リュックを背負っていなかったこともあり、全く問題にはならなかった。 羽黒山では、本当に旅の良い一日を過させてもらった。明日は、「おくの細道」行程中、最高地点<月山1984m>への登山だ。 |
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おくの細道 | |
六月三日羽黒山に登る 図司左吉と云ものを尋て 別当代 会覚阿じゃ利に謁す 南谷の別院に舎して 憐憫の情こまやかに あるしせらる 四日 於本坊俳諧興行 有難や 雪を かほらす 南谷 五日 権現に詣 当山開闢 能除大師は いつれの代の人と云事を しらす 延喜式に 羽州里山の神社と有 書写 黒の字 誤て里山と なせるにや 羽州黒山を 中略して 羽黒山と云にや 月山湯殿を合て三山とす 当ー寺 武ー江東ー叡に属して 天ー台 止ー観の月 明らかに 円ー頓 融ー通の法の燈 かゝけそひて 僧坊 棟を ならへ 修ー験 行ー法を励し 霊ー山 霊ー地の校ー験 人貴ヒ 且恐ル 繁ー栄 長(とこしへ)にして 目出度 御山と可謂 |
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曾良日記 | |
三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代 和交院ヘ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡。本坊ヘ持参、再帰テ、南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。 ○四日 天気吉。昼時、本坊ヘ麦切ニテ招被、会覚ニ謁ス。併 南部殿御代参ノ僧 浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢、互ニ泣第ス。 五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ注連カク。夕飯過テ、先、羽黒ノ神社ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。 |
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おやすみ処 | |
出羽三山 月山、羽黒山、湯殿山の総称。古くから山岳修験の山として知られる。 開山は、593年 第32代 崇峻天皇の第一皇子である<蜂子皇子(能除太子)>が、三本の足の霊烏に導かれ、羽黒山に登拝し、羽黒権現を感得、山頂に祠を創建したのが始まりとされる。皇子はさらに月山権現と湯殿山権現を感得し、三山の開祖となった。以降、羽黒派古修験道として全国に広がったという。 神橋・須賀の滝 随身門を抜け、石段中、唯一の下り坂・継子坂(ままこざか)を下ると、祓川にかかる赤い橋がある。神橋である。 祓川は月山に源を発する清流であり、昔、出羽三山に詣でる人はすべてこの清流で身を清め参拝したようでである。 須賀の滝は江戸時代、当時の<天宥別当>が遠く月山より約8kmの水路をひいて作ったもので「不動の滝」といわれていたという。 表参道杉並木 随身門から始まる表参道は、全長1,7km、2446段の長い石段である。両側には樹齢350〜500年の杉の並木が続く。400本以上とされ、国の特別天然記念物に指定されている。 二の坂茶店で、<石段の踏破認定証>を渡している。 国宝・五重塔 平安時代、平将門の創建と伝えられている。高さ29,9mあり、東北地方では最古の塔である。杉並木の中に、古色蒼然とした姿を、ひっそりと忍ばせている。 爺杉 五重塔の隣に立つ、老杉である。樹齢1,000年と言われ、やはり、国の特別天然記念物に指定されている。以前は、婆杉と並んで羽黒山の名物であったが、婆杉は台風で失われてしまったという。 南谷別院跡 江戸時代(寛文二年・1662)<天宥法印(別当)>が築造した別当寺の別院で紫苑寺といった。坊舎の構えは壮大で人目を驚かしたという。度々の災害を受けたが、明治の初めの神仏分離の際、建物は全く破壊をされてしまい、今日では、一部の礎石と池を残すのみである。 院を廻って池を配置した庭園は、周囲の自然を巧みに取り入れた、閑寂幽邃の名園の俤を今に残している。 三神合祭殿(さんしんごうさいでん) 月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀る豪壮な建物である。 月山、湯殿山は冬期間は積雪により参拝が出来なくなるため、羽黒山に三神を祀るようになったと伝えられる。 建築様式は神仏習合時代の名残を留める特異な造りで、建物の高さ28m、屋根の茅葺の厚さ2.1m、内部は総てに漆塗が施され、東北随一の規模を誇り、国の重要文化財として指定されている。 鏡池 三神合祭殿の前にあり、昔は御手洗池と呼ばれた。この池からは、平安、鎌倉、江戸中期までの多数の鏡が発掘されており、そのうちの、190面が出羽三山歴史博物館に収蔵され、国の重要文化財の指定をうけている。 |
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俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム 鶴岡市公式ホームページ |
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花群れる 別院跡や 南谷 三の坂 おこわで祝う 花祭り 爺杉と 何をか語る 五重の塔 (遊 旅人) |