遊 旅人 の旅日記
桐生の自宅から東京・深川へ | |
明日から「奥の細道一人旅」に出発するため、自宅のある桐生市の相老駅から、東武伊勢崎線(桐生線)特急「りょうもう号」に乗り浅草に向かう。およそ一時間50分の乗車時間である。天気はすばらしく良い。門出を祝してくれているようだ。浅草から都営地下鉄浅草線、大江戸線と乗り継いで今宵の宿のある森下で下車。50L(20kg)のリュックとノートパソコンのバッグを旅館に預ける。 この森下、清澄、深川周辺は芭蕉ゆかりの施設が沢山ある。まず深川不動尊、富岡八幡宮に行き旅の安全を祈願する。次に仙台堀、海辺橋袂にある「採茶庵」に行き、上り框に座っている芭蕉像に出発の挨拶をする。この庵は芭蕉が奥の細道に出発する直前まで住んでいた家と言われている。その横、仙台堀沿いは「水辺の散歩道」になっており、奥の細道で読んだ句の内、18句が掲示されている。清澄庭園、深川江戸資料館と歩き、芭蕉庵があった場所といわれている芭蕉稲荷神社、、隅田川を望む芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉記念館、隅田川畔に下り「大川端芭蕉句選碑」を見、森下文化センターの「のらくろ」を見て、宿に入る。明日からの長旅に備え今日は早く休もう。 |
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おくの細道 | |
月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也 舟の上に生涯をうかへ馬の口とらへて老をむかふるものは日々旅にして旅を栖とす 古人も多く旅に死せるあり いつれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊のおもひやます海浜にさすらへて去年の秋江上破屋に蜘の古巣をはらひて やゝ年も暮春改れは霞の空に白河の関こえむとそゝろかみの物に付てこころくるはせ道祖神のまねきにあひて取もの手につかす もゝ引破をつゝり笠の緒付かへて三里に灸すゆるより松嶋の月先心もとなし 住る方は人に譲りて杉風か別所に移るに 草の戸も住替る代そ雛の家 面八句を書て庵の柱の懸置 |
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よりみち | |
芭蕉の住んでいた深川は、隅田川と荒川に挟まれた地であり、また海辺の小さな村であったといわれる。江戸幕府になって急速に江戸の町が拡大し、開拓が進んだ。低地だったのか水路(堀)が発達しており水害の予防と、輸送路の役目を果たしていたようだ。芭蕉の住んだ元禄時代には、すでに富岡八幡宮、深川不動尊があり門前町として、また紀伊国屋文左衛門などの木場商人が多く住んでおり大変なにぎわいだったといわれる。江戸幕府の下、社会が安定し、経済が発展し、文化が花開いた。そんな時代だったのだろう。 そんな時代背景の中、芭蕉は俳諧の心・精神を極めることに全力を傾注し清貧に勤め、旅をすることによって修行をし、未知のもの、新しいものの発見に努めたのではないだろうか。 秋深き 隣は何を する人ぞ 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る 上の二つの句は、誰もが知っている句ですが、芭蕉がなくなる直前に読んだ句である。 ちなみに芭蕉は元禄7年(1694)10月に51歳で亡くなっている。 311年前の51歳というと、今で言うと何歳位に相当するのだろうか。当時の平均寿命から見ると、全く根拠のない推測だが、75〜80歳位かもしれない。とすると「奥の細道」を歩いたのは今の年齢に換算すると70歳位か・・・。 |
(芭蕉の紀行・日記) 貞享元年(1684) 野ざらし紀行(41歳) 4年(1687) 鹿島紀行(44歳) 4年(1687) 笈の小文( 同 ) 5年(1688) 更科紀行(45歳) 元禄 2年(1689) おくの細道(46歳) 4年(1691) 嵯峨日記(48歳) |
江東区公式ホームページ http://www.city.koto.lg.jp/ 俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム http://www.bashouan.com/ |
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芭蕉庵史跡展望庭園の隅田川を見つめる芭蕉像を見て 元禄と 同じ流れか 隅田川 隅田川 今も昔も 隅田川 (遊 旅人) |