旅の6日目前編 熱気球と大列柱カルナック神殿
夜中の起床いざ熱気球へ
昨夜はバザール散策を終えて帰船後、夕食宴会へ
旅6日目の朝はナイル川クルーズ船の客室でむかえた。時刻はまだ午前3時を少々過ぎたばかりである。添乗員のN女史から3時45分にモーニングコールが掛かってくることになっているのだが、時刻が気になって眠れない。
何度も時計を見ることを繰り返し、結局寝入れず起床することにした。
クルーズ船が係留している場所はナイル川上流域(カイロから800Kmほど南下したところ)の、カイロに次ぐエジプトを代表する観光地である古都ルクソール郊外、ナイル川東岸である。
こんな真夜中に起床せねばならないのは、熱気球に乗りルクソールの西岸エリアの遺跡を見下ろす観光をするためなのである。真っ暗なナイル川をフェリーボートで西岸に渡る
熱気球は日の出前の強い風が吹かない安定している時間帯に運行されるため、4時15分にクルーズ船を下船しバスで出発せねばならないのだ。
私たちは昨日、ルクソールのホテルを早朝に出立し、午前中に西岸地区(死者の街)での観光を終わらせると、クルーズ船のチューリップ号で乗船初日の一夜を過ごしたのである。
午後一番で乗船し船内レストランでランチを済ませ、バザール散策に出かけたが夕食まで休息したので、これまでの疲れも少し回復し、夜の夕食は宴会ムードで大いに盛り上がったのだった。
フェリー船着き場からナイル川西岸へ
船の中では熱い紅茶とクッキーがサービス
アフリカとはいえ砂漠では寒暖の差が激しく、早朝は冷えるということなので日本から持参したジャンパーを着込むと船のロビー階に降りた。
一人も遅れることなく定刻4時15分に集合すると、岸壁とチューリップ号との間に渡された細い橋を渡り下船する。
外は漆黒の闇といってよほど真っ暗だ。わずかに船のロビーの灯りが漏れてくるだけで、空にはキラキラ星が輝いている。 岸壁から道路にあがると、すでにバルーン運行会社からの迎えのマイクロバスが2台待機しており、私たちは二組に分かれ分乗した。バスは街灯も無い真っ暗な道路をルクソール中心部の東岸船着き場へ向かって走り出した。フェリーボートでナイル川西岸へ渡るのである。
暗闇に熱風を吹き込むバナーの炎がくっきり
ほどなく船着き場へ着くと、懐中電灯で足元を照らしながら真っ暗な桟橋の先に係留している30名ほどが乗船できるボートへ乗り込んだ。
船内にはテーブルが用意されており、熱い紅茶とクッキーがサービスされる。全員が救命胴衣を着けるとボートは真っ暗なナイル川を対岸(西岸)へと出航した。
10分ほどの乗船で西岸に着くと、別なマイクロバスがすでに何台か待機している。私たち以外にも別なボートで渡ってきた欧米人観光客を何組か乗せると、気球ツアーが発着するゴルナ村へと走り出した。
バスは昨日観光した「王家の谷」の方面へ走っているようで、やがて車窓右手のナイル川グリーンベルト方面から暗闇に、ボーと気球に熱気を送りこむボイラーの炎が見えてきた。
抱っこされ嬉声を上げる
膨れ上がった気球に乗り込みはじめる
まもなくバスが道路からゴルナ村の空き地に入り込むと、まだ完全に膨らみきっていない状態の気球10個ほどが待機している。熱気を吹き込むボイラーがゴゥーゴゥーとすさまじい音をたてている。そんな気球を風で揺れたり飛び上がらぬよう、大勢の男達が取り囲むように忙しく立ち動いている。
時刻は5時を過ぎたばかりで、暗闇がやっと薄れてきた頃合いである。やがて私たちは、膨らみ準備OKとなった気球の1個に誘導された。遠くで見るのとは大違いで気球本体も大きいが乗り込むゴンドラも大きい。長方形の籐かごの中が等間隔に8つに仕切られており、それぞれ4名が乗り込むことができるので、一度に30名ほどが乗れる。
夜明け前の空に上昇する!岩山の裏手が王家の谷
胸ほどの高さがあるゴンドラへの乗り込みが開始された。ところが、よじ登りゴンドラ内に入ろうとするのだが、体が重く筋力も衰えており、そう簡単には登れないではないか!。上れず四苦八苦していると、見かねたゴンドラ作業員が次々と女性陣を両手に抱っこするやゴンドラに放り込みはじめた。
若い男性作業員に抱え上げられた女性たちは、嬉しいのであろうか、キャーとかヒィーと嬉声を上げているではないか。なかにはうっとり恍惚の表情をしている者までいる。シニアなのである!もう長いこと抱っこなんてご無沙汰なのだ??・・・いい冥途のみやげ話になったと言うものまでいる!さすがシニアだ!もう冥途への心構え準備をしているのだ。
私たち日本人グループ以外に数名の欧米人がゴンドラにおさまると、船長がバナーに点火する。ゴゥーゴゥーという音をたてながら、ゆったりバルーンは夜明け前の空に上昇がはじまった。
眼下に広がるナイル川西岸
ナイル川グリーンベルトに日の出が始まる
バルーンはゆっくりゆっくり上昇を続ける。東の空がうっすらと明るくなりつつあるなか、眼下には昨日見学したハトシェプスト葬祭殿と、それを取り囲むような切り立つ断崖などが一望の下に見える。更にははるか先にひろがる荒野やナイル川の両岸の緑豊かなグリーンベルト地帯も・・・・
眼下に広がる絶景にゴンドラの中は歓声が上がり、みんな夢中になりシャッターを押しまくる。
ラムセス三世葬祭殿も視界に入り、真上から見下ろすかたちで列柱室や中庭などの全体構造が視界に入る。高度が上がるにつれ、昨日の見学では分からなかった西岸地区全体に、点在する遺跡の位置関係がよくわかるようになってきた。
岸壁に囲まれたハトシェプスト葬祭殿、裏手が王家の谷
やがて東方のナイル川方面から夜明けが始まり、低い山並みから太陽が顔を出し始めた。急速に明るなりだすと今まで見えなかった不思議な光景が見えてきた。
ナイル川グリーンベルトの集落上空で民家を見下ろすと、どの住居も天井が無いというか、屋根が抜け落ちているのである。廃墟ではない!住民が暮らしているのである。これはいったいどうしたことなのか?いくら砂漠地帯で雨が降らないにしても、星を眺めながら寝るのか?
民家の天井、屋根が無い!どうして?
すっかり明るくなったが、どうもおかしい。気球が同じところを上昇下降を繰り返すばかりで、ほどんど移動しないのである。彼方に見えるハトシェプスト葬祭殿の断崖裏手に「王家の谷」があるのだが、そちらに飛んで行かない。砂糖キビ畑の上空ばかりで上下降を繰り返し他に移動としないではないか!昨日見学の「王家の谷」ではカメラ禁止でほとんど撮影していないので、気球に乗って上空から谷の全容を見ることを楽しみにしていたのに・・・
朝焼けのナイル川西岸、岩山は葬祭殿や墳墓群
昨年のトルコの旅でもカッパドキアで気球に乗ったのだが、その時はさまざまな奇岩群の上空を移動しながら、奇岩、奇石、渓谷の絶景を楽しんだのだった。そのときの強い印象と感動がまで鮮明に記憶が残っており、それに比べるとこのルクソールでの気球体験、期待に反して少々物足りなない。失望が胸にひろがる。
1時間ほど気球乗船を楽しむと、上空に浮かんでいた気球がそれぞれ一斉に砂糖キビ畑に着陸するべく下降を始めた。すると点在する村からロバを引いた農民が私たちが乗った気球を目指して農道をやってくる。そんな光景を眺めていると、やがて気球は畑に着陸した。しかしこんな調子で毎日畑に着陸されたら農民もたまったものでないだろう。
砂糖キビ畑の中に着陸する、農民も迷惑だろう
するとである、彼方の農道からロバに乗った青年が私たちめがけて駆けてくるのが目に入った。
ロバの尻にピシピシ鞭を当て競争でもしているかのように急いでいる。着陸した私たちが砂糖キビ畑から農道にでると、そのロバに乗った青年が息せき切って私たちに近づいてきた。
そんなに私たち外国人がめずらしいのかと、近づいてくる青年を見ていると、仲間のひとりW氏が、そのロバに乗った青年にカメラを向けるとシャッターを切った。するとである!何と、待ってましたとばかりその青年、バクシーシ(施し)の要求をするではないか! W氏がしばらくキョトンとし、無視しようとすると、しつこく金を寄こせと言っている。W氏が仕方なくポケットから紙幣を取り出し渡している、そんな場面が離れて見ている私の目に入った。ロバ男の目的は小遣い稼ぎだったのだ。私たちがバスに乗り出発する前に、何とか追いつこうと駈けてきたのだ。
バクシーシを要求するロバ青年に唖然
農道に迎えのマイクロバスが到着したので、私たちが2台に分乗して乗り込むと、何と!その青年、今度はバスの窓ガラスを叩くではないか!もっとバクシーシを寄こせといっているのである。
もうこうなると「たかり」だ。なんともイヤなイスラムの習慣に唖然とする。
バルーン観光を終えるといったんクルーズ船に戻り朝食をとることになっている。送迎のマイクロバスは私たちが乗船しているクルーズ船に向かって走りだした。ナイル川西岸の船着き場で再びボートに乗り東岸へ渡りチューリップ号に着くと、時刻は7時を少々過ぎていた。
朝食は卵かけご飯に満足
バルーン観光を終え、朝食にレストランに降りていくと何と!炊き上がったばかりの米飯に、のり巻き、小魚、味噌汁などの日本食が用意されているではないか。このクルーズ船、私たち日本人グループの貸し切りに近い状態に、厨房スタッフが特別に用意してくれたサービスなのか?何とも心憎い演出に感激である。
するとセンターテーブルのバスケットの中に生卵が入っているのが眼にとまった。コックが目の前で実演して作る玉子焼き用のものだ。私はこの生卵を1個手に取ると、熱いご飯の上にかけ「卵かけご飯」にすることにした。日本から持参した醤油をたらし食べてみると実に美味い。米飯も東南アジアのパサパサした長粒種でなく日本で食べ慣れている粘りのある「うるち米」に近い味なのである。これなら日本から持参したカップ麺は必要ない。
世界でも類を見ない大列柱の神殿
古代エジプトの都テーベ(ルクソール)の栄華
廃墟のような家の前でパンを焼き地面に並べてる
満足の朝食を終えると8時半の出発時間がやってきた。再びバスに乗り込むとルクソールの栄華の象徴ともいえる「カルナック神殿」へと走り出した。
世界有数の巨大神殿があるルクソールの地について、以下に簡単に記述してみる。
古代世界の大都市のひとつであったテーベと呼ばれた「ルクソール」が歴史の表舞台に登場するのは、紀元前2000年のエジプト王朝の中王朝時代から、紀元前1000年頃の新王国時代にかけてである。
第11王朝時代に重要な都市となり、華麗さだけでなく、知、芸術、宗教、政治の中止地として繁栄した。
カルナック、ルクソールの2つ神殿を結ぶ
3Kmにもおよぶスフィンクス街道が発掘中
紀元前8世紀ギリシャの吟遊詩人ホメーロスが書いたといわれる世界最古とされる古典文学抒情詩「イリアス」に、このテーベの繁栄について次のように記述されれいる 「エジプトのテーベには山なす貴重な鋳塊が光り輝く。テーベには百の門を持つ」と。
このように古代エジプトの中心地としてテーベの繁栄は紀元前2040年ごろ、メンチェヘテプ2世が混乱期のエジプトを再統一してから始まった。その後歴代の王たちがアメン神の庇護のもと、権力と栄華を象徴するように、この地に壮麗な神殿、葬祭殿、墳墓などが次々と建てていったのだ。
その理由はエジプトが再統一される前の古王国時代、このテーベという地方都市の地方神でしかなかった「アメン神(創造と戦いの神)」が、中王国時代になると太陽神である「ラー神」と合体し「アメン・ラー神」となって国家最高神となって崇められたことによるとされる。
「生者の町」ルクソール東岸
世界でも類を見ない大列柱があるカルナック神殿の
入り口第一塔門、門前の40体のスフィンクスが並ぶ
ルクソールはナイル川をはさんで東岸、西岸に分かれるが、太陽が沈む西岸には王の再生、復活への祈りが込められ葬祭殿や墳墓が盛んに造られたことから「死者の町」と呼ばれた。
昨日はこの西岸「死者の町」を見学したので、今日はこれから東岸の「生者の町」を観光するのである。
この東岸観光のハイライトは世界に類を見ないほど巨大な列柱と荘厳さを持つ「ルクソール神殿」と「カルナック神殿」である。
第1塔門を入り第1中庭から第2塔門をみる
バスは市中心部から北に3Kmほどのところにある「カルナック神殿」に走っている。車窓からは朝の活動が始まり、街のあちこちでパンを焼いて売っている庶民の生活場面がかいま見れたりする。
すると3年前に発見され、発掘真っ最中の一直線に伸びるスフインクス参道がが目に飛び込んできた。参道の両側にはスフィンクスがずらりと並んでいる。何と!この参道、いまバスで向かっている「カルナック神殿」と「ルクソール神殿」を3Kmに渡って結んでいるというから凄い。まさにルクソールが遺跡のうえにある街であるというが実感できる。
ただただ圧巻のカルナック神殿
第一塔門とスフィンクス参道
パピルスが開花した柱頭をもつ石柱
人類史上これまで造り上げた最大の神殿複合体といわれる「カルナック」神殿に着いた。東西540m、南北600mの周壁で囲まれた壮大な神殿である。
国家最高神となったアメン・ラー神と結びつき強大な権力を手にしたファラオ(王)が何世代にもわたり、このカルナックに次々と神殿、礼拝堂、オベリスク、神像などを造営したことから100ヘクタールを超す面積を持つ巨大な建築群となった。現在も発掘が続いており、その全てが公開もされていないことから、我々は公開されている神殿群の中心部となるアムン神殿を中心にこれから見学することになっている。
駐車場の広場を横切り歩みを進めていくと、前方に行く手を立ち塞ぐように巨大な城壁を思わせる第一塔門が現われた。幅113m、高さ43m
というこの塔門はエジプトで最大規模を誇るものだ。
王妃を足元にラムセス2世像
いま我々が立っている場所(神殿西側の入り口付近)は、この神殿を訪れるためにナイル川から引いた運河の船着き場があったところである。
この船着き場跡からは羊頭の頭部を持ち、ライオンの前足の間に王の像を抱えたスフィンクスが左右20体づつ並ぶ参道が第一塔門まで伸びている。左右の塔門上部の高さが揃っておらず工事途中の未完成だったことがうかがえ、この入り口からは第2塔門、第3塔門と経て、その先の至聖所まで一直線に伸びるこの神殿の長大な中心軸が見通せる。
参道から塔門までくると門の戸口の高いところに、18世紀にこの地にやってきたナポレオン遠征軍によって刻まれた碑文が残っている。
第1塔門から第1中庭へ
中庭右手のラメセス3世聖船祠堂に並ぶラメセス像
歩みを進め第1塔門をくぐると広々とした第1中庭があり、巨大な1本のパピルス柱が立っている。
第25王朝のタハルカ王が建立したものとされ、本来は10本あったのだが今はさびしく1本を残すのみとなった。ナイル川流域に自生する植物パピルスが開花した模様の(パピルス柱とよばれる)独特な柱頭は印象的だ。
そしてその向こうに第2塔門がありその正面左右には、3300年前のセティ1世の頃に造られたとされる、足元に王妃を従えたラムセス2世の巨像が立っている。
第2塔門からは神殿のハイライト大列柱室へ
このラムセス2世はラムセス大王とも呼ばれ、紀元前1300年頃の古代エジプト第19王朝のファラオだった人物。24歳で即位して66年間統治し90歳で没したとされ、その治世のおいてリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張し繁栄を極めた。自己顕示欲が強くエジプト各地に点在する遺跡からは、彼の功績をたたえたレリーフや像が出現している。
ちなみにこのラムセス2世の
ミイラは1881年に発見され、
巨大列柱を見上げ、ただただ圧巻!
現在はカイロのエジプト考古学博物館に収められている。さらに中庭の右手にはラムセス3世が造営した聖船祠堂があり、その中庭にはオシリス神(冥界の王)の姿をしたラムセス3世の像が並んでいた。
第2塔門から圧巻の大列柱室へ
第18王朝ホルエムヘブ王が着工し、ラムセス2世が完成させた第2塔門を抜けると、このカルナック神殿全体を通して、最も印象的で感動すら覚える区画の「大列柱柱」だ。
まさに石で作られた陽光すらまばらな森と言うべき多柱室は、巨大な134本のパピルスを形どった「パピルス柱」で埋め尽くされている。大きさだけではないのだ、その芸術性も凄いではないか。しばし見上げていると首がだるくなってきた。
大列柱室には134本のパピルス柱が林立する
134本の柱のうち、中央2列に並び柱頭がパピルスが開花した形の12本が大きく、高さが21mもある。そしてその両側に位置する122本は閉花式の柱頭で、高さは15mだという。根元の台座に立ってみたが、あまりに巨大すぎて大きさの実感が湧いてこない。
ガイドブックによると中央柱の柱頭部分は優に50人もの人間が並んで立てるほどの大きさだという。まさに圧巻だ!
天井を支えた横はりの上に高窓がある
写真を撮るべくカメラを構えるのだが、あまりに巨大すぎてアングルに収まりきれない。しかし、それにしても重機もクレーンもない時代、これだけの列注を組み立てた古代人のテクノロジーには驚くばかりだ。
見上げるといまでこそ青天井になっているが、かってこの広間は巨大な支柱と門状の横はりで支えられた天井で覆われていたのである。その天井の小さな高窓から光が薄暗くさしこみ、列柱の空間にあったとされる神々や諸王の彫像を妖しく浮かび上がらせていたに違いない。
はりの下側に刻まれたセティ1世の碑文
3300年の時を経て彩色が鮮明に残る
私は趣味が高じて、歴史ロマンの舞台に立つことに憧れ、旅行といえば常に歴史的意義のある場所ばかりを選んで旅してきた。いまこの3千数百年の時を経てきたレリーフが刻まれた大列柱の下に立つと、いいしれぬ感動が湧き上がってくる。
帰国後、こうして自宅でパソコンに向かい、このとき写した画像と旅のメモ帳を見ながら旅行記を作成しているのだが、このとき体験した感動、感激をうまく表現ができないのがもどかしい!。
大列柱室から右手におれると第7塔門、第8塔門〜大10塔門へと神殿が伸び、その先は人頭スフィンクスの参道が3Kmにわたって、ルクソール神殿へとつながっているという。これらは現在発掘中ということで見学コースから外されたが、話だけでも凄い。
現存する最大級のオベリスク
巨大なパピルス柱、柱頭がパピルスの花
圧巻の大列柱室を軸線上に進み、アメンホテプ3世(紀元前14世紀)が造営した第3塔門を抜けると、その先第5塔門にかけてハトシェプス女王が建立した2基のオベリスクが立っている。
第4塔門前にある1基はトトメス1世(紀元前15世紀)を称えたもので、高さ19.5m、重さ130t。そして第5塔門前にある1基はトトメス1世の娘で王位を継承したハトシェプスト女王を称えたもので高さ30m、重さ323tもあるもので、現在エジプトに立つオリベスクのうち最も高いものである。
本来オリベスクは2基で一組だったので、ハトシェプストは4基を建立したのだが、倒壊してそれぞれ1基ずつ残ったものだ。各面に刻まれたヒエログリフの碑文には、女王の名と称号に始まり、これら記念物を寄進した理由について詳細に記述している。
このオベリスクどちらもアスワンで切りだされた淡紅色花崗岩の一本石から作られており、はるばるナイル川を下って運ばれたもので、建立当時は莫大な量の琥珀金で覆われ、太陽
神のシンボルとして光り輝いていたという。
エジプトで一番高いオリベスク
(注オベリスク)
神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)。花崗岩の一枚岩で作られており、四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に細くなり、先端部はピラミッド状の高く長い直立の石柱である。側面には王の名や神への讃辞がヒエログリフで刻まれ、王の威を示す象徴とされた。大きいものではその重量が数百トンにも及ぶ。
古代エジプト人が建立した何百というオベリスクのうち、エジプト国内にまだ立っているのはわずか4基ほどだという。
ローマ帝国時代に戦利品として略奪の対象とされ、世界各地に散っていったのである。現在、世界に現存するオベリスクは30本とされ、ローマ、パリ、ロンドン、ニューヨーク、イスタンブールなどに今なおそびえ立っている。
その内13本がローマにあるというからローマ帝国もひどいことをしたものだ。
トトメス3世祝祭殿
第3塔門側から大列柱、大2塔門方面を望む
第6塔門を抜け基軸線上に進み至聖所を経てアムン大神殿の一番奥までくると「トトメス3世祝祭殿に突き当たった。
このトトメス3世(紀元前1479年頃 〜紀元前1425年頃)、父王トトメス2世の後継者として王位を受け継ぐはずだったが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位して女王となり王権を手にされてしまった。
その後ハトシェプストが退位し自分の政治が行えるようになると、ハトシェプスト時代の外交を改め、周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた人物とされる。
壁、天井、柱、全てに彩色が残るトトメス3世祝祭殿
しかし、よほど一時期王権力をハトシェプストに奪われたことを恨みに思ったのか、実権を掌握してからはハトシェプスト女王の存在を抹殺しはじめ、神殿や葬祭殿からハトシェプストの名前や肖像を徹底的に削り取ったのである。
昨日見学した「ハトシェプスト葬祭殿」からは。削り取られた無残な彼女レリーフが残っていた。
かなり朽ちかけた祝祭殿内部に入ると、壁天井、柱にいたるまで全面に彩色が残っている。3500年近い時を経ていまだに残る鮮明な色に驚くばかりだ。
重い石の天井を支えるためずらりと並んだ円柱の重要性がよくわかる。
カルナック神殿の見学を終え、炎天下戻っていく
これで巨大なカルナック神殿の見学は終わりとなった。エジプト入り後今日までの観光で、私に最も強い印象と感動を与えた神殿だった。
次の観光はいま見学したカルナック神殿と関連が深い「ルクソール神殿」の見学である。相変わらずきつい日差しが注ぐ炎天下、来たときとは別な通路を迂回するように戻っていく。途中の広場で神殿のシンボルであるオベリスクを背景に全員で記念写真を撮ると、汗をふきつつ駐車場まで歩みを進めていく。前編おわり
カルナック神殿の駐車場の木陰でバスを待つ。とにかく日差しがきつい。