世界遺産の古代の都テーベ(ルクソール)・王家の谷、クルーズ船で宴会2次会も

エジプト縦断旅行記・ナイルを行くー旅5日目編

 古代エジプト象形文字ヒエログリフ


         

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旅5日目 世界遺産古代の都テーベ(ルクソール)

快適な高級ホテルでの目覚め

ルクソールでの宿泊ホテル
 旅5日目の朝は、エジプトを代表する観光地で世界遺産にも登録されている「ルクソール」のホテルで、5時45分のモーニングコールでむかえた。これまでのホテルとは違いアザーンの騒音にも邪魔されず久し振りに熟睡できた。
 ドイツ資本の「シュタイゲンベルガー・ナイルパレス」という、いかにもドイツ系らしい名前がついた五ツ星の高級ホテルで、ナイル川に面し、広々とした部屋にインテリアも設備機器も高級感溢れる快適なホテルである。
 
 3日前のエジプト入国後、首都カイロをバスで出発し、ナイル川沿いの遺跡を辿りながらひたすら南下を続け、800Km近くを走り昨夕の17時半にルクソールに着いたのであった。ホテルの部屋からナイル川の眺め
日本でいえば、ほぼ札幌〜東京間を走ったことになる。エジプト国土の三分の二近くを縦走し、すでにここはナイル川上流域なのだ。
 ただでさえ暑いアフリカの国である。さすがにここまで南下してくると季節は秋になったとはいえ益々暑さが増してきている。ちなみにここルクソールでは夏季間の気温は連日50度を超えるらしい。かって観光スポットの「王家の谷」の近郊では公式気温57度に達したとのことである。前編でも触れたが、太郎ガイドが今年の7月このルーソールでガイドしたときは62度にもなったというから半端な暑さではない。

現在も発掘がつづくスフィンクス街道

 昨夜はいったんホテルにチェックイン後、20時から始まるカルナック神殿での「音と光のショー」に出かけるため、休息もそこそこあわただしくレストランで夕食を済ませることになった。ルクソールでは現在も発掘が進むスフィンクス街道

 レストランに入ると、さすが人口50万人近い世界遺産の街のホテルだけあって、世界各国からの外国人観光客で溢れかえり、バイキングスタイルの料理も多種多様の料理がテーブルに並んでいる。
 見まわすとワインを飲んでいるカップルが目に入った。
さすがこの街ではアルコールは禁止ではないようなので、席に着くやいなやビールをオーダーをするとギッチリ冷えた瓶ビールが出てきた。感激だ!待ち望んでいたビールである。汗をかいた体に浸みわたる。

カルナック神殿での音と光のショー

ライトに浮かび上がるカルナック神殿の第一塔門
 1時間ほどで夕食を終えると、再びバスに乗り込み市内中心部に近い場所にある古代エジプトの「カルナック神殿」に向かった。
 ルクソール観光の目玉的な存在の神殿で、歴代の王が関与して増改築を重ねた巨大な複合施設であり、その中心はアメン大神殿である。
 神殿前の駐車場はすでに大型バスで埋め尽くされており、ぞくぞくと欧米人観光客がバスから降りてくる。なんとか空きスペースを見つけ停車したバスから私達は降りると、土産物店が軒を連ねるアーケードをぬけ、入場券発売所で入場券とともに日本語によるイヤホーンガイドを借り耳に装着した。
 第一塔門から神殿内に入っていく

 再び歩きながら神殿への入り口へと続くスフィンクス参道まで来ると、すでにショーの開演を待つ黒山のような人だかりができている。ルクソールに宿泊する観光客が全て集まったのではないかと思うほどの人だかりで身動きできないほどである。
 人混みをかき分け前方に出ると、目の前のスフィンクス参道の前方に神殿への入り口の巨大な壁の「第一塔門」が見える。
夜の神殿のシャッターを押していると、間もなく耳に装着したイヤホーンから音楽と日本語のナレーションが流れてきた。ショーが始まったのだ。
聖なる池の観覧席からの闇に浮かぶ神殿

 スポットライトをあびた神殿の第一塔門が真っ暗な闇に浮かびあがると、イヤホーンからはこのカルナック神殿に関与した歴代ファラオの歴史絵巻が語られだした。
 幻想的な広大な神殿の中を光と音で案内されながら、入口付近、第2塔門前、大列柱室、第7塔門前、聖なる池というように歩みながら神殿奥へと進んでいく。進むといっても自分の意思に関係なく、人混みに押され流されていく。
 やがて聖なる池に設置された観覧席から満点の星空を眺めながらエンディングとなったのだが、なぜか事前の期待に反して、あまり感動的なものではなかった。エジプトの歴史なんてほとんど知らないのに歴代ファラオや王妃、神官の名前が次々と飛び出し何が何だか分からず、神殿内部もほとんど真っ暗で何も見えないのである。期待はずれのショーを終えると早々にホテルに戻り眠りについたのだった

暑いので観光スケジュールを変更

このような岩山に囲まれハトシェプスト葬祭殿がある
 今日のスケジュールは当初予定より早め、早朝の7時にホテル出発と変更となった。今後の観光スケジュールを当初予定から変更することになったのである。
 想定以上に残暑が厳しいので、まだ暑くならない午前中になるべく観光を終えてしまうことにしたのだ。
 今日のスケジュールは7時ホテル出発→ハトシェプスト女王葬祭殿→王家の谷(ツタンカーメンの墓)→メディネト・ハブの神殿群→メムノンの巨像と、ここまでを午前中に終わらせることになった。その後ナイル川クルーズ船に乗船し船内レストランで昼食という予定である。午前7時私たちを乗せたバスは早朝のルクソール市内を走りだした。

見どころいっぱい古代の都ルクソール

ハトシェプスト女王葬祭殿へは電気自動車で
 このルクソールは古代エジプトの新王国時代(紀元前1500年ごろ)に都テーベがあった場所で、芸術、宗教、政治の中心地として繁栄したところだ。
 市内を東西に分断するようにナイル川が流れ、現在も当時の遺跡が数多く残り、日本でいえば京都みたいなところである。
 日が昇る方角であるナイル川の東岸には、カルナック神殿やルクソール神殿など生を象徴する建物があり、日が沈む方向のナイル川西岸には死を象徴する、王家の谷や王妃の谷などがある。王家の谷にあるツタンカーメン王の墓はつとに有名だ。
 これら遺跡の多くが、古代都市テーベとその墓地遺跡 として世界文化遺産に登録されている。この例を見ないほどの古代エジプトの巨大建築が遺跡として残るルクソールを今日明日の2日間かけて観光するのである。

ハトシェプスト女王葬祭殿

エジプト初の女性女王

断崖絶壁の下に女王の葬祭殿が見える
 バスはホテルのあるナイル川東岸地区から橋を渡り西岸地区を走る。車窓の外はやがて緑が途絶え、赤茶けた岩山が続く風景に変わると間もなく「ハトシェプスト女王葬祭殿」に着いた。時刻はまだ8時前である。
 この葬祭殿はエジプト初の女王とされる「ハトシャプスト」古代エジプト第18王朝5代目(紀元前1479年〜1458年)を祀った神殿で、ルクソール西岸・王家の谷の東側にある断崖を背にして建てられている。
長いスロープで第2テラス、第3テラスへと上る

ちなみにハトシェプストの意味は「最も高貴なる女性」とされる。
 彼女の夫であるトトメス2世は死にあたり、妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言したが、トトメス3世は幼かったため、彼女が王権を手に入れ22年間にわたり統治をした。公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていたと伝えられる。幼い息子(義理)にかわり、自らファラオとなり通商に力を注ぎ国の発展に貢献したとされる人物だ。この葬祭殿を設計・建築したのはセンムトという有能な官吏・政治家で彼女の愛人であったといわれている。

 チケット売り場がある建物で神殿の概略について説明を受け、ゲートから外に出ると、眼前に覆いかぶさるような赤茶けた断崖が目に飛び込んできた。彼方には三方を断崖に囲まれた葬祭殿も見える。広場には岸壁下の葬祭殿まで送迎する電気自動車が何台も列をつくっている。三方を断崖に囲まれた3階建のモダンな葬祭殿

 迫力のある断崖を写そうとカメラを構えていると、土産物売りが絵葉書や写真帳を持ちしつこくつきまとってくる。無視して待機している電気自動車に乗ろうとすると、何と!その土産物売りが今度は運転手に早変わりするではないか。どっちが本業なのだ!唖然としている私達を乗せると彼方の葬祭殿にむかって動きだした。
 時刻はちょうど8時を過ぎたばかりだが、すでに気温は上がりだしてきている。右手の断崖中腹のいたるところに岩窟が見える。この辺一帯は古代からの「死の谷」なので墳墓なのだろう。
このハトシェプスト葬祭殿を取り囲む断崖の裏手が、かの有名な「王家の谷」だ。
1階壁のアスワンから石材を運ぶ場面のレリーフ

 前方の絶壁に下に見える葬祭殿は三階建である。二階と三階に上っていくためのゆるやかな長いスロープがあり、各階には広々としたテラスがある。これが紀元前1500年ころの建造物とは思えないくらいモダンな建物だ。
 やがて電気自動車は整然と列柱が並ぶ三段テラスの一番下の広場に停まった。
 私たちは一般のツアーでは見学コースに含まれない1階部分から見学を始める。現地人が壁面や列柱の修復作業をしているなか、アスワンの石山からオベリスク(神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種)を切り出し輸送する場面が描かれたレリーフなどを見学した。ここにはハトシェプスト女王の彫像や名前が彫られたヒエログリフ(象形文字)などがあったのだが、彼女の死後ファラオとなった義理の息子「トトメス三世」によって、彫像も名前も削られ彼女の存在を否定されたという。トトメス三世よほど彼女に王権を奪われたのが悔しかったのか??それにしても厳しい。

世界を震撼させたテロ事件現場の2階テラス

この広場のような第2テラスでテロ事件が発生した
 次は2階部分の見学である。
1階テラスから2階へ向かってゆるやかな長いスロープが伸びている。エジプトの守り神の蛇と、上エジプトの守り神ハゲワシが合体した獣が彫られた手すりがある斜路を昇っていくと、神殿に覆いかぶさる断崖が目の前いっぱいに迫ってくる。
 広々とした2階のテラスに足を踏み入れた途端、ここが悲惨なテロ(ルクソール事件)の現場だったいうことが私の脳裏に浮かんだ。
側面から見た第2テラス、高くて逃げられず
 1997年、このハトシェプスト女王葬祭殿の2階テラスで、イスラム原理主義過激派の6名が待ち伏せし、外国人観光客ら200名に向けて無差別に火器を乱射し、銃弾がなくなると短剣で喉を裂いたという。この襲撃で日本人10名をふくむ外国人観光客63名が殺害されたのである。このテロ事件は世界を震撼させ、日本でも新聞TVで大きく報道され、私の脳裏にこびりついて離れないのである。この事件を契機として、私はイスラムという宗教に不気味さと恐れを抱くようになったのだった。

事件の背景にあるのは

2階ハトホル女神礼拝所、女神の顔のハトホル柱
 観光客を標的にしたのはエジプトの重要な歳入源である観光収入をテロによって激減させ、経済に打撃を与え、それに伴う政府への不満をあおって政府を転覆させ、イスラム原理主義国家を樹立させるという企みからであったという。
 事実、観光客は激減したため、エジプト政府は観光地の警備を強化するこになったのである。カイロからここまで私たちのバスに武装警護車両が同行したのはこの事件が原因なのである。
 それにしても、このテラスに立つと広々としており、襲撃されても身を隠す場所がどこにもない。63名もの犠牲者が出たのはこれも要因なのか。どの宗教にも狂信者がいるらしいが、近年世界中のテロ事件といえばジハード(聖戦)とか殉教の名のもにイスラム教徒が関係したものが圧倒的に多い。理解できないイスラムの世界だ。
アヌビス神礼拝所の彩色レリーフ

 もとへ、2階テラスの第2列柱の建物に向かって左端にはハトホル女神(愛情と享楽の神)礼拝所があり、聖牛の耳を持つハトホル女神の顔を刻んだハトホル柱や、ハトホル女神の象徴である牝牛のレリーフなどが色も鮮やかに残っている。
 船を仕立ててソマリアとの交易の場面が描かれ、高床式の家、乳香木、魚、船への積み込み場面などのレリーフも鮮明に目に入る。
列柱の右端にはアヌビス神の礼拝所がある。(アヌビス神は犬の頭をした墓の守り神で、ミイラ作りの神でもある)ここの壁にも色鮮やかにアヌビス神の坐像や立像が描かれたレリーフが残っている。ほかにも様々な神とトトメス3世も描かれていた。
3階のハトシェプスト女王の顔したオシリス神の列像

 次は3階への移動である。ゆるやかなスロープを昇り3階テラスに出ると、列柱に寄りかかるようにハトシェプスト女王の顔をしたオシリス神(冥界の王)の列像がある。顔の部分にはわずかに彩色が残り、胸元で腕を組んだその姿は印象的だ。
 旅仲間の皆がその大きな彫像の下で記念写真を撮り合っている。
列柱のあいだの門をくぐり中に入ると、古代王朝滅亡後にコプト教(原始キリスト教)の教会や病院になったところであり「北の修道院」とも呼ばれたところだ。
3階岩窟至聖所前で説明を聞く

 修道院跡の絶壁の下にポッカリ口が開いており「岩窟至聖所」となっている。周囲の壁面には彩色が鮮明に残るミイラ作りを司るアヌビス神のリレーフや、トトメス3世により削り取られたハトシェプスト女王のリレーフなどがあった。
 これらをひと通り見学すると葬祭殿の見学を終え、次は王家の谷への移動である。王家の谷は葬祭殿を取り囲む岸壁の裏手にありバスで10分ほどの所である。
 出口には土産物店のアーケードが
再び電気自動車に乗り葬祭殿入り口ゲートまで戻ると、出口には土産物店が軒を連ねる通路を通らなければ駐車場まで行けないようになっている。
 ショールみたいな布を手に手に持った男達が通路に立ちふさがり、私達が来るのを待ちうけている。事前に太郎ガイドから「絶対買うな!スリが多いから注意せよ!」とアドバイスをもらっているので、しつこく寄ってくる男達を完全無視で通り過ぎ、バスに乗り込んだ。

    ハトシェプスト葬祭殿をバックに全員で、日に焼けぬよう身を包むので暑い

死後の安住の地「王家の谷」岩窟墓

いたるところで発掘作業している。失業対策の公共事業
 バスは左手の赤茶けた岩山を迂回するように走り出した。車窓の左右には草木が一本もない荒涼とした砂礫の丘のいたる所で発掘作業をしている。スコップや土砂を捨てるカゴを持った男達がノロノロと働いている。その人数たるや半端でない!発掘作業は失業対策の公共事業みたいなものなのだろう。
 右手の小山には早稲田大学のタレント吉村教授が率いる遺跡調査団の家が見えたりする。我々に同行している太郎ガイド(エジプト人)もこの調査団に入っているとのことだ。

 やがてバスは深い谷あいに入ると間もなく王家の谷の駐車場に停まった。バスを降りるにあたり「王家の谷は一切撮影禁止なのでカメラを車内に置いていくように!」と言われる。この谷にはかの有名なツタンカーメン王の墓があり撮影を楽しみにしていたのだがガッカリである。
ゲートに先が王家の谷。この先は撮影禁止
 ここ「王家の谷」はルクソールのナイル川西岸(太陽が沈むナイル川西岸の砂漠は、古代エジプト人にとってあの世がある場所で墓地であった)の岩山の谷にある岩窟墓群のことである。
 新王国時代(紀元前1500年)頃の王たちの墓が集中していることからこの名があり、24の王墓を含む64の墓が発見されているとのこと。
 新王国時代以前に墓の多くが盗掘にあっていたことから、ファラオ(王)たちは、盗掘をふせぐために、このルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地を求めたのである。しかし、金銀財宝を狙う盗人を防ぐことはできず、ほとんどの王墓は略奪の憂き目にあっている。
 その中でひとつだけ残されたのが、かのツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓で、副葬品の財宝が完全な形で発見されたのだ。

四か所の王墓を見学

墓の入り口、撮影禁止なので借用画像
 私たちはこの王家の谷で代表的な4つの王墓を見学することになっている。ゲートがあるビジターセンターで谷全体の模型で説明を受けると、電気自動車に乗り岩窟がある谷の奥まで進んだ。
 まだ10時前なのにすでに気温はかなり高くなっている。どんどん観光客がやってくる。その人数たるや半端な数でない!その全てが欧米人と日本人観光客だ。
 三方を岸壁で囲まれた岩窟墳墓エリアで電気自動車を降りると、私たちは最初の見学であるラムセス9世の墓の入り口前に来た。すでに大勢の観光客が岩窟の中に入るべく順番待ちをしている。やがて順番がきて地表から階段を下りると、前室などを経て埋葬室の玄室へいたる。天井には色彩豊かにレリーフが残っていた。
壁の全面にヒエログリフ。ネットからの借用画像

 ラムセス3世の墓は圧巻だった。自分の功績を述べたヒエログリフ(象形文字)や、通路から玄室までその天井、壁面全てが自分に関するリレーフのオンパレードである。よほど自己顕示欲が強かった人物だったようだ。
 次は楽しみにしていた「ツタンカーメン王墓」の見学である。
 彼の墓は岸壁ではなく谷の中ほどの地表にぽっかり口を開けている。 階段を下りていくとすぐ副葬品室と玄室に突き当たった。今まで見た2か所の墓に比べるとあまりにも小さい。
ツタンカーメンの墓に降りて行く階段(借用画像)

 ここで手つかずのまま発見され、世界を驚かせた輝くばかりの副葬品の数々はあまりにも有名だが、18歳という若さで早世したため治績もなく権力基盤も弱かったため、小さく質素な墓となったので発見されるまで盗掘をまぬがれたといわれている。
 その発掘された埋葬品はカイロにある巨大なエジプト考古学博物館2階の展示品の半分を占めるという。小さく質素といわれるツタンカーメン王の墓でさえ膨大な財宝だったのだから、ほかの巨大な王たちの墓はどれだけのものであったことか。旅の最終日カイロの考古学博物館で、ツタンカーメン王の財宝等を見学することになっている。どんなものなのか楽しみだ。  最後はラムセス4世の墓で巨大な石棺を見て、王家の谷の観光は終わりとなった。 (※撮影禁止で画像が少なく粗末な記述になってしまい残念だ。)

メディネトハブ(ラムセス3世葬祭殿)

ラムセス3世葬祭殿のシリア風の城壁を真似た凱旋門
  バスは王家の谷を抜け出ると、10分ほどで次の見学である「ラムセス3世葬祭殿」に着いた。
ここは先ほどの王家の谷とは違いマイクロバスが1台停まっているだけで観光客は少なく閑散といている。一般のツアーコースからはずれたマイナーな観光スポットなのか?。
 この葬祭殿のラムセス3世は紀元前1100年頃の新王国時代第20王朝のファラオで、新王国の繁栄が終わりをつげ、王朝が衰退し始める時代を統治した人物である。
「最後の偉大な王」とも呼ばれたりするが、彼は古代エジプトが最も版図を広げ繁栄したといわれる時代の偉大なファラオ「ラムセス2世」(100年以上前に即位した王で父ではない)に憧れ彼を手本とした統治を目指したといわれている。
 凱旋門付近をうろつく現地人、施しを要求された
ラムセス2世の記念物を模倣した建造物や記念碑文など多くの建造物を造り、シリアやパレスチナなどへの海外遠征を夢見ていたとされる人物で、この葬祭殿もその一つである。

 駐車場から歩き出すと、前方にいままで見学してきた神殿とは雰囲気が違う建造物が見えてきた。中近東風でシリアの城壁を真似たといわれる凱旋門だ。壁面を埋め尽くすレリーフの説明を受けながら、見上げるようにして凱旋門を入ると第1塔門、中庭、第2塔門、第2中庭、列柱室、至聖所へと一直線に建物がのびているのが見える。
 凱旋門を入ると第1塔門、レリーフも鮮明で圧巻だ
圧巻は第1塔門で、高さ22m、
幅63mの外壁面にヒエログリフ(象形文字)とともに、ラー神とホルス神を合わせた「ラーハラクティ神(朝方の太陽神)」の前でラムセス3世が敵を討つ姿や野牛狩りなどの勇ましい場面のレリーフが残っている。
 3000年以上の時を経ていまだに鮮明に残っているのだから凄いの一言に尽きる。

彼等はいったい何者だ?

塔門の天井にまで彩色豊かなレリーフが残る
 話は少し横道に入る!凱旋門付近で仲間の皆が「太郎ガイド」の説明を熱心に聴いているのをよそに、私は動き回りながらカメラのシャッターを押しまくっていた。
 警備員でも観光客でもない現地人らしき男連中がたむろしている。するとその男の中の一人が近づいてきて、私のカメラを指差しシャッターを押す真似をするではないか。私が写真を撮ってほしいのかと思いカメラを男に向けると、手を振り違うという。
すると私を指差し、私を撮ってやるというではないか。丁寧に場所まで指定して凱旋門の下に立てという。
壁、天井、柱の全てにレリーフが残る

 これはご親切にと思いカメラを渡しシャッターを押してもらうと、「サンキュー」と言って立ち去ろうとしたら、ミスターと呼びとめるのである。すると何と!手の指先3本を擦り合わせる例のしぐさをするではないか!「バクシーシ(施し、お恵み)」を請求してきたのだ。この男金目的にシャッターを押してやると近づいてきたのだ!
迂闊だった。しかし、この連中いったい何者なのだ?これを商売にしながら遺跡の中をうろついているのか?今後どの遺跡に行ってもエジプト人には絶対にシャッターを押してもらわないと心に決めた。僅かな金額だが何とも腹ただしいではないか。
第一、第2、列柱室へと一直線に伸びる葬祭殿

 もとへ、第1塔門から第2中庭をぬけると24本の円柱がある列柱室にきた。ここには円柱から壁面、天井にいたるまで全てにレリーフが描かれている。それも彫り方が深く、くっきりと鮮明に浮かび上がっている。色あせたレリーフもあるが天井などには見事な彩色のものもあり目を奪われる。この先の至聖所を見学するとラムセス3世葬祭殿の見学は終わりとなった。
 一直線に続く葬祭殿の通路を戻っていく。時刻はすでに正午を過ぎており、晴天の下、気温が上昇を続けており太陽がじりじり照りつける。きょうも40度になるのは間違いない。

メムノンの巨像

3400年前のメムノン巨像、高さ20m600トン
 今日の昼食は午後から乗船するナイル川クルーズ船のレストランですることになっている。ラムセス3世葬祭殿を出たバスはルクソール市内の船着き場に向かって10分ほど走行すると、車窓から道路わきの草地に巨大な一対の座像が目に飛び込んできた。「メムノンの巨像」だ。
 巨像前の駐車場にバスを停めると写真タイムとなった。この巨像は紀元前1400年頃の新王国時代絶頂期のファラオ(王)アメンホテプ3世のものである。
 
 巨像の呼び名はギリシアの伝説、メムノン王に由来され、高さが約18mもある。もともとは座像の後ろには、彼の葬祭殿があったが、後のファラオたちが自分たちの神殿の石材として使用したため、完全に破壊され痕跡が消えてしまったとのこと。このあと乗船するナイル川クルーズ船
その後時代を経てローマ帝国時代に起きた地震でヒビが入り、激しい温度差によるきしみによって「像が歌う」といわれ不思議がられた時期もあった。今は補修工事により歌わなくなったとのこと。
 座像の下に立ちカメラを構えたが、あまりに巨大すぎてかなり離れた場所からでないと収まりきらないほどだ。向かって左側の座像はかなり風化がはげしく無残な姿に変わりつつあった。 この「メムノンの巨像」で今日の観光は終わりとなり、次はナイル川クルーズ船への移動である。

4泊5日のナイル川クルーズ船

チューリップ号での昼食

このチューリップ号で4泊5日のナイル川クルーズ
 バスはルクソール市内に入り、しばらく走ると幾つもあるクルーズ船が係留する岸壁から、私たちが乗船する「チューリップ号」が係留している岸壁に着いた。
 川船とはいえさすがクルーズ船で2300トンもある結構大きな船である。この船で4泊5日のクルーズを楽しみながらナイル川上流スーダン国境近くの「アスワン」まで溯っていくのである。
 現在この種のナイル川クルーズ船は約300艘ほどが運行されているが、ナイル川汚染原因とされ新規建造は認められなくなったということなので、今後隻数は減っていく運命にあるのだろう。クルーズ船の1階ロビー、結構豪華でバーもある


 私たちは岸壁から船へと渡された橋を渡り船内に入った。船の概要は次の通りである。1階は受付とショーなども出来るバーに客室があるフロアー階。2階は全て客室。3階は客室とリッラクスルームやトレーニングマシン室。4階は屋上のサンデッキで、休憩用の椅子、喫茶カウンター、プールなどがある。地下1階には食堂と土産物店と船員の部屋となっている。客室はツイン55室前後で110名ぐらいの客が乗船できるらしい。

これからは宴会パターンでのテーブル配置

 時刻は間もなく午後1時になろうとしている。まずは昼食である。2階の部屋に手荷物を置き、地階のレストランに降りていくと、私たち20名がひとつのテーブルに座れるようにセットがされている。全員が一同に会せるよう席を配置してもらった

 じつわ昨夜、私が添乗員のN女史に席の配置方法についてお願いをしたのだ。エジプト入り後、これまで昼食、夕食の会食事では会話が少なく盛り上がりに欠けていることが気にかかっていたのである。これまで用意されたテーブル席が4名〜5名用で、それぞれが離れており結果として、皆がバラバラに座ることになってしまい、あまり会話もできず盛り上がりに欠けていたのである。
 
 昨年のトルコ旅行では、私が世話役的な立場で参加したので、会食事はテーブルをつなげ連日宴会のように盛り上がったのだった。それでN添乗員に今後、昼食、夕食は可能な限り全員が同じテーブル席でかたまって会食ができるようレストランと交渉してほしいとお願いしたのである。
客室階と廊下、55前後の客室がある
 ずらりと並んだテーブル席を見て、私は思わずほくそ笑んだ!これなら皆一同に会しての食事で宴会のように盛り上がるに違いない。
 レストラン中央テーブルにバイキング用料理がズラリと並んでいる。まずは全員テーブルに着いたところで乾杯である。事前にビールがあるかどうか確かめてあったので、飲み物の注文はほぼ全員がビールになった。ギッチリ冷えたビールが出てきた!感動だ。

ルクソールのスーク(バザール)散策

アーケードの通りがスーク(バザール)
 乾いた喉を冷えたビールで潤し、賑やかな昼食を終えると部屋に戻り休息となった。
 クルーズ船は明日のルクソール東岸観光が終わる昼までは出航せず、このまま岸壁に係留したままである。従ってルクソール2日目の夜はこのクルーズ船で過ごすことになっている。寒いくらいに冷房のきいた部屋(ツイン)でシャワーを浴び着替えを済ますとしばしベットに横になることにした。
しばし休息後、夕食前にルクソール市内のスーク(バザール)を
散策することになっている。
スークに入っていくとあちこちから声がかかる

 2時間ほどの仮眠で疲れをとると散策へ出かける時間となった。夕刻の5時、ロビーに集合しバスに乗ると市内の繁華街に向け走り出した。間もなく、夕暮れせまる交差点の一角にバスは停車した。
 道路を渡った先にバザールへのアーケードが見える。ここで1時間ほどの自由散策である。
その前にバスの中で「太郎ガイド」が散策に当たっていろいろ注意をする。「土産品を買いたいと思っている人は私に付いてきて来てください!私は値切るのが得意ですから、いい店に案内します。」「自由に散策したい方はアーケードの入り口を集合場所にします」「もし、散策の途中で欲しいものがあったら必ず値切ってください!」という。
 衣料雑貨が軒を連ねるルクソールのバザール

 そんな注意をうけて1時間ほどの短い時間であるが、私たちは買い物グループと、ぶらぶら歩きグループに分かれるとバザールの中え散っていくことにした。
 ちなみに、私は海外、国内旅行とわず土産物は一切買わないことにしている。旅の最後に日本に着いたら関西空港で、女房への菓子を買って帰るのが、私の定番スタイルになっている。そんなことで目的もなく通りをブラブラ歩きだした。
 狭い通路の両側一杯に間口2〜3mほどの店が並んでいる。その大半が衣料雑貨と貴金属の店だ。値切りの駆け引きが必要なバザール
店頭の椅子に腰かけた男たちがワンダラー!ワンダラー(1米ドル)と声を掛けてくる。なかには怪しげな日本語を使うものまでおり面白い。最近は中国人観光客も増えたのか「ニーハオ」なんて言葉を投げてくる者も結構いる。
 どの男たちも手に持ったショールみたいな綿布を「ワンダラー(85円)」と、あまりに安いことを言うので足を止め興味を示すと、いい嘘でワンダラーはこれでないと言う。それじゃワンダラーはどれだ?というと店頭のキーホルダーみたいな物を指差すではないか!まったく疲れる。
こんな調子で誰一人迷子にもならず散策を終えると、クルーズ船に戻り夕食となった。

船内レストランでの宴会ディナー

全員が顔を突き合わせて宴会モードの夕食
 午後7時、地階のレストランに入っていくと、私たち以外に乗客が見当たらない!ガラ〜ンとしている。入り口ぎわの端のテーブルに一組の白人中年夫妻がひっそりいるだけである。それ以外は私たち日本人グループだけで、完全に貸し切り状態ではないか。
 聞くと、今回は船旅の最終目的地のアスワンまで、私たちと白人夫妻だけでの貸し切り状態だというではないか。

 一列に配置され並んだテーブル席に着くと、夕食が始まった。テーブルの上にはずらりとビールが置かれ、もう完全に宴会モードに突入だ。一般ツアーと違い全員が同じSSNの会員仲間で気心しれた者同士である。一つのテーブルで顔をつき合わせての食事なので、エジプトのこれまで見たり体験したことを話題に大いに盛り上がる。添乗員に無理を頼んで合同テーブルにした甲斐があったというものだ。
これまでのエジプト体験に話が盛り上がる
 なんたって乗客は私たち以外は外人夫妻2人だけである、遠慮会釈することなく、大声で談笑したり大騒ぎすることが出来る。

 バイキングの料理メニューも種類も多くなかなかのものだ。
ほとんどの料理が、私が苦手な肉料理が大半なのだがが、1品だけとても気に入った魚料理があった。白身魚のフライなのだが、きちんと下味処理がされ小骨も無く美味いのである。その塩加減といいカラッと揚げられた具合といい、ビールのつまみには最高なのだ。結局4泊5日の船内ディナーではこればかり食べ続けることになってしまった。持病の痛風でビールは控え目にしなければならないのに飲みまくる・・・
 結局あれやこれやで今日の夕食以降帰国まで、私は宴会係長を拝命することになってしまった。

満点の星空の下で2次会だ!

星空の下、屋上のオープンデッキで2次会
 宴会係長を拝命したからには二次会の準備をせねばならぬ!夕食の宴もたけなわな頃、何人かの旅仲間に耳打ちして席をはずすと、4階のオープンデッキに上がりテーブルと椅子を20名が一同に座れるよう配置換えすることにした。 さらに何人かの旅仲間のお願いして日本から持参した日本酒、焼酎、ウイスキーに珍味などをテーブルに並べ、2次会の準備を整えた。
 夕食を終え全員が屋上の2次会会場に集合した。テーブル席の上にはテントが張られているが、それでも満天の星空と彼方にルクソール市内の夜景が見える。 添乗員もガイドも一緒に2次会で盛り上がる
エジプト入り後、全員揃っての宴会2次会である。オープンデッキなので本来ならナイル川から心地よい川風が吹いてくると思ったのだが、どんより生温かい風が吹いてくる。

 盛り上がっていると飲み友達で友人の0氏から耳打ちされた。先ほど船内レストランで私たち日本人グループ以外に、唯一隅の席で寂しく食事をしていた白人夫妻はオーストラリア人であるということ。そして何と!その夫妻が我々日本人グルーに仲間入りさせてほしいと言ってきたというではないか!。乗船客は私たち以外はあの二人だけである。これから4泊5日の旅が寂くて申し込んできたのだろう。
 皆に相談すると大賛成の声が上がる。しかし英語しか話せないオーストラリア夫を仲間入りさせて、どうやってコミニケーションをとるのだ! 20人の旅仲間の中で英会話ができる人はO氏しかいない。明日からはO氏に夫妻とのコミニケーションをお願いするしかない。中国人なら私の出番なのだが・・・・虚弱体質なのに飲んでばかり??りっぱなアル中だ!

明朝の起床は3時45分!

 2次会の宴もたけなわだが、あまり遅くまでやっている訳にいかない。明日は朝食前に熱気球に乗り上空からルクソールを観光することになっている。そのため夜中の3時半には起床して準備を整えると、4時15分にロビーに集合出発せねばならないのである。
 明日以降も宴会はできるので、今夜は1時間ほどで切り上げて寝ることにした。それにてもシニアとはいえ3時半の起床はきつい・・・(旅5日目終わり)

旅6日目、熱気球でルクソールの空へ、ただただ圧巻!カルナック神殿の巨大列柱へつづく