危ないナイル川中流域、警護車の先導でバスは走る!ベニ・ハサンの岩窟墳墓群

エジプト縦断旅行記・ナイルを行くー旅3日目前編

 古代エジプト象形文字ヒエログリフ


         

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旅3日目ー前編 ナイル川中流域をバスは走る

地方都市エルミニヤでの目覚め

 旅3日目の朝は、カイロからナイル川沿いに250Kmほど南下したところの、地方都市エルミニヤ(人口20万人弱)のホテルでむかえた。
 昨夜はエジプト入国初日の強行軍の疲れもあり、ホテルでの夕食を早めに切り上げ、部屋に引きあげると早々と眠りに着いたのであった。 ところが熟睡モードに入った夜中、突然ドカ〜ンという音と共にパンパンパンという銃撃音のような連続音に叩き起された。その内パトーカーのサイレン音まで聞こえてくるではないか。
 車窓から見るエルミニヤの街の一コマ

 このナイル中流域の内陸部は過激派が住む危ない地帯とガイドブックに書いてあったのを思い出した。何だ?まさかイスラム過激派の襲撃かと一瞬緊張したが、じっと聴き耳をたてていると、その内サイレン音も遠ざかり静かになった。再び眠りに着こうとしたが、ウトウトを繰り返すばかりで眠ることができない。
 同室のO氏には悪いが、モーニングコールまで寝ていることができず、早朝5時になるのを待って起床すると、旅行ケースとリュックの詰め替え作業を始めた。のちほど現地ガイドに昨夜の騒音について聞くと、花火と爆竹の音だったらしい。何で夜中に花火を打ち上げるのだ??。

イスラム過激派が多く住む中流域

 エルミニヤの街の中心部
今日のスケジュールは5時45分モーニングコール、6時半から朝食、7時半ホテル出発で、ナイル川中流域の古代遺跡を辿りながら、アシュートの町まで約200Kmあまりを南下して行くのである。きょうもかなりの強行軍だ
 ちなみに、ここエルミニアから明日の宿泊地ルクソールにかけてのナイル川中流域は治安上の問題や日程の関係で、日本の観光客はあまり訪れないという。
(日本の旅行社のエジプトツアーの大半は、カイロ、ルクソール、アスワン(アブシンベル)のメイン観光地を航空機で飛び、とんぼ返りして帰って行く。)
 早朝日の出前、ホテル近くのナイル川船着き場

 出発準備を整えると、朝食の時間ととなったが、レストランでのエジプト食を食べる気にならない。昨日の昼食と夕食でエジプト食については、私の口にあまり合わないということが分かった。
レストランに行かず部屋で日本から持参したレトルト食品を食べることにした。
 日本から持参した電気ポットでレトルトご飯を沸騰させ、これにサンマの蒲焼、インスタント味噌汁で今日の朝食を済ますのだ。大量に日本食を持参したのが正解だった。
 
 旅仲間の皆が1階のレストランでの朝食の真っ最中、ひとり寂しく部屋での朝食を終えると、出発までの時間ホテルの周りを散策することにした。外に出ると玄関前の道路には、すでにバスが待機している。早朝のホテル周辺の散策での、のどかな光景

 4車線の大通りを横断し歩道をすこし歩くと、夜明けが始まりナイル川遊覧船の船着き場とナイル川が見えてきた。雲ひとつない快晴の天気で、眼前に飛び込んできたナイル川に心が高ぶる。
 通りの向こうからはロバの荷馬車がやってくる、なんとものどかな光景である。これが危険地帯なのかと疑いたくなる。
 ぐるっとひと回りしてホテルの玄関前に戻ると、私達のバスを守りながら先導してくれる警護車両の小銃を持った数名の武装警官と、白バイ警官がバスの横で立ち話をしている。白バイの車種は日本製ヤマハである。これは絵になると思い写真を撮ろうとしたら手を振って止められてしまった。

ナイル川中流域の農村地帯をベニ・ハサンへ

 出発時間が近づいた。今日の座席順は私が属するB班が前方席である。今日の昼食となる弁当を手渡されると、それぞれの班が出発5分前には一人の遅刻もなく所定の座席に着いた。素晴らしいマナーだ!
 バスは定刻通り、武装警官の乗せた小型トラックを先導に、ナイル川沿い20Kmほど南にあるベニ・ハサンの岩石墳墓群にむけ走り出した。通学時間帯なのか女子学生が行き交う

 さっそく添乗員のN女史が毎日1日1本サービスしてくれるミネラルウォーターを配りながら車内を動き回る。
 車内冷蔵庫には何十本ものミネラルウォーターを積み込んでおり、サービス分で不足であれば、2本1米ドルで何度でも売ってもらえるのである。
いちいちミネラルウォーターを買い求めるべく街中をウロチョロする必要がないので、とてもありがたいサービスだ。

 車窓からは、通学時間帯らしく高校生らしき女子学生があちこち歩いており、全員が頭部をすっぽり頭巾で覆っている。古代エジプト三大美女の一人ネフェルティティ

 ミニやの町の中心部、ナイル川に架かる橋を渡り、東岸エリアに出た途端、バスの前方窓から古代エジプトの三大美女の一人「ネフェルティティ」の胸像が目に飛び込んできた。
 彼女は今日午後から観光する王都アマルナ遺跡に暮らした人で、今から3500年ほど前のエジプト新王国時代のファラオ「アメンホテプ4世」の王妃だった人だ。
謎を秘めた未完成の美しい胸像が有名で、画像のような胸像が遺跡から発掘されたのだが、その本物はドイツによって持ち去られ、現在はベルリン博物館に収蔵されているとのこと。

 ナイル川の恵み、緑豊かな農村地帯

肥沃な大地、まさにエジプトはナイルの賜物
 ミニヤの街を抜けると、やがて車窓からは緑豊かなナツメヤシが茂る穀倉地帯へと変わった。
 国土の95%が砂漠とされるエジプトだが、このナイル川流域だけは肥沃な大地が拡がっているのだ。よくエジプトは「ナイルのたまもの」と表現されるがこの風景を見ると実感する。道沿いに農村集落が続き、登校する子供達や、小さなロバに跨った農夫がこちらに向かって手を振っている。
エジプトではロバ車は貴重な動力だ
 走り過ぎる道々や集落のいたるところでロバが出現する。ロバは乗用車にもなりトラックにもなり、農家にとってなくてはならない動力となっているのだ。
 畑といえば、そのほとんどが、トウキビ、サトウキビ、胡麻、ナツメヤシ等が栽培されている。通り過ぎる集落から、かいま見られる家屋は屋根が抜け落ち、崩れかけた日干しレンガの家ばかりが続く。そんな中でも、モスクだけはりっぱで奇異な感じがする。

不可解な光景、男たちは何をしている?

木陰で男たちがたむろしている
 しかし、どうしても不可解な光景が目に入ってくる。どこの村を通り抜けても道路脇には人々がいっぱい見かけるのだが、不思議なことに男の連中が、真面目に働いている姿が目に入らないのである。
 午前、午後関係なしに、どこに行っても道端や家の軒下に所在なげに腰をおろし、たむろしてるではないか。
 私達のバスが通ると会話を止め、興味深そうに見上げたり、手を振ったりするのである。
 また集落の食堂とおぼしき軒下でも、水タバコをプカプカふかしている男ばかり(旅が終えるまで、どこえ行っても、こんな光景ばかりが目に入った)見かけるのである。

 働く姿が目に入らないのである!朝からこんな調子で働かずたむろしている

どうしたことなのだ?朝から働かず、いったい!こんな調子で食べていけるのか?暑いので働く意欲が湧いてこないのか?
 貧しい国と聞いてきたが、貧困の原因はこんなところにもあるのではないか?と思いたくなる。
 額に汗して働いてきた日本人からみると理解できない光景が続く。

ベニ・ハサンの地方豪族の岩窟墳墓群

 そんな思いで車窓の外を眺めていると、やがて本日最初の観光となる「岩窟墳墓群」のあるベニハッサンの村はずれの路上にバスは停まった。岩窟がある崖に向かって伸びる長い階段を登る

 ここ「ベニ・ハサン」の地名は現在のサウジアラビアから、この地にやって来た豪族の名に由来するらしい。
 道路わきから山側に登る急な階段がありそれを登っていくと、武装した警備員の検問所がある。
 遺跡への入場券を手渡しゲートを入っていくと、目の前に立ちふさがるように、草木が一本もない山肌がむき出しの崖の斜面が現れた。 岩窟がある彼方の崖の中腹まで、かなり長いレンガ造りの階段が伸びている。観光客といえば我々以外誰一人おらず、シーンと静寂さが漂っている。
階段の途中で振り返るとナイル川と緑豊かな大地が

 この崖の斜面に合計39基にも及ぶエジプト中王国時代(今から4千年ほど昔)の岩窟墳墓があり、そのうち12基には絵画とレリーフが施されているとのことなのだ。
 そのうち公開されている4基の地方豪族の墓を見るべく、私達は崖の中腹に向かって伸びる階段を登り始めた。
 階段の途中の踊り場で振り返ると、眼下に雄大に流れる「ナイル川」と、その肥沃な大地が生み出したナツメヤシが茂る緑豊かな穀倉畑が広がった。絶景である。
感動の風景に皆が夢中になってカメラのシャッターを切る。
友人のO氏とポーズを付けて、二人とも脚が短い!

 これから見学する岩窟前には番人がおり、私達がいくと鍵束をガチャガチャさせながら扉を開けてくれた。
 同行しているエジプト人の「太郎ガイド」の案内で洞窟内に入ると、湿度の高いムッとした熱気が身体を包んだ。ふつう洞窟内はヒンヤリした温度なのだが、ここでは洞窟の中までも熱せられ暑くなっている。
むしろ太陽光線が降り注ぐ外の方が空気が流れていて気持ち良いぐらいだ。
ナイル川を望む崖に39基の岩窟墳墓が並ぶ

 岩窟内は壁一面すべてに、きれいな彩色が残る壁画や浮き彫りレリーフが描かれている。農耕や狩猟の様子、戦いの場面、家族とすごしたり、綱引きなどで遊ぶ姿など、庶民の生活の様子が克明に描かれていた。
 ところが岩窟内は撮影禁止ということで、これらの写真を1枚も撮ることができない。旅のアルバムに残したかったが残念だ。
岩窟がある崖のテラスからナイル川を望む

 岩窟内で印象的なのは、壁一面に戦闘に備えて訓練するレスリングの場面が描かれたレリーフだった。多種多様の技で闘っている場面を見て、私はあることを思い出した。
 レスリングには「フリー」と「グレコローマン」の2種の競技スタイルがある。この「グレコローマン」の名前がエジプトの歴史年代に登場するのだ。
紀元前332〜紀元395にかけてのギリシャ、ローマ人によるエジプト支配時代を「グレコローマン時代」といわれるのである。太郎ガイドにこのグレコローマン時代と、洞窟のレスリングのグレコローマンスタイルとは相関関係があるのかと尋ねたらイエスと答えた。いとも簡単に答えたが、本当なのか???
 
 岩窟墳墓への入り口、洞窟の中は暑い
ところどころ壁画が黒ずんだり傷んだところの説明になると、急に太郎ガイドの口調のトーンが高くなった。太郎ガイドがひときわ声を大きく「これはローマ帝国時代にこの洞窟に住みこんだキリスト教徒の奴らの仕業です!」と言った。・・・声を大にしたいイスラム教徒である彼の気持ちは分かるが・・・・
 4基の岩窟を見学し終わる頃には、岩窟内の熱気で身体がかなり汗ばんできた。岩窟内の外に出て崖のテラスに立つと、眼下のナイル川の緑地帯から流れてくる微風が心地よかった。


エジプト旅行社を悩ませるバクシーシ
(喜捨?施し?お恵み?→おねだり?→たかり)

見学を終え、登ってきた階段を下っていく

 バスに戻るべく登ってきた階段を下りだすと、中ごろに小銃を持った警備員2人が退屈そうに突っ立っている。
 彼らの写真を撮りたくなり、近づきカメラを見せてシャッターを押すしぐさをすると、OKサインが出た。二人に向かってシャッターを押していると他の仲間もわ〜っと寄って来て写しだした。 
 すると警備員のおっちゃんが私に向かって、右手の親指、人差し指、中指の三本の指先をつまむように、すり合わせる仕草をするではないか!
 私はこれが何のしぐさであるかすぐ理解できた。エジプト流「おねだり」バクシーシという厄介なシロモノで、金をくれとのサインなのだ。
エジプトに来る前に予備知識で読んだ旅のガイドブックにイラスト付きで書いてあったのである。写真を撮ったらバクシーシ(おねだり)を要求された


 やむなく警備員の一人に1米ドルを渡すと、2人なのでもう1米ドル寄こせというではないか!こうなると「おねだり」どころか「たかり」ではないか!
 この「おねだり」こちらでは「バクシーシ」と呼ばれるイスラム独特の社会習慣なのである。
 この「バクシーシ」もともとはイスラムの教えにある「喜捨」という考えからきており、富める者が貧しき者へお金や物を与えるべきであるという教えからきているのだ。しかし、いつの間にかこの論理が貧者に都合のよいように形を変えて、「持たぬ者は富める者に施しを要求する権利がある」という、まことにやっかいな習慣になってしまったのだ。
 
 エジプトを旅している旅行者が必ずといって出合い、面食らい悩ましい思いをするのがこのバクシーシで、特にトイレの番人、写真撮影、買い物でも釣銭はくれない等、バクシーシの要求を煩雑に体験することになる。この岩窟墳墓の番人にもバクシーシを要求された

 じつは先ほども岩窟の入り口付近で写真を撮っていると、付近にたむろしていた番人から同じように、指先をすり合わせるしぐさでバクシーシを要求されたのだが、知らぬふりをして無視したのだった。
 ちなみに、チップはホテルやレストランで、労働(サービス)の対価として払うのだが、バクシーシはチップとは違い、善意や好意に対して金を要求されるのだ。この国では無料の好意や善意は無いのである。観光地ではいろんな場面で、金目的に好意や善意の押し売りをしてくるから要注意なのだ。

外気温が40℃になった!うたかたの夢と消えた太陽神の都「アマルナ遺跡」へと、つづく