旅9日目 アスワンからアブシンベルへ
4泊5日のクルーズ船を下船
4泊5日のナイル川クルーズ船の旅も終り、アスワン市のナイル川埠頭に停泊しているチューリップ号から下船する朝を迎えた。
私達が乗船したクルーズ船チューリップ号
昨夜は新たに乗船してきたイングランド人団体客とともに、船内のサロンバーでプロによるベリダンスショーのパーティを楽しみクルーズ船最後の夜の眠りに着いたのであった。
今日のスケジュールは9時に下船し、古代のアスワンの石切り山で「切りかけのオベリスク」を見学後、砂漠地帯を280Kmほど走り、スーダン国境近くにある「アブシンベル神殿」までバス移動することになっている。
9時出発ということで、ゆったり気分で下船準備を整えるとフロントで4泊5日分のチェックアウト(清算)をすることにした。毎日ランチとディナーで飲んだ8回分のアルコール代と衣服のクリーニング代を清算すると合計で米ドル75ドルほどだった。日本円に換算すると6400円ほどで、毎回宴会で飲みまくったのに安いものだ。
切りかけのオベリスクがあるアスワンの石切り山
清算を終え船内レストランで最後の朝食をとっていると、我々の席に5日前にルクソールの乗船からずっと一緒に旅してきたオーストラリア人夫妻がお別れの挨拶に来てくれた。私も別れの握手を交わすと、ショルダーバックに入っている2本の扇子を記念にプレゼントしてあげると大げさに感激している。実は現地人へのプレゼント用として100円ショップで買った安物で、大喜びしている夫妻に申し訳ないほどだ。
切りかけのオベリスク
巨大な硬い一枚の花崗岩の石切り山
午前9時バスは下船した私達を乗せ、10分ほど走るとアスワン郊外にある古代の花崗岩の石切り場へと着いた。ここアスワン南東の砂漠地帯は良質の花崗岩(御影石)産出されることから、古王国(紀元前3000年)からプトレマイオス朝(紀元100年)時代にかけ、石材の一大供給地だったところである。
バスを降りると、遊歩道を岩山の石切り場まで登っていく。当時は高い岩山であったのであろうが、何千年にも渡って切り出されたことから、今は丘ていどの高さしかない。
切りかけのオベリスクまでは遊歩道がある
石切り場の遊歩道わきには、切り出された石の大きな残骸が転がっている。やがて切りかけ途中でやめてしまった「巨大なオベリスク」の場所へやってきた。長さ42m、重さは何と1168tもあるという、切り出し寸前までいったオベリスクの形をし石が横たわっている。完成してればエジプト最大となったというが、切りかけ途中でひびが入ったため止めてしまったということである。
花崗岩といえば石の中でもかなり硬い石である。まだ鉄器のなかった時代どのように切り出したのかといえば、まず石に切り込みを入れ、そこに木のくさび打ち込み、そのくさびを水で濡らす。するとくさびが膨張し、自然に石が割れるという。切り口は石の目にそって滑らかに割れ、ほとんど凸凹がないそうだ。こうして切り出された石は、ダイアモンドの次に硬いといわれる閃緑岩で磨かれ、ナイル川を1000キロも下流のカイロ方面まで運ばれたとのこと。
切りかけ途中で中止された巨大なオベリスク
切りかけオベリスクの見学を終えると、石切り場出口近くの売店が建ち並ぶ休息場でしばし休息となった。これから砂漠を280Kmほど南下したところにある「アブシンベル神殿」まで走行することになっているのだが、このエリアはイスラム原理主義過激派が多く住む地域である。警察車両に守ってもらわなければ走ることができないことから、アブシンベルに向かうバスで車列(コンボイ)組むため11時の出発時間まで、時間待ち調整を兼ねて休息するのである。
休息所の椅子に座ろうとすると、休息所を使用するためには何か飲み物を注文せよ!というではないか。ちなみにコーラやファンタ(350ml缶)の値段を聞くと何と1缶20ポンドというではないか!日本円換算にすると300円である。物価が日本の5分の一以下のエジプトで300円といえば、1500円にも相当する金額である。観光客相手のとんでもないボッタクリ料金だ。
コンボイ(車列)を組む出発時間まで休息
私は何も買わず無視して椅子に座ることにした。しかし旅仲間の半数ほどがぼったくり値段を気に留めず注文している。疑いもなく素直になんでも言われた通り行動する悲しい遺伝子を持った日本人なのだ。それに反し、我々の隣の席に座っている欧米人グループのテーブルの上には一缶の飲み物も乗っていない。そして平気で談笑しているではないか。欧米人はイエス・ノーを合理的に判断して行動すると聞いたが、まさにその場面をかいま見た思いだ。納得できないものには敢然とNOの意思表示をするのだ。
いざ世界遺産登録第1号アブシンベル神殿へ
バスはアブシンベルへ向けひたすら砂漠を走る
車列を組み警察車両に守られながら砂漠を走る
30分ほど待ち時間調整を兼ねた休息を終えると、バスはアブシンベルへ向かう他のグループの車両と隊列を組むため、アスワン市郊外のターミナルへと向かった。
ターミナルで待機していると大型バスからミニバスまで続々と集まって来る。やがて出発時間の11時がやって来た。すでに30台ほどの車両が集まっており車列を組むと、前後を武装警察のジープに守られ280Km彼方のアブシンベルに向けバスは走り出した。
ラクダ色の砂漠に砂鉄が露出して黒く変色している
走り出して間もなく車窓の外は草木が1本も無い荒涼たる砂漠へと変った。道路は整備されており砂漠のど真ん中をハイウェイが1本どこまでも続き、バスは快適に走る。
どこまでも続く一面ラクダ色の砂漠が、ときおり黒い色に変化した箇所が目に飛び込んでくる。ガイドに聞くと砂鉄だと言う。じっと車窓の外を眺めていると、蜃気楼が見えたり、上部がすっぽり切り取られたような台形の奇妙な小高い山が続いたりして、単調な景色の砂漠もけっこう変化にとんでいて見あきない。
やがてアブシンベルが近づいてくると、わずかだが忽然と緑が現れたりする。大学を卒業して就職につけない学生を対象に国の救済事業として、砂漠に緑を増やす活動が行われている成果だという。
スーダン国境近く、アブシンベルに着いた!
砂漠の中に台形の奇妙な山が続く
ひたすら南に走ること3時間半、北回帰線を越えスーダン国境まであとわずか、エジプト最南部のアブシンベルの町に着いた。人造湖ナセル湖に面した人口5万人あまりの小さなこの町に世界的に知られた歴史的文化遺産「アブシンベル神殿」があるのである。
すでに時刻は午後2時半になろうとしており、昼食をとるべくバスはいったん今夜の宿泊ホテルへと私達を案内した。ホテルは平屋建てのコテージ風の建物でナセル湖を見下ろす小高い丘の上にある。冷房の利いたバスを降りるとムッとした熱気が襲ってきた。気温はもうとっくに40度cを越えてるに違いない。
ナセル湖のほとりにあるコテージ風のホテル
チェックインを済ませ本館から離れたところにある部屋に向かうと、ナセル湖に面したレイクビューの場所にあり眺めは良いのだが、室内の装備品は汚く老朽化しており、せいぜい2つ星ランクといったところだ。
部屋に荷物を置くと、私達は遅めの昼食をとるべくレストランに入った。ビールは有るかと聞くと缶ビールしかないという。値段は1缶30ポンドで日本円で450円ほどだが、エジプトの物価換算からいうと2000円にも相当する異常に高い価格だ。いくらイスラム教徒で自分達は酒を飲まないからといってこの値段はひどすぎるではないか。そう思いつつも注文してしてしまうアルコール中毒症一歩手前の自分が情けない。
人類が未来に残す偉大な歴史的文化遺産
巨大なアブシンベル神殿
前方の小山がアブシンベル神殿の裏側になる
昼食後、いったん部屋で休んでいると16時の出発時間がやってきた。これから「アブシンベル大神殿」と「アブシンベル小神殿(ハトホル小神殿)を見学し、その後、日没後の暗闇の中で「音と光のショー」を楽しむのである。
ホテルからバスで5分ほど走ると、私達は下車してはるか前方に見える小高い丘に向かって歩き出した。やがて神殿への入場ゲートを抜けると、目の前に小高い砂山が現れ、中腹にはぽっかり出入り口のような穴が空いている。砂山を迂回するように遊歩道が伸びており、歩みを進めていくとやがて眼前いっぱいにナセル湖が拡がった。
アブシンベル神殿はナセル湖のほとりにある
ナセル湖沿いに歩みを進め、小高い岩山をぐるり半周すると、ナセル湖のほとりに巨大な「アブシンベル大神殿と小神殿」の神殿が現れた。 このアブシンベルの大小二つの神殿は、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿で大神殿と小神殿からなっている建造主は新王国時代(紀元前1500〜1100年頃)第19王朝の王、今から3300年前のラムセス2世によるものだ。
世界文化遺産登録第1号、アブシンベル大神殿
大神殿のほうは太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神とし、ラムセス2世の最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものといわれる。
この神殿は長い年月発見されることなく砂に埋もれていたが、1800年代になってスイス人学者とイタリア人探検家によって発掘されたという。
この神殿を世界的に有名にしたのは、1960年代、ナイル川上流にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、この人類が残した偉大な歴史的文化遺産を救おうと、ユネスコを中心にして国際的な救済活動が行われたことによる。
世界的な救済活動で救われた神殿
発掘当時と同じ状態で復元された4体のラムセス2世像
5年間かけ1000個のブロックに切断する方法で切り出され、元の位置から西に180m、湖面から60m高く200mほど離れた現在の場所(人造湖のナセル湖のほとり)にたたずんでいるのである。
この大規模な救済活動がきっかけとなり、人類が未来に残すべき貴重な遺跡や自然を保護することを目的に世界遺産が創設されたのである。これによりアブ・シンベル神殿は世界文化遺産登録第1号として、世界遺産の象徴的な遺跡として世界的に知られることになったのだ。
巨大な像は圧巻だ!足元には家族の小さな像がある
念願のエジプト旅行のハイライト「ギザのピラミッド」と並び称される巨大な「アブシンベル大神殿」の前に立った。
真正面の眼前いっぱいに高さ20mもある4体のラムセス2世の巨大な座像が圧倒的な迫力で迫ってくる。向かって2体目の頭部が地面にお落ちて転がっているが、これは発見当時のまま修理すろことなく、そのまま正確に移築したためである。地震あるいは敵により壊されたという説が残っているらしい。
偉大なファラオ(王)ラムセス2世
ラムセス像の台座には神々のレリーフが鮮明に残る
この巨像のラムセス2世(3300年前の人物)24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没したとされる。エジプトの歴史では「最も偉大なファラオ(王)」や「大王」「建築王」などとされているが、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もの王妃や側室との間に、
180人の子をもうけたと伝えられている。精力絶倫「偉大な種馬」と表現される方がピッタリの人物でないか。
ラムセス2世はまた、シリアでのヒッタイトとの戦いを中心に戦勝の記念碑を多く築き、現在エジプト各地の遺跡にもっとも記念碑の多く残るファラオとなっている。かの有名な「ルクソール神殿」や「カルナック神殿」にも自分自身の巨像を多く残していることからもわかるように、自己顕示欲が異常に強かった人物ともされる。
神殿入り口上部の日の出を喜ぶ22体のヒヒの像
いま、このラムセス4体2世の巨像の前に立つと、あらためて遠くナイルの果てに、これほどの巨大な神殿を造らせた、ラムセス2世の強大な権力に驚くばかりだ。そしてその足元には申し訳ていどに小さな家族の像が並んでいる。
ちなみに、ラムセス2世のミイラは1881年に発見され、現在はカイロのエジプト考古学博物館に収められている。身長は183cmもあり、当時はおろか現代に於いてもかなりの長身だったとされる。
アブシンベル神殿の内部
縛られ片腕を切り落とされた戦争捕虜のレリーフ
巨像の足元から上部を見上げると、日の出を喜ぶ22体のヒヒの像が並んでいるのが目に入る。4体の巨像が並ぶ真ん中に神殿への入り口が開いており、その左右の壁にはシリアの「カデッシュの戦い」で得たシリア人捕虜やヌビア人との戦争捕虜が縄でつながれた姿が描かれている。いずれも当時の刑罰だったのか、どの捕虜も肩から片腕を切断されている残虐な場面だ。さらには二つの分かれていた上下エジプトを統一したレリーフなども目に入る。どのレリーフも力強く彫られ鮮明だ。
大列柱室にも8体のラムセス2世像(借用画像)
撮影禁止となっている神殿内部に入ると、まず「大列柱室」になっている。冥界の王とされるオシリス神の姿をして高さ10mもあるラムセス2世の立像が8体も並んでおり、またしてもラムセス2世の登場である。そして左右両側の壁のレリーフは、古代史上有名なラメセス2世のカデッシュ(現在のシリア)でヒッタイト(現トルコ)との戦闘場面描いたもので、戦車に乗り、敵に向かって弓を引く躍動的なラムセス2世の姿が鮮明に残る。また人類最古の講和条約とされるヒッタイトとの協定の内容が記されヒエログリフも描かれていた。
世界遺産登録第1号のアブシンベル神殿前で旅仲間と
列柱室からその先の前室へと入ると、ここにも神に捧げものをするラメセス2世や王妃「ネフェルタリ」のレリーフが描かれている。そして入り口から55m進んだ神殿の最深部が「至聖所」で、ここのは4体の神像が並んでいる。これら4体は神格化されたラメセス2世の他に、プタハ神、アメン・ラー神、ラー・ホルアクティ神の像である。
ちなみにこの至聖所は不思議な現象が起きるという。年に2回(2月22日と10月22日)、対岸の地平線に太陽が登った瞬間、至聖所まで朝日が入り込み4神像を照らすのである。
アブシンベル小神殿(ハトホル小神殿)
ラムセス2世の家族が刻まれたアブシンベル小神殿
アブシンベル大神殿の見学を終えると、次は隣に接する小神殿(ハトホル小神殿)の見学である。この神殿はラメセス2世が最愛の「王妃ネフェルタリ」と「ハトホル女神」のために建造した岩窟神殿とされる。大神殿と比べると少し小ぶりだが、6体の立像がずらりと並んでいる姿は圧巻だ。4体がラメセス2世で2体が王妃ネフルタリの立像である。
そしてその足元には夫妻の王子と王女を配置した像がある。いわばラメセス2世の家族がずらりと正面に刻まれているのである。
神殿に入るとすぐ列柱室になっており、ハトホル神のレリーフが彫られた柱と、色彩が美しいネフェルタリ王妃のレリーフが繊細に描かれ壁画を飾っていた。これで大小二つの神殿の見学を終えた。すでに陽が落ち夕闇が迫ろうとしている。
神殿の岩山に映し出される音と光のショー
次はアブシンベル神殿をライトアップし、神殿の岩山をスクリーンに見たて、映像を楽しむ音と光のショーの見学である。
暗くなるまで地べたに腰を下ろしショーの開始を待つ
大小二つの神殿の見学を終えた私達は、神殿前の観覧席近くの地面に腰を下ろし暗くなるのを待つことにした。やがてあたりを暗闇が支配しショーの開始時間が迫ってきた。私達は大勢の観光客とともに観覧席に移動して座っていると、太郎ガイドが受付から貸し出されたイヤホーンを私達に配りだした。これで日本語による解説を聞きながらショーを見るのだ。
暗闇に突然ライトアップされた神殿が浮かびあがると、神殿の岩壁に映像が投影されショーが始まった。映像はアブシンベル神殿を水没から救ったユネスコの活動から始まり、ラメセス2世とネフェルタリ王妃の夫婦愛物語、ラメセス2世の統治業績やヒッタイト(現トルコ)との戦いなど、彼がいかに偉大な王であったかを語る歴史絵巻の内容だ。しかし、私にとってはそれほど感動的なショーでもなく期待はずれで、途中で飽きてしまい早く終えることばかり考えていた。
旅仲間二人が行方不明になった!
アブシンベル神殿、音と光のショー
1時間弱のショーを終えると、帰りは来た時の遊歩道とは別な路で戻っていくことになった。人数を確認して20名がひと固まりになりながら、太郎ガイドが先頭にたち懐中電灯で足元を照らしながら真っ暗な夜道を進む。足元を照らす懐中電灯だけが頼りである。しばらく進んだところで全員いるか人数確認すると何と!女性2名が足りないではないか! 遅れてくるかもしれぬと、しばし暗闇で佇み待つののだが、いつまで待ってもやってくる気配がない。やむをえずN添乗員が探しに真っ暗な道を戻っていくことになった。ところがである、しばらく待つのだが、そのN女史も戻って来ないのである。何しろイスラム原理主義者が多く治安が悪い地域である。旅仲間皆の口から「どうしたのだろう?」と不安の声があがる。
待つことしばらく、真っ暗な闇の中でこれ以上待っておれないので、やむなくゲートまで進むことにした。私達は再び行方不明者を出さぬよう互いを確認しながらゲートハウスに着くと、何と行方不明なった二人がゲート前に佇んでいるではないか。皆から安堵の声が一斉に上がる。聞くと、最後尾を歩いていた二人は途中で私達を見失い、私達とは反対側の逆回りの道を戻っていったのだ。私たちが二人を探して待っている時間分、二人はゲートに早く着き不安な気持ちで私達を待っていたのだった。ちょっと冷や汗ものだった。
1缶30ポンドもする高い缶ビール
なんだかんだで、結局アブシンベル神殿のゲートを出た最後の観光客となってしまった。ホテルに戻り、遅い夕食のエジプトのコース料理と缶ビールとワインで腹を満たすと部屋に戻った。部屋に入ると旧式のクーラーがガラガラと騒音を鳴らしながら、冷気を吹き出している。時刻は午後10時、クーラーの騒音を気にしつつベットにもぐりこむと眠りに着くことにした。明日は早朝4時半に起床せねばならぬのだ!そしてアブシンベル神殿に射す「日の出」を見にいくのである。 旅9日目編おわり