旅8日目 エジプト最南部の観光拠点アスワン
古代にはヌビア国があったアスワン地方
旅8日目の朝は、エジプト最南部に位置し、上エジプト最大の都市である「アスワン」の岸壁に停泊しているクルーズ船でむかえた。ナイル川クルーズでは4日目の朝である。
ルクソールを出航してエドフ、コムオンボと古代遺跡を辿りながら、ナイル川を南に200Km溯ってきたこのアスワンが、4泊5日のナイル川クルーズの終着地である。朝食で玉子焼きを作ってもらっている
今日のスケジュールは8時出発で「アスワンハイダム」とナイル川の小島にある「フィエラ(イシス)神殿」を午前中に観光し、いったん船に戻ると夕方までくつろぎ、その後、帆掛け舟でナイル川遊覧を楽しむことになっている。
そしてナイル川クルーズ最後の夜(4泊目)は、お別れパーティを兼ねて船内サロンバーでベリーダンスショーを楽しむ予定である。連日に比べ、今日は1時間遅い8時の出立である。ゆっくり6時に起床し朝食をとり下船すると、岸壁脇の道路に待機しているバスに乗り込んだ。
バスは最初の観光となる「アスワンハイダム」にむけ、ナイル川東岸のアスワン市内を走り抜けていく。
多くの黒人が住むヌビアの地
上エジプト最大の都市アスワン
車窓から街並みや路行く住民を眺めていると、今まで通り過ぎてきたエジプト各都市と雰囲気が大きく変化したことに気付く。
街なかを行き交う住民のアラブ人に混じって黒人が多いのである。
古代エジプト領土の南端はこの「アスワン」までで、この先からはヌーバ族という黒人が支配していたヌビアの国があったのだ。
新王国時代に入りここ「ヌビアの地」がエジプトの版図に組み入れられたあとも、独特な地勢や顔立ち、文化を保ち続けてきたのだ。アスワンからこの先スーダン国境まで、アラブ人が多く住むエジプトの他の地域とは違い、黒人のヌビア人が多く住み独自の文化を育んできた国境の地域なのである。
このヌビア地方は年間を通じて強い日差しが照りつけ、昼と夜の温度差が激しい砂漠気候に属する。乾燥が激しいため、ナイル川の恵みであるグリーンベルトも、ここでは狭まり、川岸にかろうじて緑を残しているにすぎない。
古代から交易の拠点アスワン
アスワンハイダムからアスワン市方面を望む
ここアスワンは古代エジプト時代には、ヌビアの鉱物資源(金、銅)や、さらに南の国から運ばれた香油、黒檀、象牙などが集まる交易の拠点、前線基地として栄えてきた。その中心がアスワンの西側を流れるナイル川の中州、エレファンティネ島であった。
この島には先王朝時代から人々が住み着き、ナイルの守護神「クヌム神」やその娘」アヌキス神」など信仰の中心でもあった。また神殿建築に欠かせない花崗岩の産地であったことから、アスワンからカイロ方面、ルクソールへと巨石の大掛かりな運搬も行われ、エジプト各地に残るピラミッドや神殿の多くはこのアスワン産の石なのである。岸壁には豪華クルージング船が何十隻も停泊し、港町らしい活気にあふれている。
アスワンハイダムと世界最大の人造湖
人造湖ナセル湖の小島にカブラシャ神殿が見える
バスは30分ほど走ると、やがて車窓いっぱいに湖が拡がってきた。アスワンハイダムの建設によってできた世界最大の人造湖ナセル湖だ。
1970年、ドイツとソ連の協力により完成した、エジプトが誇るこの巨大ダムは、幅3600m、高さ111mと、その体積は東京ドーム164個分にもなるという。このダムだけで、エジプトの発電量の三分の一を賄っているとのこと。ここから全長500Kmに及ぶナセル湖は琵琶湖の7,5倍もあり、その水面下には多くの古代エジプト文明遺跡が眠っているというから痛ましい。
多くの遺跡が湖底に沈んだ
このダムにより世界最大の人造湖ナセル湖ができた
ダムの堤防から湖を遠望すると、中州のような小島に、プトレマイオス朝時代に再建されヌビアの神々に捧げられたというカブラシャ神殿が見える。この神殿もナセル湖に沈む運命だったのだが、ユネスコ基金により水没から救済された建築物の一つで、もとは現在の場所より50Kmも南にあったという。
このアスワンハイダム建築工事過程で多くの古代遺跡が湖底に沈む危機にあったのだが、明日、見学予定のエジプトを代表する観光遺産アブシンベル大神殿も、ユネスコを中心とした救済運動で救われ、これを契機として世界に残す歴史遺産として、世界遺産登録第1号になった話しはあまりにも有名だ。
ダムの堤防で記念写真、珍奇なファッション姿の筆者
気温がどんどん上がる
しかし、このナセル湖の完成によって、充分な農業用水と電力が確保できるようになった反面、ダムの下流域には養分を含んだ土が運ばれず土地がやせて塩害が発生したり、湖の蒸発によって発生した雲から気候変動が起きるという問題も浮上しているらしい。
ダムを見下ろす展望所で、バスを降りると砂漠気候のジリジリするような太陽が容赦なく照りつけてくる。帽子だけではキツイ紫外線を防ぐことはできず、このまま
ダム完成記念塔の下で一服、O氏ご夫妻と
歩き回っていたら日焼けで日本に帰る頃は黒人になってしまう。
私は頭部をタオルでほっ被りしてその上から帽子を被ることにした。仲間の皆が一見アラブ風の珍奇なファッションを見て笑っているが、やむを得ない!親からいただいた色黒の肌を、もうこれ以上黒くしたくないのだ!。
世界各国の観光客で溢れかえる展望所でダムの全景を見たが、あまりに巨大で実感がともなわず、いまいち感動が湧いてこない。ダム見学を終え、完成を記念して建てられたという記念塔の下で一服すると、次はナイル川に浮かぶ小島にあるフィエラ(イシス)神殿の観光である。
ボートで聖なる島「フィエラ島」の神殿へ
船着き場にはエジプト人だが肌の黒いヌビア人の物売り
走り出して間もなくバスはナイル川の船着き場近くの路上に停車した。バスを降り桟橋へと歩き出すと、まだ午前10時になったばかりだというのに、一段と気温が上昇しておりムッとした熱気が身を包む。先を歩く太郎ガイドに、腰にぶら下げている温度計の温度を聞くと何と!「42度です。午後にはもっと上がるでしょう!」と平然と言う。
これから観光する「フィエラ神殿」はナイル川で最も小さな島の一つで「ナイル川の真珠」と謳われたフィエラ島にあったものだ。聖なる島で、古代からイシス女神(天上の聖母」「星の母」「海の母」などの別名を持つ)の聖域として信仰の対象となり、ギリシャ系アレキサンダー大王の流れを組むプトレマイオス朝からローマ帝国時代に築かれた「イシス神殿」を始めとする貴重な遺跡が残っていたのである。
神殿があるフィエラ島へのナイル川船着き場
しかし、この島もアスワンダムの完成により水没する運命にあった。そこでユネスコの救済により地形が似ている現在のアギルキア島に移築されたのである。そして現在はかってのアギルキア島をフィエラ島と呼んでいるのだ。
船着き場近くまでくると、土産物店が立ち並び、その店頭から手に手にTシャツを持ったヌビア人が飛び出してきた。同じエジプト人だが、一見してアラブ人とは違う黒い肌をしている。しつこく言ボートに乗船してフィエラ島にむかう
い寄られるのを振り切り、桟橋まで来ると、何十艘もの半端な数でないボートが係留されている。
すると今度はボートのヌビア人船長に取り囲まれ「俺のボートに乗れ!」と言い寄ってくるではないか。私達はその中の一隻に乗るとフィエラ島にむかって沖合へと出た。
小さな島々が点在する中をボートは進んでいく。
30分ほどの乗船でフィエラ島の桟橋に着いた。ところが、桟橋が異常に混み合っているではないか!小さな桟橋に足の踏み場もないぐらい土産物が並べられ、大勢のヌビア人売り子が通行の邪魔をしているのである。桟橋と島に上陸するための狭い通路が、観光を終えて帰ろうとする者、これから島へ上陸しようとする者で身動きできない状態なのだ。
フィエラ(イシス)神殿
島の小さな桟橋は物売りで身動きできないほど
ぎゅうぎゅう詰めの桟橋から何とか上陸を果たすと、イシス女神に捧げられた神殿の外庭までやってくると、まず最初に目に入るのが「ネクタボ1世のキオスク」で、14本残っている石柱の柱頭には牛の耳をもつハトホル女神の装飾が印象的だ。その先には外庭を取り囲むように左右に列柱が伸び、正面には神殿への入り口である第1塔門が見える。
太郎ガイドの説明を聞きながら熱せられた石畳の上を進み塔門前に来ると、壁一面にイシス神、ホルス神、ハトホル神にいけにえ捧げるファラオが描かれたレリーフが鮮明に残っている。
フィエラ神殿の外庭にある列柱の回廊
それにしても古代エジプトにおける神の多さにはあきれるばかりだ!功徳や御利益の違う多種多様の神を信じた「多神教」の国だったのだ。エジプト入り後、今日まで数多くの神殿を見学してきたが、そこに描かれたレリーフの神の種類の多さに、説明を聞いても何が何だかさっぱり分からぬ。もし神の多さが原始宗教というならば、日本人が信じる宗教も似たようなものではないか。
フィエラ神殿、正面の大きな壁が第1塔門
なにしろ、やおよろずの神を祀る神社があちこちににあり、仏教では如来やら観音やら菩薩など多種多様の仏が存在する「多神教」なのだから。その点、キリスト教、イスラム教は「唯一神」を信じる「一神教」で分かり易くシンプルだ。まぁ信仰心の薄い私にとってどうでもいいことだが・・・・
横道にそれた、元へ!ちなみに、かってこのイシス神殿の塔門の前にはオベリスクが建ち、これに描かれていた碑文がヒエログリフ(古代象形文字)の決め手となったという。そのオベリスクも盗まれ、たったの7ドルで売られたとのことだ。
第2塔門、さまざまな神のレリーフが鮮明に残る
第1塔門を抜けると前庭でそこには「イシス神」誕生殿があり、その先は第1塔門と同じデザインの第2塔門へと続いている。
そして第2塔門を抜けると列柱室、至聖所へと続き、神殿の地図のレリーフ、ナイルの水源についてのレリーフなどとともに、壁面にわずかに金の跡が残り、当時は神殿が金でおおわれていたことをうかがい示す興味深いものが見学できた。
至聖所を出て神殿裏手に回ると、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの礼拝堂の残骸と、その先がクレオパトラ女王が上陸したという船着き場があった。
芸術的な柱が美しいトラヤヌスのキオスク
神殿の外壁に残るレリーフを眺めながら時計回りに船着き場のほうへ戻りつつ、ハトホル神殿を過ぎると、雰囲気のまったく違うローマ風の建築物の前にきた。「トラヤヌスのキオスク」と呼ばれるもので、第13代ローマ皇帝トラヤヌス帝(ローマ帝国五賢帝の一人でその生涯の大半を外征に費やし、ローマ帝国史上最大版図を実現した人物)の冠からとったものだ。
この印象的なキオスクは、神殿で儀式をするとき、船で帰還したイシス神が休息する場所として造られたもので、14本の柱で構成され、神々とトラヤヌス帝のレリーフがある。なかでも頭柱は芸術的で見事なものだった。小さな島そのものがフィエラ神殿になっている
昼食には
日本食ソーメンが出てきた!
時刻はちょうど正午になろうとしている。フィエラ神殿の見学を終えると、いったんクルーズ船への帰還し、昼食をとることになっている。その後は夕方に帆掛け舟によるナイル川遊覧まで休息である。ナイル川の船着き場に戻るべく、再びボートに乗船すると爽やかな川風が身をつつみ心地よい!吹き出た汗が急速に引いていく。
クルーズ船に戻り部屋に入ると、すでに清掃とベットメーキングが終えており、何と!ベットの上にワニがいるではないか!
部屋に戻るとベットの上にワニがいた!
浴室のバスタオルをうまく利用したもので、昨日までなかった気のきいたサービスだ。終着のアスワンで客室担当が替わったのだろうか?? 私達全員の客室にさまざまな動物が置かれており、皆が大喜びしながら互いに部屋を公開し合っている。
時刻は13時、昼食のため船内レストランに入ると、中央テーブルにブッフェスタイルの料理が並び、その左右に客用テーブル席が配置されている。
例によって私達の席はレストラン右側半分を全部貸し切った状態で、20名が一同に会して食事ができるように席が連なっている。左側席は一般用で4名席のテーブルが10ほど並べられているのだが、私達日本人以外オーストラリア人夫妻以外乗船客は誰もいないのでガラ空きだ。
昼食を始めたら何とソーメンが出てきた
まずはビールで喉を潤しつつ食事を始めたら、ボーイがテーブルの上に「めんつゆ、きざみ海苔、ワサビ、わけぎ」を置きだしたではないか。すると何と!ソーメンが大盛りされた大皿が幾つも運ばれてきた。世界紀行の添乗員N女史が私達に食べてもらおうと、わざわざ日本から持参し、船の厨房を借り自ら茹で上げてくれたのだ。
旅も後半入りし連日汗を流しながら旅を続けてきただけに、サッパリした日本食が恋しくなっている。
実にありがく心利いたN女史のサービスに全員から歓声が上がる。
N添乗員が日本から持参したソーメン、実に美味い
乾麺のソーメンも「麺つゆ」もけっこうな重量である、今日まで旅行ケースに入れ持ち歩いてきてくれたことに、心から感謝だ。
私達の旅を世話してくれている世界紀行は、質の高い徹底した顧客サービスが売り物の旅行会社だが、この手作りの日本食もその一つだ。ちなみに昨年のトルコ旅行では、旅の後半に「稲庭うどん」を振舞ってくれた。
皆で歓声を上げながらソーメンをすすっていると、20名ほどの欧米人の団体がレストラン入ってきた。一瞬、わざわざ船のレストランで食事をするため乗り込んできたのかと思ったが、聞くと、このアスワンを出発点として下流域のルクソールまで下っていく新規乗船のクルーズ客だという。私達は明朝この船とお別れするのだが、彼等は今晩この船をホテル代わりに宿泊して、明日からナイル川を下っていくとのこと。
午前の観光を終えクルーズ船に戻っていく私達
ここで欧米人の団体が乗り込んできた。
その欧米人団体の一行、レストランの右側半分を独占し、しかもテーブルを連結してひと固まりなって食事をしている私達日本人を見て驚きの表情をしている。彼等は空いている左側のテーブル席に3〜4名単位でバラバラに座り食事を始めたが、私達日本人が気になってしょうがない様子だ。ひと固まりになりズルズル音をたてながらソーメンをすする姿に、視線が釘付けである。
そりゃそうだろう、音をたてて食事をする習慣のない欧米人にとって、下品で奇異な我々の食事が気になってしょうがないのだ。日本では通用するが、海外では間違いなく下品な食べ方に違いない。そんな思いでソーメンをすすっていたら、急に自分が恥ずかしくなった。
午後は船内で過ごす
欧米人の団体が乗船しレストランは賑やかになった。
大満足の昼食を終えると16時まで自由時間(休息)となった。旅仲間はそれぞれ身の回りの整理や昼寝、あるいは船内のマッサージルーム、サンデッキのプールで泳いだする者など、ゆったりと過ごす。私といえばエジプト入り後、酷暑と冷房の繰り返しに体調の変化が追いつかず、身体がけだるく疲労感が残り、体調がいまいちなので出発時間まで部屋で寝ていることにした。
やがて16時の出発時間がやってきた。これから白い帆掛け舟(ファルーカ)でナイル川遊覧を楽しむことになっているのだが、出かける気乗りがしない。私は参加せず部屋で休んでいることにした。同室のO氏に添乗員への不参加の伝言を頼むと、部屋の窓を開け下船していく旅仲間を見送る。
クルーズ船最後の夜
ディナーも宴会モードで始まる
テーブルにはズラリとビールが並び、まずは乾杯!
シャワーを浴び、うとうとしていると2時間ほどでナイル川遊覧を終え皆が戻って来た。この後の船内スケジュールは19時半から夕食、21時半からパーティとなっている。
今夜は私達日本人グループにとっては4泊5日のクルーズ船の旅最後の夜で、先ほど乗り込んできた欧米人一行にとっては最初の夜である。そんなことで夕食後はサロンバーでお別れパーティ兼歓迎パーティが企画されており、プロによるベリーダンスショーも披露されることになっているのだ。
ディナー後はパーティの開始までサンデッキで
親しくなったオーストラリア人夫妻とお別れ
クルーズ船最後の夜のディナーが賑やかに始まった。レストラン内は今まで私達日本人20名とオーストラリア人夫妻だけで寂しかったが、今夜はイングランド人団体客が乗船してきて大賑わいである。人数が増えた分だけセンターテーブルに置かれたブッフェスタイルの料理も品数が増え、コックも大忙しで立ち動いている。
注がれたビールグラスを持ち、私達日本人20名が揃って大声で「カンパ〜イ」の声を上げると、またしてもイングランド人客が一斉にこちらを向いた。ちょっとやり過ぎかもしれぬと恥ずかしく思ったが、食事をしながら大騒ぎするのが日本人の習性である。宴会モード突入でもう止まらない!
静かに食事を楽しんでいる彼等にとっては申し訳ないが勘弁してほしい。
パーティはベリーダンスショー
パーティはベリーダンスショーで大騒ぎ
賑やかに夕食を終えたが、サロンバーでのパーティ開始の21時半まで少々時間がある。それまでで屋上のサンデッキで親しくなったオーストラリア人夫妻を交え2次会をすることになった。
私が酒の「つまみ」にと持ち込んだ「サンマ蒲焼缶」を開け、オーストラリア人夫妻に食べさせてみた。生まれて初めて食べるサンマの味に、私が「どうだ!」と感想を聞くと、亭主は複雑な表情をしながら親指を立てたが、奥さんのほうは手を振り吐き出してしまった。亭主はさすがだ!口に合わないのにマズイといと言わず、親指を立てるとは、さすが営業マンだけある。
ステージに引っぱりだされ踊りを習う
やがて、パテーティの時間がやってきた。サロンバーに入っていくと、昨日までとはうって違いイングランド人団体も入り、賑やかに席が埋まっている。
まずは、スカート姿の男がくるくる回る民族舞踊が終わると、中東っぽい音楽が流れ、ベリーダンサーがステージに登場してきた。引き締まった素晴らしいスレンダーボディである。しかし顔は異常に鼻の高い女性で、私にとっては美の基準から程遠い顔立ちだ。
プロのように腰が回らず上半身だけが揺れる
ダンサーは何曲か踊ると、一緒に踊ろうと客席をまわり乗客をステージに引っぱり上げだした。
私達の仲間には踊りが得意なフラダンスチームがおり、さっそく誘いにのって何人かがステージに上がっていく。ベリーダンスはフラダンスとは違い激しく腰を振る踊りである。登場したフラダンスチームは懸命に真似ようとするのだが、悲しいかなシニア年齢なのでダンサーのように腰が回らない!上半身が揺れるだけである。これも御愛嬌だ!やんやの喝さいを浴び、一生懸命身体を揺すっている姿がいじらしいではないか!
岸壁の向こうは遊園地で夜遅くまで賑やか
1時間ほどパーティを楽しみ部屋に戻ると、窓の外から音楽と騒ぐ人声が聞こえてくる。窓から見てみると昼間は営業していなかった遊園地からの騒音で、夜になって営業を始めたのだ。日昼は暑くて誰も利用しないので夜間だけ営業するようで、夕涼みを兼ねてけっこう客がいる。よく見てみると子供連れよりも男女のカップルが多いではないか。飲酒が禁じられているイスラム教徒なので、カップルや家族にとって、遊園地で過ごすのが唯一の娯楽なのだろうか。
騒音が聞こえるなかベットにもぐりこむと、あっという間に熟睡モードに入った。明日はいよいよ古代の遺跡巡りで最も楽しみにしていた世界遺産第1号「アブシンベル大神殿」の観光だ。