平田桂林寺と慈雲尊者
平田桂林寺は元生野字シヨブ谷に在ったものが、正徳六年(一七一六)に平田村の草山三八町匹反歩の内に伽藍を造営して移転したことは、安永五年(一七七六)の平田村明細帳に明らかである。生野字シヨウブ谷は、市道早歩線を北限とし南限の小米坂線に至る細長い山林で、桂林寺の位置は小米坂線の山麓に字門先があること、山林の中腹に小米坂線から北方へ道路の遺構があることで、シヨブ谷の中間にあったことが推定されるのである。
また中間より北方にある山林を伐採したときに、落葉に埋れた石仏、五輪塔がたくさん出土したので、関係墓地のあったことが判かり、桂林寺の位置が類推される。燃料事情が変わった現在、薪炭の必要がなく下草管理が行届かず、雑木が密生していて、屋敷跡調査が困難である。
平田字西山へ移転した桂林寺が廃寺となって、明治九年五月に平田字東山上にあった正福寺が移転して現在に及んでいるが、桂林寺の堂宇その他諸施設がそのまま引継がれたことは、本堂の内陣外陣の造りかたが、真言宗形式であることと、境内にある石造遺物の銘が古いことで推定ができる、三三か所の石仏の如く、その一連のものを一点と見倣して、石造物は拾数点に余るが、燈炉、宝篋印塔、地蔵尊等二メートルに及ぶ優秀なものが多く、また本堂天井の絵画は秀作として識者の評判が高い、このような大寺院が、なぜ生野から移転したのかが不思議である。
しかし、桂林寺の伽藍が優秀であることと、その位置が松林を縫う有馬川の清流を俯瞰する風光の地であり、北摂と阪神を結ぶ幹線道路に沿った交通至便の地の利を得て、聖僧慈雲尊者を迎えることになったのであろう。
寛延三年(一七五〇)河内国高井田長栄寺から、慈雲尊者は三三才で桂林寺兼住となった。翌年七月、平田字東山下に、後の人がいう慈雲堂を設けて、有名な『方服図儀』広・略二本を著した。僧侶たるものは、日常生活の着衣喫飯、行往坐臥のそれぞれに、仏の定めた規律を守らねばならない。仏の教えは過去、現在、未来にわたって真実不変である、禅定、智慧は戒律を実践するところに生まれるとの信念で、仏の教を学ぶ者の姿勢を方服に定めたのである。方服とは袈裟のことで、尊者は袈裟を、古来の法に従い、その種類や色合等を古文書並びに古仏像を調べて乱れた現況の是正をして、着服による僧侶の境地を訓したのである。
尊者は宝暦八年(一七五八)生駒山麓の額田不動寺で、高野山の学頭成蓮院真源阿闇梨に請われて、『南海寄帰伝解纜妙』を作り終わった。これは二か月余りの短期間であり、これによって戒律研究や素養の広さを知ることができる。
この年、尊者は生駒山の中腹にある長尾滝の附近に双竜庵を建て、隠栖の生活に入るが、それは桂林寺へ兼住した年に、恩師、貞紀和上が遷化し、翌年二四才の愛弟子、愚黙および覚法が歿し、四年後には覚賢が死歿する等、恩師、愛弟子達の相次ぐ長逝に遭い"命なるかな、臆、天予を衷す"と歎辞を作って悲歎にくれた結果である。
桂林寺から尊者が去った記録はないが、この頃であるとすれば、桂林寺に存住したのは九年間になる。尊者はその後、明和八年〔一七七一)京都の阿弥陀寺に住み『十善法語』を著し、安永五年(一七七六)河内葛城山中の高貴寺へ移って「高貴寺規定十三ケ条」を定める外、種々の著作もあるが、このころより神道の研究を始めて"人事を以って神威を感じ、神威を以って人事を成就""人神本不二"の神道説を説いた。文化元年(一八〇四)八月上旬長栄寺で発病。一二月阿弥陀寺で遷化。高貴寺に葬られた。
慈雲尊者の父は播州赤松氏の出身で、上月安範といい、母は高松藩の米蔵の校官、川北又助の養女お幸で"才色兼備"の賢婦入だったらしい。四八才で夫を失い、その時一三才であった尊者を出家せしめた。母は尊者に"講釈坊主になるなかれ、自身の修行に精進すべし"と戒めた。尊者が実践型であったのは、母の戒めを肝に銘じて精進したからであろう。
一面尊者は、また漢詩、和歌を好み、書画を克く物した。取材を自然と仏界に求めた作品が多く、芸術的な文化僧でもあった。平田桂林寺、現在の正福寺に大幅な軸物が現存している。洵に達筆で格調の高いものである。
(『北摂道場の史話』より転載)