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慈雲 1718(享保 3)〜1804(文化元.12.22)
江戸中期の真言宗の学僧。俗姓は上月、名は飲光(オンコウ)、字は慈雲、号は葛城山人・百不知童子。尊称は慈雲尊者(ソンジャ)・
慈雲律師・葛城尊者など。大坂の人。上月安範(コウヅキ・ヤスヒラ)の子。13歳で出家。伊藤東涯の門に学ぶ。師貞紀から両部神道を伝授される。顕・密両教の教義・戒律・梵学に精通し、釈迦在世時代の法を興そうとして正法律(ショウボウリツ)(戒律の復興)を唱えた。
晩年、河内の葛城山高貴寺に住して神儒仏三教への造詣をふまえ密教・悉曇(シッタン)を学び、両部神道を刷新した神道論を展開。のちに雲伝神道・葛城神道と呼ばれた。著書は悉曇を研究した『梵学津梁(ボンガクシンリョウ)』千巻や民衆教化の『十善法語』12巻・『人となる道』、『南海寄帰伝解纜鈔』などがある。

慈雲尊者の寺

由緒
  大慈山桂林寺歴住和尚
  中興第1世 慈空性憲律師
     2世 瑞堂義直律師
     3世 香山懐玉禅師
     4世 慈雲飲光律師
     5世 順翁紹応禅師
     6世 明堂諦濡律師
     7世 黙菴教宣律師
     8世 了誼神語律師

 
 摂州有馬郡の生野村に桂林寺という、聖徳太子の開創と伝える古刹があり、古昔の世に屡々火災に罹つて伽藍が荒廃した。元禄享保の頃には僅かに普門殿に観音像をまつった一宇だけが存在していた。時に偶ま故心と云う修行僧があり、その側に草庵を結び、乞食を行じて、密かに復興を謀った。一日、深草の真宗院に至って慈空性憲和上に謁して、自らその志を陳べたが、師これに随喜して自から摂州に至りて村民に説き、遂に寺を今の道場村平田に移して堂宇房舎に建つるに至った。

 蓋しこの地は山を負い野に臨んで風致いたって清絶であり、尤も僧伽の棲息に適する所であったからで、移転復興の後、戒律浄行の道場と為し、弟子瑞堂比丘に命じて住持せしめた。慈空律師を中興第一世とし、瑞堂義直律師を第二世とする浄土律の結界道場であった。


 この桂林寺に梵鐘があり、享保四年瑞堂律師の書せる銘文を刻している。曰く
 梵刹の興廃は必ずその人に藉る。人を失うが如きは即ち廃し、人を得るが如きは即ち興る。予摂州有馬郡平田村桂林寺に於いて之を験す。寺は是れ推古帝の御宇聖徳太子の剏建にして、実に一方の聖刹なり。年遼Dにして屡々燹に罹り、菴荊榛の地となり、唯普門殿一宇のみあって猶存す。時に僧故心と云う者あり、茅を縛して棲遅し、密かに興復を謀る。一日我が師慈和上に城州深草山に謁して自ら其の志を陳ぶ。和上これを嘉みして其の地に遊駕し、故心の請ふ所を成ぜんと欲す。寺もと生野村に在り、是に於いて村民と相議し遂に公許を得て之を此の山に移す。蓋し此の山風致清絶にして林C蒼緑、僧加の棲息に宜しき所の処なるを以ての故なり。既にして仏殿僧舎、次を以て一新す。又檀信あって普門殿を改め建つ、和上既に中興の祖となり、寺を以て戒律浄行の場となす。而して予に命じて住持せしむ。予顧ふにこの寺宜しくあるべきものは皆な備る。但いまだ鉅鐘の以て集僧に便し、昨夕を警むるものあらず。まさに其の闕を補はんとす。洛に一善士あり。之を聞いて発心して資をすつ。更に信者あって助喜す。乃ち鳧匠既に成る。因て銘を題して諸を無朽に垂る。

 銘に曰く、
 摂の馬峰、梵刹蹤を存す、地霊に境寂に、山環り水流る。林樹鬱密にして。神気想廻す、刹を創むるは孰とか為す、太子豊聰、中興の運に当るは、芯蒭慈翁なり、仏殿僧舎、既に厥の功を成す、茲に檀信あり、新に鉅鐘を範す、考撃規に遵ひ、昏蒙を警発す。鏗B韻あり、仰いで尭風を祝す、賢聖聚会し、竜天敬崇す苦報の酸を息し釼輪頓に空し、音聞く性に復し、根塵消融す。此の長舌に頼って、円通に悟入す。偉なるかな法器、徳用無窮なり。

時に享保四年竜集己亥三月初五穀旦、現住当山通受菩薩比丘瑞堂薫沐和南敬題、洛陽鳧氏和田信濃大椽謹範この瑞堂義直律師に就いては河州野中律寺の僧名簿に慈雲尊者は、文化元年(1804)87歳で示寂、

 摂州有馬郡大慈山桂林律寺中興第一世慈空性憲老和尚肖像賛
慧眸日の猶く、慈量空に等し、一行志を専にし、五篇躬に厳なり、霊芝の道跡を追慕し、吉水の宗風を弘揚す、既に福寿兼具することを得て、能く緇白をして皆崇めしむ、之を故哲に較ぶるに、誰か同じからずと謂んや、唯た草嶺師席を壮にするのみに非ず、桂林高く樹つ中興の功、享保四年己亥三月、青竜伝律沙門淑湛堂和南題

 此の桂林寺中興以外に、栄純律師が三河国苅谷に崇福律寺を興して、師を請じて開山第一世としている。又享保二年丁酉十月師七十二才の時に、京の聖臨庵の性澂律師が懺法を修すること五十日、瓔珞の羯磨で比丘の具足戒を受けた時に、同門の後輩である湛堂律師が証明師となり、慈空律師はその側で随喜参列している。この享保二年の九月十二日には隣山の瑞光寺慧明燈律師が七十六才で遷化された。


 慈空律師は天性、孝義の厚い人であり、恩師竜空老師に給侍すること四十余年、日夜問侯未だ嘗て懈惓することがなかったと云う。この点、瑞光寺の元政和尚が父母に至孝の人であったのと同一の精神であったと言えよう。
享保四年己亥(西紀一七一九)の冬十一月二十一日微疾を示し、自ら再び起つことのないことを知り、沐浴して衣を更め、手に阿弥陀経を握り仏名を唱えて遷化。時に世寿七十四才、坐夏三十四年である。著書には蓮門小清規、臨終節要、重修蓮門課誦各一巻あって、合して一帙とし、題して草山法彙と云う。

さて摂州の有馬の桂林寺が浄土律の結界道場として律坊となったことは、当地の故心法師の誘いに応じて慈空律師が復興を謀られ、律師の高弟の瑞堂義直律師が全面的に事に当り、第二世に住持した功に依る。この義直律師は野中律寺の具足戒の大比丘僧である。桂林寺の第三世には紫野の大徳寺に属する香山懐玉西堂と云う禅僧で、次に、吾が正法律の慈雲尊者が寛延三年三月に桂林寺を兼管し、同四月十三日に結界された。時に尊者年三十三才である。

西堂禅師はその翌年に遷化しているが、西堂禅師から正法律一派の僧坊となった所詮は明確には伝ってはいない。桂林寺が正法律の僧坊となったことは、慈空律師、義直律師ともに野中律寺派の律僧であり、慈雲尊者も野中律寺派具足戒の比丘僧であったとの法縁に依るものであろう。

 慈雲尊者が寛延三年四月に正法律の僧坊結界され、夫の「方服図儀」をこの寺で著わされたのであるが、その後、六十三才の安永九年四月七日の桂林律寺結界之相と結界絵図が高貴寺所蔵の古写本にのこされている。
「大徳僧聴、我旧住比丘、為僧唱四方、小界僧」「大徳僧聴、我旧住比丘、為僧唱四方、大界内外相」の羯磨唱導の本に、大界外相標石廿五本、摂衣界及大界之相、殺生禁断所五標石が好相の形を図している。

「方服図儀」の後記に、蓋し剃髪染衣とは諸仏の通儀、入道の初要、末世の真依、正法の柱礎なり。若尚ほ訛替せば余は亦何をか言はん。故に首として其の聖儀を述べてこれを有志に告ぐ。法炬を仏日既没の秋に燃し、僧宝を賢聖在世の風に復するが如きに至ては、則ち豈に飲光至愚罪累の能くなす所ならんや。後生の者その責を辞することを得ず。経の中に記する所、末世東方に護法の菩薩ありと云う。願くばその人を見ることを得ん。仏涅槃の後二千七百年小比丘飲光、筆を摂州有馬郡桂林寺に絶つ。とある。この時に覚法・覚明・勝竜の諸比丘僧がこの律坊に随身していたのである。

慈雲尊者、桂林寺に住せらるること数年、宝暦八年に生駒山麓の雙龍庵に隠棲せらるに及んで、桂林寺は正法律一派の黙堂覚天律師、順翁紹応禅師、明堂諦濡律師、黙菴教宣律師・了詮神語律師と歴代住持して、明治十年頃に廃寺となった。所謂正法律の法脈が断えたのである。
 
 覚法・覚明・勝竜の三人による「方服図儀」の跋文に、世の明導なきを傷み護法を以て任となす。所以に跡を塵世に顕し法を人間に垂る。是に於いて通別二受の戒護遠く千載の法躅に復し、真修実行の禅那、親しく仏世の遺風を継ぐ。茲に小子等大幸にして、生れて治世に値ひ、長じて明師に遇ひ、親しく循々の教を承け、漸く甘露の妙味を獲、これを有志に分たんと欲す。とある。
 これに就いて思うことは、桂林寺中興の大徳にして、世人これを識らざる性憲慈空律師のことである

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