1.この目で見よう横田基地 

 横田基地は、首都東京の新宿副都心から西へ約30キロメートルのところにあります。ここには米軍の戦争行動の司令部である第5空軍司令部、在日米軍司令部が置かれ、アラスカから中東という広大な米軍の軍事行動をつかさどっています。
 また、地球的規模の輸送を行う航空機動軍(AMC)の輸送・中継ターミナルとなるなど一大輸送拠点となっています。
 発着する輸送機は、米空軍マニュアルに「核兵器を輸送する」と明記された核輸送部隊でもあります。核戦争をふくむあらゆる戦争の司令基地です。−こんな外国の基地が首都にあるのは世界に例がありません。

 東京田無市がすっぽり入る大きさ

 福生市、立川市、武蔵村山市、昭島市、羽村市、瑞穂町、の5市1町にまたがり、面積は約713万6千平方メートル。東京都でいえば田無市(689万平方メートル)、狛江市(615万平方メートル)の二つの市と比べても広いのです。
 5万6千人を収容する「東京ドーム」は4万5千7百平方メートル。横田基地は東京ドームの約157倍にあたります。
 ほぼ南北に伸びる滑走路の長さは3350メートル。南北のオーバーランを含めると3955メートル。
 基地全体は、南北約4キロ、東西約3.5キロにわたり、基地沿いに自動車で一周すると、14キロ以上(約40分)になります。
 基地内には、軍人約5千人、軍属・家族5千人に加え、通訳や掃除などの仕事を行う日本人従業員2千人あわせて1万2千人がいます。

 なぜこんな基地ができたのか

 この広大な横田基地は、第二次世界大戦中の1940年に旧日本軍の「多摩飛行場」としてつくられ、ゼロ戦等当時の陸軍の飛行機をつくっていた中島飛行機のテスト訓練場として使われていました。戦後米軍に接収され武蔵村山町(現武蔵村山市)の字名「横田」という地名から命名されました。米軍の接収当時の面積は、446万3千平方メートル。滑走路も1280メートルで現在の面積の3分の1程度のものでした。
 横田基地は、接収された翌年から国が農民の土地を強制的に買い上げ、ブルとーザーで麦畑を踏みにじって拡張されていきました。北側では、東京都の上水道用地を接収(1946年)しました。
 この用地(面積33775平方メートル)はその後1972年美濃部都知事が都有地の明け渡しを求め訴訟を起こしましたが、79年鈴木都知事になると訴訟は取り下げられました。今でも巨大な導水管が滑走路真下を通っています。
 滑走路は極東に高性能のジェット機を配備するために拡張され、五日市街道を分断(1956年)し、国道16号線、JR八高線は、ねじまげられ(1962年)たのです。滑走路工事は、多摩川の砂利を採掘して行われました。川底の砂利まで採りすぎて、台風で橋げたが流されたこともありました。
 朝鮮戦争・ベトナム戦争を通じて爆撃機や戦闘機の直接の出撃拠点となりました。
 朝鮮戦争では、朝鮮半島に落とされた米軍の爆弾の8割が、この横田基地と、埼玉県のジョンソン基地(現在の自衛隊入間基地)から飛び立ったB29爆撃機によるものでした。ベトナム戦争時は、F105サンダーチーフ戦闘機などの出撃拠点となりました。ベトナム戦争後期には、C5Aギャラクシー大型輸送機が飛来し、相模原補給廠で修理された戦車がベトナムに運ばれました。また、傷病兵の輸送、基地に帰還する飛行機は銃弾で燃えているものもあり墜落事故が絶えなかったと記録されています。このように横田基地はアメリカのすすめる戦争への出撃拠点として使われてきたのです。
 現在、横田基地は、米軍の戦争行動の司令部と中継・輸送の二つの任務を持っています。


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