73年に発表された、「心の旅」が当時のフォークロック・シーン
では大ヒットとなったが私はその後の名曲、「銀の指輪」が好きだった。
姫野達也が歌う やさしい歌声に引かれた。
当時、近くの公民館を借りて練習しているバンドのお兄さんがいた。
「チューリップ」に憧れていた私と友達は、そのバンドと「チューリップ」
をどこかで重ねあわせていて、ちょっと軽い
”追っかけ”をしていたこともあった(笑)
練習を毎日見に来る私たちに優しく声をかけてくれた事を今でも
よく覚えている。その節はお世話になりました。
第10回ポプコン本選会グランプリ受賞しそしてその歌は
'75年 第6回世界歌謡際グランプリ曲として、世に名を残した。
「時代」は変わるんだなぁ〜
その7年後に、まさか私も「ポプコン」に参加するとは
思いもしなかった。
ギターにひかれ始めたのも、この頃だったけ。。。
当時、私は小学校の3年生。「何だ〜この5人組みは!」小さいのに
この歌唱力。度肝をぶち抜かれたてしまった。それが”フィンガー5”
73年に出した「個人授業」が大ヒット。それをキッカケに
「恋のダイヤル6700」「学園天国」など、次々とミリオンを連発!!!
小学校では、「フィンガー5」ごっこがはやり(‐_‐)
私は本当は「あきら」役をやりたかったのに、いつもなぜか「まさお」役
と・・・ちょっと今でも心残りがぁ・・・・
「わたしの彼は左きき」などで知られる70年代を代表するアイドル歌手
の1人だが、それ以上に、70年代を象徴するアイドル歌手である。
当時の女性アイドルといえば、南沙織、岡田なな、栗田ひろみ・・・etc
「誰が好き?」と聴かれたら迷わず私は「めぐみちゃん」と答えた。
今までにない垢抜けた顔立ちのアイドルだと子供ながらに思っていた。
純粋無垢ではにかみ屋さん、という少女像にリアリティのあった時代。
その言葉を裏切ることなく見事にアイドルをこなしていた。
ワイルドな17才”というキャッチ・フレーズで1972年にデビュー。
新御三家の中で、やっぱり"秀樹"が一っ番かっこよかったなぁー!
パンタロン姿にマフラー・・・今考えるとちょっと噴出しそうになるけど、
当時はそれを見てみんな真似をしていた。「薔薇のくさり〜が♪」って
60年代GS時代ー
正直あんまり覚えてないが、当時あっていた音楽番組で"ザ・タイガース"がでていた。一緒にテレビを見ていた(モノクロテレビ)いとこのおねえさんが「ジュリーってかっこよかよねエ」っていって納得!純粋に「かっこいい!」と思った。それにしても、ブルーコメッツの"ブルーシャトー"だけはきらいだった。「モリトンカツ、イズミニンニク・・・」というのがどうも,
いただけなかった。(∵)
1963年私は生まれた。当時、築50年の3階建て、地下2つの家で・・・
一人っ子だったせいか、少し人見知りする他は別に変わったところはなく、おかしい時には笑い、悲しい時には泣き・・・ごく普通に育った。
ただひとつ、違うところといえば、一般の人が「いい!」というものに対して魅力を感じなかった。自分がいいと思えるものにしか心は動かなかった。その点は「なんか私ちがうなぁ」と悪い意味でもなく、いい意味でもなく、ただ単純に幼いながらもそう感じていた。
6歳くらいだったか・・・夏「ボォー」とかとりせんこうをながめていたら
歌ができた"かとりせんこうの歌"私の音楽の始まりだった。
私は学校の音楽の時間があまり好きではなかった。皆でやる合奏というのも気が重かったしましてや、音楽のテストともなれば、尚更、気が引けた。
ある日、父にハーモニカをどうすれば、旨く吹けるのか?と尋ねた。
父は、具体的にどうこうではなく、私のハーモニカを奪い、「こう、吹くとさ・・」と言って、課題曲を意図も簡単に吹いてのけた。「そんなんじゃ分からん!」と言って私は暫く、半べそをかきながら父のまねをしていた。
一時間くらい経った頃だったろうか・・。なんとなく、「あーこういう事か」と感覚がつかめてきた。子供ながらに父の教え方は天才的だと思った。