HAPPY, BUT UNHAPPY!

黄昏時を過ぎた、アカデミーの寮内。

「…フゥッ」

自分の机の前に座る青年は、軽い溜息をつく。
端正で、それでいて柔和そのものの顔立ち。後ろに束ねた蒼く長い髪。そして、眼鏡の奥にいつも絶えない笑み。
彼こそ、アカデミー随一の優等生との誉れ高き男――当人は、いつもそんなことはないとへりくだるのだが――カイルその人であった。

明日は大事な試験がある。
理解できていない問題はないか。見落としている点はないか。
試験で悔いを残さぬよう、入念に復習を重ねるカイル。
この積み重ねが、彼を優等生たらしめていることは言うまでもなかった。彼は「天才」ではない。

とはいえ、試験の内容は多岐に及ぶ。やっと、こなすべきメニューの折り返し点に差し掛かったところである。
丁度いい区切りだ。これ以上無理をしても、集中力が持続しないだろう。
彼は鉛筆を置き、大きく伸びをして、リフレッシュがてら、散歩に出かけることにした。

「いい風ですねぇ…」

木立を吹き抜ける涼風が頬を撫で、彼の髪をなびかせる。辺りに人はいない。
既に夕日が水平線へと消えた空に目をやると、東に白っぽい月が見えた。
眼鏡を外し、使い過ぎた目を心地よい冷気と月光に晒す。
深呼吸。澄んだ空気が、さっきまでフル稼動させていた脳を冷まし、頭の中をフォーマットしてくれる。
これが、彼の癒しの一時なのだ。

「さてと…おや?」

月下で暫しの気分転換を終え、眼鏡をかけ直し、部屋に戻ろうとしたカイルの目は、眼鏡越しに遠くの人影を捉えた。
アカデミーの制服のようだが、妙に小柄。頭にはリボンらしきものが付いている。
目の悪いカイルでも、それが誰なのかはすぐに分かった。

「アロエさんのようですね…こんな時間に、何を…?」

だが、もう一つ、すぐに分かったことがあった。
アロエの様子がおかしいということ。
真っ直ぐ歩けていない。明らかにふらついている。

「…ッ!!」

しかし、カイルが気が付いた時は、既に遅かった。
まるで糸が切れたように、力なくくずおれる身体。
そのまま、地べたにキスをしてしまうアロエ。

「アロエさんっ!!」

全速力で駆け寄るカイル。小さな体を抱き起こすが、意識はない。
背筋が凍り付くような感覚。反射的に、脈を診ようと手首を触る。

「!…すごい熱…」

脈はあった。だが、高熱と共に気を失っているのだから一大事に変わりはない。
苦しそうなアロエの表情。

(何とか、してあげなくては…)

持ち前の親切心に動かされ、カイルはこれから為すべき事についての知恵を振り絞る。
やがて、それを見極めた彼は、アロエの身体を抱え上げ、
できる限り彼女の身体にショックを与えないようにしながら、寮の方へ走っていった。

カイルが向かったのは、寮の医務室だった。
そこなら、きっと先生がいて、適切な治療を施してくれるだろうと踏んだのである。
だが、医務室は鍵がかかっていた。ノックしても返事はない。

「困りましたね…」

この選択肢が駄目だった以上、別の手を打つしかない。
しかし、どうするべきか…アロエを抱えたまま思案するカイル。
そこに、アロエとも仲の良い、気さくな女の子・ルキアが通りかかった。

「あ…すみませんルキアさん、先生たちを見かけませんでしたか?」

「あれ、カイル?…って、アロエちゃん!?ちょ、ちょっとカイル!あなた何やったの!?」

…ルキアは、数日前にアロエから相談を受けていたことから、アロエのカイルへの想いを知っていた。
それで、カイルがアロエの告白を断ったか、何か変なことをしでかしたのかと思ったのだ。
とはいえ、何もしていないのにいきなり『何やったの』と言われても困るわけで、よく考えれば随分人聞きの悪い話である。
ただ、それがアロエを心配するあまり出た言葉なのは分かっていたし、
何より今の彼には、言い返したり気の利いた答えを口にしたりする余裕などなかった。
事情をありのままに説明するカイル。

「そうなんだ…でも、先生はきっと、暫く戻ってこないよ」

ルキアの話によれば、教師たちは、明日に控えた試験の準備のために、出払ってしまっているらしい。

「そうですか…」

視線をルキアからアロエの顔に移し、彼は思い悩んだまま立ち尽くす。

だが、ルキアは、アロエの容体を気にかけながらも、アロエの想い人の方に目を向けていた。

こんなに深刻な顔のカイルは、初めて見た。
眉間に刻まれた深いしわが、苦悩の深さを物語っている。
どんな嫌なことがあっても、穏やかな表情を決して崩すことのなかった、あのカイルが…。

(これはもしかして…脈ありかも…)

女の勘であった。そして彼女は、今のアロエには悪いと思いつつも、
アロエの想いを実現させるべく、この状況に乗じることにした。

「ねえ、このままずっと待つわけにもいかないでしょ?いったん、カイルの部屋で横にならせておいてあげれば?」

突拍子もないルキアからの提言に、カイルは戸惑う。
自分の部屋に、年頃(と言うにはちょっと幼すぎる気もするが)の女の子を寝かせろ、というのだから、気が引けて当然であろう。

「えぇ?う、うーん…あの、ルキアさんのお部屋をお借りすることは、できませんか…?」

「ん〜、あたしの部屋は散らかってて、人を上げられる状態じゃないの。
…それにごめん、あたしこれから、ちょっと用事があって」

…最後の言葉は嘘である。
ルキアも、性格は素直な方であるから、嘘が上手いわけではない。
勘のいい人になら看破されていてもおかしくはないほど、わざとらしい言い方だったのだが…。

「そうでしたか…大変な時に呼び止めてしまって、すみませんでした」

恐縮するカイル。アロエを心配するあまり、そこまで気が回っていない。

「こっちこそ、力になれなくてごめんね。…それじゃ、頑張って!」

そう言い残すと、ルキアは走って去っていった。
カイルは、彼女の『頑張って』という台詞に、彼が思っている以上の意味があることを、まだ知らない。

こうして、ルキアの言葉に従う意向を固めたカイルは、アロエを抱えたまま、急ぎ自室に戻った。
朝の内に整えてあったベッドに彼女の体を静かに横たえ、上から毛布をかけてやる。

結構な時間が経つが、アロエはまだ目覚める気配がなかった。
時々、苦しげな息遣いが微かに聞こえてくるだけ。当然、見守るカイルの表情も晴れない。
彼女の前髪をかき撫で、そっと額に手を当てる。熱も未だ高いままだ。
カイルは台所に走り、手早く水を器に張って、数個の氷を落とした。
その器を持ってきた後、手頃な大きさの清潔な布を探す。

「ふむ…申し訳ないですが、これで我慢してもらいましょうか…洗ったばかりですし」

落ち着いた柄の、お洒落なハンカチ。カイルは惜しげもなくそれを氷水に浸し、固く絞る。
手に伝わる冷たさ。それを小さく折り畳み、アロエの小さなおでこにそっと載せた。

「…」

だが、その冷たさにも、反応はない。まるで御伽噺の眠り姫のように、固くその目は閉じられたままだ。
えもいわれぬ無力感に苛まれるカイル。できる限りのことは、行っているつもりなのに。
自分には他に、何かできることはないのか。
腕組みをし、思いつめた表情のまま、彼は自問を繰り返す。

(僕には…やはりこれしかないのでしょうね…)

やがて彼は、アロエの側を立った。
もう一度彼女の様子を確かめてから、部屋の灯りを消し、扉を閉める。
そして、真剣な眼差しで、凛とした決意と共に――彼は包丁を手に取った。

大人の頭よりも小さい、丸い塊。
カイルは意を決し、それに刃を突き立てた。
更に力を込める。そして、それは真っ二つに割れ、中から黄色い物が見えた。
 

…何のことはない、カボチャを切っていただけなのだが。
そう、彼は料理を作ることにしたのだ。

下準備をしつつも、やはりアロエの具合が気になる。
大体の材料の用意が終わったところで、カイルはハンカチを冷やし直してあげようと、再び部屋へと向かった。
そっとドアを開ける。灯りの点いた廊下からの光の筋が、暗い部屋を矢のように伸びてゆく。
そして、その光の矢が射た、ベッドの上には――
眠り姫が、目を覚ましていた。

「あぁ…気付かれましたか?」

薄暗い部屋の中を覗き込んだカイルの顔に、軽い驚きと、それに続けて喜びの表情が浮かびあがる。

「カイル…お兄ちゃん?」

身じろぎし、額にあった筈の湿ったハンカチを手に、心細そうな声を上げるアロエ。
月灯り以外に光が殆どない暗がりの中に一人でいたのだから、無理もあるまい。すぐに、部屋を明るくする。

「良かった…心配しましたよ」

素直な感想を口にするカイル。だが、アロエの表情から不安の色は消えない。

「え…あの…アロエ、どうして…?」

そうだった。
どうして自分がここにいるのか、その理由を彼女はまだ知らないのだ。

この場合、アロエが倒れたことを直接告げるのはショックが大きすぎるだろう。それは親切ではあるまい。

そう判断したカイルは、今、自分に作れる限りの優しい表情で、アロエの側に身を置いた。

「少し、無理をし過ぎたのではないですか?」

そう言って、彼はアロエの額に手を伸ばし、続いて自分の額にもその手を当てる。

「あ…」

「ふむ…さっきより下がりましたが、まだ熱は高いですねぇ…」

感じられた温度差は、まだ彼女の体温が平常ではないことを物語っていた。まだ熱を冷まさなくてはならない。
アロエの手にあったハンカチを取り、再び氷水の中に入れる。
だが…。

「え、あの、えと、アロエ、帰らなきゃ」

アロエはベッドから降りようとした。
刹那、カイルの頭に浮かぶ、最悪のケース…
そして、それが目の前で現実になろうとしていた。

「きゃっ!」

前のめりになるアロエの体。
目の前で、一度ならず二度までもアロエが倒れ込むのを見たくはない。

「危ない!」

言うが早いか、カイルはすかさず腕を伸ばす。
華奢な身体が、差し出された彼の腕に寄り掛かり、止まった。

どうやら、地面との再度の口付けは防げたようである。

「…あぁ、ダメですよ無理しちゃ」

安堵の溜息と共に、カイルは優しく腕の中のアロエをたしなめる。
まだ、おいそれと動ける状態ではないだろう。彼女には、横になっていてもらわなくては…
カイルは再び彼女をベッドに戻し、毛布をかけ、冷やしたハンカチを頭に載せる。

「さ、まだもう少しゆっくりしていて下さいね。…あ、灯りは付けておきますから」

そう言うと、カイルは部屋を後にした。

小気味良く野菜を切る音が響く。
カイルはエプロンを着け、独りごちながら、その料理の腕を振るっていた。

タンタンタンタンタンタンタンタン…

「アロエさん、ちょっと頑張り過ぎたようですねぇ…」

トン、トン、トン、トン、トン…

「天才少女でも、勉強なしでやっていけるほどこの学校は甘くない、ということなのでしょうか…」

タンタンタンタンタンタンタンタン…

「痛たた…これを切っても涙が出ない、なんて都合のいい魔法はないものですかねぇ…」

グツグツグツグツグツグツグツグツ…

「しかし、あの年頃は自分の限界が分からないから、知らない間に無理をしてしまうんですね…」

グツグツグツグツグツグツグツグツ…

「昔を思い出します…僕も同じ頃、無理をして風邪を引いて、迷惑をかけましたっけ…」

パッ、パッ、パッ…

「あの時に食べさせてもらったこれの味は、忘れられませんでした…その味が出せればいいのですが…」

グツグツグツグツグツグツグツグツ…

「アロエさんにとっても、そんな印象深い味になってくれれば嬉しいんですがねぇ…」

ズズッ…

「ん…ちょっと味が薄いですか…」

パッ、パッ、パッ…
クルッ。

「?…人の、気配…?」

グツグツグツグツグツグツグツグツ…

「…そんなわけはないですよね。アロエさんは休んでる筈だし…どうかしちゃってますね、僕。ははは」

ズズッ…

「うん、いい感じです。…さて、もう一煮立ちさせてから、様子を見に行きましょうか」
 

自室とはいえ、女の子が寝ている部屋である。ドアをコンコンと叩いてから、部屋に入るカイル。

「気分はどうですか?」

アロエは、眠ってはいなかった。

だが、アロエがベッドから起き上がったのを目にした彼は、
起き上がる前に彼女が一瞬見せた、泣きそうな顔を見逃すことはなかった。
まだ、調子が良くないのだろうか。
何か、悪い夢でも見たのだろうか。
それとも――?

「あ、さっきより楽になったよ」

それを隠そうと、ちょっと無理をした笑顔で振る舞うアロエが、いじらしかった。
カイルは、そんな彼女の額を、その手で優しく包む。
その心だけでも、癒してあげたい…そんな思いを込めて。

「少しずつ、熱も下がってますね…」

微熱はあるが、状況は良くなっている。カイルは、少し安心した。
時間はもう、晩ご飯を食べてもおかしくない頃だ。

「ところでアロエさん、もう遅くなってしまいましたが、お腹が空いてないですか?」

食事について、少し水を向けてみる。

「え…うん、少し」

恥ずかしそうに答えるアロエ。

「少し、温かい物を用意してみたのですが…いかがですか?」

彼女もまだ本調子ではないし、食事をしたい気分ではないかもしれない。
それなのに無理に食べさせるわけにはいかない。彼女の答えを待つ。
すると。

「嬉しい…ありがとうカイルお兄ちゃん」

今度は本当の、満面の笑みとともに返ってきた答えに、カイルにも喜びの表情が浮かぶ。

(嬉しいのは僕の方ですよ、アロエさん)

心の中で彼女に礼を言いつつ、彼は用意を整え始めた。
テーブルを取り出し、鍋と皿をその上に置く。

メニューは、クリームスープ。
たくさんの野菜をじっくり煮込み、牛乳とクリームをメインに味付けした、
カイル思い出の、そして入魂の一品である。

「うわぁ…」

「さ、召し上がって下さい。お口に合えばいいんですが…」

味見はしたが、なにぶん他の人に食べてもらうのは初めてである。
アロエの前に座るカイルは、内心ドキドキしながら様子を見守る。
アロエが、スープを口に入れた。緊張の一瞬…。

「おいしい…」

その一言で、カイルの体の硬直はいっぺんに解けた。

「良かった…味付けにちょっと自信がなかったんですけど、上手く行ったようですね」

「凄いね、カイルお兄ちゃん。こんな料理まで作れるなんて…」

惜しみなく、裏表もない、アロエの心のこもった賛辞。
カイルが精魂込めて作ったのだから、当然、彼とその料理はその言葉に値する筈だ。
でも…。

「いやぁ、大した事ないですよ。これなんか煮込むだけですから」

彼はいつもの癖で、自らをそれに値しない者のように言ってしまう。
人をたてるためとはいえ、必要以上に自分を卑下してしまう。
悪い癖だ、と自分でも思う。

けど、アロエはとても喜んでくれた。おかわりを勧めると、さらに食べてくれた。
この料理の目的が果たされていることは、明らかだった。深い満足を覚えるカイル。

食べながら、彼女は色々と話をしてくれた。
趣味のこと。クラスメートのこと。アカデミーでの勉強のこと。
「飛び級」であること、そして、それに伴う寂しさも。

笑顔を絶やさないようにしながら、耳をそばだてて聴いていたカイルは、
彼の知らなかった、様々なアロエの姿を垣間見た。
純粋で、何事にも一生懸命で、才覚にも恵まれている。
でも、それだけ人一倍繊細な子。
彼女こそまさに「天才」であるとはいえ、決して、苦しまずにいるわけではないのだ――。

気が付くと、アロエの真っ直ぐな瞳が、こちらをじっと見つめていた。正直、照れくさい。
やがて、彼女が口を開く。

「ねぇ、カイルお兄ちゃんは、なんでこんなにお料理が上手なの?」

彼女は、多くを語ってくれた。今度はこちらが話す番だと悟るカイル。

「まあ…趣味ですからねぇ。美味しい料理を食べるのはアロエさんも好きでしょう?僕も好きですしね。
それに、今のアロエさんのように、食べてもらって喜んでもらえれば、それも嬉しいですし」

…料理を作らねばならなくなった時の根本的な出来事を、彼は伏せた。
不幸話でお涙頂戴、という気はさらさらなかったし、
そんなことで明るいアロエの気持ちを曇らせることを望まなかったからだ。
だが、明け透けに話してくれたアロエに対して、自分は…と思うと、情けなさが募る。

「ふぅん…やっぱり、カイルお兄ちゃんって優しいんだね…」

それでも、自分の事を良く言ってくれるアロエに、カイルは深い感銘を受けていた。
自分を信じ、相手を信じる、その直向きさに。

そして、その向こうにある、もう一つの気持ちにも――。

だが。

「…なんて、正直なところを言うと、将来のためですよ」

「将来?どういうこと?」

「僕みたいな奇特な人に、ご飯作ってくれる人なんか寄ってくるわけないじゃないですか。ははは」

カイルは、自嘲的な本心を口にしていた。
自分は所詮、この程度の人間なのだと。
自分に自信が持てない、諦念に彩られた男なのだと。
それでも、いいのですか――。

頭をかいたまま、下を向いてしまうカイル。
変なことを言ってしまって申し訳ない、と言おうとした。

その時。

「あの…それ…アロエじゃ、ダメ…かな…?」

「はい?」
 

「…な、何でもないの…あ、おいしかった。ごちそうさま」

…はっきりと、聞こえていた。
そして、その言葉が何を意味するのかも。

涙が出るほど、嬉しかった。

こんな自分を、慕ってくれている。
なんて幸せなことだろうか。

(ありがとうアロエさん…貴方の気持ち、受け取りました…)

もっと上を向こう。
もっと胸を張ろう。
貴方のように。そして、僕を想ってくれている、貴方のために――。

「ふわぁ〜あ…」

可愛らしい、アロエの欠伸。
しかしながら、快方に向かっているとはいえ、微熱も続いている。
まだ、体力が充分回復しているわけではあるまい。
ここで下手にうたた寝などしてしまったら、余計にこじらせてしまうことは必至だ。
それに、彼女もいつまでもここにいるわけにはいかないだろう。
そのことを察したカイル。

「もう少し休んだ方が良さそうですね…もし、無理でないようなら、自分のお部屋に帰った方が、
リラックスできると思いますが…どうしますか?」

眠そうなアロエに尋ねてみた。でも、彼女は少し迷ってから、

「あの…もう少し、ここで…」

と答えた。きっと、まだ体が気だるいのだろう。
カイルは頷き、彼女のためにベッドを整えてあげた。

毛布に包まって、顔だけが見えているアロエ。
その頭に、念のためもう一度、冷やしたハンカチを当てる。
冷たさに少し目をつぶった後、アロエが微笑んだ。それに応えて、カイルも微笑み返す。

今までで一番、優しい笑顔になったことを感じた。そう、それは心からの笑顔…。
 

間もなく、部屋に小さな寝息が聞こえるようになった。

「はは…話し疲れましたかねぇ…」

彼女の様子を見守っていたカイルはそう呟くと、独り静かに、
食べ終わった後の食器や鍋を持ち、部屋を離れた。

「おやすみなさい…良い夢を…」

そっと、そう言い残して。

洗い物を済ませ、付けていたエプロンを外してから、当然のようにアロエの様子を見に行こうとしたカイル。
だが、そんな彼を、玄関のドアをノックする音が引き止めた。

(?…誰でしょうね、こんな遅くに)

ドアを開けると、眼鏡の女性がいた。アメリア先生である。

「ああ、どうも先生…?」

…しかし、明らかに様子が変だ。

「カイル君…先生、あなたがそんな子だったとは、思ってなかったんだけどね…」

先生は、玄関先にある二足の靴を見て、無表情に言い放った。
アメリア先生の顔から全ての表情が消えた時は、決まって先生が激怒している時である。
それに、今の言葉。猛烈に悪い予感が頭をよぎり、慄然とするカイル。

「あの…先生…それは、ど…」

どういうことか、と言おうとしたが、あまりのプレッシャーに気圧されて二の句が継げなくなった。
先生の背後に、凄まじい威圧のオーラが見える気がする。

「ルキアさんに聞いたわ…『アロエちゃんを部屋に連れ込んだ』って…
それに『きっとカイル君ベッドで頑張ってる筈よ』なんて言ってたわね…」

唖然とするカイル。
ルキアがそれだけしか言わなかったとしたら、端折り過ぎである。
アロエが倒れたこと、医務室に先生がいなかったことなどが全く触れられていない。
おまけに『ベッドで頑張ってる』という言葉遣いである。
何て言い方をするんだ、あの人は…。

「いやあの先生、そのルキアさんの言葉には大変大事な部分が抜け落ちている上に誤解を招く表現が含まれておりまして…」

いつもおっとりした口調の彼も、焦りと恐怖のあまり自分がどんどん早口になっていくのが分かった。
しかし、無言のままの先生の目は明らかに『問答無用』と言っていた。
必死で笑顔を作ろうとするカイル。だが、顔が引き攣って、笑えない。

ゴゴゴゴゴゴゴゴ…

彼は自分の運命を悟った。だが、自分はいい。

「止めて下さい先生、アロエさんが起きてしまう…!」
 

!?
 

アメリア先生が冷静さを取り戻したのは、その台詞を聞き、部屋の奥で眠るアロエの姿を見た時だった。
額にあった筈の濡れたハンカチは、いつの間にか右手に握られていた。

「…やだもう、先生ったらそそっかしくって…ごめんなさいねカイル君、アロエちゃんを看病してくれてたのに…」

カイルから詳しい事情を聞き、正確な状況を把握した先生。
もう、いつもの近付きやすくて優しい先生に戻っていた。

「いやぁ…ははは…」

…それなら、雷を落とす前に気付いてほしかった。
そんな思いをおくびにも出さず、カイルは煮え切らない苦笑いで応える。

つくづく、お人好しだと思う。
これがレオンやシャロン辺りなら、相手が先生だろうと猛然と突っかかって行くに違いあるまい。
まあ、レオンなどはそれが原因でさらにひどい目に遭うことも多いのだが…。

「後のことは、先生が何とかするわ。心配しないで」

先生はそう言うと、アロエの小さな身体をベッドから自分の背中へと移す。
アロエは身じろぎしたものの、目を覚ますことはなかった。手のハンカチも、離す様子はない。

いくらあんな性格でも、アメリア先生は魔法のエキスパートである。
様々な方法を駆使して、アロエを快方へと導いてくれるだろう。

「お願いします、先生。お忙しいのにお手間をお掛けします」

彼は信頼のもとに、彼女を先生に託すことにした。

アロエを背負い、玄関へ歩いていく先生。

(先生、似合っていますね…まるで子供をおんぶするお母さんのようです…)

その後ろ姿を見て、カイルはふとそう思う。
だが、そんなことを迂闊に口に出してしまった日には、今度こそどうあっても無事では済むまい。
身震いしつつ、今の思考を記憶の彼方に封印するカイル。命あっての物種である。

「今日はどうもありがとう、カイル君。勉強頑張ってね」

玄関先で、カイルに労いの言葉をかけるアメリア先生。
その時、先生の背後で声がした。

「…んん…カイル…お兄ちゃん…すー…」
 

…どうやら、寝言らしい。
二人は揃って、幸せそうに眠るアロエの顔の方を見やる。
それから、互いの顔を見合わせ、苦笑した。
無論、恥ずかしさはカイルの方が上であるのだが。

「それじゃ、おやすみなさい」

「お疲れ様でした、先生」

挨拶の後、先生と背負われたアロエの背中が遠くなっていく。
彼は、その後ろ姿が見えなくなるまで、見送り続けていた。
 

ようやく、本来の静けさを取り戻した自分の部屋。
いろんなことがあった。体を、途方もなく、しかし爽やかな疲れがどっと襲う。
きっと、今日の出来事は、忘れられない思い出になることだろう。
だが…。

「…フゥッ」

自分の机の前に立つ青年は、深い溜息をつく。
勿論、最初に部屋を出る前の溜息とは、意味が全く違った。

そうなのだ。
気分転換の散歩に行って以来、復習に全く手がついていない。課題が、文字通り山積している。
このまま続ければ、まず徹夜は間違いあるまい。
とは言うものの、無理をして倒れたアロエを世話しておきながら、
自分が無理をして倒れたりしたのでは洒落にもならない。どうしたものか…。

「ふむ…ここは、自分を信じてみましょうか…」

今までの復習は、自分が覚えたことが信じられないから、見直すという作業だったような気がする。
けど、今日、アロエに、直向きな信じる心を、教えてもらった。
ならば、信じてみよう。自分の力を。自分の積み重ねてきたものを。

眠る前に、窓から外を眺める。
今夜起こったことをずっと見つめてくれていたであろう月は、南の空でその柔らかな光を湛えていた。
人を癒すその光に、カイルは小さな優しいご来客の顔を思い浮かべていた。
明日また、元気な彼女に逢えるように願いつつ、彼は再び、口にした。

「おやすみなさい…良い夢を…」

END

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