夕暮れ時が終わろうとしている、アカデミーの寮内。
「…ふぅっ」
制服のまま、自分の机に向かい、アロエは溜息をつく。
悩んでいた。
明日の試験のことではない。明日のための勉強はすべて取り組み終えた。
もっとも、勉強の内容が頭に入っているかどうかは、いささか心許ないのだが。
実は、彼女には、想い人がいるのだ。
容姿端麗、聡明博学、そして何より心優しい男性…アロエはずっと、彼に惹かれていた。
その人のことを思い浮かべると、何も手につかない。
事実、アロエ私服に着替えることすら忘れてしまっている。
でも…あんな素敵な人なら、付き合ってる人がいるんじゃないだろうか?
もし告白しても、自分を女性として見てくれるだろうか?断られたらどうしようか?
そう思うと、自分の気持ちを言い出せない。
アロエはそんな意気地のない自分が、歯がゆくて仕方がなかった。
気を紛らわそうと、連日夜遅くまで勉強に打ち込んでみても、
高まる感情は抑えようがない。アロエはますます困惑するばかりだった。
数日前、たまらなくなって、気さくなお姉ちゃん・ルキアに相談してみた。
ルキアも、いろいろと話を聞いてくれて、アドバイスもしてくれた。
ただ。
「やっぱ、ここは覚悟を決めて、ドーンと告白しなきゃ始まらないよ!」
アドバイスの結論はこんな感じである。
それができれば苦労はない。できないから、悩んでいるのに…。
気のせいか、頭がボーッとする。きっと悩み過ぎだ、とアロエは思った。
気分転換に涼しい風に当たろうと、フラリと部屋を出て、周りの木立を歩く。
だが。
「あれ…?」
何かがおかしい。ちっとも涼しくならない。身体は火照る一方だ。
「アロエ、どうしちゃったのかな…?」
前方に、人影が見える。あれは、憧れの人の…?
同時に、視界が漆黒に染まっていく。
彼女が覚えているのは、そこまでだった。
どれぐらい経ったのか。
アロエは柔らかい感触に包まれているのを感じていた。体を動かしたくなくなるような、そんな感触。
でも、自分は外を歩いていた筈…その記憶が、彼女の意識を現実に連れ戻した。
「ん、んん…」
目を開ける。周りは暗く、思うように物が見えない。
ただ、自分が上を、空の方を向いていることは分かった。そして、その先にあるのは空ではなく、天井だということも。
どうやら、部屋の中らしい。上からは毛布がかぶせられている。だが、ここが自分のベッドではないことも確かだ。
「…ここはどこ?」
それを確かめようとするが、体がなかなかいうことを聞かない。
押し寄せる倦怠感に抗い、やっと顔を横の壁に向ける。
「!?」
アロエは目に入った物に驚いた。
男子の制服だ。きちんと整えられ、ハンガーに吊るされている。
月灯り以外に光が殆どない暗がりの中、理由も分からぬまま、男子生徒のベッドで寝ていたらしい自分。
アロエが言い知れぬ不安に襲われたのも無理はなかろう。アロエは必死で、上体をベッドから引き剥がそうとする。
パサッ。
おでこから、何かが毛布に落ちた。音を頼りに、手探りで落ちた物を拾ってみる。
湿った布のひんやりとした感触。薄暗さに少し慣れた目が、それがハンカチだと分からせてくれた。
しかし、何故額に濡れたハンカチが?アロエはますます混乱してしまう。
その時、部屋の隅の方から、一筋の光が伸びてきた。
光はアロエを照らすと同時に、アロエに一つのシルエットを映し出した。
「あぁ…気付かれましたか?」
光と影のコントラストに、その顔は見えない。
だが、その優しい声は、アロエにそれが誰かを分からせるには充分すぎるものだった。
「カイル…お兄ちゃん?」
突然、部屋が明るくなる。闇から光に変わる世界。
眼を射る眩しさに手を目に当てつつ、かぶりを振るアロエ。
「良かった…心配しましたよ」
端正で、それでいて柔和そのものの顔立ち。後ろに束ねた蒼く長い髪。そして、眼鏡の奥にいつも絶えない笑み。
彼こそ、アカデミー随一の優等生との誉れ高き男――そしてアロエの想い人――カイルその人であった。
「え…あの…アロエ、どうして…?」
まだ状況が飲み込めず、狼狽するアロエ。
そんな彼女の様子を見て取ったカイルは、ベッドの上に座ったままのアロエの傍に来て、安心させるかのように微笑んだ。
「少し、無理をし過ぎたのではないですか?」
そう言って、彼はアロエの額に手を伸ばす。カイルの手が、彼女の髪をかき撫で、その小さなおでこに触れる。
思わず、心音が高鳴る。
「あ…」
一瞬、何をされるのかと思ったアロエだったが、カイルがその手を自分の額に当てるのを見た時、
先程まで頭に載せてあったハンカチと共に、その意味を理解した。
「ふむ…さっきより下がりましたが、まだ熱は高いですねぇ…」
そう言うと、カイルはアロエの手からハンカチを取り、枕元にあった氷水の入った器に浸ける。
しかし、思いがけないことの連続に、彼女の思考は完全にパニックしていた。
「え、あの、えと、アロエ、帰らなきゃ」
アロエは慌ててベッドから降りようとする。
が、ろくに足元がおぼつかない。
「きゃっ!」
足がもつれて転びそうになった瞬間。
「危ない!…あぁ、ダメですよ無理しちゃ」
すんでの所でカイルの腕に抱き止められる。
アロエは彼の腕の中で躊躇したものの、このまま帰ろうとしたところで、まともに歩くことすらままならないようではお話にならない。
やがて、促されるままにベッドに身を横たえる。ふわり、と暖かさに体が包まれ、続いて冷たい刺激に額が覆われる。
「さ、まだもう少しゆっくりしていて下さいね。…あ、灯りは付けておきますから」
そう言うと、カイルは部屋を後にした。
独り、部屋に残されたアロエ。
暫く休んだおかげか、完全に目は冴え、落ち着きも取り戻していた。
しかし、彼女の気分は全くさえなかった。悪い夢を見ているような、そんな気分。
無理もない。
想い人の前で倒れるなんてみっともないところを見せてしまった…それだけで、気分は青息吐息である。
それなのに、そのカイルに迷惑をかけて、自分は何をやっているんだろう。
…自己嫌悪のあまり、アロエは逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
(これ以上、ここにいてカイルお兄ちゃんに迷惑をかけちゃいけない)
暫く思い悩んだ末、アロエは額のハンカチを枕元に置き、そっとベッドを抜け出した。
部屋を出る。廊下には誰もいない。
カイルは、玄関横の部屋で何かをしているようだ。足音を殺しつつ廊下を通るアロエ。
やがて、カイルのいる部屋の側まで来た。脱出する隙を窺おうとして、そっと部屋を覗き込む。
その時、アロエはカイルの後ろ姿を目にした。
料理を作っていた。
エプロンをかけ、慣れた手つきで次々と食材を鍋に入れている。漂ういい匂い。
それはとても素敵で、温かな光景だった。まるで、料理においしくなる魔法をかけているかのような。
アロエは目的を忘れ、そのカイルの様子に見入っていた。
彼の口から言葉が漏れている。どうやら独り言を言っているようだ。
料理が煮える音で、何を言っているかはっきりとは聞きとれない。
だが。
「……アロエさん…」
(!)
アロエは紛れもなく、自分の名前が呟かれるのを耳にした。
そして同時に直感した。カイルの作っている料理が、何を意味しているのかを…。
彼が、こちらを振り向いた気がした。咄嗟に、アロエは部屋を覗くのを止めた。
どうやら、見つかってはいないらしい。しかし、少し考えた後、彼女は静かに、元の部屋に戻った。
再びベッドに身を沈めたアロエ。
(カイルお兄ちゃん、アロエのために…。なのに、なのに…アロエのバカ…)
こっそり立ち去ろうとした自分を責めるアロエ。さらに落ち込む気分。悪循環。
そこに、ノックの音がした。
「気分はどうですか?」
エプロン姿のまま、カイルが来てくれた。身を起こすアロエ。
「あ、さっきより楽になったよ」
凹んだ内心を隠そうと、努めて明るく振る舞おうとする。
すると、再び、カイルの手が優しく額を包む。
それはまるで、ナイーブな彼女の内心を知っていて、それを癒そうとするかのような、そんな手だった。
「少しずつ、熱も下がってますね。ところでアロエさん、もう遅くなってしまいましたが、お腹が空いてないですか?」
時間は既に「夜」と言うべき時に差し掛かっていた。
「え…うん、少し」
はにかんで答えるアロエ。それを聞いて、カイルは優しく問う。
「少し、温かい物を用意してみたのですが…いかがですか?」
アロエは、先程の直感が正しかったことを悟った。
やはり、彼は自分のために、わざわざ料理を作ってくれたのだ。
「嬉しい…ありがとうカイルお兄ちゃん」
その返答とアロエの顔いっぱいに広がる笑顔に、カイルも嬉しそうに微笑み、鍋と取り皿を持って来た。
ベッドの側に出したテーブルに、二人は向かい合わせで座る。
「うわぁ…」
アロエは思わず声を上げる。さっきは匂いしか分からなかったが、
スープ皿になみなみと注がれたのは、野菜がたっぷり入ったクリームスープだった。
「さ、召し上がって下さい。お口に合えばいいんですが…」
アロエは勧められるまま、目の前に出されたスープをスプーンで口に運ぶ。
「おいしい…」
素直な感想が口を衝いて出た。その反応に、カイルの表情も緩む。
「良かった…味付けにちょっと自信がなかったんですけど、上手く行ったようですね」
「凄いね、カイルお兄ちゃん。こんな料理まで作れるなんて…」
「いやぁ、大した事ないですよ。これなんか煮込むだけですから」
カイルはそう謙遜するが、体の芯から暖かくなってくるようなこのクリームスープは、
どこかのレストランで出されてもおかしくないような味だ。
そんな食事が自分一人のために…アロエは幸せな気分でいっぱいだった。夢のような心地。
「無理でないようなら、おかわりもありますから、食べて下さいね」
カイルの親切な言葉が胸に染みた。心の中まで、温まってくるようで。
すっかり安心しきったアロエは、カイルにいっぱい話をした。
どんなことを話しても、彼はいつもの笑顔で、頷きながら耳を傾けてくれる。
アロエはそれが嬉しかった。
ふとカイルの顔を見やる。彼は何故、こんなに料理が上手いのだろう?
「まあ…趣味ですからねぇ。美味しい料理を食べるのはアロエさんも好きでしょう?僕も好きですしね。
それに、今のアロエさんのように、食べてもらって喜んでもらえれば、それも嬉しいですし」
「ふぅん…やっぱり、カイルお兄ちゃんって優しいんだね…」
彼への憧れを、より強くするアロエ。
だが。
「…なんて、正直なところを言うと、将来のためですよ」
「将来?どういうこと?」
「僕みたいな奇特な人に、ご飯作ってくれる人なんか寄ってくるわけないじゃないですか。ははは」
乾いた笑いと共に、頭をかくカイル。
その時、アロエは知った。
自分と同じように、彼もまた、自分に自信が持てない人なんだ、と。
彼女はうつむき、そして、呟いた。
「あの…それ…アロエじゃ、ダメ…かな…?」
「はい?」
「…な、何でもないの…あ、おいしかった。ごちそうさま」
やっぱり、自分の気持ちをはっきりと言い出せない。
そんな意気地のない自分に、アロエは辟易する。恥ずかしくて、顔も上げられない。
けど。
やっと上げた目線で捉えたカイルの顔が、心なしか赤かったのは、目の錯覚だろうか?
「ふわぁ〜あ…」
お腹がいっぱいになると、不意に睡魔が襲ってきた。まだ、体は気だるい。
「もう少し休んだ方が良さそうですね…もし、無理でないようなら、自分のお部屋に帰った方が、
リラックスできると思いますが…どうしますか?」
気遣ってくれるカイル。
正直、一人で逃げようとしていたぐらいである。自力での行動に支障はないだろう。
でも、今は少しでも長く、憧れの人の近くにいたい…。
「あの…もう少し、ここで…」
そしてアロエは、もう一度ベッドの中に収まった。
念のため、とカイルが額に当ててくれたハンカチも心地よく、アロエは安らかな温もりに身を任せていた。
それはまるで、カイル自身に抱かれているような…。
…。
柔らかな日差しの下、彼女はお花畑を走っていた。
笑いながら、憧れの人を追いかけていた。その人の名を何度も呼びながら…。
やや走り疲れ、彼女はその人の手を握り、揃って花の中に仰向けに寝転ぶ。
ふわりとした、雲の上に乗ったような感触。
夢だな、と思った。
でも、彼女にはそれが夢でも良かった。
目が覚めても、その人はきっとそばにいる筈だから。
その人が、自分の顔を覗き込む。眼鏡の奥に、優しい笑みを湛えた、男性…
…女性?
そう、目に入ったのは、眼鏡をかけた女性。
「あ、目が覚めたわねアロエちゃん」
聴き慣れた、しかし、想像と全く違う声に、思わずその名を口にする。
「ア、アメリア…先生?」
ガバッと起き上がるアロエ。辺りを見回す。
そこは、カイルの部屋のベッドではなかった。
寮にある医務室。本来、アロエが運び込まれて然るべき場所である。
時間はもう遅くなっていた。
「うふふ…幸せそうな夢を見ていたみたいね」
にっこりと笑いながら、アメリア先生がアロエに告げる。
夢?
確かに、夢は見ていた筈だ。
しかし、あのカイルの部屋での出来事は?
口にしたクリームスープは?交わした会話は?
もしかして、全てが、夢の中の出来事…?
釈然としない。だが、事の真偽はともかく、今の先生の言葉を考えるに、
随分締まりのない寝顔を見られたらしいことは確かだった。とてもきまりが悪い。
恥じらいながら顔に手をやるアロエ。既に熱はない。
「もう、体の方は大丈夫の筈よ。でもアロエちゃん、少し無理をし過ぎたんじゃないかしら?
明日の試験も大切だけど、今日はもうゆっくり休んだ方がいいわ」
さっきカイルにも言われたような台詞に、アロエは戸惑った。夢か現(うつつ)か、ますます分からなくなってくる。
頭を整理しようと、彼女はいったん自分の部屋に戻ることにした。ベッドから降りるアロエ。
パサッ。
何かが床に落ちた。音を頼りに、落ちた物に視線を這わせる。
そして、その先にあったのは――
「…!」
見覚えのある、それでいて自分の物ではないハンカチ。
自分の額を清々しくしてくれていたそれを拾い上げ、アロエは深い幸せに浸った。
そう、それは紛れもない現実――。
「あ、そうそう、それからアロエちゃん」
帰ろうとするアロエの背中に、先生が声をかけた。
「なぁに、先生?」
「好きな人には、早く告白しておいた方がいいと思うわよ?」
先生から放たれた衝撃的な言葉に、目が点になるアロエ。
「…へ?あ、あの、それって…?」
「寝言で何度も名前をささやくし、もー先生困っちゃったわ。…大丈夫、みんなには内緒にしておくから」
当然、そういう問題ではない。見る間に紅潮していくアロエの顔。
「さ、ささ、さよなら先生!!」
あまりの居たたまれなさに、アロエは逃げるように医務室を飛び出した。
「あらあら、焦らなくても大丈夫よ。先生もアロエちゃんぐらいの頃にね…」
そんな先生のピント外れな励ましの言葉は、もはや彼女の耳には届いていなかった。
ようやく、帰って来た自分の部屋。
いろんなことがあった。休むようにも言われている。
けど、彼女が向かったのは、ベッドではなかった。
「…ふぅっ」
私服に着替え、自分の机に向かい、アロエは溜息をつく。
勿論、最初に部屋を出る前の溜息とは、意味が全く違った。
休む前に、どうしてもやっておきたいことがあったのだ。それをやり終えた、安堵の溜息である。
明日の試験のことではない。明日のための勉強はすべて取り組み終えた。
手紙だった。
「ドーンと告白しなきゃ始まらない」
「早く告白しておいた方がいい」
文面を読み返しながら、アロエはルキアとアメリア先生の言葉を思い返していた。
そして、優しいカイルお兄ちゃんのことも。
明日、試験が終わったら、勇気を出して、この手紙を渡そう。
愛しい男性(ひと)への手紙を、ハンカチに添えて…。
ちなみに。
その日以来、図書室で料理の本を熱心に読んでいる彼女の姿が目撃されているそうだ。
END