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私の母 「寺島トヨ」 開業助産師の戦争体験記(埼玉県熊谷市にて) その2 |
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私は意を快して。さあ安全の道を選びにげようよ… 一人一人の産婦に三角布を首からさげ赤ちゃんを入れて抱き、後でむすび焼夷弾の雨あられ…炸裂、火の海。逃げまどう市民。絶對絶命。 一人又一人防空壕よりはい出し連れだした。 産後3日目4日目の方々。防空頭布かぶり上よりバケツで水2杯ザァザァ…ザァザァ…かけ火のうつるのを防ぐため。ぬれねづみになって全員出た。 其の目の先に小型爆弾が落ちた。 恐ろしい音だ。砂が5米トルも上がり私しは一聲、皆んな伏せ〜。一同伏せた。 目から火花が散った。土と砂とで又空より米軍機より油。又ガソリンが雨のごとくそして。 伏せ〜立て〜伏せ〜立て〜の号令。 つまづき、つまづき歩き行く。 胸の赤ちゃんは不思議と泣かない。雨と思ったのがガソリンが降っている。 後で気がつく。庭の桐の葉がプッゥ〜プッゥ〜と落ちた。 ピュン〜ピュン〜と音がする飛行機の米爆音とともに機銃掃射。 すこしすると静かになった。 2分か3分だったと思ふ。 もうだめだと思って肥塚の方に逃げた。 焼夷弾が前や後に。横に無数に落ちた。 ゴーゴーと凄まじい音だ (後のお話に米軍機B29 200數十機とか) 唯々無事ににげる事。道ばたには荷物がごろごろ。 にげるのがせいいっぱい。皆にもつはすてて命がけの大仕事。 つまつきつまづき進む。皆聲も出ない。 熊谷市公会堂前を通ると火炎で顔は焼けそうに熱い。 そばの市役所は火えんが窓つきやぶり火柱が上がっている。 急げ急げ夢中で歩いた。 まだ出産したばかりの方。又、3日〜4日たった方々つかれを考へているいとまなし。 私しも力があったので脊追った産婦と胸の赤ちゃん無事全員にげるだけと思って肥塚方面へとにげた。 ふとかすかな聲で家族とはなればなれですと言ふ聲。 私しの後をついて来て下さいと言った。熊谷寺のお寺のオバアサンでした。 皆もくもくとつづいて来た。やがて畑のあぜ道に皆んなを寝かせた。 熊谷市の空をながめるとまだまだB29飛行機が円をえがき飛行し、焼夷弾が空中で青く炸裂する。 バクダンはズドンズドンと落ちる。火事は大きく広がって行く。 ばくだんのさくれつ。幸にげた場所がよかった。 一先安全ですが畑の中に一同横になり無事をたしかめあった。 まだ気を許す事不能であるが熊谷市がい火の海。 火の中にくっきりと家がのこっていると思ったとたんあたりの火に包まれて空高くぐれんのほのをの中にさっと消る様は何とも言いがたい感じでございます。 生気をとりもどしてB29米軍機數少なく飛来しやがて去って行った。 一同つかれはて何を考へるいとまなしである。 ただただ一同無事が何よりと夜がしらじらと明けるのをまって赤ちゃんに母乳のませひとまづ畑の中から出かけた。 今にげまどった道を後にして熊谷市衛生組合立熊谷病院近くまで来たあたり一面焼野が原。 市役所も公会堂もない。しかし不思議にも産院は焼づにあった。 ウラ庭の柿の木に焼夷弾が不発でひっかかっており又庭の中にバク弾が落ちた深い深いあなもあった。 ガソリンや油が雨の如くふりそそいだために木の葉も黒くなっている。 一同あったよーあったよーと眞黒い顔、土にまみれた体をよせあって、すすり泣いた。其の顔全員の無事な姿を見て初めて我にかえりました。 入院室に入りほっとしている數時間の後に産婦の身寄の方々がたづねて来まして全員ひとまづ退院致しました。 全員元気よく退院しました。 後一室だけ市内の急々分娩に用意して、役立てました。 直後空襲で市内の怪我人かまっていたので傷ついた人々を連れて来た あぁ〜何と言ふ事だ。其れは阿鼻叫喚と言ふのだろうか。 うめき聲、泣きめき。すすり泣く人。着物はさけ眞黒だ。 耳のとれた人。胸が焼けて乳房が片方取れた女の人、火傷だ。それも康応ばかり。 臭気が一面にただよい堪へられない 全部人員120名余り1部屋10人づつ入った。 甚しい人員1室が6畳である。 日赤病院より看護婦さん28名はけんされて来て患者の手当にあたって下さいました。 日々交對で医師、看護婦さん勤務しました。 庭によしづをはりめぐらし野天風呂。皆ここで看護婦さんも汗を流しました。 私しも自然と看護婦さんのおてつだい致しました。 熊谷市衛生組合立熊谷産院の看板はづし、傷ついた方々の看病しました。 1日1人ぐらい死亡。又くすりも少なくカンでチンク油製法し傷口の手当も致し手当しました。 中には暑さの為に傷口よりウジ虫がはい出す人々もいました。 今思ふとよく生きていたものと不思議でなりません。 そして戦争も終わりました。 熊谷市が最後の空襲であった。 |
File_No.15