夢 幻            戻る


 杉林を割るように延びた山道を歩きながら、荒木寅三は腰に下げたタオルで首筋の汗をぬぐった。

 辺りに人影はない。暑さのため蝉しぐれが一つになって聞こえてくる。

 寅三が二十数年住みなれたF市を離れ、あてのない旅に出たのは、つい一週間ほど前のことであった。

 小川のせせらぎや蝉しぐれ、小鳥以外に音をたてるものはない。だが、彼は風に揺れる小さな葉音にも

敏感になっていた。


「テレビばかり見てないで、少しは家のことでもやったらどうだ」

 会社から戻った寅三は、寝そべりながらテレビに釘づけになっている妻の背中越しに言った。

 そばには昼食に食べたのだろう。出前用のラーメンやギョウザの器、それに箸が畳のうえに転がってい

る。

「うーん」

 妻の良子はテレビに食入ったまま、気のない返事をした。依然として目はテレビから離れそうにもない。

 寅三は部屋を出て、食事をするためダイニングルームヘ歩いた。

 途中、バスルームがあって、バスルーム横の脱衣場の引戸が開いていた。

 なにげなく視線をやると、脱衣用の篭から溢れた洗濯物の山が見えた。洗濯物の山は奥に設置した洗濯機

まで隠してしまっている。

 ダイニングルームに入った。

 雨戸を閉めきっているため、中は真っ暗である。おそらく一日中、閉めきったままだったのだろう。

 風を通さないと、湿気がたまって家が傷むぞと、日頃から妻には注意しているのに、返事だけでいっ

こうにやる気配はない。

 蛍光灯のスイッチを入れた。

 食卓の上の汚れた茶碗や食べかけのスイカにたかっていたゴキブリが光に驚いて、すばやく物陰に逃げ込

んだ。なかには、互いにぶつかりあって逃げ足を失ないオロオロするゴキブリや、仰向けにひっくり返った

ゴキブリもいる。P> 冷蔵庫を開いた.

 異臭が鼻をついた。肉や魚介類を包んだビニール袋の底には白く濁った腐水がたまっている。

「ものを大切にしないやつだ」

 野菜も腐っていたし、料理することもできず、寅三は調理台の扉を開き、中から良子が買いだめしている

インスタントラーメンを取り出した。

 しかし、ラーメン用に湯を沸かすといっても、鍋という鍋はすべて汚れていて、洗おうとしても、流し台

は鍋や茶碗であふれていて、とても洗える状態ではなかった。

 いつものことで、慣れてはいるものの、寅三は腹が煮えくり返ってどうしようもなかった。しかし、寅三

は、こみあげてくる苛立ちを懸命に抑え、流し台を片づけようとしてプラスチックのゴミ篭を持ち上げた。

 すると、篭の底からクラゲのようにのびた黄色いかたまりが、だらんと垂れた。良子が吐いた痰であろう。

彼はゴミ篭を元の場所へ投げやると、その場にしばらくつっ立っていた。

 結婚した当初、良子はほっそりして、顔も十人並みで、おかっぱ頭が小柄な体によく似合う女であった。

それに、すなおで明るくよく働いた。

 ところが今はどうだろう。手入れしない髪は雀の巣のように乱れ、太って幾重にも重なった顎や下腹、乳

房は腐った海鼠のように腹の辺りまでだらしなく垂れている。

 そのとき、良子がダイニングルームに入ってきた。

「あら、夕食の用意してたの?」

「用意するもしないも、こんな状態でできるもんか。それに冷蔵庫の中のものは、ほとんど腐っている」

「あら、二日まえに買ってきたばかりよ」

「なあ、よしこ。少しはモノを大切にしような。オレも手伝うから、いまからいっしょに冷蔵庫の中を片づ

けよう」

「でも、まだテレビ終ってないのよ。いまちょうどいいところがあってるんだから」

「わかった。テレビが終るまで侍つ。そのかわりテレビが終わったら片付けろよ」

「でも、なにもすることがないから、あなたが代りにやってくれてもいいでしょ」

「料理ぐらいならなんとかやるよ。でも、おまえが昼に食べたものの後片づけからなにまでどうして俺がせ

にゃならんのだ」

「だったら反対に言わせてもらうわ。ここにあるのは、私が昼に食べたものばかりじゃないわ。あなたが朝

に食べた茶碗もあるじゃないの」

「おれは朝早く、仕事に行ったから、一日中家にいるおまえがやってもいいだろ」

「でも、料理から後片づけ、掃除、洗濯、そして買い物まで、どうしてあたしがせにゃならんの?。男のあ

なたがやっても、別にバチは当たらないわ」

 寅三はしばらく黙っていた。黙っていたというより、妻の語気に圧倒されて、あきれ果てていたといった

方がいい。

「オレは仕事から帰ったばかりで、はっきり言って疲れている。おまえは寝転がって、テレビを見ている」

「テレビを見て、どこが悪いの?」

「テレビを見るのが悪いとはいわん。ただ最低限、やるべきことだけはやってほしいんだ」

「なに言ってんの。万年平社員のくせして」

「一生懸命働いているんだから、万年平社員でいいじゃないか」

「蟻みたいに働いても、人並みな給料も貰えないじゃない。安月給のくせして、大きなこと言わないでちょ

うだい」

「なにが、大きなことだ。当たりまえのことを言ってるだけじゃないか。毎週土日の休みには俺が炊事や洗

濯など、やってるだろ」

「あなたが稼いで、一体いくらになるというの。家一軒、建てられないくせして、偉そうなこと言うの止め

てちょうだい」

 たしかに良子のいうとおり、現在、ふたりが住んでいる家は結婚した当時、土建業を営んでいる良子の父

親が五千万円全額出資して建てたものである。

 月二十万円そこそこの収入では五千万円の家を建てるなど、どだい無理なはなしである。

 それに良子は虚栄心が人一倍強く、生活も派手だったため家計の一部も彼女の父親に頼っていた。

 良子の言葉は事実だけに、寅三のプライドを激しく傷つけた。

「たしかに、おまえの言うとおりかも知れん。でも、そこまで言わんでもいいだろ」

 ちくしょう!。言いたい放題言いやがってーー。寅三はこみ上げてくる怒りに、肩を小刻みに震わせた。

「なによ、その目つきは。なにか文句でもあるの?」

 良子を睨みつけた寅三の目の奥が鋭く光った。

 もう、これは妻でも人間でもない。脂肪の塊だ。

 目のまえの妻を、脂肪の塊と考えた瞬時の出来事であった。寅三の握った包丁は確実に妻の左胸を突き刺

していた。

「こん畜生っ、こん畜生!」

 妻は悲鳴をあげながら、床上で左右に転がりのたうちまわった。

 しかし、寅三の一気に吐き出す憎しみの凶刀は、床に倒れた妻めがけて、何度も突き下ろされた。

 やがて寅三は、放心したように呆然と立ったまま、いまは静かに口を閉じた妻を見つめた。

 そのうち、我に返った彼は血に染まった妻の肩を両手で持ち上げながら、妻の名を泣きながら何度も呼ん

だ。

 しかし、すでに蝋人形のように堅くなった妻はなにも応えず、いつもは反抗的な目も静かに閉じ、食べる

ことと口応えのためにあった口も、優しく結んだままであった。

 息絶えた妻の顔を横になり、息を殺すようにしてながめていた寅三は、やがてビニールのゴミ袋で妻を覆

い、ベランダにあった洗濯用のロープで幾重にも縛ったのち、庭にあったブロックといっしょに車のトラン

クに押し込んだ。

 血のりのついた床を拭き終わって、寅三が車に乗り込んだときは、時計の短針はすでに午前一時をまわっ

ていた。

 一路、西へ向かい、佐賀県唐津市から海岸線に沿って北へ車を走らせた。闇の底で時折り光る海も山の影

になってほとんど見えず、ただひたすら、闇の中を突っ走った。

 北に進路をとって二、三十分も走って目的地に着いた、東松浦半島北端に位置するこの地は、高さ四十メ

ートルの海蝕崖に、大小七つの海蝕洞が七つの釜を並べたように海へ向かって大きな口を開いている。

 星ひとつない空に、海面がうすぼんやりと白い。風もなく、断崖にうち砕ける波の音だけが辺りに響いて

いた。

 寅三はいま、ロープの端を握ったまま崖の上に立っている。ロープの片方には、車のトランクから寅三が

立っている場所までそれこそ必死に引っ張ってきた死体が結びつけられていた。

 何もかも終った。ふたりで築こうとした人生も、そして俺の人生も……。寅三はとめどなくあふれる涙を

掌でぬぐった。

「さようなら」

 寅三は足もとに転がった死体にブロックを巻きつけて、海へ投げ込んだ。

 岩に砕ける波の音を聞きながら、しばらく茫洋と広がる海をぼんやりながめていた。

 寅三が家に戻ったのは明け方近くであった。泥のように疲れた体をベッドに沈めた。しかし、頭が牙えて

寝つけない。無意識に握りしめた掌は脂汗でべとべとになって、ベッドの上で彼は何度も寝返りをうった。

 突然、窓ガラスが割れるような音がした。

 寅三は驚いて、ベッドから飛び起きて外を見た。しかし、冷静になって耳をすますと、それはいつもの牛

乳配達のビンが擦れあう音であった。日頃、聞き慣れた音までが恐怖の対象になっている自分の精神構造の

変化に対する恐さを、寅三はひしひしと感じた。

 いつの間にか、窓のカーテンが朝の光に、うっすら白く映えていた。

 その日、会社を休んだ寅三は家から一歩も外へ出ずに、悶々と一日を過ごした。

 食べ物は当分のあいだ不自由しないですむだろう。料理や後片づけの嫌いな良子が、インスタント食品や

冷凍ものを買いだめしていたからである。

 その夜も寝れなかった。遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。その数は次第に増え、しかも、集団となっ

てこちらへ向かってくるようである。

 もしかして……。警察犬と思った寅三は一瞬、身を堅くした。が、それは彼の思い違いであった。

 眠れない日が続いた。それに、家から一歩外へ出ると、なんとなく近所の人たちの視線までが以前と違っ

ているような気がした。

 このままでは気が狂ってしまう。いっときも早くこの家を出よう。それに、この家には畳や柱、床、さら

に水道の蛇囗にまで良子の霊がこびりついている。

 犯行から四日め、彼は二階建ての粗末なアパートに移り住んだ。ところが、また彼を苦しめるものがあっ

た。職場の上司や同僚の目である。

「最近、元気がないぞ。どうしたんか」

「文書にも間違いが多いし、最近のおまえはどうかしてるぞ。何かあったんか」

 同僚や上司に指摘されるようでは怪しまれるばかりだ。辞表を出すしかないーー寅三は会社に辞表を出す

と、借りたばかりのアパートを出て、あてのない旅に出た。


 ひと気のない山道をさらに歩くと、杉木立ちがとぎれ、四方の山から押し出されたような狭い平地が突然、

目に入った。

 小川が流れている。焼けつくように喉が渇いていた寅三は息をつかずに、小川の水を飲んだ。

「おっ、あれは!」

 顔をあげると山合いに隠れるようにして、一軒の古いわら葺き民家があった。炎天下の中で、とろとろと

眠っているようであった。

 寅三は昨夜から何も食べていなかった。住人に気付かれないように民家に近づいた彼は、しばらくのあい

だ、木陰から中の様子をうかがった。が、人がいる気配はない。おそらく、畑か山へ出ているのだろう。

 寅三は民家に歩み寄り、恐る恐る敷居をまたいだ。

 中は薄暗く、快いほどに冷んやりしていて、張りつめた心の糸が次第に緩んでいくのを覚えた。

 上がり框に両手をついて炉辺の方を見ると米びつが見えた。中には運良く白飯が半分ほどはいっている。

脇目もふらず、貧ぼり食った。

 満腹になった寅三は、そのうち睡魔に襲われ、やがて眠りに落ちた。

 どのくらい眠っただろうか。

「もーし」

 どこか遠くから声が聞こえる。少女の声であった。

「もーし」

 ふたたび声がした。今度は耳元でささやく距離である。

 目を覚ますと、色白でおかっぱ頭の妖精に似た娘が微笑みながらそばに立っていた。年の頃、十五、六で

あろうか。

寅三はあわてて起きあがると、気まずそうに米びつを見やりながら、

「申し訳ありません」

 沈重な顔を赤く染め、恥ずかしそうにうつ向いた。

「なにしろ昨夜からなにも食べていなかったものですから」

「まあ!、それは……」

 辛かったでしょうと寅三の立場を察したように、少女はうなづいた。

「山が好きで旅していたんですが、道に迷いまして」

 照れたように頭をかいた、 「それはお気の毒に、何もありませんが、よかったら、ゆっくりしていってください」

 娘を見たときから、寅三は込みあげてくるなんともいいようのない胸の高鳴りを感じていた。目のまえの

少女は彼が長年、心に暖め続けてきた、いわば理想の女性であった。

 二十歳以上も年が離れ、そのうえ妻を殺した寅三であったが、それでも彼は、愛する心に変わりないと思

った。

 死んだあいつが罵っていたように、確かにオレは何をさせても駄目な人間かも知れない。

 そんなオレにも、ようやく運が向いてきたようだ。目のまえに座っている娘といっしょになれたらどんな

に幸せだろう。

 寅三は端座した少女の屈託のない笑顔をまえにして思った。

「ところで、お見受けした限りではお一人でお暮らしのようですが……」

「ええ」

「それじゃあ、日も暮れましたし、そろそろ失礼しなけりゃ」

 そうは言っても寅三に失礼する気などほとんどないといってよかった。おそらく彼女の素朴で人なつっこ

い人柄や思いやりのある態度から考えて、泊っていけと言うだろうと、およそ推測がついた。

「いまからですか?」

 娘は小鳥のようにあどけない目を白黒させた。

「ええ。今夜のうちに峠を越え、町に出なけりゃと考えているんですが……」

 寅三は内心、ニタリとして言った。

「それは無理です。今夜がいくら月明の夜といっても、途中の道はいくつも分かれ道になっていますから、

どこで迷い込むか分かりません。なにももてなしもできませんが、どうぞ泊っていってください」

 一晩とはいっても理想の女性と同じ屋根の下に眠れる。彼女の言葉に、うれしさのあまり、寅三は胸の鼓

動が高鳴り、こぼれんばかりに溢れてくる喜びを必死でこらえた。

 山鳥が辺りの静けさを打ち破るように、キリで天を刺すような声で鳴いた。

 少女は炉端にあがる炎からわずかに開いた障子越しに外を見やった。遠く山の稜線がほんのり明るく、そ

れから手前は漆黒の闇が広がっているだけである。

「山もそろそろ眠りに入る時間ですわ」

「山が眠る……。?」

「山鳥も動物もねぐらへ帰って眠りに入ることを、地元の人たちはそう言うんです」

 粗朶から立ちあがる炎が辺りの壁や障子、それに少女の横顔をほの赤く染めている。

 都会では宵の口も、山懐の地ではすでに深夜である。日の出とともに目を覚まし、日暮れと同時に床につ

く。自然に逆らわずに生きているのである。

 娘は寅三を隣の部屋へ案内した。

「粗末なものですが」

 娘はそう言って、干し草や藤で編んだ布団を木床に敷くと、部屋から出ていった。

 布団に横になった寅三は、連子窓からこぼれる月の光をじっとながめていた。月は悲しいほどに青白く澄

みきって、隣の部屋に寝ている娘の、静かに微笑んだ顔が中天に浮かんだ。

 そのときであった。

 隣の部屋から何か奇妙な音が聞こえてきた。

 同時に中天に浮かんでいた娘の顔は消え、寅三は音に耳を傾けた。

 どうやら、カンナで板かなにかを削るような音である。そしてそれは、やがて金槌らしい音に変わった。

 寅三は起きあがると、破れた障子の隙間から音のする土間の方を見遣った。柱に吊るされたランプの鈍い

光が、ぼんやりと土間周辺を照らし、娘の長くふくらんだ影が、土間から壁にかけて妖怪のようにのびてい

る。

音をたててなにか作業をしているのは、隣で寝ていると思っていた少女であった。

 昼間は畑や野良仕事、そのうえ夜も働かないと食っていけないのだろう。考えてみると、十五、六の娘が

一人でこんな山間の地に暮らしているそのこと自体が、どだい無理な話しである。

 町へ売りにいく竹篭や木箱をつくっているのだろうか。娘は懸命に何か作っているのだが、彼女の背中の

陰になって、それがなにか分からない。

寅三は娘の背中越しに、なにを作っているのか尋ねた。

「よくぞ、聞いてくださいました。実を申しますと……」

 娘はそこまで言って、口ごもってしまった。

 しばらくの沈黙ののち、寅三は娘のそばの土間まで歩み寄り、尋ねにくそうに再度言葉をかけた。

「実は、棺桶なんです」

「えっ、棺桶を……!」

 娘の予想外の応えに、言葉を逸した寅三は、しばらく立ったまま彼女の作業をながめていた。

 棺桶の縁が少女の長くのびた髪の先を内と外に分け、か細い彼女の腕で振りおろす木槌が少女の髪を叩き

はしないかと寅三は心配したが、その手は確実にしっかりと目的の箇所に落ちている。

「だれか亡くなられたんですか?」

 娘は依然としてまえを向いたまま、作業の手を休めずに応えた。

「実は……、これから亡くなる人のためにです」

「これから亡なる人!。近くにだれか、病気かなんかで寝ておられるんですか?」

「いえ、病気じゃありません」

「じゃあ……、だれのために?」

「まあ、だれだと思ってらっしゃったの」

 寅三は呆然として、娘の横顔を見つめていた。

「もちろん……、あなたのためにですよ」

 低いうめき声にも似た声は、いままでの少女のそれではなかった。

 娘は作業の手を休め、ゆっくりと振り返りながら、前に垂れた長い髪を背中で束ねた。

 少女の髪に隠された顔が顕わになって、次の瞬間、寅三は絶句し、全身が金縛りにあったように立ちすく

んでしまった。

「よ、よしこっ、良子じゃないか……」


   いっぽう、ここは玄海灘へ向かって突き出たある半島である。

「と、とうちゃん、あれなんだろうネ」

 断崖に打ち砕ける波に見え隠れする物体を、少年が指さした。そばで釣糸を垂れていた父親が息子の指差

している方を見やった。

「し、死体や!。警察に電話してくるから、ここで待ってろ」

 父親はそう言うと、民家のある方へ急いで駆けていった。

 夏の陽光を浴びて、海面が鋭白色に輝いている。

「せっかく、釣りに来たというのに、イヤだなあ」

 少年は死体から水平線に視線を移し、遠く波間に揺れる漁船をぼんやりながめながら、深くため息をつい

た。

 そのとき、そばに立てかけておいた釣り竿が大きく弓状に曲がった。少年はあわててリールに手をやった。

しかし、リールはおろか、釣り竿もびくともしない。

「岩にでも引っ掛けたんやろうか」

 しばらくして、父親が戻ってきた。

 女の死体はうつ伏せになったまま、依然として波間に揺れている。

「どうした。針、引っ掛けたんか?」

 父親は息子に代って、釣り竿を持ちあげた。

「藻かなんかを引っかけたようやな」

 父親は釣糸を切らないように、寄せる波を利用しながら、少しずつ釣糸を手繰り寄せていった。エメラル

ド色の水中から釣り針に掛かった物体が水面に現われて、少年はふたたび悲鳴をあげた。

 物体は波によって大きく一回転したかと思うと、釣り針から離れて、ふたたび水中深く消えていった。

                             (完)