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弥生時代 古墳時代 飛鳥時代 奈良時代 平安時代
鎌倉時代 安土桃山時代 江戸時代
明治時代 大正時代 昭和時代
年号 | 出来事 | |
旧石器時代 | 数万年前 狩りや漁をして暮らしていた。 旧石器(打製石器) |
岩宿遺跡(群馬県) 1946年(昭和21)頃、当時在野の考古学者・相沢忠洋は関東ローム層と呼ばれる旧石器時代の地層から、黒曜石でできた打製石器を発見。この発見により、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。 これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡発見が相次ぐことになります |
縄文時代 | 13000~12000年前 | 現在の日本列島の形になる |
稲作と金属器が伝わる稲作と金属器が伝わる | ||
弥生時代 | 紀元前5~4世紀ごろ 紀元前1世紀ごろ 倭は100あまりの国に分かれていた 57 倭の奴国の国王が後漢に使いを送る (後漢書東夷伝) |
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年号 | 出来事 | |||
弥生時代 | ||||
239 | 邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送る(魏志倭人伝) 当時の倭(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬台国を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。 |
しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないことから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。(陸行水行:距離と方角からの論争が絶えない) |
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古墳時代 | 3世紀半ば~4世紀 | ヤマト政権が国内を統一する。 | ||
4世紀 | 倭が高句麗と戦う | |||
5世紀 | 倭の五王が中国に使いを送る(倭国王讃・珍・済・興・武の五人が使いを送って貢物を献じた/晉書・宋書など古代中国南朝の史書による) | |||
538 | 百済から仏教が伝わる (百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上) |
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飛鳥時代 | 593 | 聖徳太子が摂政になる。 |
NHK for schoolより |
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603 | 冠位十二階が定められる 憲法十七条が定められる (官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したもの) |
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607 | 小野妹子が隋に送られる(遣隋使) | この時代、強い力と進んだ文化を持っていた国が、隋です。太子は隋と国の交わりを結ぼうと考えました。 |
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630 | 犬上御田鍬が唐に送られる(第一回遣唐使) | |||
645 |
大化の改新 (改新の詔・新たな施政方針を示すために発せられた詔)中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼす。 |
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663 | 白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れる | |||
672 | 壬申の乱が起きる(天智天皇から天武天皇の時代へ) | 天智天皇の死後、太子大友皇子に対し、皇弟大海人皇子(天武天皇)が反旗をひるがえした。反乱者である大海人皇子が勝利。 | ||
694 | 都が藤原京に移される(現在の奈良県橿原市を中心) | |||
701 | 大宝律令が完成する (日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令) |
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令」は唐令にならいつつ、日本社会の実情に則して改変されている。 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。(Wikipediaより) |
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708 | 和同開珎が作られる (日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の第1番目) |
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奈良時代 | 710 |
平城京に都が移される (奈良市を中心に大和郡山市にかけて。唐の都「長安」を模倣して作られた) |
sankei.comより |
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712 | 古事記が作られる (太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)によって献上。日本最古の歴史書) |
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720 |
日本書紀が作られる | 日本伝存の最古の正史で、六国史の第一。 舎人親王らの撰で神代から持統天皇の時代まで。 |
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723 |
三世一身の法 墾田の奨励のため、開墾者から三世代までの墾田私有を認めた法令 |
大化の改新で朝廷は、農民に土地を貸し出すという政策をとっていました。この土地のことを「口分田」といいます。しかし奈良時代になると、人口が増えてきたことで、この口分田が足りなくなってきました。土地が足りないと食料不足にもなりかねません。そこで朝廷は「三世(さんぜ)一身の法」いう法律を作り、この問題を解決しようとしました。 「三世(さんぜ)一身の法」とは、朝廷から与えられた口分田とは別に、新しく自分で土地を切り開いた者には、その土地を3世代(孫の世代)まで自分たちの土地にしてもいいという法律です。 3世代とは言っても、当時の平均寿命は現代の3分の1ほどで、実際に支配できる期間というものは大変短いものでした。荒れた土地を開墾をするには大変な苦労と時間がかかる。農民たちにしてみれば、新しい土地を開拓する意欲もわきません。 21年後、朝廷は次の手をうちます。次に登場してくる法律が、「墾田永年私財法」です。 |
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741 |
国分寺の詔、出される |
聖武天皇が国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺とともに建立を命じた寺院 | ||
743 | 墾田永年私財法が定められる (自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令) |
「墾田永年私財法」は、三世一身の法をさらに強化させた法律でした。「三世一身の法」では、自分で切り開いた土地は孫の代まで自分の土地にしてもいいという内容でしたが、墾田永年私財法では、新しく土地を切り開いたら永年、自分の土地としてもいいというものでした。 |
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東大寺の大仏を作る詔が出される | 東大寺金堂 | |||
752 |
東大寺の大仏完成 | |||
754 | 鑑真が平城京にくる (帰化僧。日本における律宗の開祖) | ー以下、唐招提寺Hpよりー 唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。 「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。 金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。 |
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759 |
唐招提寺建立(鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山) 金堂(こんどう) 礼堂(らいどう) |
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平安時代 | 794 |
都が平安京に移される (京都市。桓武天皇により定められた) | ||
866 |
藤原良房が摂政になる (人臣最初の摂政。藤原氏の地位を確立) | 藤原良房 延暦23 (804). 京都[没]貞観14 (872).9.2. 京都平安時代前期の廷臣。通称,染殿,白河殿。藤原冬嗣の二男。 (ブリタニカ国際大百科事典より) |
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887 |
藤原基経が関白となる (日本史上初の関白) | |||
894 |
遣唐使が廃止される 菅原道真の建議により停止 | |||
935 |
平将門の乱が起こる | 関東一帯を制圧して新皇と自称し独立勢力圏を打ち立てようとしたが平貞盛、藤原秀郷らの攻撃を受けて短期間で滅ぼされた。 |
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939 | 藤原純友の乱が起こる(瀬戸内海) | |||
承平・天慶の乱 (関東の平将門の乱と瀬戸内海で起きた藤原純友の乱の総称) |
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1016 | 藤原道長が摂政となる | 藤原道長(966~1027)が「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んで栄華を極めた。 |
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1051 |
前九年の役が起こる | 陸奥の長であった安倍氏の乱。源頼義らによって鎮圧される |
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1053 |
平等院鳳凰堂が建立される (藤原氏ゆかりの寺院。極楽浄土の世界) | |
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1083 |
後三年の役 | 奥州清原氏の内乱。清原武貞の養子清衡が勝利し母方のその後藤原姓を名乗り、奥州藤原氏初代となった。 | ||
1086 |
白川上皇が院政を始める | 天皇が余力ある内に引退し、若き子の天皇を後見する。善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し上皇となったが、白川院と称して、引き続き政務に当たった。 |
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1156 |
保元の乱が起こる | 対立関係の、崇徳上皇に後白河天皇が奇襲を仕掛けた事件。後白河天皇が反対派の排除に成功した。武者ノ世の始まり | ||
1159 |
平治の乱が起こる | 後白河天皇(二条天皇へ譲位し、治天の君院政)院の近臣らの対立により起きた政変。平氏政権確立の礎。 | ||
1167 |
平清盛が太政大臣になる 武士では初めて太政大臣「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる時代 |
平清盛 → 出家後 頼朝 |
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1180 |
源頼朝が伊豆で兵をあげる(伊豆(蛭ヶ小島)で以仁王の令旨を受け平家打倒の兵を挙げる) | |||
1185 |
壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる (山口県下関市)で行われた合戦。治承・寿永の乱の最後の戦い) |
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源頼朝が守護地頭をおく 守護:武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官 地頭:公領を管理支配するために設置した職 |
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鎌倉時代 | 1192 | 源頼朝が鎌倉に幕府を作る | ||
源頼朝が征夷大将軍に任官される | ||||
1205 |
新古今和歌集が完成 後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰集 | |||
1219 |
源実朝が殺されて源氏が滅びる | 第三代征夷大将軍源実朝、鶴岡八幡宮で兄の源頼家の子公暁に襲われた。八幡宮の銀杏木の下で殺戮された話で知られている。 |
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1221 |
承久の乱が起こる (後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱) |
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京都に六波羅探題がおかれる 鎌倉幕府の職名。承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し、京都六波羅の北と南に設置した出先機関。 朝廷の動きをいち早く掴むための役所。 |
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1232 |
北条泰時が御成敗式目を制定。 武士政権のための法令。貞永式目ともいう ・最初の武家法 ・平易で文字が読めない武士も理解できた。が、対象は武士のみ。 公家法(朝廷) 本所法(荘園) ・51ケ条の内容は守護、地頭の職務、所類問題が中心 |
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1274 |
文永の役 元、及び高麗によって二度にわたり(弘安の役)日本を襲った。 蒙古襲来に対し、神風が吹くという神がかり的な信仰は、将来にわたり日本人の考え方の多くを支配することになる。 |
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1281 | 弘安の役 |
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1297 |
永仁の徳政令 -日本最初の徳政令- | 元寇での戦役や異国警護の負担から没落した御家人の借入地などを無償で取り戻すことを目的として出された日本で最初の徳政令 |
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1333 |
鎌倉幕府が滅びる | 足利高氏(尊氏)が六波羅探題を落とし、北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた |
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室町時代 | 1334 |
後醍醐天皇による建武の新政が始まる | 後醍醐天皇が親政(天皇がみずから行う政治)を開始したことにより成立した政権 |
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1336 |
南北朝の内乱が始まる | 足利尊氏による光明天皇、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂した。 |
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1338 |
足利尊氏が征夷大将軍になり室町幕府を開く | 光明天皇から征夷大将軍に任じられ正式に幕府を開く |
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1378 |
京都の室町に花の御所が建てられる (室町幕府の足利将軍家の邸宅の通称。室町御所とも呼ばれていた) |
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1392 |
足利義満が南北朝を合一する(大内義弘を仲介に南朝方と交渉、南朝が解消される形での南北朝合一を実現) | |||
1404 | 日明貿易(勘合貿易)が始まる | |||
貿易許可証である勘合符を使用するすることから勘合貿易とも呼ばれる | ||||
1428 | 正長の土一揆が起こる | |||
凶作、流行病、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めた一揆。 | ||||
1429 | 琉球王国が成立する | |||
尚巴志王が南山を滅ぼし三山を統一して成立した。 | ||||
1467 | 応仁の乱が起こる | |||
8代代将軍足利義政のときに起こった内乱。管領の細川勝元と、山名持豊らの有力守護大名が争い全国に拡大影響し、戦国時代に突入するきっかけとなる | ||||
1485 | 山城の国一揆が起こる | |||
山城(京都府南部)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った一揆 | ||||
1488 | 加賀の一向一揆が起こる | |||
本願寺門徒らが中心となった浄土真宗(一向宗)の信徒たちがおこした一揆 | ||||
1543 | ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲が伝来する | |||
種子島は火縄銃の製作が始められた場所でもある | ||||
1549 | ザビエルがキリスト教を伝える | |||
カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人 | ||||
1560 | 桶狭間の戦いが起こる | |||
大軍を引き連れて尾張に侵攻した今川義元に、尾張の大名織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲、今川義元を討ち取って今川軍を壊走させた戦い | ||||
1573 | 室町幕府が滅びる | |||
足利義昭は織田信長によって京都を追放され、室町幕府は名実ともに滅亡 | ||||
安土桃山時代 | 1575 | 長篠の戦いが起こる | ||
長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との間で行われた戦い。織田信長・徳川家康連合軍が勝利する。 | ||||
1582 | 本能寺の変が起こる | |||
明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に滞在中の織田信長を攻め、自刃させた事件。 | ||||
1587 | キリスト教が禁止される | |||
バテレン追放令。豊臣秀吉によって発令されたキリスト教弾圧の為の命令。宣教師追放令ともいわれる。 | ||||
1588 | 刀狩令が出される | |||
豊臣秀吉によって発令された百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策 | ||||
1590 | 豊臣秀吉が全国統一をする | |||
関東・東北を平定。奥州、伊達政宗が秀吉に服属、北条氏を倒し、全国統一する。 | ||||
1592 | 文禄の役が起こる | |||
豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との間で朝鮮半島を戦場にして戦われた戦い | ||||
1597 | 慶長の役が起こる | |||
1600 | 関が原の戦いが起こる | |||
豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍の間の決戦 | メモ)東軍、西軍、両軍本体だけで3カ月で6万3000石(約50憶円)の兵糧米が消費されたと推計。 戦さには装備、軍勢の移動費、糧食など膨大なカネがかかり、経済力の差が戦力の差に直結していただろう(山本博文著「関ケ原」の決算書から) |
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江戸時代 | 1603 | 徳川家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開く | ||
1607 | 江戸時代はじめての朝鮮通信使が江戸幕府に派遣される | |||
日本へ派遣された李氏朝鮮からの国使、対馬藩の努力によって、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣される。 | ||||
1615 | 大阪の陣で豊臣氏が滅びる(冬の陣、夏の陣) | |||
武家諸法度が定められる | ||||
江戸幕府が諸大名を統制するために定めた法令 | ||||
1635 | 参勤交代が確立される | |||
各藩の大名を定期的に江戸に出仕させる江戸時代の大名統制のための制度。各大名が自主的におこなっていたものを1635年の武家諸法度改定によって義務付け | ||||
1616 | ヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定 鎖国政策 | |||
1624 | スペイン船の来航が禁止される | |||
1635 | 日本人の海外渡航と帰国が禁止される | |||
1637 | 島原・天草一揆が起こる | |||
島原藩の島原半島と、唐津藩の天草諸島、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、飢饉の被害も加わり、両藩に対して反乱を起こした乱である。キリシタン(カトリック信徒)の宗教戦争の側面もある。 | ||||
1639 | ポルトガル船の来航が禁止される | |||
1641 | オランダ商館が長崎の出島に移される | |||
江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島 | ||||
1669 | シャクシャインの戦いが起こる | |||
シベチャリ(静内)のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族の蜂起 | ||||
1685 | 生類憐みの令が出される | |||
1716 | 徳川吉宗が将軍となる | |||
破綻しかけていた幕府財政を再建した。米相場の安定に苦心したことから米将軍ともいわれる。 | ||||
1722 | 上米の制が定められる | |||
享保の改革の際に出した制度。大名に石高一万石に対して百石の米を納めさせる代わりに参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした | ||||
田沼意次が老中となる | ||||
数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を取る。「賄賂政治」。将軍家治の死亡後に失脚 | ||||
1782 |
天明の大飢饉が起きる | 江戸四大飢饉の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉。田沼意次時代の重商主義政策により、農民が都市部へ流出、冷害・多雨と重なり起こった飢饉。 |
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1787 |
松平定信が老中となる 寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。 |
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「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」形式に流れることが多く、抜本的改革には苦心した |
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1790 | 朱子学以外の学問が禁止される | |||
寛政異学の禁。幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学とし、古文辞学や古学を禁じた | ||||
1825 | 外国船打払令が出される | |||
異国船打払令、外国船がしばしば来訪し上陸や暴行事件が発生したことに対し、発した外国船追放令である。無二念打払令とも言う。 | ||||
1833 | 天保の大飢饉が起こる | |||
1833年に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉。主な原因は洪水や冷害。 | ||||
1837 |
大塩平八郎の乱が起こる |
天保の大飢饉による米不足の中、買い占めを図っていた豪商らに対して天誅を加える挙兵。 幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは、幕府の要人、また幕政に不満を持つ民衆達に大きな衝撃を与えた。 |
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1838 |
高野長英、渡辺崋山らが鎖国政策を非難 | 異国船打払令を批判し開国を説く、渡辺崋山「慎機論」 | ||
1841 |
水野忠邦が株仲間を解散させる |
享保の改革で幕府に公認され、上納金を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた「株仲間」を流通の独占が物価高騰の原因であるとして、解散を命じた |
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1853 |
ペリーが浦賀に来航する 艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させた (右絵) |
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1854 | 日米和親条約が結ばれる | |||
江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した和親条約。 下田と函館が開港され、鎖国体制が崩壊。 |
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1858 |
日米修好通商条約が結ばれる 総領事ハリス、大老井伊直弼によって結ばれた通商条約。条約港の設定、領事裁判権をアメリカに認める。( 江戸・大阪の開市、自由貿易など) |
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安政の大獄が起こる | 大老井伊直弼・老中間部詮勝らが、施策「日米修好通商条約への調印および徳川家茂の将軍職継承」への反対派を弾圧した事件 |
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1860 |
桜田門外の変が起こる | 安政の大獄で反対勢力を弾圧していた井伊直弼に対し、藩主の父である徳川斉昭の謹慎などで特に反発の多かった水戸藩の浪士が大老井伊直弼の行列を江戸城桜田門で襲い暗殺した事件 |
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1862 | 生麦事件が起こる | 1863年、長州藩は関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖した。(下関事件)。 ところが翌年イギリス、フランス、アメリカ、オランダの艦隊により報復攻撃を受け下関の砲台を占領された。 攘夷に失敗した長州藩は主導権を取り戻すために京都を攻め、会津藩や薩摩藩などと戦ったが敗れた。いっぽう幕府は長州を征討し幕府に従わせた。 その後、藩の実権を握った 当時薩摩藩主であった島津久光が江戸から京都へ帰る途中,イギリス人が行列を横切ったため, 警護の武士がこれに切りつけた。(生麦事件)。 この報復で翌年,イギリス艦隊が薩摩藩を攻撃したのが薩英戦争である。 薩英戦争で敗れ攘夷が困難なことを知った薩摩は、下級武士から登用された西郷隆盛や大久保利通が藩の実権を握り、イギリスに接近して軍備を強化していった。 いっぽう、対立していた長州藩と薩摩藩は坂本龍馬の仲介により薩長同盟を結び、倒幕へと動いていった。薩長が手を結んだため、幕府が単独で政権を維持するのは困難とさとった15代将軍・徳川 いっぽう、王政復古の大号令に不満を持った旧幕府軍と新政府軍の間で、鳥羽・伏見の戦いからはじまった戊辰戦争。最後は函館の |
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武蔵国橘樹郡生麦付近において、薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷した事件、薩英戦争が勃発する。 | ||||
1863 | 薩英戦争が勃発する。 | |||
生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における砲撃事件。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを理解し、イギリスは幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。 | ||||
1864 | 下関の砲台が四カ国連合艦隊に占領される | |||
四カ国連合艦隊と長州藩の戦闘で、 砲台が破壊され下関が陸戦隊に占領された | ||||
1866 | 薩長同盟が成立する | |||
政治的、軍事的な倒幕運動に協力する6か条の同盟 | ||||
1867 | 大政奉還が行われ、江戸幕府が滅びる | |||
十五代征夷大将軍徳川慶喜が、大政(統治権)の朝廷(天皇)に対する返上を申し出た政治的事件 | ||||
明治時代 | 1868 | 戊辰戦争が起こる | ||
王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した内戦 | ||||
1869 |
版籍奉還が行われる 諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還 |
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1871 | 廃藩置県が行われる | |||
藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革 | ||||
1872 |
富岡製糸場が作られる 群馬県富岡市にある日本初の器械製糸工場。官営模範工場の一つ。 |
輸出品である繭から生糸をつくる近代的な製糸工場 |
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1873 | 徴兵令が出される | |||
国民の兵役義務を定めた法令、満20歳の男子から抽選で3年の兵役とすることを定めた | ||||
地租改正が始められる | ||||
租税制度改革。この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立した土地制度改革 | ||||
1874 | 民選議院設立建白書が政府に提出される | |||
板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した。、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとの主張 | ||||
1875 | 樺太・千島交換条約が結ばれる | |||
日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。樺太をロシア領、得撫島以北を含む千島18島を日本領と取り決めた。 | ||||
江華島事件が起こる | ||||
朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突。日朝修好条規締結の契機となった。 | ||||
1877 | 西南戦争が起こる | |||
西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。西南役、丁丑の乱、十年戦争、私学校戦争とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので、日本最後の内戦。 | ||||
1879 | 琉球藩が沖縄県とされる | |||
明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入・同年中に沖縄県を設置 | ||||
1881 | 国会の開設を政府が約束する | |||
帝国議会開設の詔・10年後に国会を開設することを天皇の名で国民に宣言 | ||||
板垣退助が自由党を作る | ||||
板垣退助らが結成した日本最初の近代政党。国会期成同盟が発展して結党された。初代党首は板垣。自由民権運動の担い手として全国に組織を広げる | ||||
1882 | 大熊重信が立憲改進党を作る | |||
自由民権運動の代表的政党の一つ。初代党首は大隈重信。地方都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤 | ||||
1884 |
秩父事件が起こる ・秩父事件とは秩父の人たちが自由党員といっしょに起こした大規模な反乱。しかし、秩父の人たちと結託した自由党は2日前に解散していた。 ・秩父の人たちは生糸価格の大暴落や農産物の下落などが立て続けに起こり貧しい生活に陥っていた。 自由党は明治六年の政変で政府をやめた板垣退助が国会開設の詔を受けて作った党です。 |
埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装事件。自由民権運動の影響下で発生した。当時日本は不況が起き、まだ産業が育っていなかったため日本の経済は大打撃を受けていました。特に農業はデフレによる農作物の大暴落によってもともと苦しかった農民の生活がさらに苦しくなってしまいました。輸出品のほとんどは生糸でした。生糸のもとである養蚕は秩父地方の重要な産業の一つでここで育てた生糸をフランスなどに輸出していました。そのため、秩父とフランスは強い関係があって秩父での最初の小学校はフランスの援助によって建てられました。 しかし、1873年から起こったヨーロッパ大不況により輸出していたフランスの生糸価格が大暴落してしまいます。 そのため、生糸による利益を頼りにしていた秩父の経済は壊滅的なダメージを受けてしまます。さらに秩父地方の養蚕農家の人々は生糸の利益をもとにしてお金を借りていたため、生糸が売れなくなってからはお金を返すことで精一杯となってしまいます。そして、追い打ちをかけるように政府は増税を進め生活は悲惨なものになっていました。(以下のURL) 【秩父事件とは】 (nihonsi-jiten.com) |
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1885 | 内閣制度発足 | |||
伊藤博文が初代の内閣総理大臣となる | ||||
1886 | ノルマントン号事件が起こる | |||
イギリス船籍の貨物船、ノルマントン号が、紀州沖で座礁沈没した事から始まった事件。この事件以降、領事裁判の不当さを感じ不平等条約撤廃の動きが高まった。 | ||||
1889 | 大日本帝国憲法が制定される 近代立憲主義に基づく日本の憲法。立憲主義の要素と国体の要素を併せ持つ欽定憲法。立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。 |
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1890 | 第一回衆議院議員総選挙が行われる | |||
第一回帝国議会が開かれる | ||||
1891 | 足尾銅山鉱毒事件を田中正造が議会で取り上げる | |||
群馬県で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点 | ||||
1894 | 日英通商航海条約 | |||
陸奥宗光による領事裁判権の廃止。不平等条約改正交渉の結果、ようやく達成できた最初の改正条約 | ||||
日清戦争が起こる | ||||
李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。豊島沖の海戦で始まった。 | ||||
1895 | 下関条約が調印される | |||
日清講和条約は、日清戦争の後に、下関市で開催された下関講和会議で締結された条約。 | ||||
ロシア・ドイツ・フランスが三国干渉を行う | ||||
下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ・ロシアの3国が行った日本に対する勧告 | ||||
1901 | 日本初の近代製鉄所「八幡製鉄所」が操業開始 |
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1902 | 日英同盟が成立する | |||
日本とイギリスとの間の軍事同盟。 | ||||
1904 | 日露戦争が起こる | |||
大日本帝国とロシア帝国とによる、朝鮮半島と中国の満州を主戦場とした戦争。極東における南下政策を押し進めるロシア帝国と、朝鮮半島を国土防衛上の生命線と位置づける新生明治日本との戦い | ||||
1905 | ポーツマス条約が調印される | |||
日露戦争の講和条約。日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印。 | ||||
1910 | 韓国併合が行われる | |||
韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本が大韓帝国を併合した事を指す | ||||
1911 | 関税の自主権の回復 | |||
小村寿太郎が日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした | ||||
大正時代 011 | 1912 | 護憲運動が起こる | ||
立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。 | ||||
1913 | 大正政変が起こる | |||
憲政擁護運動により、第3次桂内閣が倒れた。民衆運動の力が、はじめて政権を倒した事件 | ||||
1914 | ・日本が第一次世界大戦に参戦する ・大日本帝国がドイツに宣戦布告。日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦 [解説] wikipediaより ▲ 独露再保障条約の破棄と独墺同盟・露仏同盟の締結 1887年、ドイツ帝国とロシア帝国の協調関係はビスマルクが調えた秘密条約、独露再保障条約により確保された。 ▲フランスの対ドイツ政策 第一次世界大戦の遠因の一つは、その40年以上も前にあった1870-1871年の普仏戦争の結果と、それと同時に起こったドイツ統一という結末の中に見出すことができる。 ドイツがアルザス=ロレーヌを併合した後、フランスとドイツの間にある反感は世代を超えて受け継がれ、大きくなっていった。特にアルザス=ロレーヌを奪われたことが、ドイツに対する憤懣を幅広く引き起こし、それが復讐主義を生み出した。フランスの国民感情としては、軍事的かつ領土的な損失を挽回し、ヨーロッパ大陸において卓越した軍事強国としての地位を取り戻すことを望んだ。 ビスマルクはフランスが復讐を望むことを憂慮していた。彼はフランスを孤立させ、バルカンにおけるオーストリア=ハンガリーとロシアの野心をバランスさせることで平和を達成した。 フランスは最終的に敗北から復興した。戦争賠償を払い終え、軍事力を再建した。しかし、人口はドイツを下回っていたため、ドイツという強力な隣国に対して不安を感じていた。 いっぽうイギリスは、ボーア戦争で孤立した後の1900年代になって、ヨーロッパ大陸の列強国から距離を置く(いわゆる栄光ある孤立)政策を放棄した。イギリスは植民地問題に限定して、植民地問題での二つの主な競争相手と合意を結んだ。即ち、1904年にはフランスと英仏協商を結び、1907年には英露協商を結んだ。 いくらかの歴史家たちは、イギリスが協商を結んだ理由を、主にドイツの独断的な外交政策と、1898年からの英独建艦競争につながるドイツの海軍力増強に対応したものとみている[1]。 ニーアル・ファーガソンに代表される他の歴史学者たちは、イギリスがドイツと同盟を組んでも、その他の列強たちと互角になるほどドイツは強くないため、協約を結んでもイギリス帝国の安全保障が達成されないことから、イギリスはドイツよりもフランス、ロシアを選んだと議論している[2]。 イギリスの外交官 Arthur Nicolson の言葉を借りれば、それは「ドイツ一国を敵に回すよりは、フランス、ロシア二国を敵に回す方が我々にとってはよほど不利」だったのである[3]。ファーガソンは、イギリス政府がドイツからの協調の提案を拒否したのは「ドイツがイギリスに脅威をもたらしはじめたからではなく、むしろドイツはイギリスにとって大した脅威ではないと考えたからだ」と議論している[4]。 従って三国協商には二面性がある。つまりイギリスはフランス、ロシアとの関係を促進した反面、ドイツとの良好な関係を保つ優先順位は下げられたのである。それは「ドイツに向けられた敵意がドイツの孤立化を招いたというよりは、むしろ新しい同盟関係のシステムそれ自体がドイツ帝国に対する敵意を誘導し助長した」のである。 イギリス、フランス、ロシアのいわゆる三国協商は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの三国同盟 (1882年)とよく比較されるが、歴史学者たちはこの比較には注意を促している。「協商」というものは、三国同盟や露仏同盟とは異なり、相互防衛を義務付けるものではないので、イギリスは1914年の時点で、自らの外交政策を自由に決められる余地があった。イギリス外交部の外交官Eyre Croweが書き留めたように「基本的な事実は言うまでもなく『協商』とは同盟ではないということだ。究極の非常事態にあっては、協商というものは何の実質的な中身も持たないということはありうる。『協商』というものは、二国間の政府で共有した考え方の枠組み、一般政策の見方を示したものであって、それ以上のものではないが、その全ての内容が意味を失うほど曖昧になることはありうるし、実際に曖昧になってしまうこともある。」 第一次モロッコ事件(タンジール危機ともいう)は、モロッコの地位を巡る1905年3月から1906年5月にかけての国際危機である。この危機でドイツはフランス、イギリス両国との関係が悪化し、新しい英仏協商の成功を確実にすることを助長した。歴史学者
Christopher Clark は「英仏協商はモロッコにおけるドイツのフランスに対する挑戦を弱めるというよりは、むしろ強化した」と述べている。 詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」を参照
1908年、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの併合を発表した。ヨーロッパのバルカン半島にあるボスニア州(英語版)、ヘルツェゴビナ州(英語版)は、かつてはオスマン帝国の支配下にあった。 ボスニア・ヘルツェゴビナは、1908年の時点でも名目的にはオスマン帝国のスルタンの支配下であったのだが、1878年のベルリン会議で、ヨーロッパの列強たちが法的な権原はトルコに残したままで、オーストリアが両州を占有することを認めて以来、オーストリア=ハンガリーが両州の行政を行ってきていた。 1908年10月にオーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナの併合を発表したことは、バルカン半島で辛うじて保たれていた力のバランスを崩し、セルビアやヨーロッパ中の汎スラブ国粋主義者たちを怒らせてしまった。弱体化していたロシアは、屈辱を受けつつも、これを承服せざるを得なかったが、ロシアの外交部はオーストリア=ハンガリーの行動は過度に侵略的であり脅威であると考えていた。ロシアのこの対応により、セルビアやその他のバルカン半島の諸州では親ロシア、反オーストリア感情が広がり、オーストリアはこの地域でスラブ勢力が拡大することを恐れるようになった。
"The Tanks at Seishprey" (1918) by Harvey Dunn
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[ 成金の風刺画
文明開化 帝国憲法 1889年2月11日発布 |
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1915 | 中国に二十一か条の要求を出す | |||
対華21ヶ条要求。大隈重信内閣が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った | ||||
1918 |
シベリア出兵が行われる連合国(アメリカ合衆国・大日本帝国・イギリス帝国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したソ連に対し、「チェコ兵捕囚救出」という名目でシベリアに出兵した事件。 | |||
米騒動が起こる | シベリア出兵により、米価格急騰にともなう暴動事件。富山県を中心にして全国規模の民衆暴動へ発展した事件を指す。越中女房一揆ともいわれる。 |
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原敬内閣が発足 | 日本初の本格的政党内閣(衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによる)。米騒動への対応を誤った寺内正毅内閣が内閣総辞職に追い込まれ成立した。 |
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1920 |
国際連盟が成立する | 第一次世界大戦の教訓から発足した史上初の国際平和機構である。本部はスイスのジュネーブ | ||
1922 | 全国水平社、日本農民組合が結成される | |||
1923 | 関東大震災が起こる 当時の様子を寺田寅彦は日記に以下のように記している。 T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。寺田寅彦、『震災日記』 当時、フランス大使だったポールクローデルは外交書簡に以下のように記している。 被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。 |
震災直後の被服 関東大震災 |
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1924 | 第二次護憲運動 | |||
1925 | 治安維持法が成立する | |||
国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律。 | ||||
普通選挙法が成立する | ||||
加藤高明内閣によって成立した、成年男子による普通選挙を規定する法律 | ||||
1929 | 世界恐慌が起こる |
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1929年10月24日木曜日のニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落に端を発した世界規模の恐慌。資本主義先進国は例外なくダメージを受ける。日本経済は世界恐慌発生とほぼ同時に行った金解禁により危機的状況に陥る。 | ||||
昭和時代 | 1931 | 満州事変が起こる | history.ceburyugaku.jp より |
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軍部の発言力が強まり、政府を無視して引き起こされた満州における関東軍(大日本帝国陸軍)の軍事行動に端を発する国家間紛争 | ||||
1932 | 五・一五事件が起こる | |||
大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校が、突如首相官邸に乱入、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅内閣総理大臣を暗殺。この事件により日本の政党政治は衰退。 | ||||
1933 | 日本が国際連盟を脱退する | |||
1936 | 二・二六事件が起こる | |||
陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした反乱事件、クーデター未遂事件 | ||||
1937 | 日中戦争が始まる | |||
盧溝橋事件、北京の盧溝橋で起きた発砲事件を発端に日中戦争が始まる。日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 | 以下写真Wikipedia |
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1938 | 国家総動員法が定められる | |||
近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定 | ||||
1939 | 第二次世界大戦が始まる | |||
ナチスドイツのポーランド侵攻およびイギリス・フランスがドイツに対して宣戦を布告したことより始まった | ||||
1940 | 日独伊三国同盟が成立する | |||
日本、ドイツ、イタリアの間で締結された条約に基づく軍事同盟。アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟。 | ||||
大政翼賛会が発足する | ||||
新体制運動の結果発足した、国民動員体制の中核組織。 | ||||
1941 | 日ソ中立条約が結ばれた | |||
日本とソ連の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた | ||||
太平洋戦争が始まる | 真珠湾攻撃
|
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真珠湾攻撃、日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊と航空基地に対して行った奇襲攻撃。この攻撃によって太平洋戦争が始まり、日本とアメリカが第二次世界大戦に参戦した。 | ||||
1943 | イタリアが降伏する | |||
1945 | ドイツが降伏する | |||
アメリカ軍が沖縄に上陸する | ||||
広島、長崎に原爆が投下される | ||||
ポツダム宣言を受け入れ日本が降伏する | ||||
づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言。 | ||||
8月15日正午、玉音放送により、臣民と大日本帝国陸軍、大日本帝国海軍に降伏・太平洋戦争の終結が伝えられた。 | 1946年8月15日終戦翌年 東京上野駅の構内で眠る人々。 「LIFE」誌のカメラマン、John Florea撮影=渡邉氏提供 |
|||
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が財閥解体、農地改革を指令する | ||||
ポツダム宣言の執行のために日本国土の大部分を占領し、事実上の統治を行なった連合国軍の日本における司令本部により、農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。侵略戦争遂行の経済的基盤になった財閥の解体した。 | ||||
選挙法が改正され、女性に選挙権があたえられる | ||||
1946 | 日本国憲法が定められる | |||
日本国の現行憲法。世界で唯一、当事者国ではない第三国の主導により制定された憲法 | ||||
1947 | 日本国憲法が施行される | |||
1950 | 警察予備隊が作られる | |||
警察力の不足を補うための武装部隊。現在の陸上自衛隊 | ||||
1951 | サンフランシスコ平和条約が調印される | |||
第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。この条約によって正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した。 | ||||
日米安全保障条約が調印される | ||||
1960 | 新日米安全保障条約が調印される | |||
1965 | 日韓基本条約が調印される | |||
日本と大韓民国との間で結ばれた経済協力や関係正常化などの取り決めた条約。 | ||||
1968 | 小笠原諸島が日本に返還される | |||
1972 | 沖縄が日本に返還される | |||
日中共同声明が調印される | ||||
これにより日本と中華人民共和国が国交を回復した。 | ||||
1973 | 石油危機が起こる | |||
原油の供給逼迫および価格高騰と、それに伴う経済混乱。 | ||||
1978 | 日中平和友好条約が調印される | |||
日中共同声明を踏まえて、日本と中華人民共和国の友好関係の発展のために締結された条約。 | ||||
大正 | 1912 | 護憲運動が起こる | 立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。 |
1913 | 大正政変が起こる | 憲政擁護運動により、第3次桂内閣が倒れた。民衆運動の力が、はじめて政権を倒した事件 | |
1914 | 日本が第一次世界大戦に参戦する | 大日本帝国がドイツに宣戦布告。日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦 | |
1915 | 中国に二十一か条の要求を出す | 対華21ヶ条要求。大隈重信内閣が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った | |
1918 | シベリア出兵が行われる | 連合国(アメリカ合衆国・大日本帝国・イギリス帝国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したソ連に対し、「チェコ兵捕囚救出」という名目でシベリアに出兵した事件。 | |
米騒動が起こる | 米価格急騰にともなう暴動事件。富山県を中心にして全国規模の民衆暴動へ発展した事件を指す。越中女房一揆ともいわれる。 | ||
原敬内閣が発足 | 日本初の本格的政党内閣(衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによる)。米騒動への対応を誤った寺内正毅内閣が内閣総辞職に追い込まれ成立した。 | ||
1920 | 国際連盟が成立する | 第一次世界大戦の教訓から発足した史上初の国際平和機構である。本部はスイスのジュネーヴ | |
1922 | 全国水平社、日本農民組合が結成される | ||
1923 | 関東大震災が起こる | ||
1925 | 治安維持法が成立する | 国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律。 | |
普通選挙法が成立する | 加藤高明内閣によって成立した、成年男子による普通選挙を規定する法律 | ||
1929 | 世界恐慌が起こる | 1929年10月24日木曜日のニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落に端を発した世界規模の恐慌。資本主義先進国は例外なくダメージを受ける。日本経済は世界恐慌発生とほぼ同時に行った金解禁により危機的状況に陥る。 | |
昭和 | 1931 | 満州事変が起こる | 軍部の発言力が強まり、政府を無視して引き起こされた満州における関東軍(大日本帝国陸軍)の軍事行動に端を発する国家間紛争 |
1932 | 五・一五事件が起こる | 大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校が、突如首相官邸に乱入、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅内閣総理大臣を暗殺。この事件により日本の政党政治は衰退。 | |
1933 | 日本が国際連盟を脱退する | ||
1936 | 二・二六事件が起こる | 陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした反乱事件、クーデター未遂事件 | |
1937 | 日中戦争が始まる | 盧溝橋事件、北京の盧溝橋で起きた発砲事件を発端に日中戦争が始まる。日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 | |
1938 | 国家総動員法が定められる | 近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定 | |
1939 | 第二次世界大戦が始まる | ナチスドイツのポーランド侵攻およびイギリス・フランスがドイツに対して宣戦を布告したことより始まった | |
1940 | 日独伊三国同盟が成立する | 日本、ドイツ、イタリアの間で締結された条約に基づく軍事同盟。アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が米国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。実質上、対米軍事同盟。 | |
大政翼賛会が発足する | 新体制運動の結果発足した、国民動員体制の中核組織。 | ||
1941 | 日ソ中立条約が結ばれた | 日本とソ連の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた | |
太平洋戦争が始まる | 真珠湾攻撃、日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊と航空基地に対して行った奇襲攻撃。この攻撃によって太平洋戦争が始まり、日本とアメリカが第二次世界大戦に参戦した。 | ||
1943 | イタリアが降伏する | ||
1945 | ドイツが降伏する | ||
アメリカ軍が沖縄に上陸する | |||
広島、長崎に原爆が投下される | |||
・ポツダム宣言を受け入れ日本が降伏する。 ・アメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言。 ・8月15日正午、玉音放送により、臣民と大日本帝国陸軍、大日本帝国海軍に降伏・太平洋戦争の終結が伝えられた。 ・連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が財閥解体、農地改革を指令する ・連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が財閥解体、農地改革を指令する |
1946年8月15日終戦翌年 東京上野駅の構内で眠る人々。 |
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ポツダム宣言の執行のために日本国土の大部分を占領し、事実上の統治を行なった連合国軍の日本における司令本部により、農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。侵略戦争遂行の経済的基盤になった財閥の解体した。 | |||
選挙法が改正され、女性に選挙権があたえられる | |||
1946 | 日本国憲法が定められる | 日本国憲法誕生 全編 - YouTube |
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1947 | 日本国憲法が施行される | ||
1950 | 朝鮮戦争 | ||
警察予備隊が作られる | 警察力の不足を補うための武装部隊。現在の陸上自衛隊 | ||
1951 | サンフランシスコ平和条約が調印される | 第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。この条約によって正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した。 | |
日米安全保障条約が調印される | |||
1960 | 新日米安全保障条約が調印される | ||
1965 | 日韓基本条約が調印される | 日本と大韓民国との間で結ばれた経済協力や関係正常化などの取り決めた条約。 | |
1972 | 沖縄が日本に返還される | ||
日中共同声明が調印される | これにより日本と中華人民共和国が国交を回復した。 | ||
1973 | 石油危機が起こる | 原油の供給逼迫および価格高騰と、それに伴う経済混乱。 | |
1978 | 日中平和友好条約が調印される | 日中共同声明を踏まえて、日本と中華人民共和国の友好関係の発展のために締結された条約。 |
■世界地図
ちびむすドリル より
https://www.youtube.com/watch?v=dSQ7Ee6XrqE より