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初恋


      (一)

 照りつける太陽は、ほぼ頭上にあった。蝉しぐれが耳に痛い。

 私と川中はただ黙々と、室生川に沿って歩いていく。うだるような暑さもあってか、辺りに人影はなく、時折り、私たちのそばを車が追い越していくぐらいである。

 山峡の底にひっそりとたたずむ室生村は大地を床にして、なにもかも深い眠りに陥っているかのようである。老杉も、日にてらてらと焼けつく黒瓦も。

 川中とは大分市郊外の滝尾という田舎町に住んでいたころからの友人である。中学一年の終わりに父の転勤で家族全員、鹿児島の出水市に移り住んだため、しばらく交際が途絶えていた。だが、二人とも偶然に福岡市にある大学に入学したことから、ふたたび交際が始まった。

彼と私は入学と同時に、歴史研究会に入部した。大学三年で歴史研究会の部長になった川中をはじめ、部員の努力によって、多くの小論文を大学内外に発表した。

「七世紀後期の朝鮮半島情勢と水城について」や「遠の朝廷〜太宰府政庁」、「シャーマン卑弥呼とアレルギー喘息についての考察」など、福岡という地域的に私らは恵まれていたため、水城や太宰府政庁跡、四王寺山などに足繁く通い、その結果、多くの専門家によって賞賛され、注目もされた。その一部は歴史家や教授などの研究論文にもたびたび引用された。

 活動を高く評価されながら、大学も最後の学年を終えようとしていた私たちは、学生生活最後の夏休みを利用して、部員全員、総勢で奈良へやってきた。

 ひと月かけて、奈良の寺々や平城京跡、斑鳩の里、山の辺の道、飛鳥路を散策し、全員九州へ帰っていった。

 最初から予定していたことだが、川中と私だけは奈良でも東に位置する室生寺や龍穴神社、さらに龍穴へ足をのばそうと計画していたため、さらに一週間、滞在を延長した。

 川中と私は皆と別れた日、初瀬川沿いの長谷寺温泉郷に宿をとった。

「暑かったでしょう」

 見るからに人の良さそうな宿のおかみが、到着したばかりの私らに茶を持ってきた。

「奈良は盆地ですから覚悟していましたけど、それにしても暑いですね」

「いえ、この暑さは何年かぶりですよ。昨日はですね、仏壇にあげていた蝋燭が、暑さのためでしょう。曲がったんですよ」

 おかみはそう言って、太った体で大きく息をついた。

「ほう。蝋燭がですか。……。『蝋燭もうな垂れる暑さかな』、とでも言いましょうか」

 川中は自分で吐いた俳句を月並みと思ったのだろう。照れたように頭を掻きながら私の方を向いたのち、ふたたび宿のおかみに視線を戻した。

「これでも、夕方になって、ずいぶん涼しくなった方ですよ」

 温泉郷には十軒ほどの旅館があり、中でも高台に位置する格子窓を残したこの旅館は古く、まわりは木々に覆われていて、けっこう風の通りはいい。

 夕方に吹き抜ける風のことを、おかみは、「極楽の余り風」と言った。

「なるほど。極楽の余り風ですか」

 川中はおかみの言葉に感心した様子である。

「わたしどもも極楽の一員ですね。地獄に住まなくて良かった」

 川中はそう言って笑った。おかみも大きな口を開いて笑った。

 おかみが部屋を出る際、川中が、

「明日の朝、昼過ぎに室生寺に着きたいので、日の出まえに宿を出たい」と、話すと、

「室生寺まで、歩いてですか?」

 丸顔のおかみは小さな目を丸くした。

「昔は、お伊勢参りする人は皆、同じ道を歩いたんでしょう。それに比べれば、いまは道も良くなっていますし、どうってことありませんよ」

「ご面倒でしょうが、よろしくお願いします」

 川中はそう言って、軽く頭を下げた。

「いえ、いいんですよ。それにしても、お若いのに感心ですねえ」

 おかみの、「お若いのに」という感心した様子に、反対に私は、すぐに車や交通機関を頼る自分たち現在の世代を考え、恥ずかしい思いにとらわれた。

 夕食後、風呂に入り浴衣に着替えた私は、畳の上に腹ばいになって、本を開いた。

 しかし、目は文字を追うだけで、とても読書する気になれない。そこで、ぼんやりテレビに目を向けていると、しばらくして風呂からあがってきた川中が、浴衣の帯を締め直しながら、

「外を見てみろ。空が澄み切って月がきれいだ」

 中腰になりながら、開け放った窓の外を見つめた。その日は月明の夜で、折から青白い光が山々に映え、山ひだに深い影を落としている。私たちは電燈の明かりを消し、布団の上に腹ばいになった。

 月と稜線のあいだの吸い込まれそうな空に、先日秋篠寺で見た伎芸天女が微笑みながら、こちらを向いて立っていた。

 そのうち伎芸天は由美子に変わり、仏のように穏やかな彼女の顔が中空いっぱいに広がり、やがて、彼女のそばに子供のように笑っている川中の顔が並んだ。

 中天に浮かんだ二人は、向き合ったまま互いに笑みを交わし合っている。そのとき、

「まだ、起きてんのか。早く寝ないと、朝が早いぞ」

 そばで寝ぼけた川中の声がした。同時に、由美子と川中の顔が夜空から消えてしまった。

 ふたたび川中の寝息を聞きながら、私は民家の明かりがすっかり消えるころまで、いまではその数を何倍にも増した満天の星を、じっと眺めていた。


 翌朝、四時に眼を覚ますと、足音をたてないように階段を降り、温泉宿をあとにした。

 秋はもうそこまで来ていた。大地を渡る風は、暑さに慣れきった肌に、むしろ肌寒いぐらいであった。

 万葉の昔から、奈良盆地から急に山間に入り込むこの一帯は「篭口(こもりく)の初瀬」と呼ばれ、多くの旅人や歌人に親しまれた場所である。

 長谷の門前町をあとにして国道一六五号線に出たころには、うっすらと白みかけていた空も昨日と同様、夏の輝きを取り戻し始めていた。

「今日も一日、暑くなりそうだな」

 青く澄み渡った空を仰ぎながら、川中が言った。

 私たちは車の往来が少ない国道を一路、東へ歩いた。

 連綿と連なる山並み、山腹は急傾斜で左手の渓谷に落ちている。

 榛原を過ぎたところで朝食を済ませ、休まず歩いて、室生の玄関口である室生口大野に着いたのは、昼ちょっと過ぎであった。

 室生口大野から三分ほど坂を下ったところに室生寺の末寺である大野寺がある。春にはしだれ桜が美しいと聞いている。

 大野寺のそばには宇陀川が流れ、対岸の巨大な岸壁にはみごとな弥勒如来の立像が刻まれてある。高さ十メートル、光背十三メートルを越す立像は八百年もまえに造られたものという。

 巨大な磨崖仏と、まわりからそれを覆うように繁った緑色の木々、カンナで削ったように剥きだしになった柱状節理の白木に似た岩肌、夏の光をさまざまに反射させながら流れていく清流……。私たちは土手に腰をおろし、ぼんやり、それらを眺めていた。

 そのうち川中が、向こう岸へ渡ろうと言いだした。

「水着もないし、このままじゃ渡れんぞ」

 そう応えると、

「もちろん、服を脱いで、パンツ一枚だ。通行人の影もないし、恥ずかしくなんかないよ」

 そう言うが早いか、川中はさっさと洋服を脱ぎ、川に入っていった。

「おまえも来いよーっ」

 気持ち良さそうに、流れに水しぶきをあげている。

 背後を振り返り、石垣の上の道のほうを見やると、人影はなかった。しかし、人の目を気にする私は、川中のようにパンツ一枚になることには少々、気が引けた。いっぽう、川中については、荒削りで物ごとにとらわれない性格を羨ましく思った。由美子もそうした彼の性格に魅力を感じているのであろう。

 川中と由美子について、あれこれ考えていると、ちょうどそのとき、川中が立っている向こう岸へ、身をくねらせながら泳いでいく一匹の蛇が眼に入った。

 最初はただの蛇と思っていたが、黒くて小さく、三角に尖った頭から、それがマムシであることが分かった。

 マムシは細い体を水面で自由に回転させながら、川中が立っている川岸に泳ぎ着き、岸に上がろうとして、鎌首をもたげている。

「おーい。注意しろーっ」

「どうしたー」

「マムシ、マムシがいるぞー」

「どこだー?」

「おまえが立っている薮のほうに向かっている」

 思わず、大声を出していた。

「そのままこちらに戻ったら危ない。迂回しろ」

 注意したが、別段驚いた風でもない。反対に蛇が消えた足元の薮を足ではらいながら、マムシを確かめようとしている。

「危ないゾー。近くに病院もないし、もし噛まれたらどうするんだ」

「分かった。ありがとうー」

 やっと私の気持ちを理解してくれたのか、川中は藪を避け、両側から低い草薮が覆う細い道をさらに磨崖仏の方へ向かって歩きだした。

 そのとき私は、川中のことを、いっそマムシに噛まれて死ねばいいと思った。

(そうだ。噛まれて死ねばいいんだ。そうしたら、由美子の気持ちも少しはこちらへ向くだろう)

 一年ほどまえだったか。かって由美子が、同時に松本と自分の二人を好きになってしまったということを、彼女の友人から聞いたことがある。

 同時にふたりの男性を愛したからといって、由美子が軽率な女でないことは私が一番知っている。小学生のころ、三人は大の仲良しで、小川でメダカをすくったり、レンゲ畑で転げ回ったり、大分川の土手を駆けまわったり、土筆がのびた土手に腰を下ろして、「春の小川」を合唱したりして、よく遊んだ。

 幼ななじみがそのまま恋に発展することは、よくあることだし、ごく自然の成りゆきと私には思えた。

 中学に進学してすぐに、川中といっしょに彼女の家へ遊びに行ったとき、納屋のそばで幼い弟を背負い、黙々と草取りをしている由美子の姿を思い出した。

 恋のバランスが壊れたのは、ただ単に松本の方が積極的だったからかも知れない。

 由美子のことで悩んでいる私のことなど、松本はもちろん、彼女もまったく気づいていない。仮に知ったら、二人を悩ませるだけで、恋の悩みなど自分ひとりの胸の内だけで十分である。

 噛まれて死ねば、由美子の気持ちが自分へ向くだろうと考えたおのれに嫌気がさし、気がつくと、自分も宇陀川に飛び込んでいた。パンツ一枚の羞恥心やマムシのことなど、いまはもう、どうでもよかった。

 流れが体を下流へ押しやる。流れに逆らうと爽快であった。

 押し流せ。もっと激しく押し流せ。そして自分の卑劣な根性を……。

対岸に泳ぎ着くと川中が、

「よく来たな」

 嬉しそうに笑いながら、私の肩をポンとたたいた。


 渓流で水筒を満たすと、さらに室生寺へ向かって歩いた。蛇行しながらのびる道の両側は、どこまでも杉林が広がっている。

 容赦なく照りつける太陽は頭上にあり、蝉しぐれが耳に突く。大地から立ち上がる熱気のためか、目が眩んで、時折り景色が大きく揺れた。


               (二)



 渓谷に沿って、うねうねした道を一時間近く歩いただろうか。

 急に山峡が開け、朱色の橋とその向こうに社殿が見えた。左右に広がる土塀が緑の中にひときわ白い。

「着いたぞー」

 川中が弾んだ声で言った。
 室生寺は高野山と同じ真言宗の寺だが、高野山が女人禁制を継承したのに対し、江戸時代に女性にも山門を開いたところから、「女人高野」とも呼ばれている。

 室生は古代から龍が鎮座する水神さまの聖地で名高く、寺の創建についてはいまもはっきりしない。興福寺の僧・賢えいが勅命を受けて建立した寺とも、天武天皇の勅願によって建てられたともいわれている。


 室生川の水面が、珠玉を散りばめたように夏の光に輝いている。

 だが、室生寺に到着した感激も、次に襲っためまいによって、かき消されてしまった。

 全身から力が抜け、あわてて橋桁にもたれ、すんでのところで路上に倒れずにすんだ。

 川中はまえを歩いていたため、私の急変に気づかず、ほっと胸をなで下ろした。

 一年間、楽しみにしていた旅行である。川中に余計な心配をかけ、予定を変更させたくなかった。

 だが、そのときのそうした気遣いが、あとでもっと彼に心配をかけるハメになろうとは、そのとき予想さえしなかった。


 山門を左に折れ、よろい坂を登っていくと杉木立ちを背に、柿葺きの金堂があった。方五軒、前方に突き出た舞台は、朱を剥ぎ落とした扉の、さらにその内へと誘う妖しさで、見るものに迫ってくる。長年の歳月が生みだした自然との調和美であろうか。

 私は舞台の斜め下から縋破風の屋根の突端、さらに杉の先端へ向かって、シャッターをきった。

 抜けるような青空に真綿を積んだような雲、それは少年のころに川中や由美子と見上げた広大で静かな空であった。

 金堂内に入った。中心に色あせた極彩色の高さ三メートルもある光背をもつ釈迦如来が瞑想にふけった顔をこちらに向けておられる。

 向かって右手に文珠菩薩、地蔵菩薩、左手に薬師如来、十一面観音が並び、前方にひとまわりもふたまわりも小さな十二神将が立っていた。

 外のまばゆい光に比べると闇に近い空間のなかで、十二神将の目は悪童のように輝き、それぞれ怒ったり睨んだりしながら、外部からの侵入者に睨みを利かせていた。

 月が乳白色に輝く夜ともなれば、人々を襲って食べると言い伝えられる夜叉と、彼らは一斉に武器を振りまわして戦うという。

 しかし、侵入者を拒もうと睨みをきかす彼らをじっと見ていると、それぞれに親しみやすいお顔で、むしろ滑稽にさえ感じられる。

 なぜだろう。姿かたちが小さいためか、それともまわりの如来さまや観音さまが彼らとは対照的に、慈悲深いお顔で静かに微笑んでおられるからであろうか。

 十二神将には川中も特別に興味を持ったのであろう。立ったりしゃがんだりしながら、色々な角度から、しばらくそれらをひとつひとつ眺めていた。


 金堂の左手から石段をわずかに登ると、日本で最っとも小さいと言われている五重塔が杉木立ちのなかに、ひっそりと立っている。

 杉のあいだを抜ける風が、ときおり杉の梢をサワサワ鳴らし、空中を這うようにして、真綿のような小さな雲が相輪をかすめていった。

 ゆるやかな坂を上り下りしながら、さらに無明橋へ歩いていく。山気も次第に濃くなって、この辺りまでくると木々を渡る風もひんやりしてくる。

 橋の右手は一面にシダが群生していて、天然記念物指定地になっている。微細な水滴を乗せたシダが、木漏れ日を浴びて七色に輝いていた。

「しばらく休んでいくか」

 川中が言った。

「朝から歩きづめだからな」

 岩の上に腰をおろし、煙草に火をつけた。岩肌から突き出た木の根を伝って、山水が苔の上に落ちている。水を含んだ苔は、辺りの空気を緑色に染めていた。

「顔色が悪いぞ。気分が悪いんじゃないか」

 川中が心配そうに、私の顔をのぞき込んだ。

「いや、どうもない」

「歩き詰めだから、ちょっと疲れているんだろ。奥の院までかなり石段を登らにゃならんし、明日にして、今日はこのへんで宿へ戻るか」

「せっかく、ここまで来たんだ。それにオレのことは心配いらん」

 私は奥の院へ向かって、先に歩きだした。

 今日中に奥の院までは行っておきたい。

ーーと言うのも、室生へ来る途中、ラジオで聞いた天気予報によると、潮岬の沖合いを台風がこちらに向かっているという。このまま接近すると仮に明日、暴風圏内に入らなくても、雨に見舞われるのは確実である。

 できたら、計画どおり奥の院へ行って、さらに龍穴神社から龍穴まで足をのばしたい。川中も楽しみにしていた龍穴である。


 三百数十段の石段を鋭角に見上げながら、奥の院へ歩いていく。この石段のことを、「浄土に続くきざはし」と、だれかが表現豊かに例えていたが、たしかにこの地に立つと、空気の流れが止まって、時間さえ静止しているような気持ちになる。

 山頂付近に奥の院はあった。弘法大師が祠られてあるという御影堂は最近建て替えられたのか、室生寺の伽藍のなかでも際立って新しく、見栄っぱりな印象さえ受ける。この建物も、やがて長い年月とともに、辺りの風景に調和し、溶け込んでいくことであろう。


 石段を下り、奥の院から室生寺の山門を出て、龍穴へ向かった。

 室生川に沿って十分も歩くと、左手に龍穴神社がある。数十メートルもある杉に覆われた境内は昼間というのに森閑として薄暗く、時折り、山鳥の錐で刺すような鳴き声が辺りに響く。

 誰もいない重く閉ざされた扉の内からは、千数百年むかしのままに僧侶の雨乞いや止雨を祈る読経がうねりとなって聞こえてくるようであった。ここには、時の流れも世間の荒波もなにもない。

 しばらく龍穴神社を見学したのち、さらに龍穴へ歩いた。

 かって、龍穴への道は龍穴神社境内の手前から谷に沿ってはしっていたが、現在ではいちめん衣で覆ったように、大小の岩々に草や低木が張りついたように覆っている。

 さらに室生川に沿って数百メートル歩き、左へ折れると新しくつくられた林道が蛇行しながら山の上へとのびている。緑に覆われた断崖は、林道を登るにつれて、所々赤褐色の岩肌がむき出しになってくる。

 龍穴神社から三十分ほど歩いただろうか。道の左側に龍穴と書かれた小さな案内標識があった。草木に覆われているため、注意して見ないと、つい見過ごしてしまう。

 案内板から左に折れ、急な坂を下った。

 川中が眼下左手を指差す。雑木林を透かして、二メートルほどの真っ黒い間口をこちらに向け開いている巨岩があった。

 龍穴である。岩穴をもつ屏風のように切り立った岸壁は、紺青の空を覆い隠さんばかりに高くそびえていた。

 川中は岩盤でできた河原に腰をおろし、スケッチを始めた。右から左へ緩やかに傾斜した河原は、龍穴の手前で垂直に落ち込んでいる。

 樹木で覆われた一帯はひんやりとして、梢を揺らし、体を通り抜けていく爽やかな風が疲れきった心身を洗い流していくようだ。

 糸を引いたような細い流れが木漏れ日にチラチラ輝いている。川風に吹かれながら、私は江戸中期の古典学者・契沖の伝記の一節を思い出していた。

 契沖がこの地にやってきたときのことを、契沖の弟子は伝記の中に、こう記している。


 師その幽絶を愛し、

 以って形骸を捨てるに堪うとなし


 私は立ったまま、しばらく木洩れ日に輝く流れをぼんやり眺めていたが、そのうち、一枚岩の上を流れている清流に入ろうとして、靴を脱いだ。汗ばんだ体に水の冷たさが快い。

「滑りやすいから、気をつけろ!」

 背後から川中の声が飛んだ。

 そのときであった。目の前に閃光が走り、地軸が大きく左右に動くのを感じた。


 どのくらい経っただろうか。蝉しぐれに混じって、遠くから子守歌が聞こえてくるではないか。

 少女の声といい、歌といい、かってどこかで聞いたことがあるような、夢か幻か、はっきりしない、遠い昔日のなつかしさがそこにあった。村の鎮守の秋祭りのときだったかも知れない……。

 歌声はゆっくり、こちらへ近づいてくる。

 声の方に目を凝らすと、樹木のあいだから突然現れたのは十五、六の娘であった。ところどころに赤や白の小さな格子模様の入った紺がすりは色褪せていて、それがいっそう少女の肌の白さと美しさを際立たせている。

 彼女は私たちの存在に気づくと鼻筋の通った顔をこちらに向け、紅色の小さな口元に笑みを浮かべながらピョコンと頭を下げた。頬にできたえくぼが可愛い。

 ほとんどひと気のない龍穴へ、一人でお参りに来たのだろうか。何を祈っているのか、龍穴に向かって、静かに手を合わせている。

 やがて祈り終えると、龍穴に向かってふたたび頭を垂れ、降りてきた道を上っていった。

 少女を初めて目にしたとき、大きくうねり寄せる波が襲った。なんの関係もない束の間の出会いであるが、引いてゆく波は一瞬のきらめきを放ったのち、悲しさと寂しさを残したまま、いま目の前から消え去ろうとしている。

 もう二度と会えないだろう。もう一度会って、なにか一言でもいいから声を掛けたい。ーー私は少女のあとを追うことにした。

「やめろ!」

 背後で川中の声がした。しかし、私は川中の声を無視し、坂道を登った。

 少女はよほど山道に慣れているのか、カモシカを彷彿させる足の速さで、そのうち道の向こうに見失ってしまった。

 川中が待つ龍穴まで引き返すことにした。

 だが、辺りの風景がいつ、どこでどう変わったのか。前後左右に道らしい道はなく、樹葉が生い繁る雑木だけの世界がどこまでも広がっていた。

「とにかく、ここから出ないと……」

 幹や枝にからみついた蔓をかき分けながら、それこそ必死になって道を捜した。咽喉は渇き、手足は傷だらけになった。網にかかった鳥同然であった。


「まつもとー、まつもとーっ」

 そのうち、遠くで私の名を呼ぶ声がした。川中であった。

「助かった……」

「何やってんだっ」

 川中は腹立たしげに口を尖らせたが、私を見つけた安心からか、いまにも泣き出しそうである。

 そののちふたりは山中を徘徊して、民家を探し求めた。西に傾いた日は、辺りをオレンジ色に染め、山ひだに深い陰を落としている。

 山の日の入りは早い。急速に暮色が濃くなり、すでに足元には闇が迫りつつあった。

「これ以上歩くのは止したがいいと思う」

 川中の判断で、その夜はその場に寝ることにした。

 大きな木の枝と枝のあいだに縦横に横木を渡し、上から小枝をかぶせ、床には木の葉を敷きつめて小屋をつくった。

 私らが木の葉の上に横たわるにころには、日もすっかり落ちて、代わって夜空には、悲しいほど星がまたたいていた。

「どうして、あの子のあとを追ったりしたんだ」

 返事に窮した。川中の口調に先ほどの腹立たしげな響きはなかった。私は応えられずに、黙ったまま星空を眺めていた。

 そのときであった。

 重苦しい静けさを打ち破るように、突然、近くで小枝がザワザワと音をたてた。

「川中、なにかいるぞ」

「う……、うん」

 すでに眠りかけていたのか、川中は応えるのも面倒くさそうに、

「風の音だろ」と応えた。

 そのとき暗闇の中にほの白く、人影のようなものが動いた。

「やっぱり、だれかいるぞ」

 そのときになって、ようやく川中は上半身を起こして、指差す方を見つめた。

 雑木をかき分ける音が次第に近づいて、薮の中から現れたのは、小柄な老婆であった。丸い背には、竹で編んだ小さな篭を背負っている。

「こんなところでどうなされた。道に迷われたか」

「はあ」

 川中が頼りなく答えた。

「こんな場所じゃ、眠れんじゃろ」

「はあ」

「粗末な家じゃが、よろしかったら泊まっていきなされ」

 川中と私は、老婆の親切に甘えることにし、あとに従った。

 いままで雲に隠れていた月が雲間から現われ、老婆を青白く照らした。白髪にしわが目立つ。とうに七十は越しているが、目の輝きは若者のように、少しも衰えていない。

 老婆のあとに従ってしばらく経つと、大きな平地の上に突兀とした岩山が見えた。夜空を背に黒々とせり立って、月の光にそこだけが帆船のように浮かびあがっている。

 三人は帆船の底へ向かって、岩だらけのうねうねした小道を歩いていった。

 老婆の家は岩山の底に隠れるようにしてあった。右手には岩山から落ちる滝が糸を引きながら、家の裏側に向かってまっすぐ落ち、森閑とした辺りに水音を響かせている。

 老婆は節穴だらけの遣り戸を開いた。

「足もとに気ぃつけなさい」

 老婆が歩を進めるごとに、揺れるランプの光が土間の隅に置かれた農機具や紡錘車を照らす。大きな湾曲した天井の梁はむしろ不気味にも土間に向かって迫ってくるような錯覚を覚える。

 老婆は私らを炉端に座らせると、勝手の方へ立っていった。

 やがて戻ってきた老婆は自在鉤に鍋をかけ、炉の中の薪をかき混ぜた。薪が含んでいた火がふくらみ、炎をあげ始めた。自在鉤が揺れ、鍋の影が天井を揺らした。切れめない滝の音が聞こえてくる。そのとき背戸を開く音がしてだれか家の中に入ってきた。

「あらっ?」

 鈴をころがしたような声であった。背戸の方に目をやった。唖然となって、私は手に持った湯呑みを落としそうになった。上がり框まできて、ピョコンと頭を垂れた娘は、龍穴で見たあの少女ではないか。

「娘です」

 老婆が少女の方に目線を向けながら、嬉しそうに言った。七十過ぎの老婆と目のまえの少女とが親子であることに、内心驚いた。年格好や姿形から親子としての二人がどうしても結びつかない。親子というより、祖母と孫ほどの年の開きがある。狐につままれた気持ちであった。

 しかし、そうしたことなど、どうでもよかった。長年理想に描いていた女性が目のまえにいる。ただそれだけで胸はいっぱいであった。

 囲炉裏をはさんで向かい側に少女が座った。燃え上がる炎が、少女の透き通ったように白い顔を赤々と照らす。

 炎に揺れる顔は、炎の中にそのまま熔け込んで消え入りそうであった。

 小鳥のように無邪気な瞳、幼げな顔ではあるが、表情はいたって落ち着いている。ほとんど口を開かない無口な娘ではあるが、表情には絶えず笑みが漂っていた。

 

 食事ののち、老婆が娘に、私らを風呂に案内するように言った。三人は裏から外へ出、川中と私は少女のあとについて歩いた。闇と銀白色の月の光によってできた陰影が少女の黒髪を白く染めている。

 背戸を出て二、三十歩ほど歩くと、右手に小さな滝があり勢い良く滝壷に流れ落ちている。

 少女が案内した場所は、滝壷からさらに十メートルほど先であった。木々の葉で覆われているため、入浴する場所には月の光はとどいていないようである。

 少女は布を木の枝に掛けると、

「風呂あがりに使ってください」

 そう言って、家の中に戻っていった。

「しかし、驚いたなあ」

 少女が去ってから、川中に話しかけると、「ああ、きみが探していたあの少女だろ」

「なにか、夢でも見てるみたいだ」

「でも、会えて良かったじゃないか。オレもおまえが少女に会えて良かったと思っている。

 ところで松本、尋ねたいことがあるけど……」

「なんだ?」

「おまえ、あの娘を好きになったんじゃないのか?」

 黒く厚い雲が月をかすめて、左の方へ急いで流れた。

「か、からかうなよ」

「ハハハ……。すまん、すまん」

 人をからかうぐらいだから、少女に対し、川中はなんの興味も持たないのだろう。恋敵になることもない。ある意味で安心した。

 流れに身を浸して、茂みの中から眺める空は悲しいまでに高く、澄み切っていた。


 木戸のすそを持ち上げるようにして家に入ると老婆だけで、炉端に少女の姿はなかった。老婆に尋ねると、すでに寝てしまった、と言った。全身から、急に力が抜ける思いであった。

「山鳥も鳴きやんだし、わしらもぼちぼち、寝るとしますか」

 老婆は川中と私を隣の部屋に案内した。

 板戸を引くと、四畳半ほどの板床にゴザが二枚、よれよれの毛布が三、四枚あった。

「粗末なものですが、勘弁してください」

 老婆は毛布を床に広げたのち、囲炉裏部屋へ戻っていった。

 頭上の連子窓から斜めにこぼれる月の光は、足下の壁の中程までのびている。

 私は少女のことを考えて、なかなか寝付かれなかった。川中といえば、すぐに寝てしまい、いまはそばで寝息をたてている。

窓から臨む月は空高く白く冴え、それが余りにも美しいため、かえって寂しさを助長させた。月と同様、私にとって、少女も遠く掛け離れた存在にすぎない。私は何度も寝返りをうった。

 うつらうつらした状態が長い間続き、用を足しに行こうと目を覚ました。だが、そばに寝ているはずの川中の姿がない。もし起きたのなら物音で気づくはずだが……。わずかのあいだだろうが、熟睡していたのかも知れない。

 トイレにでも行ったのだろう。

 しばらくのあいだ、川中が戻ってくるのを待った。しかし、いくら待っても戻ってこない。心配になって外へ出た。

 さきほどまで出ていた月は厚い雲に覆われ、辺り一面に漆黒の闇が広がっていた。囲炉裏横の少女の寝ている部屋は墨汁で塗りつぶしたように暗く、暗闇の底にシーンと静まり返っていた。

「あの子はもう寝入っただろうか」

 家のまえは深い断崖になっていて、吸い込まれそうな漆黒の闇が谷間に向かって、深く落ち込んでいる。

「いったい、どこへ行ったんだろう」

空のわずかな明かりを頼りに、中腰で家屋周辺を探していると、そのとき、右手の方でなにかしら動くものがあった。

 足音をたてずに近づき、動いた物体に目を凝らすと、闇の中に揺れているのは、なんと、川中とあの少女であった。ふたりは崖の淵に身をすり寄せるようにして座っているではないか。

 雲が流れて、月の光が辺りいちめん射した。

 川中は少女の黒髪をなでている。

 やがて、川中の右手が少女の華奢な肩から乳房へまわる。

 次の瞬間、少女は川中にすべてをあずけるように、彼の両腕の中でのけぞった。

 雲が流れて、月が姿を現した。白銀の月明かりの下で露わになった彼女のツンと尖った乳房は、私の心をこおろぎの羽根のように震わせた。嫉妬に血が逆流し、激しい動悸が胸を熱くした。

 そうした私の失望とは反対に、川中は、「これ以上の幸せはない」といった様子で少女を抱いている。いたたまれなくなって、私は静かにその場を離れた。


(三)

 窓から射す光で目を覚ました。布団はたたまれて、川中の姿はすでになかった。

 隣の部屋で老婆らと雑談でもしているのだろうと思い引戸を引いた。が、炉辺にはだれもいない。部屋中、どこにも三人の姿はなかった。

 朝方、少々眠っただけで、昨夜私はほとんど寝ていない。

 よろけるようにして戸外へ出た。崖のほとりに立つと、昨夜、暗闇の中にあった谷が朝日に白く輝いて、はるか眼下に見えた。

 巨岩のあいだを、糸のように渓流が縫っている。そこからゆったりと立ちあがる雲霧は、まるで仙人がパイプをふかしているようであった。

 くまなく辺りを捜した。しかし川中も少女も、それに老婆の姿もなかった。昨夜の出来事は、やはり夢だったのだろうか。だが、現に私は老婆の家のまえに立っているのだ。

 川中も少女もいないこの山中に一人いても仕方なかった。地理に不慣れなため危険ではあったが、山を下りることにした。

 雑木のおい繁った山道を、汗をふきふき歩いた。来たときと同じ険しい山道である。山道というより、けもの道といった方がいい。

 先に進んでは元に戻り、ふたたび違った道を探す。五里霧中であった。

 峰伝いに歩くことに決め、急な坂を這いつくばるように登ろうとしたときであった。

 小川のせせらぎに混じって、遠くの方から私の名を呼ぶ声がした。

 声はゆっくり、こちらへ近づいてくる。雑草や雑木にさえぎられて相手の姿は見えないが、耳を澄ますと、驚いたことに川中であった。

「かわなかーっ」

 私は大声で川中を呼んだ。

 私のあとを追ってきたのだろうか。ふたたび、大声で川中を呼んだ。

 ところが夢か幻か、彼の声も私の声も漠として、感覚の中枢に触れてこない。次元の異なった世界にいるように、ふたりの声がかみ合わないのである。声をはりあげても、それはいたずらに気持ちを高揚させるだけであった。

 そのうち、川中の声だけが大きくなって、なにやら得体の知れない、自分の意志ではどうすることもできない巨大ななにものかに揺り動かされるようにして、気がつくと目を覚ましていた。

「目がさめたようだな」

「いったい、これは……?」

 川中はただ黙って、微笑んでいるだけであった。

「ここは?」

 体を起こそうとした。

「起きちゃいかん。ここは病院だ」

 起きようとして体を動かしたため、全身に激痛が走った。

「びょういん……、どうして病院なんかに?」

「医師の許可があるまで話しをしないようにとのことだ。許可がでたら話すから、それまで……」

遠くから子供たちの声が聞こえてくる。病院だからかも知れないが、かって経験したことのない静けさがあった。

「おはようございます。あっ、目がさめたようですね」

 小太りの若い看護婦が病棟へ入ってきた。

 下の方から聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声はやがて、朝のラジオ体繰の掛け声に変わった。近くに広場があるのだろう。

 朝の光を含んだ枕元のカーテンが、ひときわ白く輝いていた。

 すぐに医師がやってきた。川中は新聞をたたむと、椅子から立ちあがり、丁寧に頭を下げた。四十前後の医師は彫りの深い顔を川中からこちらに向け、

「目が覚めたようだね」

 脈を計りながら、医師は私に、頭痛や目まい、吐き気がしないか、尋ねた。

 体を動かすたびに全身て痛みが走るほかに、これといって自覚症状はなかった。

「それは良かった。念のためあとから脳波と心電図の検査をしましょう。

 それから、事故当時のことは、友だちに話してもらいなさい」

私の肩の辺りを軽くたたいてから、医師は、

「すぐに退院できますからね」

 そう言って、部屋を出ていった。

「川中、すまんな」

「心配するな。困ったときはお互いさまだ」

 医師が部屋から出ていったあと、川中は、私が村の青年団たちによって、病院にかつぎこまれるまでの−部始終を話した。

 川中をはじめ、多くの人に迷惑をかけたことが悔やまれてならなかった。午後から検査した心電図や脳波の結果は、いずれも問題なかった。医師の話しでは、日射病による意識喪失ということであった。


 二日のちに退院した。世話になった村長や青年団の家を訪ね、お礼を言ってまわったのち、室生の里をあとにした。

 わずか三日間の人院であったが、あぶら蝉やミンミン蝉の鳴き声は、急につくつく法師の鳴き声に変わり、辺りには確実に秋の気配がしのびつつあった。

「夏休みも、もうすぐ終わりだなあ」

 背伸びし空を仰ぎながら、川中が言った。

 室生から奈良へ、京都へ出て、博多行き特急寝台列車に乗った。

 すでに十時をまわっていた。

「かわなか」

 上段のベッドに横たわっている川中を呼んだ。

 返事がない。私はべッドから身を乗り出して上段をのぞいた。すでに川中は寝息をたてて眠っている。

 その夜、私はなかなか寝つかれずに、車輪とレールのきしむ音を聞いていた。そのうち、子供のころの思い出が次々に浮かんできた。


 (四)

 川中と私は、かって大分市のはずれにある滝尾町に住み、二人の家は道をはさんで、斜め向かいにあった。

 大型車がやっと離合できるほどの道の両側には昔ながらのわら葺き民家が十数軒ほど建っていて、道の片側には屋根よりずっと高い山裾が家の裏の軒先に直角に迫っていた。

 そのため、大雨が降った日などは、母が、「xxさんとこの家は大丈夫やろうか」などと、心配そうに父に話りかけていた。

反対に舗装されていない道は、晴天が続いた日など、車が通るたびに砂ぼこりが舞いあがり、母は洗濯物や掃除に苦労していたようである。

 また、東西にはしる本道と直角に、本道よりわずかに狭い道が、山裾を取り巻くように大きく蛇行しながらのびていた。道の片側は屋根の高さの数倍はある崖で、これも本道の片側に迫る山の延長で、民家の裏に直角に切り立っていた。

 いっぽう、道をはさんで反対側はいちめん平野で、はるか遠くの山裾まで田や畑が広がり、道の途中には草野球ができるほどの広場があった。夏休みのラジオ体操の場所でもあった。

 広場から山の中腹に向かって百段近い石段を登ると、古い小さな社があり、社の裏手はさらに雑木がからみつくようにおい繁った小高い山が緩やかな斜面で広がっていた。山は昆虫探しや木登りに絶好の場所であったし、ゴム銃や豆鉄砲などを作る木の枝や竹、釣りやウナギ取りの餌にする山ミミズ等の宝庫であった。喉が渇くと下の広場まで降り、近くの民家で、夏には手も凍るような冷たい水を、底も見えない深い井戸から桶で汲んだ。

 雨が降った日は、しばしば神社の屋根裏に登った。屋根裏は昼間でも暗く、風通しのために設けられた小窓から漏れる明かりの下で、小刀を使ってゴム銃や豆鉄砲などを作った。


 小学五年で、福岡から大分に転校してきたときのことである。転校してきた翌日、川中をはじめ十数人の村の子供たちが私の家に遊びにやってきた。

 その日村の子供たち全員が川中のかけ声で、大分川近くのレンゲ畑に集まった。

 全員で畑横の空き地に土俵を作り、川中は私と同学年の小柄な少年を相撲の相手に選んだ。かなり足腰の強い相手であったが、どうにか土俵の外に押し出すことができた。

 次に彼は、私と同じ年で、私と同じ背格好の子を相手に選んだ。がっぷり四つにはなったものの、一方的に土俵の向こうに押し出されて、私は尻もちをついてしまった。それから何人かと相撲を取ったが、結果は五勝五敗であった。その日、村の子全員の顔と、全員の中の自分のだいたいの力量を知った。

 喧嘩やいじめを好まぬ川中は、相撲を通して、皆それぞれに自分の力量を自覚させようとしたのであろう。

 相撲をきっかけに皆との付き合いが始まった。引っ込み思案の私を明るく快活に変えたのも、ある意味で川中であったといえよう。

 なにもできなかった私が竹馬や蝉採り、木登り、大分川を泳いで渡れるようになったのも川中のおかげである。

「溺れている者を助けるときは、抱きつかれないように、こうして後ろから岸に向かって押してやるんだ」

 泳げるようになった私に溺れる真似をさせ、彼は実際に助け方を私にやってみせた。

「しがみつかれたら、こちらまで危ないからな。溺れる者、藁をも、なんとかって言うだろ」

 川中の指導で、六年に進級したころには、私も低学年の仲間が溺れているのを何度か助けるまでに成長していた。

 川中はなにをさせても器用で、面倒見のよい彼はガキ大将であった。たまたま下級生のあいだでトラブルなどが生じたときは、彼が公平な立場で仲裁していたようだ。下級生をはじめ、仲間のあいだでの信頼は親以上のものがあった。

 勉強の成績こそ余り良くなかったが、浅黒い精悍な顔に白く澄み切った目が印象的な彼は、性格も明るくさっぱりしていた。

 相撲も二、三歳年上の先輩たちには負けなかった。相手の懐に入ったら最後、どこまでも食い下がって打ち負かす彼の取り口には大人たちも一目置いていた。

 また、掛けっこをしても、彼のまえに出るものはいなかった。村の青年団の人たち七、八人と走って彼が二着になったときは、青年団の人も呆気に取られ、いっぽう子供たちは自分たちの代表者が大人を打ちまかせたということで、全員手をたたき、小踊りして喜んだ。

 夏休みには、ラジオ体操が終わると、そのまま大分川へ行き、昨夕水底に仕掛けた鰻取りのテボを潜って上げた。鰻には移動する決まった道があり、少しでもずれると鰻はテボの中に入ってくれない。川中がつける場所を知っていて、私や他の仲間に教えた。

竹で編んだテボをあげると、重く、鰻がテボの中で踊り回っているのが手の感触に伝わってくる。私は思わず喚声をあげた。

 山や川で遊びにふけった小学時代も二年が過ぎ、私と川中は中学に進学した。

 盆も近づいたある日、川中が、近所に住む同級生の吉田由美子の家へ遊びに行こうと言いだした。

 彼女は成績は飛び抜けていたし、性格も他の生徒より落ち着いていた。それに、中学に入学したころから、細っそりした色白な顔の中にすでに女らしい美しさを漂わせていた。私たちと同学年であったが、態度や身なりは、私らよりずっと大人であった。

 自分の美しさを意識し、まわりにそれをひけらかすようなことはなく、年とともに自然と身についていく美しさは案外、本人自身も気づいていないであろう。もっとも、私自身が男の子からひとりの男性にと成長過程にあったために、彼女の美しさを意識し始めていたのかも知れない。

 無口な由美子は、肩までのびた流れるような黒髪がセーラー服によく似合った。学校や道で出会ったときは、細い唇のあいだから白い歯を見せて私らにほほ笑んだ。

 腕白を引きずったまま中学生になった私は、そうした由美子に近寄りがたいものを感じていて、小学生の終わりごろから、彼女と話すことも次第になくなっていた。

「このごろ、由美子は勉強ばっかしで、外に出てこんな」

 川中の腕白な目が光った。

「遊びを忘れたカナリアかも知れんな」

「カナリアがなんの勉強してるか、一度見に行ってみろうか」川中がいたずらそうに笑った。

「行こう、行こう」

 冷やかしもあったが、本音は由美子に会いたい思いの方が強かった。自然、足取りも軽くなった。気がつくと、遊びに行こうと言い出した川中より、私の方が急ぎ足になっていた。

 由美子の家は養豚などもやっているせいか、近所の家に比べ、敷地だけで、千坪近くあったと思う。川中と私は家のそばの耕運機や車が出入りする出入口から中へ入った。

 ところが中に入って、すぐに目に入った光景は私たちが想像した、机のまえに座ってガリ勉といったものではなかった。農機具や藁をしまった納屋の前で、一歳になったばかりの甥を背中に抱き、汗よけのタオルを頭に巻いて庭の草むしりをしていた。

 突然、庭に入ってきた私たちに気づくと、由美子は口ずさんでいた子守歌をやめ、わずかに驚いた表情をしたが、すぐに親しみをこめた笑みに戻った。白い顔に心無し紅のさす頬は、はにかんでいるようでもあった。

「家ん人は?」川中が遠慮がちに尋ねた。

「みんな、畑に出てるんよ」

「子守りか。たいへんだね」

「でも、慣れたわ」

「まいにち、子守りしてるの?」
 ゆっくり立ち上がった由美子は、まいにち子守りしてるのかという川中の問いに、静かに微笑んで答えた。白磁のように白いうなじにほっそりした肩が赤子の重みに、やっと堪えているようであった。

 彼女は遊びを忘れたカナリアではなかった。

 私たちは、わずかに盛り上がった草が生い茂る土の上に腰を落として、夕方近くまで学校での出来事や先生のこと、それに秋におこなわれる村祭りのことなどを話しあった。

 帰り際に、由美子が言った。

「盆にはぜひ、いっしょに花火しましょう」

 山の端を赤く染めている夕日が、同時に由美子の横顔も水密桃のように、ほの赤く染めていた。


 八月十四日の夕方、私たちは、約束どおり、由美子の家へ行った。

 私たちが来るのを楽しみに待っていたのだろう。

「いらっしゃーい」

 彼女は二階から私たちが立っている縁側まで急ぎ足でやってきて、明るく弾んだ声で私たちを出迎えた。白地に紺の夕顔模様の浴衣着がよく似合った。

「いらっしゃい。ふたりとも真っ黒になって、元気がいいですね」

 由美子の母親も、快く私たちを迎えてくれた。

 彼女の家で採れた西瓜を食べながら、彼女の両親もいっしょになっておしゃべりした。

「お二人とも元気ですね」

由美子の母が目を細めながら笑った。

深い井戸から上げたばかりの真っ赤に熟れた大人の頭より大きな西瓜は蜂蜜のように甘く、川中と私で半分近く食べてしまった。

「もう一つ、持ってきましょうか?」

「い、いえ、もう腹いっぱいです。ごちそうさまでした」

川中は頬を紅潮させ、頭を掻きながら、バンドを緩めた。

しばらくして、川中と由美子と私は花火を持って縁側から庭へ降りた。庭先にはたたみ四畳ほどの古池があって、縁側からこぼれる盆提灯の薄明かりが池の水面に映え、いまはすっかり地面に降りてしまった闇の底をほの白く染めていた。池の周りに植えられた鬼灯に、釣鐘のような影がいくつもぶら下がっている。

 三人は池のそばに向かい合うようにしゃがみ込むと、線香花火に火をつけた。

 パチパチ……。線香花火は棒状の激しい光を四方に放ったのち、先の尖った菊の花をいくつも咲かせ、そののち柔らかい牡丹に似た花を静かに咲かせた。やがて、ふたたび棒状の光を放った線香花火はいくつにも色彩を変えながら、しだれ柳に似た放物線を宙に描いていった。

「揺らさないでね」

 由美子の声に、私は火玉を落とすまいとして花火を持つ指に力をいれた。ところが、力を入れ過ぎたたため、かえって火玉は揺れ、純い光の尾を引いて、まっすぐ地面に落ちてしまった。

「あーあ」

 三人は、互いに顔を見合わせて笑った。

「よし、今度はボクの番だ」

 次に、川中が火をつけた。

 線香花火は花の形を変化させるたびごとに一瞬沈黙し、華麗で優しい花を、次々に咲かせていく。

 火玉の舞いに夢中になっていた私は、ふと、その向こうに、由美子の姉のような顔を意識した。それは、燃え盛る火玉に突然ぶつかったような心の衝動で、生まれて初めての経験であった。

 心臓が高鳴った。その場に座っているのが息苦しい感じで、体が火照ったように次第に熱くなっていくのが自分でも分かった。花火の放つ光は、いまはもう、完全に私の視界から消えていた。

「今度は秀ちゃんの番よ。どうしたん?」

 急に黙り込んでしまった私に、由美子が声をかけた。

「うん、うんにゃ、ちょっと……」

「どうしたんか?」

 心配して、川中が尋ねた。

「ちょっとめまいがしただけ。すまんけど、オレ、先に帰るよ」

「じゃ、花火はこれぐらいにして、また別の日にしよう。由美ちゃん、オレ、秀ちゃんを家まで送っていくから」

 そう言って、川中は花火を片づけ始めた。

「じゃ、私も送っていく」

 由美子が言った。

「でも、外は暗いし、危いぞ」

「すぐそこでしょ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。ちょっと待ってて。かあさんに言ってくるから」

 由美子はそう言って、縁側から急いで家の中へ入っていった。

 ちょうどそのとき、雪洞に似た大きな月が、納屋の上にのぼった。墨汁のような真っ黒い雲が右手から左手に速く流れて、それは、かって見たこともない悲しい月であった。

「二週間後の村祭りには、三人で参拝に行こうよ」

 母親の許可を得て外へ出てきた由美子に、川中が言った。

 五穀豊饒を祝う秋の村祭りは、娯楽施設もなにもない村にとって、一年中で最も賑わい、子供からお年寄りまで、全員、村の鎮守に集まった。

「わあー、うれしい。楽しみにしてるわ」由美子は胸のまえで両手をたたいて、嬉しくてたまらないといった様子である。

「秀ちゃんも、いいだろ」黙りこくってしまった私に、川中が言った。

「う、うん」

 その夜、由美子の顔が浮かんで、なかなか寝つけなかった。

(いまごろ、どうしているだろうか。もう寝入っただろうか。それとも蛍光燈の下で本を開いているのだろうか)

 白砂から湧き出る清水のように、由美子に対する思いはとどまることなく、強まるばかりであった。

 私は布団の中で、何度も寝返りをうった。


 翌日、私は家の中で一日を過ごした。

 翌々日もほとんど家の中で、もの思いに沈む欝患者のように長い一日を過ごした。

 三日目の昼前、心配して川中が訪ねてきた。

「どうした?。全然、出てこないけど……」

「いや、別にどうもないよ」

「でも、このごろ、家の中にくすぶってばかりじゃないか」

「夏休みの宿題、全然やってないんや。ラストスパートってとこかな」

 あの日以来固くなった口を無理に開いて、私は胸中を悟られまいとした。

「なんや、そんなことか。それなら、由美ちゃんに見せてもらったら」

「宿題を、か……?」

「うん。体を壊したら、元も子もないからな」

「ところでおまえ、宿題やったんか?」

「やったよ。いや、由美ちゃんに半分、見せてもらったけど……」

川中は照れたように頭を掻いた。

 生来、負けん気の強い川中のことである。他人の解答をまる写しするなど、考えられないことであった。宿題ができないのならできないまま宿題を提出するのが、いままでの彼であった。

 もしかしたら、宿題を見せてもらうということは口実で、由美子に会いたいがために見せてもらったのではあるまいか。川中も由美子が好きなのかも知れない。また、由美子も彼のことを……。

 川中に対する猜疑心に似たものが、彼女に対する想いをさらに膨らませていった。

 猜疑心は心が泥沼に溺れていくようなものだろうか。由美子を恋い慕う気持ちとは裏腹に、由美子に対する視線や態度はそっけないものになっていった。彼女から話しかけられても、ひとこと、ふたこと返事を返すだけで、そそくさと逃げ出す始末であった。そうしたことが後味の悪いものであることは十分わかっていたが、自分自身、どうしようもなかった。

 夏休みも終わったある日のこと、下校途中に前を歩いている由美子に気づいた。出会ったというより、前をいく由美子に急いで追いついたといった方がよい。

 そして、これもまた、自分の気持ちとは裏腹に、川中や由美子と約束していたせっかくの秋祭りを断わってしまった。由美子は、

「せっかく楽しみにしていたのに……」と残念そうな顔をしただけで、あえて理由まで尋ねようとはしなかった。


 夏休み気分も薄れた九月中旬、その年の五穀豊穣を祝って秋祭りが始まった。神社を中心にして、境内や広場には各所にのぼりや提灯が飾り付けられた。

 また境内までの道の両側には、竹や白木の枠に和紙を貼った灯篭が無数に吊るされ、境内には数件の露店も出て、夜になるとふだんは犬一匹歩かない境内を賑やかなものにした。

 祭りは深夜まで賑わった。その日に限って子供たちも、深夜まで外出が許された。

 いっぽう、「遊びを忘れたカナリア」になってしまった私は、祭りが気になって窓から外を見た。数珠のように連なった釣り提灯が由美子の家の納屋の向こうに見えた。提灯の明かりは山裾に沿って大きくカーブしながら、途中から漆黒の闇に消えている。

 あのカーブした道を曲れば境内がある。そこには川中といっしょに浴衣着の由美子もいることだろう。寝巻きを着ていた私は、居たたまれなくなって、普段着に着替えると外へ出た。

 風に揺れる提灯の下は、お宮参りに行く人々と笑い声にあふれていた。普段は黙々と働く村の人たちも、この夜ばかりは酒も入って、多少饒舌になっていた。それが我々子供たちにとって、また楽しかった。

 村人でごった返す細い道を歩いて、やがて境内の下の広場に出た。広場は露店に群がる子供たちで賑わい、石段を登りつめた社の方からは、威勢のよい太鼓の音が力強く聞こえてきた。

 鳥居をくぐろうとして、私は足を止めた。

 子供たちに混じって、まるで恋人どおしのように肩を寄せあい、金魚をすくっている二人が目に飛び込んできたのである。

 二人は、まわりの幼い子供たちと話したり笑ったりしながら金魚すくいに興じていたが、やがて金魚をすくいあげたのか、手をたたき、肩を抱き合うようにして喜び合った。

 私はきびすを返すと、あてもなく大分川へ向かって歩き出していた。

 大分川へ行くときはいつも通る道だが、家もない、背丈より高いイグサが道の両側にびっしりと*うわった道は、不気味なほど静まり返っていた。

 祭で賑わっている境内から三、四十分ほど歩いただろうか。やがて、大分川の土手に出た。対岸の砂糖きび工場の光が斜めに差して、漆黒の川面が、そこだけ真珠を散りばめたように輝いている。

 土手に寝そべって空をながめた。さきほど境内で見かけた川中と由美子のことを思うとつらかった。二人に対する独りよがりの焼き餅に過ぎないことも、私にとっては初めての経験で、自分を客観的にみるゆとりなどなかった。

 雲が流れて、銀白色に冴え渡った月が中天に現れた。冴えた月はいつもより遠くに感じられる。月との距離は同時に、由美子との距離にも思えた。

 空はさらに澄み渡り、星がまたたくのが見えた。悲しさといっしょに、由美子はさらに星の位置にまで遠のいていった。


 (五)

 翌年、父の転勤で、家族全員、鹿児島の北に位置する出水市に移った。出水市は小さな町だが、町を縫って流れる広瀬川を中心に自然が残された住みよい町で、鶴の来訪地でも全国的に知られている。

 大分を去ってからも、しばらく由美子のことが頭から離れなかった。しかし、半年もすると、そうした想いも、新しい学友や学生生活の中に薄らいでいった。

 大分を離れて五年の歳月が過ぎ、高校生活もあとひと月と迫ったある日、一通の手紙が届いた。川中からであった。

ーー大学合格、おめでとう。きみも覚えていると思うが、小学生時代の級友、滝川が、きみがQ大に合格したことを教えてくれました。工学部の建築科だってね。

ところで、ぼくもQ大に合格したんだ。文学部です。

 きみも知ってのとおり、ぼくは勉強嫌いで、つい最近まで高校を卒業したら働こうと思っていたんだけど、昨年の夏休み、滝川らと奈良や飛鳥、京都を旅行してから、急に日本史を勉強してみたくなって、受験を決意した。日本史に興味をもつなんて、その変わりように我ながらびっくりしています。

ところで話しは変わりますが、同級生の吉田由美子さんを覚えていますか。彼女も同じ大学の文学部に合格しました。

きみのことを彼女に話すと、たいそう喜んだ様子で、きみに会える日をいまから楽しみにしていると話していました。

寒さもずいぶん和らいで、大分川の土手には、いちめんにはえた土筆が頭の先を春風に揺らしています。

 卒業、入学式と大切なときだけに、風邪をひかぬようご自愛ください。

尚、アパートが決まり次第、追って連絡します。福岡へは三月の中旬に行く予定でいます。


 由美子がQ大に進学する。消えていた彼女に対する想いが、火を含んでいた薪のように、ふたたび胸の中で燃え始めた。

いまも、少女のときと同じように、飾り気のない由美子だろうか。再会するのがなんとなく恐いような気がした。

 同時に、揺らいで動く半透明な記憶の中で、白地に夕顔模様の浴衣着を着た由美子の姿がはっきりと浮かんできた。


 入学式があった日の午後、川中と由美子、それに私の三人は大学構内にある喫茶室で顔をあわせた。丸五年ぶりの再会であった。

 由美子に会うまでは不安であったが、彼女は中学時代とさほど変わらない童顔に、たえず屈託のない笑みを浮かべていた。話すより人の話を聞く物静かな性格も中学時代と同じであった。

 ただ、ほっそりした体に腕のように盛り上がった胸が以前と異なって目立った。否、彼女の胸が大きくなったというより、むしろ年とともに、女性を見る私自身が変わったから、そう思えたのかも知れない。


 入学式が終わってすぐに、私は歴史研究会に入部した。私も川中と同じで、歴史、それも古代から中世にかけて、かなりの関心を持っていた。そのため、川中とは歴史研究会でたびたび顔を合わせた。川中には野球部やサッカー部から、かなり熱心な入部の勧誘があったようだが、彼は歴史研究会に専念するということでそれらをことごとく断ったようであった。

 いっぽう由美子は自治会の役員をしていて、そのうえ学部やクラブ活動も異なっていたため、ほとんど顔を合わせる機会はなかった。

 私は何度か由美子を映画や音楽会などに誘った。が、自治会の活動が忙しいということで断られた。

 たまたま大学構内で会ったとき、食堂のそばの喫茶室でコーヒーを何度かいっしょに飲んだぐらいであった。

「せっかく音楽会などに誘ってくれるのに、いつも断ってごめんなさい。そのうち、ごいっしょしたいわ」

 申し訳なさそうに微笑んだ。自治会の役員をしながら、テニスもやっている彼女の多忙さは確かに大変なものであった。

 四年に進級するころから、私も論文作成などに迫われる毎日が続いたため、由美子と大学構内で会うことも少なくなっていった。


 そして今回、学生生活最後の夏休み、奈良へ旅行する日になって、突然、博多駅構内に由美子が現れた。彼女と会うのは、ほぼ−年ぶりであった。川中が知らせておいたのだろう。白いワンピースがひときわまぶしく感じられた。

 私たちは駅構内の喫茶室で談笑しながら改札を待ったが、そこで、川中と由美子の間柄が以前に比べ、ずいぶん変わっていることに気づいた。私がコーヒーをひとくち飲むと、由美子は川中のコーヒーに砂糖とミルクをさりげなく混ぜた。川中の好みを十分知りつくしていなければできることではない。

 喫茶店から改札口まで歩く際も、由美子は川中のそばにぴったり寄り添っていた。


 川中と由美子の間柄は、大阪へ向かう夜行列車の中で明らかになった。流れる町の灯をぼんやり眺めながら、川中と私はビッフェでビールを飲んでいた。

「まだ、だれにも話してないんだけど、卒業したら、オレ、結婚するつもりだ。生活力もなにもなくて、まだ早いとは思うけど……」

 川中は恥ずかしそうに、頭を掻いた。

 もしかして、由美ちゃんでは……。相手がだれか、思い切って尋ねてみた。川中は一瞬口ごもったのち、はにかみながら、小声で応えた。

「由美ちゃん」

 瞬間、強く引っ張っていた弦が、胸の内で音をたてて切れた。表情が険しく変わっていく自分がはっきり分かった。幸いにも川中は酔っていたし、私も少々酔っていたので、心の内側まで見抜かれずにすんだようであった。

 駅構内の喫茶室で由美子が川中のコーヒーカップに砂糖とミルクをさりげなく混ぜたのも、考えてみると、私が由美子のことを愛していることに彼女が気づいていて、二人の間柄を、さりげなく私に伝えようとしたのではなかろうか。

 列車は、ちょうど広島駅を離れたところであった。泣き出しそうな顔を見られるのが恐くて、窓の外をぼんやり見つめていた。

「どうしたんか?」

 急に黙りこんでしまった私に、川中が尋ねた。

 私は力いっぱい笑顔をつくりながら、

「少し酔っぱらった」と答えた。

 由美子を愛していることを川中は知らない。知らないから嬉しそうに、私に話したのである。

 二人の出立を、すなおに喜んでやりたい。しかし、意に反して、気持ちは沈む一方であった。

 一人になりたい……。客車という小箱の中で、行く場もなく、私はビッフェから客車に戻ると、ベッドに横たわった。

一人になりたい。その気持ちは今回の旅行をとおして、たえず私を苦しめた。


「岡山ーっ、おかやまあー」

 大阪発、長崎行きの夜行列車は、鋭い金属音を軌ませながら岡山駅に到着した。乗客で起きている者はほとんどいない。

 窓のカーテンを何気なく開いて、外を見た。列車はホームに沿って大きくカーブしている。

駅員のアナウンスと、列車の発車のためのベルがひと気のないホームに頼りなく響いた。

 そのときだった。両手に大きなバッグを持った男がよろけるようにしてホームに降り立つのが見えた。三十前後であろう。

 男は荷物をホームに置くとすぐに、続いて降りてくる女の荷物を取ってやった。女は赤子を背負っている。

 列車はゆっくりとホームを離れる。ホームに立って、赤子をあやしている夫婦に近づいたとき、女の顔を間近かに見ることができた。

 最初、三十前後に見えた女は、近くで見ると、まだ二十歳そこそこであった。乱れた髪と、赤子のうえから羽織った着物のため、実際より老けてみえたのである。

 わが子に話しかけるようにして、振り返った女の顔には、代わりに母親としての強さが感じられた。

 かって由美子が納屋の前で、一歳になったばかりの甥を背中に抱いて、庭の草をむしっていたときのことを思い出した。

 夜空の中で、こちらを向いて笑っている。

「由美ちゃん……」

 囁きかけると、由美子は右肩をこちらへ突きだし、静かに微笑んだ。

 肩には昔のままに、赤子をしっかり抱いている。

「由美ちゃん。川中と結婚するんだってね」

 由美子は応えず、こちらを向いたまま相変わらず、微笑んだままである。

 私は窓のカーテンをゆっくり閉めると、ふたたび、ベッドの上に横たわった。川中はかすかに寝息をたてている。

「かわなか、結婚おめでとう。由美ちゃんを大切にしろよ」

 左手の瀬戸内に深く垂れこめた夜のとばりも、もうすぐ消えようとしている。

 列車の車輪とレールの軋む音が次第に遠のいて、やがて深い眠りに落ちていった。


     (完)


 奥の院の舞台から、樹木を透かして室生の里が見える。夫婦だろう。五十過ぎの男女が寄り添うように話している。
人影といえば、私らの他にこのふたりだけである。

「十五年まえに来たときと比べ、室生の里もずいぶん変わったなあ」

。川沿いに民家が何件かあっただけなのに」

 夫婦の会話に眼下を見渡すと、山の中腹まで新しい家が建ちこめている。

山道は舗装され、

 長い星霜のうちに、やがては他の伽藍のように丸みを帯び、素朴な気品を漂わせることだろう。

 しばらくして、小柄な男女のふたり組が堂内に入ってきた。彼らは本尊の如来仏のまえに座ると読経を始めた。

「おもしろいアベックだ」

 細い肩は。が深いまわりの風景と絡まって、神秘なまでの


 見上げるとさっきより星は数を増し、稜線の向こうには月

 土間の履き物を直した。

 布団の敷布を手で直しながら、

冷んやりした布団が、熱した体に快い。  機敏によく動いた。

 目を閉じた川中は、そのうち寝息を立てはじめた。

 朝起きると、彼女は庭を掃除しているところであった。目をしょぼつかせながら、

るが阻止しようとた下よほどような寄りつく事の無い水を目立った。

 月明かりに浮き出た


七つの山々、まわりを蓮の花弁に囲まれた里。