皇政奉還を図った天内一族
 
ーー 東奥日報に掲載された藤本光幸「白鳥館物語」から ーーNo.2
           


   





     
 陸奥(みちのく)に向かう天真内宮義仁
 

    天真名井宮は父帝から
     
      ・神剣天羽切剣   ・源氏重代の名剣   ・膝圖の太刀

    母君から

      ・天之常立鈴鏡   ・五鈴鏡などを拝受して、勅命を奉じて討幕の軍勢を募(つの)らん

   ものと奥州に下向した。出発にさいしては、幕府の目をくらますため死亡したことにして、空葬を

   行ない、長路の潜行に80日間を要したと伝えられている。

    従う一党は、

       有明少将宗盛   東山将玄重綱   山科左中将基成   藤本左衛門尉因幡介

       大友兵部兼義   江羅光三郎紫雲丸  竹田入道覚明   佐藤将中納言忠正らとされた。

    経路は、

       京都 → 山科 → 若狭国 → 越前国 → 羽後国を経て、能代から海路、東日流(つがる)

       の深浦に上陸した。



     
     文明12年(1480年)東日流に入った天真名井宮は、吉野、出崎に露営して幕府討伐の官軍を

    募ったが安東一族の即答を得られず、中里に行軍して古川伝次郎方に食客した。古川氏がこれ

    を喜んで即興的に歌ったのがホーハイ節の初めである。

         天の宮  奉拝  奉拝  奉拝じゃな

         奉拝   東日流の里に降臨じゃ
                  
            (*松野武雄氏は「むつ」第二特集号でホーハイ節のおこりを為信の作としている。)

     天真名井宮は、この歌に感心なされ、次の御歌とともに一袋の稲穂を授けられた。

         東日流なる  萱野の里に  稲直ば  豊秋国と  栄ゆ民草

     これに対して、再びホーハイ節の返歌があった。

         稲の神  奉拝  奉拝  奉拝じゃな

         奉拝   東日流の神の天の宮

     以来、この地は菊川と称されたという。

         
      その後、文明12年8月、宮は宮沢を登り → 貴羅夷地を経て小田川に至り → 大宮沢を

     下り → 味僧沢の御成山に旅休し → 飯積領大光院法主道明法印に招ぜられて大光院に

     入り → 飯積、朝日三郎左衛門藤原藤正の高楯城に御成になって官軍挙兵の宣状を発布し

     たのである。



 
 挙兵およばず  凶作に涙のむ