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挙兵及ばず涙をのむ天真名井宮
官軍挙兵の宣状を朝日氏に宣したのであるが、朝日氏は即答できず、行丘(なみおか)城主
北畠氏、藤崎白鳥館主安東氏にはかったところ、
「東日流地方は連年凶作が続き農民の貧苦は大変である。勅命であるが、挙兵することはでき
ない」
との議に決定した。
文明13年、高楯城を出た天真名井宮義仁親王は行丘城を経て、藤崎白鳥館に入り、城主安東
義景に再度勅宣したが、義景は涙ながらに東日流の飢饉を訴えたので、天真井宮も時至るまで
東日流に居住することとなった。
かくして、藤崎白鳥館を仮御所として安東義景の食客となって機の復するのを待ったが、天災
去ること久しく、挙兵の時はなかなか到来しなかった。
行丘御所の北畠朝臣も宮のご心痛を察して、一族をあげて兵馬の数は達しなくとも望どおり
挙兵せんとしたこともあったが、義仁親王はこれをおしとめ、ついに挙兵の儀を断念し東日流永
住を決心した。
白鳥館主安東義景の長女千代姫を室とし、従臣の者たちにも妻をめとらせ、葛野に御所を建
立して、明応元年正月、解位之状を宣して俗人となり、御名も天内義仁と改め拓田に努めたの
であった。
しかし、従卒の中から都を恋うて逃げ去る者が多くなり、残る一党は次第にその数を減じていっ
た。
親王はこれを嘆いて、酒にうさをはらし、夜を通して飲む酒量は一斗を越すといい、近臣藤本
左衛門尉の戒めにもとどまらず、酒天の宮と称されたという。
明応5年、ついに身体不自在病となり、薬湯を用いたが全快せず、たまたま訪れた行丘北中野
の西光院で金光上人のご遺徳に感じ、世の無常を痛感して、自ら天真沙門と号して西光院に入
道した。
この後、酒を断って仏道に専念し、金光上人の仏跡を再興したり、皇政民治の書を記したりした
が、明応6年(1497年)8月16日に西光院往生楼で入寂し、その波乱の一生を閉じたのであった。
(永正7年入寂説もある。)
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