空への軌跡 吟遊記 '03.8月〜'03.12月
吟遊記 '03.8月〜 '03.12月


小樽詩話会40周年記念祝賀会
虚実皮膜・2
虚実皮膜 
北の朗読者 22 新妻博
「饗宴」秋の詩話会
世界の絵本作家展
古典語り部「玉饗」
日本詩人クラブ札幌イベント
トラピスチヌ修道院
詩歌と書の世界
もくじページへ
グラスリッツェン作品展
大太鼓一本打ち
アジア・プリント・アドベンチャー
インディアン水車
ハーブ・リッツ写真展
開拓の村/農村・市街地群
田んぼdeミュージカル
大ロシア展より"テルミン"
北海道開拓の村/山村・農村群





小樽詩話会 40周年記念祝賀会兼忘年会
小樽詩話会は1963(昭和38)年に喫茶「街」に集った19名により、詩を中心の自由な発言の場として発足した。その系譜を脈々と受け継いだ「小樽詩話会」の40周年号が出版された。発行人は下田修一氏で現在、世話人でもある。
「小樽詩話会40周年記念号」の出版祝賀会並びに忘年会は、12月20日小樽平安閣にて約40名の参加をもって開催された。ゲストには山本丞、只木かほる、小池温子、荒井武の各氏。
プログラムもなく、単純に参加者名簿のみが手渡されたのだが、そこにはこう書かれている。「小樽詩話会、詩というやくたいもないものを中心にすえて、素朴な円形のベンチである。」



(中央)下田修一氏

司会のおのさとし氏によって、各テーブルから順にスピーチ、歌、朗読など思い思いにほぼ二時間ずっとマイクを渡していくのだ。その意味では、聞くも聞かぬもおかまいなし。まさに円卓の自由なベンチというところだ。
朗読したのは、おのさとし氏が吉田佳代子作品「素質」を、嘉藤師穂子氏が自作詩の「百日紅―前橋の人」。わたし村田譲は「マッチを擦る」を朗読したがハンドマイクのため、手の動きが封じられて苦しかった。次回は考えよう。




ちなみに札幌例会は3月20日とのことです。



虚実皮膜 II 
伊藤隆介の「薄野心中」とは、穏やかならぬタイトル。飲みかけのコーヒー、タクシーのシルエットとともに残る姫のシルエット姿。どこまでもデジタルに数値化される年月なのだろう。本来デジタルというものは保存の手法でないのか、記憶とはなじまないと思うが、ここでは、なつかしいリズミカルなものとして感じる。それは音のせい。16ミリフィルムがカタカタとコマ送りする幼少期の出来事から繋がる、今。
藤木正則「Domestic Express」での、コーナーの隅を使って流す二通りの映像。片側は稚内から札幌、もう片側は札幌から稚内。いつもの代わり映えのしない風景とアナウンスの声。が、トンネルのなかでの窓ガラスに反射する車内を、設えたベンチに腰掛けて動けないでいる。離れた隣に誰かが座る、と背が揺れてしまう。雨が止まない。どこまで行ってもデジャブ。去り行く客、だがまた乗り込んでくる客。終わりのないスクリーンの終着駅まで。
坂東史樹の、一部屋の内側のここ。なにかを現すのではなく、雑多な闇の内の部屋。そこには、どこかでみた額縁。(アジア・プリント・アドベンチャーでの)標本箱に住む”案内者”厚みある金属の内に、今日は別物が住む。その世界の源である、反射した天からの照明の下に湖。直接は見ることのできない「深層からの標本」が。


札幌芸術の森

芸術の森美術館にて  〜2004.1.18まで(札幌市南区芸術の森2丁目75番地) http://www.artpark.or.jp




虚実皮膜 芸術の森美術館
まずタイトルが気に入った。絶対見ようと思っていてかなり楽しんできた。6人で構成しているが、1ブロックに1作品という割り振りで作る人ばかりであるから、空間が楽しめないと6作品しかないといって騒ぐことになろうか。
特に最初の鈴木涼子「Mama Doll」シリーズは目を重ねた母娘の馬鹿でかい写真9枚。意図は男たちの形骸化した会社的関係の終焉に対する、女からの自適な生活ということらしい。女性の自立ということは確かにもっと広く認知し、実行に移すものではあるが、対比がなくてはちょっとお題が遠い気がする。
坂巻正美の「けはいをきくこと;蒼穹をうつす」は宗教的な情緒が色濃い。旗と蜂蜜、墓穴に?横たわる塩。切断された頭蓋の位置。一本の光のプリズムで切る。鏡は本質を映さない、表層と仮象というが、蒼穹はどう映っていたか。うーむ、な作品。雰囲気は好きです。
上遠野敏は、地獄絵を7つのストーリーに仕立てる。例えば皮を舌のサイズに切り壁に貼る、穴が開いているからそこに、自分の嘘つきの罪悪を書いた札をぶらさげるという参加型。これは笑えるし、身近な地獄があるというのは楽しい。最後のスーパー地蔵が救済に走るの像が、ちゃちくて大笑いできる。
とても楽しいので後半は次回に。


芸術の森美術館




北の朗読者 新妻博 すみれホテル
詩を書く。エッセイも書く、俳句も、と多様な顔を持つ新妻博氏。詩誌「饗宴」秋季詩話会では「俳句の切字(キリジ)」について。”切字”はキレジと読むのが正当だという。しかし今回の参加者は詩の書き手の人たちなので、作家的には”切る”とする。 だから、あえてキリジとするとのこと。
どんな効果を持ち込むのかといえば、一種の省略でありながら単なる省略にしない。読者の想像力に訴えるようにする。
そのために単なる日常生活の説明ではいけない、単に解ればいいというものではないのだ。切ることでそこから血が吹き出す。だから、ただ切る、というその行為がいいわけではない。”切る”ことで生まれる曖昧性が想像性と通底していくとき。そのとき切るという行為は、新しい言葉の関係を展開していく。そのための意思であるのだなと思う。
切字は余韻なのかと問うなら、そのまま余韻にもなる、でも休止符にもなる、そしてリズムにもなる。それが創造性のあるリズムなら、あえて言わないでいることの効果もでてくるのだと。 でもね、と新妻氏は言う。深読みはね、しなくていいと。短歌の半分ではないですから。


新妻博氏


俳句というものをわたしは全く勉強したことがない。必要もよくわからないのだが、その道の人の話というのは違うものだと感じた。新妻氏のいう、切り口というのは絶妙であり、魅力がある。



饗宴秋の詩話会 すみれホテル
11月1日におこなわれた秋の詩話会では、新妻博氏が「俳句の切字(キリジ)」を瀬戸正昭氏が「ドイツロマン主義」をそれぞれ受け持った。
新妻博氏は、文字を切ることで、そこから血が吹き出すのです、という。しかしただ”切る”といいのでもない。切るということで生まれる曖昧なものが、どこかで想像性と通底していくとき、そこに”切る”という意識が新しい言葉の展開をもたらすものであるとのお話を伺った。さらに、だからといって深読みはしなくていい。もちろん短歌の半分ということでもまたないですしね、と。
次いで瀬戸正昭氏より、ロマン主義が元来は古典的世界語であるラテン語の作品、物語。あるいは南ヨーロッパのロマン諸語に移植したものを指すこと。ギリシャ・ローマの規範的な古典に対する新興諸民族の文学として13世紀ころから成立し始め、そのなかでドイツロマン主義は18世紀末から19世紀始めの文学風潮。精神の自由を標榜し、自己の自由を中心に据える傾向が強く、特に無限・過去・幼年時代に関心が高いのだ、と。そのなかからヘルダーリン、ノバーリスなどを紹介。



懇親会にて 一番左)綾部清隆氏 中央)嘉藤師穂子氏

第2部の懇親会では綾部清隆詩集「傾斜した縮図」出版記念会が開催された。
谷崎真澄氏と小田節子氏が詩集の総評を述べ、始めの乾杯を萩原貢氏が。そのあと詩集の感想を全員が述べたのだが、森れい氏、嘉藤師穂子氏は気に入った作品を朗読披露した。安英晶、表谷詩子、小池温子、中野頼子の各氏が参加。締めの乾杯を遠方からの同人塩田涼子氏が行なった。村田譲が司会を努めた。



世界の絵本作家展 さっぽろ大丸
子供が「ミフィーだ、ミフィー」と走り回る。べつにディック・ブルーナが好きなわけじゃあないが、会場のなかを子供が騒いでいる。これを楽しいものだと思うのは絵本作家展ならではの珍しさだろう。この暖かさが最高だ。
マーカス・フィスター「にじいろのさかな」、佐野洋子「100万回生きたねこ」、黒井健「ごんぎつね」。おなじみの五味太郎や「おやゆびひめ」のツヴェルガー等、世界11カ国から22名の作品紹介。知っていると思える懐かしさに、喜びというものの一角をみるのだ。
開催の挨拶という額縁にはこうある”絵本は子供のためだけのものではない。大人も再会し、発見する。ひとつのメディアである”と。みつけた、みつけた。




絵本の貸し出しコーナーも併設。各キャラクターの小物や絵葉書、絵本も販売。

と き:11月10日(月)まで
ところ:さっぽろ大丸 7F催事場 (JR札幌駅直結)
入場料:一般 800円 / 大高 600円 / 中学生以下無料



古典語り部「玉饗(たまゆら)」 夢創館
JR島松駅前の「夢創館」において、古典の夕べが開かれた。綾部清隆、嘉藤師穂子、森れいの三氏による、語り部「玉饗(たまゆら)」。音響に宮崎利春氏が加わった。当日は小雨模様のなか50名近い聴衆が集った。
朗読作品は、まず上田秋成の雨月物語より「菊花の約(ちぎり)」。九月九日に再会を約束しながら、従兄弟の裏切りにより幽閉されてしまったために、自刃して霊魂となり約束を果たすという、伝奇物。 主人公左門を森氏が、幽閉された軍学者赤穴を綾部氏が、地の文と老婆を嘉藤氏が担当。視線を相手に投げかけることで、会話としての動きが成立。さらに音響効果が絶大、軍学者赤穴の霊が現れようとする一節”銀河影きえぎえに氷輪我のみを照らして淋しきに、軒守る犬の吼ゆる声すみわたり・・・”などはゾクッとする。マッチしすぎかとも。
次いで古事記上巻より「別天つ神五柱から五穀の起源」の朗読。イザナキノミコトを綾部氏、イザナミノミコトを森氏が担当。主に地の文などを嘉藤氏が担当するのであるが、これは声の特性によるところが大きい。黄泉比良坂での(赤い服装で)烈火の如く叫ぶ様は、まさに森れい氏の面目躍如たるところ。逆に白い服装で地の文を淡々と、しかし変化を連ねて読みきる上手さは嘉藤師穂子氏の力量であろう。



左より)綾部清隆、嘉藤師穂子、森れいの各氏

イザナキノミコトが結婚の部分の朗読で、やや照れてしまうのは(男というのはしょうもないかな)と分かる気もするが、再考も要する。個人的にはこの場面、男尊女卑がこの時代からあるというのが気に食わないし、水蛭子(ひるこ)がどこへ流れていったのかもすごく気になる。 にしても”五穀の起源”はやはり唐突だ。それ以前の内容となにも関係ないもの。スサノオノミコトが農耕の神であることを表しているとは言われるが・・・ね。



日本詩人クラブ札幌イベント 丸駒温泉
日本詩人クラブ札幌イベントが千歳市の支笏湖畔、丸駒温泉にて開かれた。湖の景勝に優れ、また紅葉のシーズンでの開催。 現代詩研究では、石原武氏より「詩とムラ」。森常治氏より「21世紀における詩学」。ボッセの会主宰の原子修氏からは「日本の現代詩の課題」というテーマが出された。 それぞれの方々の話を曲解しながら楽しんだ。



現代詩研究会場

当初は、血縁という因習が支配した、例えば呪といった、いわば裸の”ムラ”。それが組織立つことで”村”となり、個人が所属する行政単位となる。それは順次、家族、社会さらには国家となる。しかし多くの口承詩が我々に感銘を与える、内在する言葉とは。権威に従属していく道筋で見失った、生物としての「自然からの言葉」それ自体ではないのか。
で個性と言い、精神の独立と言い。しかし20世紀の科学は、その自然を、例えば生物学の進歩は、人間の構造を解体してみせる。DNAというブロックまで露わにして、まだ、自分を主張することは可能なのか。
そうした”現代”を自問しない筆者という書き手。現代を捉えるために時代の功罪を突きつけていくとどうなるか。言葉遊び? 音楽性? 責任感のない言葉選び。根源に触れることなく狭い経験則だけに頼る作者たち。
と、いいつつ、どうしても朗読がメインだったりするわたしは作品「回帰」を朗読。詩のページにUPしました。


紅葉の支笏湖畔




トラピスチヌ修道院 函館
厳律シトー会の修道会。シトー会は聖ベネディクト(480〜547)の戒律を守ろり、一層の聖なる生活を送ろうとして、11世紀にフランスのシトーという荒野で創立。シトーの名前はここからのものである。トラピスチヌ修道院は当時の函館教区長の司祭の要請により、1898年8名の修道女によって創立された。


マリア様の前庭 大天使ミカエル像

修道院はひたすらに神に祈ることを奉仕とし、人間の使命と考え、その証明として存在する。21歳以上のカトリック信者で入会したものは、基本的に修道院の中で生活し、墓地もまた修道院のなかにある。



ルルド




詩歌と書の世界 北海道立函館美術館
函館美術館では毎年「書」の特別展を開いている。親しみやすい詩歌を題材に、漢字仮名交じりで書かれた"近代詩文書"作家協会創立30周年。
筆文字というのは、いくらかの胡散臭さと共に、肉声の迫力を持っている。
まず目に入ったのは北野攝山の書による種田山頭火句「日むかいのお地蔵さまの顔がにこにこ」。地蔵という文字の重厚な重さが染み込んでみえる。
また、小竹石雲による「濁れる水の流れつゝ澄む」のなか、”の””れ””澄む”等の文字の細さと途切れが、太い文字と相まって、清と濁を感じる。
室井玄聳による三谷木の実「十勝野の雨・・・」実に十勝を表す雄大さの文字だが、なぜ雨か? まあ、作品通りなのだが、雄大なる十勝平野の空は、いま背が低い。なんでこんな矛盾した詩を描く気になったか。だから歪んでいるのか。



北海道立函館美術館

しかしこういう見方が正しいかというと、結構怪しい。もともとわたしは、水彩画のヒトであったりもするので、意味性以上に造形美を重視する傾向がある。だが書は、そこに文字としての筆跡が認められなければ、意味があるまい。その意味で「雨ニモマケズ」の書き方。遠目の濃淡の紋様が、しかし近寄っても筆の跡は全く見えない。あまりの名文に対してなんらの再解釈もみえない。140cm近い大きさがただのプリント地。
加藤裕は、悩むところの「線」。バラけたまとまりのない感じの書だが、谷川俊太郎「おのずから線は繁茂し無をさえぎった 文字はほどけその意味するところのものに帰る」となると、ウーム。加藤有鄰が「ボーイズビーアンビシャス」(原子修)を。書で英文字というのはインパクトはあるけど、どんなものかなあ。横書きでは、木島氷竣の「胡施舞」(井上靖)が綺麗だった。
お気に入りは飯島恵美子の書、木内彰志句「魔界とはさくらの山の奥にかな」。滲んだ感じの薄墨のなかからくっきりとした魔界に鋭く落ちていく様が好きだ。
(号に氏と加えるとなんだか分からないため文中敬称略。失礼)
ちなみに函館美術館は五稜郭のすぐ横にある。


五稜郭タワーより五稜郭を望む

北海道立函館美術館  函館市五稜郭町37-6
会 期:11月16日(日)まで  10:00〜17:00 月曜休館(祝日のとき変更あり)
観覧料:一般 300円 / 大学生 150円 / 小中高・65才以上無料

http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-hakmu



メグロー派グラスリッツェン作品展 
恵庭市立図書館の2Fギャラリーで10月2日から5日まで開催されていたガラス工芸の小作品展。約100点のグラスや小皿などの作品が展示されていた。
グラスリッツエンとはダイヤモンド粒子をペン先に付着させ、グラスに微小な点を打ちつけ(スティップリング)絵を描く技法のことであり、「ダイヤモンドポイント」とも呼ばれる。15世紀のヨーロッパで特に英国で発達したガラス彫刻法。
当時の古い作品には貴族の彫像などが刻まれていた。その当時は単結晶のダイヤやガーネットなどの針を使用していたというが、現代の技術向上に伴い付着したダイヤモンド針一本の道具で済むようになった。もとより大掛かりな機械類は不要である。必要なのは忍耐力。
今回のメグロー派とは、そうしたヨーロッパの歴史のなかからスイスで生まれた。描写力にすぐれ、より絵画的・写実的といわれている。
もっともわたしは、その彫像力よりも、木にまるいガラスが生っているのを喜んでいただけであるけれども・・・。







大太鼓一本打ち 室蘭市文化センター
第四回大太鼓一本打ち北海道大会が、室蘭市文化センターに於いて9/27(土)開催された。 一本打ちというのは、一人で太鼓を打つ奏法のことである。相手をするのは北海道最大級、最大口径が1M30cm、重さ600kgの「神(カムイ)」。アフリカのカメルーンの樹齢600年、高さ50Mのブビンガという木からくり貫いたもの。楽器の演奏というよりは「神(カムイ)」との一騎打ちという趣向に引かれた。太鼓の朗読だろうという気がしたのだ。
中学、高校の部と一般の部があるのだが、基本は腕力だと思っていたので、トップの女子中学生の演奏はやはり甘い気がした。中学生では曲名「無心」の遠近感、と曲名「雷」はイメージしやすく、分かりやすい。高校の部からは4分の演奏時間になるが、曲名「煌」の女子奏者、細い体でよく打つ。それにしても二名が挑んだ曲名「阿綺羅」は余韻にすぐれた曲だと思う。一般の部、熊本から参加の藤田敬悟氏の「響」が太鼓の全面を使い強弱がはっきりしていた。
この「神(カムイ)」は炸裂音と共鳴音の差が激しいのかな?(太鼓の用語が分からんのですが)炸裂音は一撃にはいいけど、甲高く、連打すると聞き苦しい。逆に共鳴音は足元に震えがくるのだけれど、聞きなれるとめまいを感じ、誰が演奏してもあまり変らない気がする。この二つの音の中間が、明朗な響きを持つ。



神(カムイ)と奏者

にしても男女の比較で見るのは大間違いだと知る。特別ゲストの霧島九面太鼓和奏(わかな)橋本真由美氏。全然、オトコなんぞの比ではない。第一撃が違う、あそこまで太鼓で叫んだのは、男でも一人だけ。曲目「かぜ」、格が違う。
また複数の演奏者による合同演奏は聞き応えがある。まず大会開始前の最初に、室蘭の地元チーム合同の演奏「北の灘」を聞き北海道の荒々しさを思い、なつかしいような気がして、泣きそうになる。ゲストの”函館巴太鼓”も荒々しさがベースかな。それに比べて江別にある岩手県に本家がある”山口流・北海若衆太鼓”は鐘の音や太鼓の側面を用いたりと、お囃子のような雰囲気が楽しかった。石川県の”炎太鼓”ステージ慣れしていて、よく見せる。






アジア・プリント・アドベンチャー2003 
アジアを中心に33カ国81名が世界に向けて発信する版画・版の概念の展示。
前半の作品は紙という媒体にこだわった作品が多く、しかし、どちらかというとあまりに平面的でおもしろくない。版画というのは、色の厚みの手法だと思うのだが。そのなかで尹東天(韓国)の「SHIT」は、家とか事故とかヌードの写真のなかに丸で囲んだ黒べた白抜きの”しっ”という文字が書かれ、ちょっと目を引く。河東哲(韓国)「LIGHT OF SKY」は紺地の正八角形を背景に、惑星と彗星の軌跡が書かれ太陽光のようなオレンジの分割線。ランダル・クック(イギリス)の「”HART”」は鮮やかな赤と青の原色の色使い。
石井亨信(日本)の「each breath」は9枚のパネルを立てて、重ねを作り上げるのだが、自由さが広がってくるのが分かる。渋谷俊彦「森の鼓動」は30センチ程の12枚の規則的配列がカラーの作品に多彩なイメージを持ち込む。全体に日本の作家は媒体に囚われていない気がする。実に立体的に思考する。
坂東史樹の「深層からの標本”案内者”」は厚みある金属の標本箱のなかに、人形の服が留められていて、とても印象的。伊藤ひろ子「かげおくり」は蜘蛛の巣にからまった切り絵が、ライトに当たり壁に影をつくりだす。鈴木涼子「アニコラシリーズ・汗1〜9」にびっくりする。アニメのなかか出てきた理想の女性?と思ったら、顔以外は全て作り物の合成。でもこれが可愛いいと思えるのは、結構ステロタイプに蔓延し、毒されている証拠か。
松居勝敏「LAND SCAPE」が一枚の大きな写真に直接同心円のアクリ板を貼り付けることで、奇妙な揺らぐ光が不思議をかもしだす。坂巻正美「乳と蜜の流れるところ(野兎)」はバターの缶に詰められた、耳の兎の荒野。不気味な捧げ物。



北海道立近代美術館  札幌市中央区北1条西17丁目
9月28日(日)まで  入場料:一般・大学生 500円

http://www.aurora-net.or.jp/art/dokinbi/



インディアン水車 2003.9.14
千歳市のサケのふるさと館には、100年の歴史を持つ「インディアン水車」と呼ばれる鮭の捕獲装置がある。千歳のオリジナルの水車。構造はいたって簡単で水車の横に網を貼り付けて、掬いあげるようにする。捕獲された鮭は回転軸の中央にある滑り台でこちらに落ちる仕掛け。これを毎年秋に千歳川のインディアン水車橋の横に設置する。




ちょうど9月の14.15日は、インディアン水車祭りであった。ものすごい混みようで通常の駐車スペースでは足りずに、臨時の第3駐車場まで用意されている。 といってもイベントそのものはたいしたこともない(ミニ釣堀は大人気ではあったが)。せっかくなので下の子と一緒にイクラ弁当を購入して食べた。それから遡上してくる鮭を橋の上から見つけて喜んできた。




遡上する鮭からのイメージした作品「回帰」は詩誌「さよん・II」に掲載の予定。



ハーブ・リッツ写真展 大丸・さっぽろ
アメリカ的なバイタリティの具現者といわれているハーブ・リッツは1978年、当時無名であった俳優リチャード・ギアのスナップが注目を浴びデビュー。
スナップの説明文によると、その場所であること。”今在る瞬間”を突き詰めれば、この”場所”でなければならなかった。
ああ、写真とはそういうことかと納得した。ピンホールカメラの原理はアリストテレスの時代にまで遡る。この原理を用いて二つの部屋を使ったカメラオブスキュラ(黒い部屋のラテン語訳)。当初絵画のスケッチという補助具に過ぎなかった発明は、1685年のことである。その後カメラも進歩して、記録としての絵画の意味が失われたが、確執は残る。写真は芸術か・・・。さらに再現性ということでは、写真が上位を占めるがその場合ビデオとはなにか。(まあ、これらの問いは後回しにして・・・。)
マドンナの写真説明で語られるのは、本人を知らなくとも写真に魅力があれば引かれるだろうということ。撮られる人の名前に関係のない写真がいいという。写真は生き続けるという強い確信。見る度に違う、姿勢とその瞬間。普遍的であるということ。


告知ポスター(マドンナ)

”その人を撮る”というのがすごい。後ろ向きなのに、グレネードランチャー付き(?)ライフルを担ぎ上げる無造作な右腕の上げ方、肩への乗せ方で、シュワルツネッガー(ターミネーター)だと分かる。
で、一押しは”ジュリア・バーツ”。この日はどの服装もよくなかった。着替えている最中に彼氏のパンツを穿いていることが分かり、シャツ一枚かぶせて海に飛び込ませた一瞬。これは楽しい。うん、惚れるね。
と き:9月15日(月)まで
ところ:大丸・さっぽろ7Fホール JR札幌駅直結
入館料:一般 800円 / 大高 600円 / 中以下 無料




開拓の村パート2 農村・市街地群
旧納内屯田兵屋は不思議な造り。なんだか妙に広い土間からいきなり70,80センチも高いところに居住スペースがある。それでも官の支給だけあって、隙間風などない。開拓小屋のボロボロな壁とは大違いだ。
旧田村家北誠館蚕種製造所というのは、蚕を生産してその卵のオスメスを区別し、養蚕農家に販売する。なんとも分からない仕事ではある。蚕が繭をつくるのも実際にみたのは初めてだが。



蚕と繭

旧ソーケシュオマベツ駅逓所は、大正末期の宿屋兼配送業。横には馬がつながっている。馬車鉄道を引いて歩くのだ。
その鉄道沿いには市街地の家屋が並んでいる。市街地群が一番建物も多いしなんといっても賑やかだ。装蹄所だの理髪店、旅館には駄菓子も売っている。また旧小樽新聞社では記念の葉書を印刷して渡してくれる。それを旧島歌郵便局に持ち込めばオリジナルの消印で郵送できる。



市街地




「田んぼdeミュージカル」 北海道立文学館
穂別在住の平均年齢74才のジジババさまのミュージカル。 8/20に開催の北海道立文学館バージョンでは、第1部を脚本の斉藤征義氏と作家の奥泉光氏のトークが飾る。伝統的ともいえるいわゆる”老人”の在り方ではない。風景のようにただいるというのではなく、また天然ボケ的なズレた感覚のおかしさでもない。見られる存在から、表現者としての能動的な位置へ・・・映画を見る限りこの表現はなんと適切であろうか。
また、こうも言う。お年寄りと言うものは単に、労わればいいというものでもない。泣き、笑い、ごまかし、様々なアドリブやコメントで自由に演技してくる。町興しなどというマヌケな発想からすでに自在に飛び出していると。
わたし自身が、すでに自分の父母のことをわからないし、彼らが一般的な年齢でいうところの老人であるという、その意識さえ欠落していたりもする。彼らの意見など考えたこともない気がする。(ま、これで親孝行になるわけもないが。)
第2部はフォーエヴァーによるテーマ曲のコンサート。総勢7名中学の教師やら、穂別で農家してるとか、役場の税金徴収担当者とか、しかしなかなか全員は集まれない。今回は豪華キャスト。プラスワンで奥泉光氏も在京メンバーでフルートを担当。全体にエレクトリックな音が中心かと思うが、乗りのいい音楽。叫び声をだしたくなるようなテンポのよさがある。源次郎のテーマという曲では、バンマスのトライアングルの音がとても綺麗。どんなことしてもライブはいいよねえ。
そして上映。台所で女が踊り、農機具を持って男が踊る。ミュージカルであるということは(ドキュメンタリーでないことが)こんなにも可能性のあることだったか。




大ロシア展 千歳サケのふるさと館
千歳"サケのふるさと館"で開催中の「大ロシア展」。
アムール川上流に位置する世界最古、最大容積、259種のヨコエビが生息する”シベリアの青い真珠”バイカル湖に引かれ行ってきた。今回の展示にはシベリアの生きた魚類の展示は少ない。生き物の扱いは難しく、その分”ふるさと館”元来の千歳川水中観察室での、遡上する魚たちを覗き見ることで補完するような構成であるのはいたし方のないところか。
それでもロシアの民族衣装を直に着てもいいという試着コーナーなどはおもしろい。触ってくるだけでも楽しいものだ。サハリン郷土資料室には、アイヌの民族衣装と酷似した北方圏の衣服があるといわれているようだ。もっと学術的な対比もほしい。
今回いちばん引かれた展示物は1920年にレフ・セルゲヴィッチ・テルミンが作り出した世界最初の電子楽器である楽器”テルミン”だった。


テルミン

水平と垂直の2本のアンテナと手との間の空間にある電気量(静電容量)を変化させることで音の高低を生み出す。と、いっても実際には何もないところに手を伸ばすとヴュワォーォオンゥウンというのは奇妙でもあり、おもしろくもあり。
もっと来場者の前に出して触らせないともったいない。指が歌うのだぞ。
その後でマルチビジョンでサケの一生をのぞくのもわるくない。

大ロシア展 
と き:9月15日(月)まで
ところ:サケのふるさと館  千歳市花園2-312インディアン水車公園内
入館料:大人 800円 / 高大 500円 / 小中 300円
http://www.city.chitose.hokkaido.jp/tourist/salmon/




北海道開拓の村 山村・農村群
野外博物館、北海道開拓の村に行ってみた。 たいして興味のあったわけではないのだが、妻と同行して2時間ほどかけて回ることになった。まずは右手の旧札幌農学校寄宿舎。現在の北大の古い恵迪寮だが、昔自分の通っていた小学校の渡し廊下や、がっさい窓などを思い出してしまった。
順次、山村群からスタートしたのだが、炭焼小屋や開拓小屋などの位置は、元からの地形を利用しているのだろう、山坂を上り下りしないと辿り着かない。旧平造材部飯場などは暗い森の中をわずかに伐採したような所。内部も汲々とした寝床で、いわゆるタコ部屋なのかとも思う。
次いで見た、旧菊田家農家住宅と開拓小屋の差はすさまじい。年代をはっきりと記憶していないので、一概には言えないものの、開拓小屋は奥まった所で蕎麦やデントコーンに囲まれている。食卓は林檎箱だし、窓も入口も厚手の筵。梁だけは丸太を使っているが、壁は葦のような乾燥草を束ねたものだ。広場に面し井戸がある旧菊田家の漆喰(と思う)の壁とは雲泥の差だ。
農村群も徐々に年代が経つにつれ農家も物持ちが良くなってきたのは、感じられる。旧岩間家などは20人程度の宴会ならどんとこいなのだ。
こうまでして北海道に来る、来なくてはならなかった開墾という事業は、確かに一言では言いがたい。


開拓小屋 内部

北海道開拓の村 札幌市厚別区厚別小野幌50-1
入村料: 一般610円 / 大学生450円(夏期) http://www.kaitaku.or.jp



戻る