「ちょっと待ちなっせ、おかしうはなかな」と言える感性を
〜言葉かけなど行動へうつしましょう〜
平成19年11月
山鹿市民会館ホール


 皆さん、おはようございます。ただいま御紹介いただきました中川です。
 皆さんの中に、山部先生が私を紹介されるとき、怪訝な顔をしていらっしゃる方がおられました。お手元のレジュメを見ながら「こっで『ありとし』と読むのだろうか?」と思われたのでしょう?「うん、うん」と頷いていらっしゃる方がいらっしゃいます。これで「ありとし」と読むのです。私が牛深小学校に赴任したとき校長先生が私の顔を見て、「あたはほんなこて中川先生な。私ぁー字から女の先生とばかり思っていた。『こんどとても美人の先生が来るバイ』て先生達には言っておいたのに。男の先生な」とおっしゃいました。校長先生は私の名前を「ゆき」または「ゆうき」と読まれたのです。皆さんの中にもそう読まれた方がいらっしゃるのでしょう。だから、怪訝な顔をされたのだろうと思います。最近は、歌手や女優さんの中に私と同じ名前の人が何人かいらっしゃいます。
 私は「ありとし」と言います。小さい頃から「ありちゃん」と呼ばれています。64歳になった今でも、小学校や中学校の同級生、幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。
 「有」という文字は、上に「保」という文字を付けると「保有する」と言う熟語ができるでしょう。「有」は「保つ」という意味があり、「たもつ」とも読みます。父の名前は「有」1字で「たもつ」でした。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味がありますね。そこで、「年(紀)を重ねて年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。
 私はこの名前が好きです。私はこのようなすばらしい名前を付けてくれた父に感謝しています。そして尊敬しています。
 その父に1度だけ強く抗議したことがありました。
 私が結婚を意識し始めた頃、昭和44年のある日のことです。私が結婚しようと思っていた人が、今の連れ合いですが、どこでどのように育ったかなどを聞いていたことを知ったからです。「生涯共に暮らす人」と私が決めた人と私の人権を侵された思いで、父に強く抗議しました。父は何も言いませんでしたが、下を向いたままのその姿から父の思いが伝わってきました。結婚に際しては心から祝福してくれました。当時、私は同和教育という言葉は知りませんでしたが、これが私と同和教育との出会いでした。
 日頃は、「俺は、差別もなんもしよらん。誰とでも付き合っている」と誰もが口にします。しかし、結婚や就職と言った人生の節目の時、差別意識が心の奥底から出てくるのです。
 熊本県が平成16年度に調査した県民意識調査のデータを記しています。ご覧下さい。
 結婚や就職の際に身元調査をしたり、本人の能力や人柄とは直接関係のない出身地等を理由に、結婚に反対したり、就職で不採用にする等の差別があります。 
 就職差別に関する最近の特徴としては、面接時に本人の能力とは全く関係のない家族の状況等を聞くといった不適切な質問が行われており、県内でも事例が報告されています。
 「同和問題に関し、どのような問題が起きていると思いますか」の問に、複数回答ですが、
@結婚問題で周囲が反対すること   54、4%
A身元調査をすること        41、8%
B就職・職場で不利な扱いをすること 29、8%
 と答えています。結婚や就職と言った人生の節目のときに差別意識が出てくることがこのことからもうかがい知ることができます。
 「結婚問題に対する態度について、子どもが同和地区の子どもと結婚するときどうしますか」の親の態度を聞いた問に対して、
@子どもの意見を尊重する。親が口出しすべきことではない  62、5%
A親として反対するが、子どもの意志が強ければしかたがない 30、0%
B家族や親戚の反対があれば、結婚を認めない         4、1%
C絶対に結婚を認めない                   3、4%
 6割強の人が「親が口出しすべきことではない」と回答しています。これまでの人権・同和教育の成果だと思います。しかし、「反対するが、子どもの意志が強ければしかたがない」と回答した人が3割もいること、さらに、「結婚を認めない、絶対に認めない」を合わせると7、5%もいることはさらなる教育啓発が必要なことを示しています。
 「結婚問題に対して、同和地区の人と結婚しようとしたとき周囲の反対があればどうしますか」の本人の態度を聞いた問に対して
@親の説得に全力を傾けたのち、自分の意志を貫いて結婚する 54、5%
A自分の意志を貫いて結婚する               26、7%
B家族や親戚の反対があれば、結婚しない          15、2%
C絶対に結婚しない                     3、6%
 5割強の人が「親を説得して結婚する」と答えています。これも、これまでの同和教育の成果だと思います。「自分の意志を貫く」と合わせると8割の人が結婚すると回答しています。しかし、「反対があれば結婚しない、結婚はしない」と回答した人が2割弱もいることです。同和対策審議会答申のもと、同和教育が始まって、40年近く経った今でもこのような考えの人がいることを私たちは重く受け止め、さらなる人権・同和教育を進めていかなければならないと思います。

次のような会話をどう思いますか。 
 「背広どん着て、何ごつな」
 「息子が結婚したかて言うので、相手はどぎゃん家のもんか調べに行きよっとたい」

 「そらー、おおごつな」と言うか、「ちょっと待ちなっせ。おかしゆうはなかな」と返すかが私たちに問われていると思います。
 「ちょっと、待ちなっせ」という人権意識を持ち、それを行動に移すことの大切さを皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。

 私は、話をする前には必ずトイレに行きます。先ほどいってきました。壁には「使う前より美しく」と貼ってありました。牛深小学校に勤務している時は、校長先生が達筆な字で「朝顔の外に漏らすな玉の露」と書かれた短冊が貼ってありました。天草のある公民館では「短小も見栄を張らずに一歩前」とありました。
このように、トイレをきれいに使ってもらう工夫がしてあります。
 トイレ清掃のボランティアグループの人の話です。
 「このトイレはみんなが使うトイレです。きれいに使いましょう」と張り紙していてもなかなかきれいにならない。あるとき、とてもきれいだったので「きれいに使ってくれてありがとう」と張り紙したらそれ以来、いつもトイレがきれいに使われているということでした。「きれいに使ってください」のお願いより「きれいに使ってくれてありがとう」の感謝の気持ちが使う人の心に届くことが分かったというのです。
 「ありがとう」の感謝の心は人権感覚の根底に座っているものと思います。
 レジュメの中に資料として平成19年度全国中学生人権作文コンテスト県大会最優秀賞「ありがとう」の響く家からを掲載しています。少し長いですが一緒に読んでみましょう。
「ありがとう」の響く家から 本渡中学校2年 森下真旺さん。
 「人権って何だろう」
 人権といえば、「差別をなくそう」とか、「友だちを大切に」などといった呼びかけの言葉がすぐにうかんでくる。
 でも、人権ってそれだけのことなのだろうか。辞書で「人権」という言葉を調べてみると、「人間が人間として生まれながらに持っている権利」と書いてある。言葉としてはわかるが具体的に考えてみると、結構難しい。
 私は人権という言葉についていろいろ考えてみた。すると、私が小学校2年生の頃のある出来事が頭に思い浮かんできた。
 私の両親は小学校の教師をしている。ある日の夜のことである。その日は父が夜の会議で遅くなるので、母が早く帰ってくる予定になっていた。しかし、学校で何かトラブルがあり、母は担任している子供の家に家庭訪問に行くことになった。母が家にたどり着いた時には、すでに10時を回っていたそうだ。
 その日、私と2歳年下の妹は、8時頃まで夕ご飯も食べずに母を待っていた。でも妹がおなかをすかせているのを見かねて、私は目玉焼きを2つずつ作り、妹と一緒に食べた。そして、二人で入浴し、いつもの約束通り9時半頃には床についた。
 妹は寝る前に、母にあてて広告紙の裏に手紙を書いて玄関の所に置いていた。
 母によると、その手紙にはこう書いてあったそうだ。
 「おしごとおつかれさまでした。おねえちゃんがめだまやきをふたつつくってくれたので、なっとうといっしょにたべました。めだまやきはふたつだったけど、わたしは4にんで1つずつのほうがいいです。おやすみなさい」
 母は翌朝、私と妹に「ありがとう」と言った。夜帰ってきて手紙を読んだとき、母は大泣きしたそうだ。
 母から「ありがとう」と言われたときは、得意満面に「どういたしまして」と言った私だったが、母が泣いた理由はわからなかった。でも、今考えてみると、母があの手紙を読んで涙を流した理由がわかる気がする。
 我が子を家に残して夕ご飯も作れなかったとき、子供達が助け合って、自分達が出来ることをしていたことに感謝したのだろう。そして、親のことを気遣い、大切に思っている妹の手紙に心がふるえたのだろう。
 私は人権について考えることで、忘れかけていた大切な思い出を思い出すことができた。
 私は人権というのは難しいことではなく、人に感謝する「ありがとう」という言葉から始まるのではないかと思う。「ありがとう」という言葉は自分の心を優しくしてくれる。「ありがとう」という言葉は、相手の心を温かくしてくれる。「ありがとう」という言葉は人と人とをつなぐ。そして、人と人とがつながれば、人はもっと元気になれる。
 「ありがとう」という言葉は「有り難し」という言葉からできている。当たり前のことを当たり前と思わず、有り難いと思える事にでも感謝の気持ちを表すことの大切さが込められているのではなかろうか。
 私の両親は生活の中でどんな小さなことでも「ありがとう」と言う。食器を運んでくれて「ありがとう」。テレビをつけてくれて「ありがとう」。
 それに私と妹の誕生日には、「生まれてきてくれてありがとう」。私には、なんでもないと思える事でも、「ありがとう」と言うのだ。
 両親が毎日のように「ありがとう」と言っているおかげで、私も「ありがとう」と言えるようになってきた。すぐにパッと言葉が出てくるわけではないが、例えばお弁当を作ってもらったら、「お弁当ありがとうございました。おいしかったよ」と弁当箱を洗って母に返している。
 これからも「ありがとう」という言葉が響く家をずっと続けていきたい。そして、もし私にできるのなら、世界中のみんなが「ありがとう」を素直に言える世界にしていきた。私はこの大きな目標に向かって、自分の目の前の人に「ありがとう」を伝えていきたいと思う。
 人権について考えているうちに「ありがとう」という言葉にたどり着いた。今生きている私たちは、数え切れないほどの偶然と無数の命のバトンを受け継いで生まれてきた。だとすれば、命を授かって生きていること自体が「有り難い」ことなのである。
 生きていることに感謝してしっかりと生きていくことが、人権そのものなのかもしれないと、私は考えている。
 読んでどう感じましたか?私はこの作文を読むたびに目頭が熱くなります。家族の濃やかな愛情と信頼が目に浮かびます。人権について中学生がこのように考えていることに驚きと同時に喜びを感じました。そして、人権意識とは家庭生活の中から生まれてくるのだというのを実感しました。
 次の「健常者に出来ること」は時間の都合で全部は読めません。家にお帰りになったら是非読んでください。最後の段だけ読んでみましょう。
 両親がよく私に、お姉ちゃんは自分の身体で家族に「命の大切さや、健康な身体でいることの大切さ、人を思いやることの大切さを教えているんだよ」と言います。(中略)
 私は姉と一緒にいると、どんな命でも、いらない命なんてないんだなぁと思います。
 また、障害を持っている人と、一緒にいることで、生きる大切さや思いやりの心が育つのではないかと思います。
 もしも、私の姉がいなかったら、もしも、私の姉が障害者でなく、健常者の姉だったら私の考え方や性格は、今の考え方と性格とは違う考え方と性格だったかもしれません。
 「障害」というものは、とてもつらく、とても悲しいことだと思います。ですが、しかたのないものです。
 「健常者にできること」それは、障害をしっかりと受け止め、人を思いやる心の大切さ、健康は体を持つということの大切さを忘れず、それを、忘れないだけでなく、「行動で表すこと」なのだろうと思います。
 この中学生は、「人を思いやる心の大切さとそれを行動で表すこと」と言っています。
 私は人権意識や人権感覚は、日々の生活の最も身近な家庭ではぐくまれていくと思っています。このような人権意識や人権感覚を持ち続け、差別のない明るい社会を作り上げたいものです。
 人権教育の指導方法等に関する調査研究会議は第2次とりまとめで、人権感覚とは「自分の大切さとともに他人の大切さを認めること」、「日常生活の中で、人権上問題のあるようなできごとに接した場合に、直感的にそういうできごとはおかしいと思う感性や、日常生活において、人権への配慮が態度や行動に現れるような人権感覚」のことと述べています。
 そして、「自他の人権尊重の良さを肯定し、人権侵害の問題性を認識して、人権侵害を解決せずにはいられないとする人権意識が生まれる」としています。
 さらに、人権教育を通じて育てたい資質や能力は「知的理解」と「人権感覚」であり、「自分の人権を守り、他者の人権を守るための実践行動」としています。

 聞かれた方もいらっしゃるでしょうが、「息子よ、息子!」という話をします。耳をすませてお聞き下さい。
  息子よ、息子!
路上で、交通事故がありました。
大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。
父親は即死しました。
息子は、病院に運ばれました。
彼の身元を、病院の外科医が確認しました。
外科医は、「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげました。
 話の内容がストンと胸に落ちましたか?
 私は初めてこの話を聞いたとき、どうも理解できませんでした。死んだ父親がどうして「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげるのだろうかと不思議でしようがありませんでした。それは、私は外科医は男のお医者さんとばかり思いこんでいたのです。だから、胸にストンと落ちませんでした。私の意識の中に、職業に対する固定観念や思いこみがあったのです。
 以前は女性の仕事と考えられていた仕事を今は男性も女性もしているでしょう。例えば、看護師さん、保育師さん。トラックやバス、タクシーの運転士さんなど。
 自分では全く気づかずに、誤った思いこみや偏見を心に植え付けてしまうことがあるのです。

    絵を見てください。
    おばあさんに見えた人?
    少女に見えた人?
    どちらにも見えた人?

  最初におばあさんに見えた人にとっては、少女にはなかなか見えないでしょう。その逆もありますね。
  どうしても少女に見えない人は、「おばあさんの鼻」を「少女の顎」に、「おばあさんの唇」を「少女のネックレス」と見てください。どうですか?
 この絵を見て次の3つのことを皆さんに気づいて欲しいのです。
 一つは、見方を変えることの難しさです。最初に知ったこと、感じたことを変えるのはかなりの労力が要ります。そして、それが難しいです。だから私たちは出会いが大切なのです。
 二つは、見つめ直しの大切さです。違う角度から見つめ直してみると、これまでと違ったものが見えてくることがあります。「こうだ」と決めつけないで見つめ直すことを日頃の生活の中で取り入れて欲しいと思います。
 三つは、一つの見方に注目すると、他が見えにくくなります。人権問題も同じで、「差別は社会問題だ」と強調しすぎると「差別は人間個人の課題でもある」ということを忘れがちになります。逆のこともあります。人権問題は社会問題であると同時に人間個人の課題であることをきちんととらえておくことが大切です。
 次は、魚の絵を描いてみましょう。
 魚の頭が左向きの絵を描いた人、手を挙げてみてください。
 右向きの絵を描いた人は?
 ほとんどの方が魚の頭が左向きの絵を描きました。どうして、人は魚の絵を描くとき、頭が左を向いている絵を描くのでしょうか?料理で尾頭付きの魚を食べるとき、魚の頭は右を向いていますか?左を向いていますか?出される料理では左を向いているでしょう。また、私たちが日頃目にする魚の図鑑や写真のほとんどが、頭が左にあります。これまで長年生活してきた中で知らず知らずのうちに自分のイメージや思いが出来上がっています。ある先生は、これを「すりこみ」と表現されました。この刷り込みが時として、思いこみとなり、偏見となり、偏見が差別を生むことにもなるのです。
 牛を思い描いてみてください。色をつけます。私が尋ねますので手を挙げてくださいね。
 「あか牛」を思い描いた人? たくさんいらっしゃいますね。
 「くろ牛」を思い描いた人は? 一人ですね。
 「白黒のホルスタイン牛」を思い描いた人? これも多いですね。
 実は、阿蘇地方の人たちはほとんどが「あか牛」を思い描くそうです。放牧してある牛はほとんどが「あか牛」ですね。天草地方のある程度年を重ねた人は「くろ牛」を思い描くそうです。今は、農耕用に牛を飼っている家はほとんどないそうですが、以前は「くろ牛」を飼っていたのです。私が牛深小学校に勤務していた頃はまだ、「くろ牛」がいました。
 おわかりのように身の回りでいつも見聞きするものが、知らず知らずのうちに固定観念として自分の心に描かれてしまっているのです。先ほど考えました「外科医は男性」これも知らず知らずのうちに自分の心の中に生まれた固定観念でしたね。
 この固定観念が、時として思いこみとなり、それが偏見となり、差別につながることがあるのです。
 直接差別にはつながりませんが、何の科学的根拠もないのでおかしいと言われながら今でも信じられているのに「今日は何の日?」があるでしょう?
 「今日は人権問題講演会がある、何の日かきちんと確かめて行こう」と暦を見てきた人はいますか?いらっしゃいませんよね。普段は何にも意識しないのに、「やれ結婚式だ」、「開店祝いだ」「葬式だ」などと言うときに「その日は何の日だろうか?仏滅や。縁起が悪かばい」「大安だ。こりゃー良かった」となるのです。おかしな話です。
 吉田兼好は徒然草九十一段で「陰陽道で万事に凶であるとする赤舌日(しゃくぜちにち)を迷信であるとして、これにとらわれる必要はないと言っています。「吉凶は人によるものであって、日によるものではない」とも言っています。
 鎌倉時代に吉田兼好はこう言っているのに、文明が発達している今日まだ、非科学的なことを信じているというのはおかしな話です。
 物事は正しく知ることが大切だと思います。

 円がたくさん書いてある中に四角形がありますね。この四角形の辺は直線でしょうか? 曲線でしょうか?
 内側に曲がって見えませんか。帰ってから定規を当てて確かめてください。直線なのです。

矢印で囲まれた2本の線はどちらが長いでしょう?
左の方が長いように見えませんか。これも定規で確かめてください。実は同じ長さです。

 この図でABとCDの直線はどちらが長いでしょうか?
 「ABの方が長いと思うバッテン、いらん情報に惑わされるなと言うから、同じ長さだろう」と思った人はいませんか?
 それこそ予断です。これも定規で確かめて、同じか、どちらが長いかを判断することです。
 これは、ABの方が1mm長いです。わずか1mmですよ。かなり長く見えるでしょう。
 この3つはどれも錯視絵です。
 四角形の周りに円があるために、直線の両端に矢印があるために、斜線があるために間違って見えるのです。直線かどうか、どちらが長いかを問題としているときには、周りの情報は不要なのです。不要な情報があるが為に間違えて理解してしまう。判断を間違えてしまう。このようなことが身の回りにはありませんか?うわさ話などこのようなことから生まれることがあるようです。
 必要な情報を正しく使って正しく判断することが大切です。
 物事を見るとき、話を聞くとき、決めつけや固定観念で見たり聞いたりすると、正しく判断できなくなることがあります。私たちはこれまでの生活の中で自分でも気づかないうちに心の中にすり込まれたものがあります。それが予断や偏見になることがあります。
 予断と偏見は一人ひとりの意識の問題でもあります。人を見下したり、遠ざけたりすることによって自己の優位性を保とうとする個人の弱さがそれを支えているのです。それが差別を助長したり温存します。その克服のためには人権・同和問題を正しく学び、「そうかな」と立ち止まって見つめ直す、考え直すことにより、予断と偏見を取り除いていくことが大切です。
 さらに、「人権問題」を正しく理解し、態度や行動に移すことのできる力となる感受性や感性をはぐくむことが重要であると思います。
 「無知は偏見を生み、偏見は差別につながる」という言葉があります。今は生涯学習の時代と言われています。
 学ぶことによってものごとを正しく理解しましょう。
 思いこみや偏見をなくしましょう。
 世間体にとらわれないようにしましょう。

 私は、先月、胆石の手術で5日間入院しました。この5日間の入院生活の中で、大勢の人が病室から出てくるところを何度か見ました。誰かが亡くなられたのでしょう。今、ほとんどの人が病院で死を迎えます。
 柳田邦夫さんは、「壊れる日本人」〜ケータイネット依存症への告別〜という本の中で、死を目前にしている患者が入っている病室に、心拍数、心臓の鼓動の波形などを示すモニターを病室に設置しているところが多い。病室に詰めている家族の目は、どうしてもモニターに向かう。患者の枕元で手を握り、顔を見つめて、別れの言葉をかけるという別れの行為を誰もが忘れていることに誰も気付かない。医者から「ご臨終です」と言われて家族は死者の顔を見ることになると書いています。
 これではおかしいと最近では、モニターは看護師の詰め所などに置いてある病院が増えたそうです。
 私の父は、15年ほど前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。死を間近にした時、病院の先生から「入院すればもっと生きられる」と言われましたが、母や兄弟と相談して入院は断りました。
 家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、無言で父を見つめていました。父の兄弟は名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみを必死でこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
 私は家で死を迎えるのが良いというのではありません。人の誕生や死に立ち会いながらその中で「生きる」とはを考えたいと思います。心を揺り動かされる体験から人権感覚は生まれ、磨かれていくものと思います。
 そして、その人権感覚を中学生も述べていますように行動に移して欲しいと思います。
 私は、横文字はあまり分かりませんが「アサーティブな自己表現力やコミュニケーション力を身につける」と記しています。「アサーティブな自己表現力」とは、相手を傷つけないで自分の言いたいことを言いましょうと言うことです。
 五木寛之さんのエッセイに、成人式がなにかで近所に晴れ姿を見せに回る場面で、「あたは、ほんなこて○○さんとこの娘さんかいた。あたのお母さんはとっても美人だったばってんな。誰に似たつだろか」と思ったことをストレートに言う人が九州人にはいる。京都では「おべべがきれいですね。」とか「帯がよく似合っていますよ」などというとありました。今どき「誰に似たつだろうか」など言う人はいませんが、これでは、相手を傷つけます。
 スーパーなどで買い物する時、時々横は入りする人がいますね。そう言う時、「横入りせんで並ばんか」と叱りつけるか、「ほんなこて腹んたつ」と思って睨みつけるか。あるいは、違う表現でその人にも並んでもらうかです。
 「あなたは時間がなくて急いでいるのでしょう?私も急いでいます。でもこうして並んで待っています。あなたも並んでもらうとうれしい」こう言って、横は入りしそうな人を注意したらどうでしょう。
 先ほどもいいましたが、互いに人権を尊重し合い、みんなが安心して楽しく過ごせるまちづくりに努めたいものです。

 おわりに桑原律さんの「ささやかな正義感を」を皆さん一緒に声に出して読みましょう。

     ささやかな正義感を 桑原 律
   目の前でケガをして
   苦しんでいる人があれば
   すぐにかけよって
   「だいじょうぶですか」と
   声をかけるように
   いじめや差別を受けて
   苦しんでいる人がいたら
   「だいじょうぶですか」と
   声をかける自分でありたい

   目には見えない心の痛み
   外見ではわからない
   心の傷の深さ
   自分は知らなかったから
   何も気づかなかったからと言って
   どうか 通りすぎないでください

   いじめや差別を受けた人たちの
   その苦しみや悩みを
   共に分かちあおうとする心
   そういう心を自分も持ちたい

   相手の心に寄り添い
   共に考え 共に解決しようとする心
   そういう心を自分も持ちたい

   そうした心があれば
   他の人の心の声が
   おのずと聞こえてくるのです

   いじめや差別を受けて
   心を痛めている人がいても
   気づかないまま通りすぎていく人
   気づいても
   見て見ぬふりをする人
   そういう人たちが
   なんと多いことか

   ささやかな正義感でもいい
   小さな勇気でもいい
   そのとき だれかが
   「そんないじめはやめようよ」
   「そんな差別はやめようよ」と
   一言 声をかけてくれたなら
   苦しみ悩んでいる人の
   心の痛みはいやされるのです

   そのとき
   たとえ一人でもいい
   その場でたった一言でもいい
   声をかけようとする
   自分でありたい

   一言 声をかけることのできる
   自分でありたい

 ありがとうございました。
 山鹿市が益々人権文化の花咲くまちとなりますことを祈念しまして話を終わります。
 長時間のご静聴ありがとうございました。