人と人との「信頼の絆」を結びましょう
平成25年3月7日
宇城市不知火支所 大会議室


 こんにちは。
 ご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 ここ不知火町は私の母の故郷です。字は長崎です。長崎の奥の方です。小さい頃、母に連れられて、また祖父に連れられて、松橋駅から長崎まで歩いて行っていました。当時は1時間半ほど要していたと思います。子ども心に、「遠かなー」と思っていました。しかし、祖母の家は近くに谷川があり、山から流れてくる水がとてもきれいでした。朝起きて、川まで行き、顔を洗ったり歯を磨いたりしていました。また、昼は、近所の子たちと川遊びをしたりして楽しんでいました。伯父の仕事の関係で、熊本市内に引っ越しましたので今では、時々墓参りに行く程度ですが、ここ不知火に来るのがとても懐かしく今日の日を楽しみにしていました。
 また、皆さん方は平成21年度から地域の人権教育指導者として人権問題について研修を積み重ねてこられたと聞いています。そのような皆さんと人権問題について一緒に考えることができること、大変光栄に思っています。
 ところで、先ほど私を「中川ありとし」さんと紹介していただきました。講師名に「ありとし」とふりがながふってあります。とてもうれしく思います。と言いますのは、私の名前を「ありとし」と読む人はまずいません。ほとんどの方が「ゆき」あるいは「ゆうき」と読みます。そして、女性と思われます。荒尾市では、事前に配布されていた講演会の案内を見て、「今年の講師は女性の方ばいなと思って来ました。男性とは思いもしませんでした。」と言った方がおられました。このように女性と間違われる名前ですが、私はこの名前が大好きです。こんな素晴らしい名前を付けてくれた父を敬愛しています。
 父は、「有紀。有紀という名前は、年を重ねるごとに年相応の人間になって欲しいと言う思いからつけたつぞ。ちゃんと勉強せにゃんぞ。」とよく言っていました。それは、「有」の上に「保」という漢字を付けると「保有する」という熟語ができますね。つまり「有」には「たもつ」という意味があります。私の父は「有」で「たもつ」でした。「紀」は、「21世紀」の「紀」で、「年(とし)」という意味があります。こんな漢字が持つ意味から「年相応の人間になれ」と父が付けてくれた名前です。昨年11月、中学校の同級生で「古稀の祝い」をしました。私の住んでいる地域では数えで70歳の年に「古稀祝い」をします。1年早く祝いましたので、現在69歳です。今年70歳になりますが、父が願った「年相応の人間」にはなかなかなれません。今ごろあの世から、「有紀は今日はどんな話をするだろうか」と心配しながら眺めていることと思います。父の願いに近づくために生涯、学び続けることだと思っています。
 私がこの名前が好きで誇りに思っているのと同じように、皆さん方もご自分の名前が大好きで誇りに思っていらっしゃることと思います。また、お子さんやお孫さんの名前を付ける時も、赤ちゃん誕生の感動と親の思い、家族の思いを込めた名前を考え、名付けられたことと思います。どうぞ、お孫さんたちに、名前に込めた親の思い、家族の思いを人生の節目節目、もうすぐ卒業式ですね。卒業や入学、就職や結婚などの時に語ってください。そうすることで、お孫さんたちも自分の名前が好きになり、親や家族を敬愛することと思います。
 自分の名前が好きになることは、自分自身を好きになることにつながります。「この自分が好き」、「自分は価値ある人間」などと思う感情のことを「自尊感情」と言います。この自尊感情が人権尊重社会ではもっとも大事な感情の一つと言われています。それは、自分を大事にできない人が他人を大事にできるはずがないからです。自分の人権を大事にするように他人の人権も大事にし、共に生きることが人権尊重、人権共存社会だからです。
 この自尊感情は子どもばかりでなく私たち大人にとっても大事なことです。皆さん、病気など体調があまり良くない時は別ですが、病気ではないが何かすることがおっくうになるという時がありませんか。「グラウンドゴルフばしよう」とか、「カラオケに行こう」など誘われた時、普段なら「うん、行こう」と言うのに、「着替えにゃならん。めんどくさいな」などで断る時は、要注意です。自尊感情が低い時です。つまり、自尊感情が高い時は何事にも積極的になります。低い時は反対に消極的になります。この低い状態が続くと、高齢者鬱病にならないとも限りません。ですから、人間ドックに行く時、事前の調査で、「いつもより、自分のしていることに生きがいを感じることがありましたか」とか「いつもより、気が重くて憂鬱になることがありましたか」などの質問がありますね。これは心の状態を聞いているのです。身近に、「あの人は最近下ばかり見ている」と思えるような人がいたら、「調子はどぎゃんな。」「私にできることはなかな。」など温かい言葉をかけてください。子どもたちにも、学校帰りなど下を向いている子など見かけたら、どうぞ、温かい言葉をかけてください。この言葉かけが私たちにできる、「人と人との信頼の絆を結ぶ」実践事項の一つであると思います。
 大津市の中学生がいじめを苦にした自殺がクローズアップされ、いじめは教育問題ばかりでなく大きな社会問題となっています。将来大きな花が開くであろう可能性を持った子どもが、いじめにより我が命を我が手で殺めなければならなかった心情を推しはかると何とも痛ましく、思いとどまるすべはなかったのかとやるせない気持ちになるのは私一人ではないと思います。こんな事は絶対起こしてはならないことです。しかし、現実には熊本県でも起きていました。だからこそ、子ども達に命の教育をしっかりと根付かせることが大切だと思います。命のぬくもりを伝える教育が課題であると思います。
 本日は3月7日。もうすぐ東日本大震災から2年を迎えます。2年前の3月11日の大震災、そして大津波、さらに原子力発電所の大事故で多くの尊い人命を失いました。先日、ある研修会で、この後の中学生の生活について話を聞きました。宮城県石巻市のある中学校の話です。中学生の大部分が死体が転がっている、転がっているなどの表現は誠に不謹慎な言葉ですが、津波で流された遺体の中から親兄弟姉妹の肉親を捜し続けたそうです。肉親が見つかった生徒、未だ肉親が見つからない生徒たち。その生徒たちは「なぜ、生きなけらばならないのか」と生きる希望がなくなり、心がすさみ、やる気をなくし、けんかなどトラブル続きであったそうです。自分の気持ちをコントロールできないでいたそうです。そんな生徒たちの共通点は、「津波で犠牲になった人、被害にあった人たちのためにがんばろう」だったそうです。先生方は、「多くの人の犠牲の上に今私たちは生かされている。生かされている命を大事につかわないでなんとする」との思いで必死に生徒と向き合い、生徒の心のケアーに努め、生徒の心を取り戻していかれたそうです。心の傷は癒えないが、がんばろうとの意欲が次第にわいてきたと聞きました。
 このような話を聞く度に、命のぬくもりを伝えることの大事さを痛感します。
 私の父は、21年前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。父の容態が悪くなった時、病院の先生に診てもらいました。先生は、「今入院すれば1週間、10日は延命できます。」とおっしゃいましたが、家族で話し合い断りました。父は、家族や親族が見守る中、眠るがごとく息をひきとりました。母は父の枕元で、父が息をひきとるまで、両手で父の手をしっかり握りしめ、父を見つめ、何かを語りかけていました。叔父や叔母達は「たもっちゃん、たもっちゃん。」と父の名前を呼び続けました。私たち子は「父ちゃん、父ちゃん。」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん。」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の手や足をみんなで必死でさすり続けましたが、父は、眠るが如く逝ってしまいました。みんなは泣きなが父の体を抱きしめました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っいてはいよ。」と父に最後の別れの言葉を言いました。私は、皆さんに「死は我が家で迎えましょう」と言っているのではありませんが、父のように私も我が家の畳の上で死を迎えたいと思っています。
 以前、胆石の手術で6日間ほど入院したことがあります。その間、病室から肩を落として出て来る人々の姿から、親族の方が亡くなられたことが推測できました。このような光景を何度か目にしました。どなたかが病室で亡くなられる時の病室での人々の様子をノンフィクション作家柳田邦夫さんは自著「壊れる日本人」で、次のように述べています。


 死を目前にしている患者が入っている病室に、心拍数、心臓の鼓動の波形などを示すモニターを病室に設置しているところが多い。病室に詰めている家族の目は、どうしてもモニターに向かう。患者の枕元で手を握り、顔を見つめて、別れの言葉をかけるという別れの行為を誰もが忘れていることに誰も気付かない。医者から「ご臨終です」と言われて家族は死者の顔を見ることになる。

 私は、人の誕生や死に立ち会い、心が揺り動かされる中で「生きる」を考えたいと思います。心が揺り動かされる体験が豊かな心を育むと確信しています。そして、一人一人が大事な存在であると感じられる社会こそが命のぬくもりを感じる社会であると思います。
 多くの研究結果から、自分が大事にされていると感じられるほど、他人も大事にできることが分かっています。アメリカ人でノーベル賞を受賞したジョン・スタインベック氏は、「少年は必要とされてはじめて大人になる」といっています。つまり、社会から必要とされることは、自分の存在価値を実感することです。このような実感の一つ一つの積み重ねが先ほどから言っています自尊感情を育んでいくのです。このことは子どもだけでなく私たち大人にも言えることだと思います。
 資料に付けています「一冊のノート」は、平成6年3月発行された文部省道徳教育推進指導資料集第4集に掲載されたいるものです。少し長い文ですがご自分で読まれると心を打つものがあると
思います。しばらく読んでみてください。


              一冊のノート                   北鹿渡 文照

 「おにいちゃん、おばあちゃんのことだけど、このごろかなり物忘れが激しくなったとおもわない。ぼくに、何度も同じことを聞くんだよ。」
 「うん、今までのおばあちゃんとは別人のように見えるよ。いつも自分の眼鏡や財布を探しているし、自分が思い違いをしているのに、自分のせいではないと我を張るようになった。おばあちゃんのことでは、おかあさん、かなりまいっているみたいだよ。」
 弟の隆とそんな会話を交わした翌朝の出来事であった。
 「お母さん、ぼくの数学の問題集、どこかで見なかった。」
 「おかしいな、一昨日この部屋で勉強したあと、確かにテレビの上に置いといたのになあ。」
 学校へ出かける時間が迫っていたので、ぼくはだんだんいらいらして、祖母に言った。
 「おばあちゃん、また、どこかへ片づけてしまったんじゃないの。」
 「私は何もしていませんよ。」
 そう答えながらも、祖母は部屋のあちこちを探していた。母も隆も問題集を探し始めた。
 しばらくして、隆は隣の部屋から誇らしげに問題集をもってきた。
 「あったよ、あったよ、押し入れの中の新聞入れに昨日の新聞と一緒に入っていたよ。」
 「やっぱり、おばあちゃんのせいじゃないか。」
 「どうして、いつもわたしのせいにするの。」
 祖母は、責任が自分に押しつけられたので、さも、不安そうに答えた。
 「そうよ、なんでもおばあちゃんのせいにするのはよくないわ。」
 母が、ぼくをたしなめるように言った。ぼくは、むっとして声を荒げて言い返した。
 「何言っているんだよ。昨日、この部屋を掃除してたのはおばあちゃんじゃないか。新聞と一緒に問題集も押し入れに片づけたんだろう。もっと考えてくれよな。」
 「そうだよ。おにいちゃんの言うとおりだよ。この前、ぼくの帽子がなくなったのも、おばあちゃんのせいだったじゃないか。」
 「しっかりしてよ、おばあちゃん。近ごろ、だいぶぼけてるよ。ぼくら迷惑してるんだ。今も隆が問題集を見つけなかったら、遅刻してしまうところじゃないか。」
 いつも被害にあっているぼくと隆は、いっせいに祖母を非難した。祖母は悲しそうな顔をして、ぼくと隆を玄関まで見送った。
 学校から帰ると、祖母は小さな机に向かって何かを書き込んでいた。ぼくには、そのときの祖母のさびしそうな姿が、なぜかいつまでも目に焼き付いて離れなかった。
 祖母は、若いころ夫を病気で亡くした。その後、女手一つで4人の息子を育て上げるかたわら、児童民生委員や婦人会の係を引き受けるなど地域の活動にも積極的に携わってきた。そんなしっかりものの祖母の物忘れが目立つようになったのは、65歳を過ぎたここ1・2年のことである。祖母は、自分は決して物忘れなどしていないと言い張り、家族との間で衝突が絶えなくなった。それでも若い頃の記憶だけはしっかりしており、思い出話を何度もぼくたちに聞かせてくれた。このときばかりは、自分が子どもに返ったように目を輝かせて話をした。両親が共稼ぎであったことから、ぼくたち兄弟は幼いころから祖母に身の回りの世話をしてもらっており、今でも何かと祖母に頼ることが多かった。
 ある日、部活動が終わって、ぼくは友だちと話しながら学校を出た。途中の薬局の前で、友だちの一人が突然指さした。
 「おい、みろよ。あのおばあさん、ちょっとおかしいんじゃないか。」
 「ほんとうだ。なんだよ。あの変てこりんな格好は。」
 指さす方を見ると、それは季節はずれの服装にエプロンをかけ、古くて大きな買い物かごを持った祖母の姿であった。確かに友だちが言うとおり、その姿は何となくみすぼらしく異様であった。ぼくは、あわてて祖母から目を離すとあたりを見回した。道路の向かい側で、二人の主婦が笑いながら立ち話をしていた。ぼくには、二人が祖母のうわさ話をしているように見えた。
 祖母は、すれちがうとき、ほほえみながら何か話しかけた。しかし、ぼくは友だちに気づかれないように、知らん顔をして通り過ぎた。友だちと別れた後、ぼくは急いで家に帰り、祖母の帰りを待った。
 「ただいま。」
 祖母の声を聞くと同時に、ぼくは玄関へ飛び出した。祖母は、大きな買い物かごを腕にぶら下げて、汗を拭きながら入ってきた。
 「ああ、暑かった。さっき途中であった二人は・・・・。」
 「おばあちゃん。なんだよ、その変な格好は。何のためにふらふら外を出歩いているんだよ。」
 ぼくは、問い詰めるような厳しい口調で祖母の話をさえぎった。
 「何をそんなに怒っているの。買い物に行ってきたことぐらい見れば分かるでしょ。私が行かなかったらだれがするの。」
 「そんなこと言っているんじゃない。みんながおばあさんのことを笑っているよ。かっこ悪いじゃないか。」
 「そうして、みんなで私をバカにしなさい。いったいどこがおかしいって言うの。だれだって年をとればしわもできれば白髪頭になってしまうものよ。」
 祖母のことばは、怒りと悲しみでふるえていた。
 「そうじゃないんだ。だいたいこんな古ぼけた買い物かごを持って歩かないでくれよ。」
 ぼくは腹立ちまぎれに祖母の手から買い物かごをひったくった。
 「どうしたの。大きな声を出して。おばあちゃん、ぼくが頼んだものちゃんと買ってきてくれた。」
 「はい、はい。買ってきましたよ。」
 隆は、買い物かごをぼくから受け取ると、さっそく中身を点検し始めた。
 「おばあちゃん、きずばんと軍手が入っていないよ。」
 「そんなの書いてあったかなあ。えーと、ちょっと待ってね。」
 祖母は、あちこちのポケットに手を突っ込みながら1枚の紙切れを探し出した。見ると、それは隆が明日からの宿泊合宿のために祖母に頼んだ買い物リストであった。買い忘れがないように、祖母の手で何度も鉛筆でチェックされていた。
 「やっぱり、きずばんも軍手も、書いてありませんよ。」
 「それとは別に、今朝、買っておいてくれるように頼んだだろう。」
 「そんなこと、私は聞いていませんよ。絶対聞いていません。」
 「あのね、おばあちゃん・・・・。」
 隆は、今にもかみつくような顔で祖母をにらんだ。
 「もうやめろよ。おばあちゃんは忘れてしまったんだから。」
 「なんだよ、おにいちゃんだって、さっきまで、おばあちゃんに大きな声を出していたくせに。」
 ぼくは不服そうな隆を誘って買い物に出かけた。道すがら、隆は何度も祖母の文句を言った。
 その晩、祖母が休んでから、ぼくは今日のできごとを父に話し、なんとかならないかと訴えた。父は、ぼくと隆に、先日、祖母を病院に連れて行ったときのことを話し出した。
 「お前たちが言うように、おばあちゃんの記憶は相当弱くなっている。しかし、お医者さんの話では、残念ながら現在の医学では治すことはできないんだそうだ。これからもっとひどくなっていくことも考えておかなければならないよ。おばあちゃんは、おばあちゃんなりに一生懸命やってくれているんだからみんなで温かく見守ってあげることが大切だと思うよ。今までのように、何でもおばあちゃんに任せっきりにしないで、自分でできることぐらいは自分でするようにしないといけないね。」
 「それはぼくたちもよく分かっているよ。だけど・・・。」
 これまでの祖母のことを考えると、ぼくはそれ以上何も言えなくなった。
 その後も、祖母はじっとしていることなく家の内外の掃除や片づけに動き回った。そして、ものがなくなる回数はますます頻繁になった。
 ある日、友だちからの電話を受けた祖母が、伝言を忘れたため、ぼくは友だちとの約束を破ってしまった。父に話したあと怒らないようにしていたぼくも、このときばかりは激しく祖母をののしった。
 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ−ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。

 いかがですか。
 この資料を使った道徳の授業を参観した人の話です。
 一人の男子生徒が、読み終わると泣いていました。ワークシートの半紙の上に涙がぼろぼろ落ちていました。それを必死で制服の袖でぬぐっている様子を見た私も涙が止まらなくなりました。隣の女子生徒の目にも涙がいっぱい浮かんでいました。結局この子は、ワークシートには何も書くことはできませんでした。先生はこの子をどう評価するのだろうと、担任の先生に尋ねると、先生は「ここに涙のあとがあります。何かを書いたのより彼の気持ちが分かります。」とおっしゃたそうです。私はこれが人権感覚だと思います。
 私たちは命を持って生きている限り幸せを願わない人はいません。一人一人が幸せを追求できる権利が人権です。人権課題に示していますように、「女性 子ども 高齢者 障害者 同和問題 アイヌの人々 外国人 HV感染者・ハンセン病患者等 刑を終えて出所した人 犯罪被害者等 インターネットによる人権侵害 ホームレス 性的指向 性同一性障害者 北朝鮮当局によって拉致された被害者等 人身取引」などの諸々の人権課題があります。その一つ一つについて触れる時間はありませんが、これまでの人権研修でそれぞれの課題について研修を深めてこられたことと思います。熊本県では、同和問題、水俣病問題、ハンセン病問題を緊急に取り組まねばならない課題として学校でも地域社会でも教育啓発が行われています。
 皆さんご存じのように同和問題は、本人の責任に属さない「生まれ」によって不利益を被る差別です。「生まれた場所」「育った場所」によって差別される、こんな理不尽なことはあってはならないことです。中でも、結婚差別、就職差別、そして近年は土地差別が起きています。「近く、この地域に引っ越そうと思っている。同和地区があるかどうか教えて欲しい」と役所に問い合わせる人や不動産業者がいるそうです。これまで長年、教育啓発に取り組んできたにもかかわらず、未だにこのような差別が厳存しているのです。差別が存在する限り、教育啓発を続けていかねばならないと思います。
 水俣病問題は、伝染病でも遺伝病でもありません。チッソ水俣工場の廃液に含まれていた有機水銀中毒症です。2度と起こしてはならない公害によるものです。このことは、学校でも地域でも教育啓発が行われているにもかかわらず、水俣市内の中学校とサッカーの練習試合で、ボールのせめぎ合い中にベンチから「水俣病うつる。触るな」の発言があったのです。子どもたちは、水俣病資料館に出向き、学習しているにもかかわらずこのような発言が飛び出したのです。人々の心に届く教育・啓発が求められます。
 ハンセン病問題について、2月25日の熊日新聞記事を持参しました。皆さんも読まれたことと思います。「差別への恐怖今なお」と題して大阪市であったシンポジウムで回復者の家族が重い口を
開いて訴えられたことが紹介してあります。そのいくつかを読んでみます。


・「今もトラウマ(心的外傷)になっている出来事がある」。父親と姉が強制隔離された男性はそう打ち明けた。小学生のころ、同級生が投げつけた「おまえの父親は島流しになった」という言葉が忘れられない。高校時代に親しくなった女性は、父の病歴が分かると交際を禁じられた。兄の縁談も次々に壊れた。
・差別の記憶が今も付きまとうという男性。社会復帰した姉と交流はあるが、自分の娘以外に回復者家族であることを自ら話したことはない。「知られたらどうなるかという恐怖の陰におびえている」
・別の回復者家族の男性も嘆く。「回復者や家族は、自分の子どもに迷惑がかかると考えて口をつぐむ。きちんと受け入れてくれるなら、誰にでも堂々と話せるのだが・・・」

 回復者や家族が病歴を隠すことなく生きていけるようになるためには、皆が自分の問題として考えることが必要だと訴えています。ハンセン病問題について正しく知ることです。ハンセン病問題について正しく知らなかったことが引き起こした黒髪小学校事件がありました。皆さんご存じでしょう。菊池恵楓苑で生活する保護者の子たちが熊本市内の立田寮で生活していました。そこの子たちが1年生として黒髪小学校に入学することを、「ハンセン病患者を親に持つ子たちと一緒に教室で勉強したら我が子にうつる、そんなことは決してさせてはならない」とPTAが龍田寮の子たちの入学を拒否した事件です。ハンセン病について、正しく理解して居れば起きなかった事件です。
 このような人権課題解決のために自分にできることを考えてみたいと思います。差別事象をはじめ人権侵害を考える上で大事なことは、「するを許さず」「されるを責めず」「傍観者なし」ということです。「するを許さず」とは、差別することはどんな理由があっても許されるものではないということです。「されるを責めず」は、差別された人を責めることはあってはならないことです。「傍観者無し」とは、人権侵害があった場合、決してみて見ぬふりはしないことです。近くに川が流れています。この川で、人が溺れているのを見て、見て見ぬふりしてそのまま立ち去る人はいないと思います。泳ぎに自信がある人は、すぐに飛び込んで助けるでしょう。そうでない人は、辺りを見回して棒切れなどおぼれかかっている人がつかまるものはないかと探して、あればすぐに投げ入れるでしょう。それもない時は、大声で助けを呼ぶでしょう。このように助ける行動を起こすと思います。これが人権侵害だったらどうでしょう。見て見ぬふりをすることはないでしょうか。その前にそれが人権侵害だと気づかずに見過ごしてしまうことがあるかもしれません。ですから、人権について学ぶことが大切なのです。人権とは、先ほども言いましたように人が人として幸せに生きる権利ですよね。人権侵害とは、私を初め人々が持っている人権を侵すことです。具体的なことについては、これまでの研修で学ばれたことと思います。
 皆さんが人権について学ばれたように、正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、人権を守る行動へつなげることが大切です。
 これまで、学校でも地域でも人権問題について教育啓発がなされているにもかかわらず、先ほども2〜3例紹介しましたように依然として差別事象はなくなりません。なぜ無くならないのかについて考えてみます。
 いくつも理由はあるでしょうが、その理由の一つに、「違いを排除する意識の存在」がありはしないでしょうか。農業を主産業としてきた国民性からでしょうか。農業は自然を相手にしますから、田植えをするにしても稲刈りをするにしてもだいたい同じ時期にしますね。これが横並び意識となったのではないでしょうか。このようなことからか私たちの心の中には「違いを排除する意識」があるようです。子どもたちは、「背が高いから」あるいは「背が低いから」、「まじめだから」などでいじめたり、仲間はずしをすることがあります。大人社会では、すばらしいアイデアを出したり、率先して仕事をしようとする人の足を引っ張ったり、押さえつけたりすることがあるでしょう。「出る杭は打たれる」などの諺もこの一つだと思います。
 皆さん、「チューリップ」の歌をご存じでしょう。歌詞は「さいた さいた チューリップの花が ならんだ ならんだ 赤 白 黄色 どの花みてもきれいだな」ですね。幼少のころよく歌いましたよね。この歌を昭和5年に作詞した近藤宮子さんは、「どの花みても きれいだな」という歌詞について、「なにごとにも良いところがあるものです。とくに、弱いものには目をくばりたいという自分の思いをこめました」と語っています。
 違いを認め、どれもみな尊いものだよと歌った金子みすゞさんの「わたしと小鳥と鈴と」があります。


     「わたしと小鳥と鈴と」
                       金子みすゞ       
   わたしが両手を広げても
   お空はちっとも飛べないが

   飛べる小鳥はわたしのように  
   地べたを早くは走れない

   わたしが体をゆすっても
   きれいな音は出ないけれど

   あの鳴る鈴はわたしのように
   たくさんな歌は知らないよ

   鈴と小鳥と それからわたし
   みんな違って みんないい

 「みんなちがって、みんないい。」というのは、一人一人がみんな光り輝いている、大切な存在だということです。大きいもの 小さいもの、力の強いもの 力の弱いもの、有用なもの 無用なもの、見えるもの 見えないもの、すべてが尊いということを歌った歌だと聞いたことがあります。 理由の2つ目の理由は、「思い込み、つまり迷信や因習を信じる意識」の存在だと思います。例えば、数字の「4」です。病院やホテルなどの部屋の番号は未だに「4号室」はないようです。これは「4」を「死」とイメージするからでしょう。「4」と「死」は何の関係もないのに語呂合わせで不吉とすることはおかしな事です。これは迷信と言うより因習でしょうか。思い込みは私たちが気づかないところで私たちの心の中に意外とあるのですよ。
 皆さん、レジュメの空いているところに「魚の絵」を描いてみてください。
 ○○さん、ここに描いてもらえませんか。(左向きの魚の絵を描いた○○さんに描いてもらう)
 とても素晴らしい魚を描いていただきました。
 お尋ねします。○○さんと同じように左向きの魚を描かれた方、手を挙げてください。(ほとんどが挙手)
 左向きではない絵を描かれた方?(1人挙手 その方にも魚の絵を描いてもらう)
 ▽▽さんのように右を向いている魚を描かれた方?(▽▽さん1人挙手)
 ありがとうございます。
 皆さん、考えてください。私は魚の絵を描いてくださいと言いました。左向きの魚を描いてくださいとも右向きはだめですよとも言いませんでした。でも、▽▽さん以外はみなさんが左向きの魚を描かれました。私はよく魚の絵を描いてもらいますが、どの会場でも左向きの魚を描く方が圧倒的に多いです。どこでも右向きの魚を描く方は1名から5名くらいです。
 どうしてこんなことが起きるのでしょう?
 (「魚料理では左向きに出す」との声が上がる)そうですよね。料理では、魚は左向きに出しますね。5月の鯉のぼりの絵や写真はどちらを向いていますか?(「左」の声あり)
 そうですよね。ほとんどが左を向いています。近くに図書館ありますか?(隣の建物が図書館の声あり)だったら、帰りに図書館に寄って魚の図鑑を見てください。図鑑の絵や写真の7割から8割は左向きです。料理の魚や図鑑の魚の絵や写真を見て、私たちは空気を吸うが如く無意識のうちに魚の絵は左向きを学習しているのです。そして、「魚は左向き」を刷り込み、魚の絵と言えば、自然に左向きの絵を描くのです。ですから、右向きの魚を描いた▽▽さんはご自分の思いを持っておられてすごいと思います。
 この刷り込みが、思い込みとなり、これにマイナスイメージが加わると偏見となり、差別意識が生まれるのです。そこで、この一連の流れを断ち切るために、正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、差別解消のために実践行動することが大切なのです。
 本日は、学校の先生もおいでです。今学校では、文科省の人権教育の指導方法等に関する調査研究会議が提言しました「人権教育指導法の在り方について」の提言に沿った人権教育がなされています。そこで、提言されていますことは、冒頭述べました自尊感情を育てること、そして知識から実践へと言うことです。この提言をもとに、人権尊重社会実現のために自分にできることを実践することが指導されています。
 理由の3は、「みんなが言うから」、いわゆる世間体を意識する事が挙げられると思います。これは横並びと同じですが、「みんなが言うから」の考えが意外とあるように思います。「みんなが言うからそうしよう」ではなく、「そうかな?」と立ち止まって見つめ直すことが大切だと思います。だからこそ正しく学ぶことです。
 このことを中学生が人権作文に書いています。資料に付けています第32回(平成24年度)全国中学生人権作文コンテストで文部科学大臣奨励賞を受賞した新潟県柏崎市立松浜中学校3年蓬田怜奈さんの「聞いてください、私の思い」を一緒に読んでみたいと思います。


             聞いてください、私の思い       
                                         新潟県柏崎市立松浜中学校3年  蓬田 怜奈

 大熊町。緑の木々と青い海に囲まれた自然豊かな私のふる里です。そして、あの原発事故が起きた町。私のふる里は一瞬にして「死の町」とまで言われる誰もが嫌い、イヤがる町になりました。それまで私にとっての「人権」とは人間が生まれながらもっている権利と学校の授業で習った程度で、特に気にもせず考えもしないただ聞いたことのある言葉でしかありませんでした。
しかし、避難してからは、同じ福島県内でありながら、耳に入ってくる話は「福島ナンバーの車がいたずらされた」「転校していった子が放射能のことでいじめられた」などの悲しい話ばかり。私はこの話を聞くたびに、「またかぁ…」と自分のふる里がだんだんと嫌がられている事がとても悲しく思っていました。
 そんな中、私も一つの体験をしました。部活の大会の日のことです。
 「うわ、なんでいるの。放射能がうつる。帰れよ。」
 すれ違いざまに他校の生徒に言われた言葉です。私は、この言葉を言われたとき泣きたくなり、大会すらやる気がなくなりました。新聞やニュースなどで得た少しの知識だけでこういう風に思っている人がいると、聞いてはいたものの、残念で仕方ありませんでした。何気なく言った言葉だったのかもしれませんがその言葉は、大熊町に住んでいた私にとって非常に悔しく悲しいものでした。家に帰り、その出来事を母に話すと、母は別の話もしてくれました。ある小児科では、受診してくる地域の子供を守るため大熊の人は診察しない。ある保育所では、やはり預かっている子供を守るため近くに大熊の人の車を駐車させないという内容でした。自分の「人権」を守るためなら相手の「人権」は傷つけてもかまわないのでしょうか。私はまちがった情報が、そういうまちがった守りを生む、原発事故について、しっかり学び正しい知識を得ることが差別をなくすのだと気付きました。
 差別というのは、私たちのまわりでは身体の障害や病気を理由にした差別、性別・年齢国籍の違いによる差別など小さなことから大きなことまで本当によく耳にします。差別をしている側からすれば、それを冗談だという人も多いのです。たとえ冗談だとしても心ない言葉の一つ一つが相手をどれだけ傷つけるのか気づいてほしいものです。小学校の時から私たちは道徳などでいじめや人権などについて学んでいてもなかなかそれがなくならないのは、そういうせいなのかもしれません。私に言ってきたあの子達もそうだったのかもしれませんが、実際に差別されている側はみんなの想像よりはるかに傷ついているということ、つらいということ、そして悲しいということを私は、この人権作文を通して、たくさんの人に知ってほしいのです。
 最近は過剰なマスコミやメディアにでてくるコメンテーターの個人的感情が、ストレートに入ってきて私達の意識に大きな影響をあたえているような気がします。しかし、自分の体験を通して感じたことは、一つの問題に対して人の言葉をすべてうのみにするのではなく真実とはなんなのかを見つけだすことが人権を守ることにつながるのだと思います。私たちが差別をなくすためにできること、それは、その人、その出来事についてしっかり知ること、知ろうと努力すること、正しい知識を深めるために学習することではないかと思います。我も人も自分らしく生きる。これが「人権」を尊重することだと思います。「人権」について考えること。それはとても難しいことのように思えますが、意外と簡単なことではないでしょうか。
 今、私が住んでいる柏崎は実際、放射能の心配がないせいなのか、それとも大熊町と同じように発電所が隣設されているせいなのかまったくそういったいやがらせはありません。私は改めて、そんな今があたりまえではないという現実を忘れてはいけないと思いました。同じ人間同士が平等に並んで歩くための権利。だれもが生まれながらにもっている大切なもの。自分も相手も同じひとりの人間として心に寄り添い、真実を見極め、理解し合う努力こそ、差別をなくし人権を守る大きな力になると思います。そして、私自身も差別や偏見、いじめがなくなるように強い心をもって、まずは自分から立ち向かっていきたいです。

 いかがですか。
 蓬田さんは、「一つの問題に対して人の言葉をすべてうのみにするのではなく真実とはなんなのかを見つけだすことが人権を守ることにつながるのだと思います。私たちが差別をなくすためにできること、それは、その人、その出来事についてしっかり知ること、知ろうと努力すること、正しい知識を深めるために学習することではないかと思います。我も人も自分らしく生きる。これが人権を尊重することだと思います。」と述べています。まさに正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、行動することを述べていますね。
 理由はそのほかにも忌避意識であるとかいろいろあると思いますが、時間の都合で割愛します。ご自身の人権感覚を点検する上でも考えてみて下さい。
 先ほどから「自分にできることを実践行動に移す」と言っていますが、「自分にできること」には
どんなものがあるでしょうか。資料の「一度きりのお子様ランチ」を一緒に読んでみましょう。


                 一度きりのお子様ランチ

 ある日、若い夫婦が二人でレストランに入りました。
 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、メニューを渡しました。
 「Aセット一つと、Bセット一つ。」
 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時、夫婦はしばし顔を見合わせ、「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。
 店員は驚きました。なぜなら、そのレストランの規則で、お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。
 店員は、「お客様、誠に申し訳ございませんが、お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文はいただけないのですが...」と丁重に断りました。
 すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、店員は事情を聞いてみました。
 「実は…」と女性が話し始めました。
 「今日は、天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっと落ち着いて、亡き娘にここの遊園地を見せて、三人で食事をしようと思ったものですから…」
店員は話を聞き終えた後、少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。
 そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに、「お子様はこちらに」と、夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。
 しばらくして、「お客様、大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」
店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。

 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。
 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」

 いかがでしたか?
 店員さんがとった態度をどう思いますか?一度は断りながらも、事情を聞いて2人がけのテーブルから4人がけのテーブルに案内し、しかも2人の間に子ども用のイスまで用意してお子様ランチをだし、「ゆっくりと食事をお楽しみ下さい」と声を掛けています。
 これは東京ディズニーランド内のレストランでのできごとです。ディズニーランドはアメリカのそれをまねて千葉県浦安市に造ったものですね。ディズニーランドの生みの親、ウォルト・ディズニーは、「人々に、夢と希望と生きる喜びを与える」ためにディズニーランドを造ったと聞いています。店員さんは、まさしく夫婦に夢と希望と生きる喜びを与えました。それは、夫婦から届いた手紙「もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」で分かりますね。
 人権尊重社会、人と人とが絆を結びあうために自分にできることを一つ一つ行動に移していこうではありませんか。
 時間の都合で、桑原律さんの「人権感覚って何ですか」に目を通すことはできませんでしたが、お帰りになりましたら是非読んでください。人権感覚とはがよく分かると思います。
 最後に、論語の言葉を引用して終わりにします。
 私は論語を読み込んでいる者ではありませんが、論語は、今から2000年も前に孔子が弟子たちに教え諭したものを弟子たちがまとめたものです。この論語の中には今の時代に必要なことがたくさん書かれています。この論語の中に「恕(じょ)」という言葉が出てきます。これは、弟子の子貢と孔子とのやり取りの文です。そこに記しています。御覧下さい。
 子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
 子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 意味は、子貢が孔子に問うのです。
 「先生、私が先生の教えを守って生き続ければ、人としての道を過たずに生きることができる、そんな一語があれば教えて下さい。」
 孔子が答えました。
 「その字は恕。つまり相手の身になって思い・語り・行動する優しさと思いやりのことだよ。自分がして欲しくないことは人にしてはなりません。」
 「恕」は、これまで述べてきました人権を尊重した共存社会実現のために私たちが持つべき心を言っていると私は思います。
 「恕」の心を持ち続け、みんなが幸せを実感できる人権尊重社会実現のため行動されることを祈念して終わります。ご静聴ありがとうございました。