「今を生きる自信と明日につながる希望」をはぐくみましょう
宇城市ふれあい学習会開講式


 皆さん、こんばんは。
 ただいまご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 少し自己紹介をします。ただいま「なかがわありとし」さんとご紹介いただきました。「有紀」と書いて「ありとし」と読むのですが、「ありとし」と読んでいただく方はほとんどいません。「ゆき」または「ゆうき」と読まれます。
 女性と間違われる名前ですが、私は自分の名前が大好きです。こんなすばらしい名前を付けてくれた父を敬愛しています。「有」という文字は、上に「保」という文字を付けると「保有する」と言う熟語ができます。このことから「有」は「保つ」という意味があります。父の名前は「有」一字で「たもつ」でした。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味があります。そこで、「紀(年)を重ねる毎に年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。父の願いに沿うようにと努力はしていますが、なかなか年相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。
 69歳です。もうすぐ70歳になります。私の住んでいる地域では、数え年で長寿の祝いをします。昨年11月、中学校の同級生で「古稀の祝い」をしました。川柳に「あちこちの 骨がなるなり 古稀古稀と」というのがあります。こんな歳ですが、今でも小学校や中学校時代の幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。私は「ありちゃん」と呼ばれることを嬉しく思っています。
 大好きな名前ですが、私は小さい頃、上級生などから、「おっ、アリの来よる。アリば踏みつぶそう」と足で踏みつぶす仕草をして、からかわれたりいじめられることがありました。そんなとき、「俺はアリじゃなか。ありとし」と言って体当たりして抗議をしていました。
 私は、親の思いを込めて名付けられた世界に一つしかない名前を冒涜することは、その人の人権を侵すことと思います。
 先生方、私のように、名前でからかわれたり、意地悪されたりして悔しい思い、悲しい思いをしている子がいるかもしれません。そんなとき、みんなの前でその子の名前に込めた親御さんの思いを語って下さい。子どもたちは名前に込めた親御さんの願いや思いを知ったら、からかったり意地悪したりすることの愚かさにきっと気づくと思います。
 保護者の皆さん、お子さんが低学年であれば、背中に手を回して膝の上に抱っこして、目を見つめ、赤ちゃん誕生時の感動を思い起こしながら、名前に込めた親の思いを、誕生日や進級・進学、卒業など節目節目に語ってやってください。背中に手を回してということには意味があります。背中に手を回して抱っこすると、子どもは包み込まれ感を実感します。親の愛情を実感します。後でも触れますが、これが自尊感情を高めます。
 高学年や中学生、高校生のお子さんには、手を取り目を見つめ親の思いを語ってください。お子さんはきっと親御さんの愛情を実感し、自分の名前を好きになり、誇りに思うことでしょう。
 今日は5月8日、25年度が始まってちょうど1ヶ月が過ぎました。1年生は、ピカピカのランドセルを背負って元気に楽しく登校していることと思います。このランドセルについて少し話をします。
 ある小学校でのことです。一人の女の子が入学しました。背中に黒いランドセルを背負って、毎日、通学を始めたそうです。教室へ行くと、「男みたい」と冷やかされました。学校の行き帰りも他の学年の子から冷やかされました。「女の子は赤のランドセルだろう。黒のランドセルは男の子だろう」と。そういうことが続きます。女の子の名前を仮にA子ちゃんとよびます。A子ちゃんは、家に帰ってこのことを家族に話しました。家の人が学校に相談に行きました。担任の先生は、一年生の教室で子どもたちに精いっぱい説明をしますが、子どもたちになかなかうまく届きません。他の先生からのアドバイスをもとに一年生に話をしますが、いっこうに問題は解決しません。A子ちゃんはとうとう学校へ行けなくなりました。保護者は悩んだ末、学校を変わりました。
 転校先の学校でも、最初は、子どもたちから「おかしい」の声が上がりました。担任の先生が保護者に、「A子ちゃんが黒のランドセルを背負って登校するのは、きっとわけがあると思います。よかったら黒いランドセルのわけを教えて下さい。」と尋ねました。家の人は先生にアルバムを見せながらそのわけを話しました。
 「A子には3歳上の兄がいました。黒いランドセルを背負って小学校に入学しましたが、ランドセルを背負って学校へ行ったのは1日だけでした。その時兄は、小児ガンにおかされていました。2回目のランドセルを背負うことなく、この世を去ってしまいました。A子が入学するとき、『新しいランドセルを買おうよ』と家族はすすめましたが、『私は、お兄ちゃんの黒いランドセル背負って学校へ行く。大好きなお兄ちゃんと一緒に学校へ行く』と強く望みました。それで、私たちもA子の言うことを見守っていたのです。」と。
 担任の先生は、この話を学校の先生方に話をしたそうです。その学校は、ここ豊野小学校や豊野中学校と同じように人権感覚豊かな先生方がいらっしゃる学校でした。学校をあげて、この問題に取り組み、A子ちゃんは、胸をはってお兄ちゃんと一緒に学校へ行けるようになったということです。
 この話の前半部分を資料に載せています。後で読んでください。
 私はこの話から2つのことを学びました。一つは、「一人一人を大切にする教育を推し進めることの大切さ」です。もう一つは、「○○=○○との固定観念のおかしさ」です。
 A子ちゃんは、大好きだったお兄ちゃんがたった1回しかランドセルを背負うことができなかった悔しさ、無念さを共有し、自分がお兄ちゃんの分までこのお兄ちゃんのランドセルを背負って学校に行く、そしてお兄ちゃんと一緒に学校生活をするのだとの思いから、家族のすすめを振り切ってお兄ちゃんの黒いランドセルで登校したのです。ここに、一人一人の思いを大切にする教育の大切さがあると思います。一人一人の思いに寄り添った教育を推し進めることの大切さを痛感しました。
 固定観念のおかしさは、いろんな場で叫ばれています。黒いランドセルは男の子のランドセル、女の子のランドセルは赤いランドセル、何の科学的根拠のないものがやがて社会通念としてできあがることはおかしなことです。私たちは、ややもすると固定観念でものを見てしまいがちです。固定観念でものを見ることのおかしさを訴えていきたいものです。
 私は本日の講話のテーマを「今を生きる自信と明日につながる希望をはぐくみましょう」としました。「今を生きる自信と明日への希望」がわき出てくる源は自尊感情だと思います。冒頭、名前に込めた親の思いのところで述べましたように、自尊感情とは、一言で言うなら自分自身を価値ある人間と思うことです。
 「俺ってたいしたもんだ。捨てたもんじゃなか。家族は俺を信頼している。友達は俺を大事にしてくれている。先生は俺を応援している。俺は俺を大事にするぞ!」と思う感情です。
 この自尊感情は、4つの感覚から成り立っています。一つは、「俺ってたいしたもんだ。捨てたもんじゃなか」と思う自己効力感、つまり自信です。二つは、「家族は信頼している。先生も俺を応援している」と思う包み込まれ感覚です。この包み込まれ感覚は、別の言い方をすれば、自分は家族をはじめ周りから愛されていると思う感覚です。冒頭言いました「背に手を回して抱っこして、目を見て、親の思いを語ってください」と言ったのはこの包み込まれ感覚を幼児の頃から実感させて欲しいからです。三つは、「友達は俺を大事にしてくれている」という社交性感覚です。自分は一人ではない、友達と他の人とつながっている、他との絆があるという感覚です。四つは、「俺は俺を大事にするぞ」の自己受容感覚です。この4つを、家庭はもちろん、学校でも地域でも子どもたちに実感させ、自尊感情を育んで欲しいと思います。
 この自尊感情が、人権尊重社会であり生涯学習社会でもある21世紀に生きる私たちにとって最も大切な感情だと私は思います。自分を大事にできない人がどうして他人を大事にできましょう。「自分の人権を守り他の人の人権を守る」これが人権尊重社会の基礎だと思うからです。
 また、一人一人に自尊感情があるように集団にも集団の自尊感情があると思います。
 資料に示していますのは、孫娘が小学4年生のとき、平成20年5月17日朝日新聞「声」に投書したものです。読んでみます。


                   人権感覚持つ子ら育てたい

 小学4年生の孫娘に電話すると、いつものような元気がない。訳を聞くと、「明日体育の授業でリレーがある。去年、リレーの時、私が走るのが遅いので私の組はビリだった。みんなからとても嫌なことを言われた。明日、またリレーがある。嫌だな」と言う。
 妻は、「リレーであなたの走りが遅くて負けたのなら、みんなにごめんなさいと言いなさい。それでも、みんなが文句を言うなら先生に相談しなさい。泣いたり怒ったりしては駄目」とアドバイスした。孫娘は、「分かった」と言った。
 周りから「おまえのせいで負けた」と責められると、「自分はダメな人間」と思いこみ、自信喪失になる。不登校や引きこもりになりかねない。
 孫の憂鬱は、人権感覚を育てることに直結する問題だと思う。人は自分の短所や欠点を他人に話すことには抵抗がある。しかし、自分のことを理解してもらうには自分のありのままの姿をきちんと話さなければならない。このような時、所属する集団に、互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていれば素直に話すことができる。子どもの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、豊かな人権感覚を持った子ども達をはぐくんでいただきたいと願う。

 集団の自尊感情と言いましたが、私は互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていることが集団の自尊感情が高まっている状態だと思います。
 言い換えれば、一人一人が「俺のことを認めてくれる友達や先生がいる」「俺の話に耳を傾けてくれる友がいる」「俺がこのクラスからいなくなったらクラスではなくなる」「このクラスには俺の居場所がある」などと実感できる集団だととらえています。
 次の資料、平成22年11月18日朝日新聞「声」に投稿された文を読んでみます。


             教室に不登校の子、涙した先生

 小学4年生の時、クラスに不登校の子どもがいた。彼はみんなから「バイ菌」扱いされていて孤独だった。私も彼を哀れに思いながらも、かばいもせずに笑っていた一人だった。担任だった先生は、たびたび彼の自宅に行ってきたことを私たちに話した。報告を聞くたびに、私たちは心のどこかで反省していた。
 不登校になって半年が過ぎた頃、彼が先生の働きかけもあってか、ひょっこり登校してきた。私たちは彼を久しぶりに見て驚いたが、バツが悪くて何となく放っておいた。先生は出席を取りながら、彼の名前を呼んだ後、しばらく黙ってしまった。
 何事だろうと先生の顔を見ると、ボロボロ涙をこぼしているではないか。大人の男性が泣く姿など初めて見た私たちは度肝を抜かれた。
 「あぁ、君が学校に来てくれて本当にうれしいんだ。このクラスは君がいて、この人数でやっと一つのクラスなんだ」
 先生は泣きながらやっとこの言葉を言って、また出席を取り始めた。みんな黙っていた。それ以来、彼がいじめられることはなかった。私たちはいじめがいかにくだらない悲しいことであるのか、先生の涙を見て学んだと思う。

 先生は、「あぁ、君が学校に来てくれて本当にうれしいんだ。このクラスは君がいて、この人数でやっと一つのクラスなんだ」と涙をボロボロ流しながら言っています。この先生の姿が、子どもたち一人一人に、「自分はこのクラスの構成員の一人だ。自分がいなければこのクラスは成り立たない」ことを実感させたのだと思います。先生は、集団の自尊感情を育てています。
 2013年度「ふれあい学習会」「きずな学習会」高校生の部の年間計画をいただきました。その中の昨年度の学習成果に、「もし、みなさんのまわりに、困っていたり、悩んだりしている人がいたら、見て見ぬふりをするのではなく、勇気を出して手を差し伸べることから始めてみませんか。もし、誰かから相談されたら、『他の人のこと』で済ませず、自分自身のこととして、一緒に考えてみませんか。もし、自分自身が困ったら、一人で悩まないで、誰かにサインを出してみませんか。一人では辛く、苦しいことでも、みんなとなら頑張ることができます。あなたを助けてくれる家族、友達、先生がいます。あなたが悩んだり困ったりしたとき、きっと相談にのってくれます。そして、仲間や友達と支え合いながら、一緒に差別やいじめに立ち向かっていきましょう。」そして「本音で語り、共感し、本気で動くの言葉を実践している」とあります。
 ここに書かれている文が、集団の自尊感情の大切さを言い表していますね。
 ここで、集団の自尊感情を育てる演習をしてみたいと思います。
 皆さんは、万葉の歌人 柿本人麻呂が詠んだ
 ひんがしの 野にかぎろひの たつ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ
 という和歌はご存じだと思います。
 現在、小学6年生の国語の教材にあるかどうかは分かりませんが、20年ほど前の国語の教科書にはこの和歌が教材としてあったそうです。その国語の授業の様子を、当時の七城町の生涯学習フェスティバルで一人の先生が発表されました。発表された国語の授業をここで皆さんと一緒にしてみたいと思います。
 ひんがしの 野にかぎろひの たつ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ
 教科書には、この和歌と現代語訳が記してあったそうです。この和歌をよんで、現代語訳の情景を思い浮かべただけの授業を終わりにしてしまうのはあまりにももったいないと考えた先生は、この和歌の情景を絵に描かせようと思いつかれたのです。
 そこで、皆さんにも情景を絵に描いて欲しいと思うのです。そして発表して欲しいのです。そのとき頭に置いておいて欲しいことがあります。
 それは、これまでに学んだ知識や技能、生活の中で得た知識や技能を総動員して、科学的、論理的に筋道を立てて考えて欲しいことが一つです。根拠となる事柄を示して自分の言葉で説明して欲しいことが二つです。そして、皆さんの考えや意見を聞くことで、互いの存在を認め、いろんな意見や考えを肯定的に受け止めて欲しいことです。
 「なんや、そら違う」といきなり否定したり、笑ったり、冷やかしたりしないことです。このことをみんなで約束して演習に入りたいと思います。
 時間の都合もありますので東の空の情景は、小学生が話し合ったことを示します。
 「ひんがしの野にかぎろひのたつみえて」を手がかりに、東の空の情景を子どもに描かせてみると山の端から太陽が今まさに出ようとしている場面に落ち着いたそうです。
 それでは、「かえりみすればつきかたぶきぬ」をもとに西の空の情景をレジュメの空いているところに描いてみてください。
 東の空に、今まさに陽が昇ろうとしている東の空や西の空の情景は、日常ではほとんど見ませんね。正月、初日の出を見ようと早起きすることがありますが、そのとき、西の空を振り返って見るなんてこともあまりしないですからね。
 でも、与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」の光景はよく目にするでしょう? 満月が東の空に浮かびはじめ、西の空に夕日が沈もうとする光景です。
 先ほど言いましたように、これまでの生活や学習で得た知識を総動員して西の空の情景を思い浮かべてください。
 いくつかの月が描かれています。どなたかここに描いてもらえませんか?(挙手無し)
 では、小学生が描いた月を紹介しますね。子どもたちが描いた西の空の月の形は、満月があり、三日月があり、半月があり、半月も上弦の月や下弦の月、そして三日月と反対の形の有明月などいろんな月の形があったそうです。そして、その根拠となる考えもそれぞれが発表し、議論したそうです。しかし、なかなか一つにまとめることができなかったそうです。
 予断ですが、古人は、「春三日月にはお酒がよく入り、秋三日月はお酒がこぼれる」などと興じていたそうです。三日月はよく目にしますのでおわかりと思います。春の三日月は傾いていますよね。反対に秋の三日月は立って見えます。三日月を始め月の形は昔の人がいろいろと思いを巡らしたように今の人もいろんなことを想像しますよね。
 もとに返ります。皆さんにお尋ねします。
 三日月だと思う方、挙手お願いします。(3分の1程度挙手)
 半月だと思う方は?(4分の1程度挙手)
 満月だと思う方、挙手してくださいますか?(5分の3程度挙手)
 満月だと思う方が多いですね。
 どなたか、満月だと思う根拠を説明してもらえませんか?
 理科の先生、説明していただけませんか?(「結論から言うと満月です。」高校生から「やったー。」の声あり)
 満月と思っていましたか?(高校生から「はい」の返事)
 私は、月と太陽の関係についてよく知りませんが、先生から言っていただきましたように西の空に沈もうとする月は満月です。詳しいことは、明日、理科の先生に聞いてください。
 発表された小学校では、一人の子が「この月と太陽の勉強は4年生で習ったような気がします。明日4年生の理科の教科書を持って来て調べてみましょう。」と提案したそうです。翌日、4年生の教科書をもとにいろいろ調べていると、東の空に太陽が今まさに昇ろうとする頃、西の空に浮かぶ月は満月しかないという結論に達したということです。
 これまでに学んだ知識や技能、あるいは生活の中で得た知識や技能を総動員して、科学的、論理的に筋道を立てて考え、根拠を示して自分の言葉で説明することは人権教育ではとても大切なことです。科学的なものの見方考え方は人権教育の大事な視点ですよね。また、本日は皆さんからの発表をいただく時間がありませんでしたが、互いの考えや意見を聞き、いろんな意見や考えを肯定的に受け止め、互いの存在を認め合うことは集団の自尊感情を育む上でもっとも大事なことと思います。
 これまで、一人一人の自尊感情と集団の自尊感情の大切さを述べて参りました。この自尊感情を育むもとは、体の栄養と心の栄養です。
 体の栄養は、よく食べ、よく寝て、よく動くことです。早寝早起き朝ご飯を実践して欲しいと思います。
 心の栄養は、子どもたちが家庭や学校、地域で、安心・安全を実感し、自分は周りの人から愛されている、一人ぼっちじゃない、話を聴いてくれる人がいる、認めて褒めてくれる人がいる、信じてくれる人がいる、感謝してくれる人がいるなどを数多く実感できるようにして欲しいと思います。
 この4月、高校3年生が自分で自分の命を絶つという痛ましいできごとがありました。将来、大きな花が咲くであろう可能性を自分で摘んだのです。きつかったことでしょう。無念だったことでしょう。生きる光を与えることができなかったことを残念に思うのは私一人ではないと思います。人権子ども集会のアピール文にありますように、誰かに相談していたら、きつい思いをしているサインをキャッチできていたらと悔やまれてなりません。
 次の文は、以前テレビコマーシャルで流れていた文です。 
 「命は大切だ。命を大切に そんなこと何千万、何万回言われるより(あなたが大切だ。)誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。」
 (  )の中に入れたい言葉を考えてみてください。
 「あなたがいて○年○組だ」は、先ほどみました先生の言葉です。
 「誰がなんと言おうと、お父さんはおまえを守る」は、包み込まれ感覚を実感する言葉です。
 「あなたがいてくれてうれしい」は、自分のありのままを受け容れてもらえる自己存在感の実感です。
 このような言葉を子どもたちにばかりではなく周りの人に発し続けようではありませんか。
 昨年、中学生の人権作文を読んでいて「リスペクトアザース」という言葉を初めて知りました。意味はよく分かりませんが、「互いを尊敬・尊重しあおう」と言うことだろうと思います。このことはこれまで述べてきました集団の自尊感情を醸成することにつながると思います。
 第32回(平成24年度)中学生人権作文コンテスト法務大臣賞を受賞した神奈川県鎌倉市立御成中学校3年坪井洸君の人権作文「リスペクトアザース」を皆さんと一緒に読んで終わりにします。


                   「リスペクトアザース」
                                        神奈川県鎌倉市立御成中学校3年 坪井洸(つぼいこう)

 僕は、日本人の両親を持ちながら、アメリカのサンディエゴで生まれて、十歳半まで生活し、地元のデイケア(保育園)、プレスクール(幼稚園)、小学校に通った。その中で出会った先生たちが何度も口にした『respect others(リスペクトアザース)』という言葉は、今も僕の行動や考え方に大きな影響を与えている。
 サンディエゴは、ロサンゼルスの南にあり、メキシコの国境から一時間程度だったので、土地柄のせいか、クラスには、肌の色も髪の毛の色も本当にいろいろな人種の人がいた。僕が物心ついたときには、周囲にいろいろな人種の人たちがいるのが当たり前の状況だったので、自分がまわりの人と違っていることも当然だと思っていたし、それに対して深く考えることもなかったように思う。どこの国でも同じだと思うが、集団生活が始まると、誰かが意地悪をしたとか、誰かが誰かにいじめられたとか、いわゆる人間関係のトラブルが起こってくる。そんなとき、先生たちは必ず『リスペクトアザース』と言い、当事者に反省を促した。『リスペクト』の意味もはっきりわからない保育園や幼稚園の頃から、ことあるごとに繰り返し叩き込まれた。日本語にすると、「他の人のことを尊重しなさい」というような意味なのだが、今思うと「意地悪しないで、みんな仲良くしなさい」とか、「いじめはダメ」というそのときの行動を注意するのではなく、その行動を起こしてしまった根本の考え方を問題にしていることになる。
 また、この言葉は僕が入っていたリトルリーグの監督やコーチもよく使っていた。選抜テストがない地元のリトルリーグでは、上手い選手と上手くない選手が混合して十二人でチームとして試合に臨まなくてはいけなかった。上手くない選手がフライをポロリと捕りそこなったとき、チーム全体が「おい、この下手くそ」と怒鳴りたくなる場面で、監督やコーチは『リスペクトアザース』と言った。やる気がなくてエラーをするのはもっての他であるが、、やる気があっても上手くできない選手はいるのである。この場合は、そこをわかってやれという意味だと思っている。実際、当時初心者だった僕は、この言葉を聞いて救われる気持ちになり、もっと上手くなるようにうんと頑張り、シーズン最後にはチームに少しは貢献できるようになった。
 その後、僕は日本の小学校に通い始めた。周囲のみんなのおかげで生活にはすぐに慣れたが、同時に大きなカルチャーショックも受けた。一番驚いたことは、みんなが他の人と大きく違わないように、なるべく同じようになるように非常に気を遣っているように見えたことである。他人よりうまくいかないから目立たないようにしているのではなく、他人よりうまくできても目立たないようにしているように感じた。僕は最初のうち、そのノリがわからず今までどおり、自分が上手く出来たことを周りの人にも伝えていたら、「それは自慢だ」と言われて、なんとも悲しい気持ちになった。また、友達同士で相手の気持ちになれば絶対言えないような侮辱するようなひどい言葉を言い合っていても、『冗談』と言ってうやむやにしていることにも驚いた。僕がよくわからない世界だった。僕が叩き込まれていた『リスペクトアザース』の世界はここにはなかった。
 僕の限られた経験の話になるが、アメリカ(サンディエゴ)ではなぜそんなに『リスペクトアザース』を子どもの頃から叩きこんでいるのだろうか。
 それは、アメリカ社会がつい最近までひどい人種差別などを行ってきたことの反省からかもしれない。居住地区を制限したり、公園やバスなどの公共の場でも座る場所をわけていたりと、差別することが当たり前で、一般人が差別したりされたりすることに何の疑問を持たずに時代が流れていた過去がある。そんな過ちをこれから先に繰り返さないように、子ども達に叩き込んだり、またそうすることによって、大人も自分自身を戒めているのかもしれない。
 僕は日本でももっと、『リスペクトアザース』が浸透していけばいいと思う。日本は表面上差別のない社会なので、必要ないと思われるかもしれない。しかし、これこそが人権を考える上での基本だと思う。人権尊重の社会を作っていくのは、僕たちひとりひとりの考え方によるからだ。同じ人間は一人もいない。人と違っていることがまたその人の個性である。違う点だけでなく、うまくいったこと、できなくても努力していくことなどを尊重し合っていくことができれば、もっと素晴らしい社会になっていくと思う。

 坪井君は、「うまくいったこと、できなくても努力していくことなどを尊重し合っていくことができれば、もっと素晴らしい社会になっていくと思う。」と述べています。
 ここふれあい学習会で学ばれた人権尊重の精神を、宇城市はもとより、熊本県全域に広めていただき、一人一人が 「俺ってたいしたもんだ。捨てたもんじゃなか。家族は俺を信頼している。友達は俺を大事にしてくれている。先生は俺を応援している。俺は俺を大事にするぞ!」と思える社会づくりにつながりますことを祈念申し上げ話を終わります。ありがとうございました。