子どもは親の姿を見て学んでいく
益城町家庭教育セミナー
益城町立津森小学校


 皆さんこんにちは。
 ただいまご紹介頂きました中川でございます。よろしくお願いします。放課後子ども教室でいつもお邪魔していますので顔見知りの方もいらっしゃいますね。
 私は、長い間教員をしておりました。演台の前で話すより皆さんの近くで話した方が性に合っています。前に出て話をさせて下さい。前の席にいらっしゃる方には、もしかしたら唾が跳ぶことがあるかも知れませんがご容赦下さい。
 今、校長先生は私を、「中川あり・・・ありとしさんです。」と紹介されました。そして、「難しい名前で今覚えました。」とおっしゃいました。私の名前は難しくて、正しく読まれることはほとんどありません。校長先生が初めてではありません。
 私は膝の具合が悪くて、整形外科で月に1度、膝にヒアルロン酸の注射をしてもらっています。膝の注射はとても痛いんです。こんなことは本日はどうでもいいことですよね。
 先日、受付の看護師さんから、「お待たせしました。中川ゆきさん、どうぞ。」と呼ばれました。私が「ハイ」と返事して治療室に入ろうとすると、男性が入室しようとしたから看護師さんは改めてカルテを見たのでしょう。「「あっ、失礼しました。中川ありとしさん。」と言い直されました。このようにわたしはよく女性と間違われます。「ありとし」ではなく「ゆき」または「ゆうき」と読まれるのです。「有紀」とかいて「ありとし」と読みます。
 この名前は父が付けてくれました。こんなすばらしい名前を付けてくれた親を尊敬し、敬愛しています。「有」は上に「保」という漢字を付けて「保有する」という言葉になりますね。「有」には「保つ」という意味があります。「紀」は「21世紀は人権の世紀」などというように「年」の意味があります。父は「年を重ねるにつれて年相応の人間になれよ」という願いを込めて名付けたと言っていました。
 私が父から名前に込めた親の思いを聞いていたように、皆さんも既にお子さんの名前に込めた親の思いを語っておられるでしょう。人生の節目節目に、名前に込めた親の思いを語って下さい。
 低学年のお子さんだったら、膝の上に抱っこして、背中に手を回して、目を見つめて、お子さん誕生の時の感動を思い起こして、お子さんの名前に込めた思いや願いを語って下さい。高学年のお子さんだったら、お子さんの手を取り、互いの手のぬくもりを感じ合いながら、目をしっかりと見つめて語って下さい。
 きっと、お子さんは親の期待や願いを受け止め、自分の名前に誇りを持ち、自分の名前を好きになると思います。名前を好きになることは自分自身を好きになることです。自分自身を価値ある人間と思うことにつながります。この自分自身を価値ある人間と思う感情を「自尊感情」と言います。私は、この自尊感情が人権尊重社会、生涯学習社会に生きる私たちには最も大切な資質であると思っています。
 先ほど言いましたように、ここ津森小学校と飯野小学校では放課後子ども教室で、木山分館活動で、益城中央小学校の子どもたちにそろばんを教えています。その子どもたちの反応には色々あります。
 そろばんでは理解が難しい箇所が何カ所かあります。まず最初に難しいところは、5珠を使うたし算です。例えば、「3+2」のたし算です。子どもたちは答が「5」になることはみんな知っています。そろばんの上でどう珠を動かして計算するかが難しいのです。「2+2」のように1珠は使えません。そこで5珠を使うのです。この計算は、「1珠は1個しか残っていないので1珠を使っての計算はできない。だから5珠を使う。5珠を入れることは5をたすことになる。自分は2たせばよいのに5たすから3たしすぎ。だから3とる。」と思考するのです。「3+2」の計算でこんなにいくつもの思考をしなければならないのです。
 ここで、2つの反応があるのです。何回か挑戦して、理解できずに「これは難しい。やーめた。」という子。「先生、わかりません。教えて下さい。」と何度も聞きに来る子。聞いて理解できてやってみるとやはりわからない。そこでまた聞きに来ます。「さっき教えたろうが。」と私から言われても「わかりません。教えて下さい。」と聞きに来るのです。この違いは何でしょうか。私は能力の違いではないと思います。自尊感情の差だと思います。
 次の難関は、例えば「6+7」のような計算です。これは、7はあと3あれば10になります。このことを、そろばんでは「7は3とって10上がる」と唱えて、3とって10あげるのですが、1珠は1個入れてあるだけだから3とれません。そこで5珠から3とります。すると2残ります。それで、珠の動かし方は1珠を2入れて5珠を払って10の位に1珠を1入れるのです。2年生がこの計算方法を理解するのに半年以上かかりました。
 私は自分の前にある困難を、「どうしても解決するぞ!」の気持ちを強く持つことができるかどうかは自尊感情の差だと思っています。これは「わかるようになりたい」「できるようになりたい」という向上心であり、チャレンジ精神ですよね。これがなければ学力は向上しません。学力を身につける最も基礎になる力です。そこで、この自尊感情は「見えない学力」とも呼ばれています。
 先ほどから言っていますように、自尊感情の高い子は、精神的に安定し、何事にも積極的です。自分を律し、自分や他を大切にした生き方ができます。自尊感情は、人権尊重社会・生涯学習社会に生きる子どもたちにとって最も重要な感性です。
 本日は時間も限られていますのでこの自尊感情を身につけること、そして、高めることに絞って一緒に考えてみたいと思います。
 私の提案です。親と子の愛のキャッチボールを通して、子どもたちの自尊感情を育みましょう。
 今、子どもたちは体験不足とよく言われます。体験には、自然体験、農業体験など色々あります。本校では、「ご三郎農園」がありますね。農業体験が活発に行われていることが、新聞・テレビで報道されています。すばらしいことです。子どもたちに諸々の体験をさせましょう。
 私が本日提案したいのは、そこに示しているような、成功体験、失敗体験、頼りにされた体験、感謝された体験などの体験です。
 先ほど触れましたそろばん教室に関することです。ある子が検定試験の数日前、私の携帯に電話してきました。「明日は低学年の勉強の日ですが、割り算がわからないので一緒に勉強してもいいですか?」と聞きます。私が「いいよ。一緒に勉強しよう。」と言うと、「教えて下さい。」と。この子は残念ながら6級に合格できませんでした。泣きながら悔しがりました。7級・8級に合格した子のお母さんは、「ありがとうございました。試験の数日は泣きながら何回も練習していました。合格できてとても喜んでいます。」と言われました。人は成功することもあり、失敗することもあります。努力の跡の成功、失敗は喜び、悔しさが次に活きます。成功したとき、努力しているとき、心から褒めて下さい。褒められて腹を立てる人はいません。今こうして私が話しているのを、食い入るように私を見つめている人がいらっしゃいます。頷きながら聞いている人がいらっしゃいます。メモをとりながら聞いている人がいらっしゃいます。私が話しているのを受け止め、受け容れていらっしゃるのだと私は思っています。それでとても嬉しいです。既に68歳になった私が認められると嬉しいのですよ。子もが褒められたり認められたりして嬉しくないはずはありません。
 北陸地方、福井、石川、富山地方の公民館で学ぶ人は学習意欲旺盛な人です。私も視察に行ったことがあります。当時、上越教育大学教授の新井郁夫という先生が公民館やカルチャーセンターで学んでいる人たちにアンケート調査をされました。「周りの人から認められたことがありましたか?」「褒められたことがありましたか?」「感謝されたことがありましたか?」などなどを。その結果、「認められ、褒められ、感謝された回数が多い人ほど学習意欲が旺盛」ということが分かりました。
 それも「小学4年生から中学2年生にかけて、認め、褒められた体験が多い人ほど学習意欲が旺盛」ということが分かったのです。中学生と言えば、思春期ですね。思春期という時期は心が揺れ動く時期です。アメリカの心理学者ハヴィー・ガーストはこの時期のことを「疾風怒濤の時代」と表現しています。この時期に、自分のことを褒められ、認められると心が安定し、嬉しくなります。自己実現を実感するからです。冒頭言いました自分を「価値ある人間」と実感しているのです。自尊感情を高めるのです。
 放課後子ども教室でそろばんの練習が終わると、2年生に、私やボランティア指導員の前でかけ算九九を言わせています。はじめはいやいや、しぶしぶ唱えます。2の段が上手に言えると、ほっぺたを挟んで「ウワー上手。合格!」と言って握手します。顔をくしゃくしゃにして喜びます。そして、3の段を言います。同じように褒めます。まだ十分言えない子には「もう少し」と言ったりしていると、3年生が周りにやってきます。そして、九九を間違えたり、言えなかったりすると、小さな声で答えを教えています。3年生には「あなたが言って聞かせなさい」、2年生には「○○さんが言うからしっかり聞いていなさい。」と言います。3年生は自信満々で唱えます。これは、認められ、褒められることが、いかに学習意欲につながるかを示していることと思います。
 今学校では、「認め、褒め、励まし、伸ばす」教育が進められています。これは学校の専売特許ではありません。家庭でも、地域でも子どもたちを認め、褒め、励まし伸ばしましょう。
 私は昔の秋津村沼山津で生まれ、育ちました。小さい頃、弟などをいじめたりしていると、「おい有紀。そぎゃんこつすると、有(たもつ)ちゃんの泣かすぞ!」と言われていました。「有(たもつ)」とは、私の父の名前です。道端で泣いている子に「どぎゃんしたつや?」など声を掛けていると、「さすが幸平しゃんの孫。幸平しゃんの喜ばすぞ」などと言われていました。「幸平」とは祖父の名前です。このように地域全部で子育てをしていました。
 私の家の傍にはスーパーがあります。買い物の親子連れがよく通ります。あるとき、親子連れの子に「こんばんは」と声かけると、母親が「ほら、おじさんが挨拶されたよ。あなたも挨拶しなさい。」と子どもに言い聞かせていました。同じくらいの年格好の親子に「こんにちは」と挨拶しました。子どもは「こんにちは」と挨拶を返しました。ところが親は「知らない人の声かけには返事してはダメと言っているでしょう!」と子どもの手を引いて急いで立ち去りました。子どもに与える影響はかなり違うと思います。
 子どもが失敗したとき、「どうせ俺は頭が悪かもん」「私にできない」と「能力不足」のせいにさせないで下さい。「努力不足」あるいは努力の方法が良かったのだろうかと反省させて下さい。「失敗は成功の母」など言われていますが、能力不足にしては次に活かせません。また、失敗を他のせいしても次には活きません。他のせいにさせないで下さい。
 私の家の洗濯機は、2槽式です。風呂の残り湯を使っています。今朝のように冷えると、ポンプのホースが硬くなり用心しないと水の勢いでホースが暴れます。ですからしっかりホースを固定して水を入れるのです。ところが2日前の朝、妻はホースを固定しないままポンプのスイッチを入れたのです。ホースが暴れて洗濯機から飛び出し、辺りは水浸しです。「あたがホースを固定しとらんだったけんたい!」と鬼の形相です。こんな時は何と言っても聞く耳を持ちません。しばらくして落ち着いてから、「失敗を人のせいにすると楽だもんね。」と言うと苦笑いしていました。
 私は料理ができません。ですからせめて後片付けでもと、朝から自分の茶碗は自分で運びます。1週間ばかり前のことでした。急いでいましたので茶碗の上におかずの皿も一緒に乗せて運んでいました。ところがちょっとつまずいておかずを床にこぼしてしまいました。思わず「しまった!」と声に出ました。床に落ちたおかずをそっと片づけていました。そこへ妻が来て、「なんば騒動しよっとね?」と言います。私は怒られるとばかり思いました。普段だったら「こん忙しか朝に、要らん仕事ば作って!」と言うところを「なんね、こぼしたつね。片づければよかたい。」と。この一言で救われた思いがしました。妻の虫の居所が良かったのです。子どもはお母さんの虫の居所で叱られたり、そうでなかったりされてはたまりません。いつも心の安定は保ちたいものです。
 今の子どもたちに足りないと思うのは、「頼りにされた体験」です。昔は、どの子も一人の働き手として自分に与えられた仕事をしていました。そして、知らず知らずのうちに「自分が居るからこの家はうまく回っている」という自己存在感、自己有用感を実感していました。
 子どもたちが自己有用感、自己存在感を体感できる体験をさせて下さい。家の中には、子どもにできる仕事が一杯あるでしょう。朝のカーテン開けでもよいです。「あなたがいつもカーテンを開けてくれるから朝日が入って気持ちがいい。」と一言声を掛けて下さい。子どもはきっと「自分は家族から便りにされている」という自己有用感を実感するはずです。
 最も足りない体験が、「決断」体験だと思います。今、家庭の中で子どもが決断する機会が極めて少なくなりました。
 例えば、以前はテレビは一家に一台でした。もちろん、録画装置などありませんでした。それで、今夜のテレビは何を見るかを決めるのが問題でした。「ぼくはこの番組を見たい。お姉ちゃんは歌番組が見たいと言う。でも今夜は、おじいさんが楽しみにしている『坂の上の雲』があるのでおじいさんに見せよう。明日は私が好きな番組を見せてもらおう。」と譲り合い、主張し合い、そしてどの番組を見るか決断したものです。ところが今はそれが不要です。録画器がありますから。コマーシャルで、「どうして録画しておかなかったの?どうして。」というのがあるでしょう?私があれが大嫌いです。放課後子ども教室に参加するかどうかも、お母さんが「そろばんは頭を使うからいいよ。参加しなさい。」ではなくお子さんに決断させてください。もちろん、「そろばんは頭を使うからためになるよ」などの情報はお子さんに与えてください。
 ところでもうすぐ冬休みです。お子さんは上履きを持って帰るでしょう。自分の上履きはお子さんが洗っているところ挙手してみて下さい。(10人程度挙手)
 すごいですね。これは私の偏見かも知れませんが、お母さんが洗ってやっているところ挙手して下さい。(周りを見回しながらそろそろとかなりの人が挙手)
 皆さんばかりではないのですよ。夏休み前、城南町のある学校でも聞きました。かなりの家庭でお母さんが洗っていました。子どもが洗っているのを見ると、洗い方がうまくできていなくていらいらするでしょう?それで、つい、お母さんが洗ってしまうのでしょう?
 先生方、上履きは底に土がついていなけらばいいでしょう?上の方が汚れていたり、中が汚れていても学校生活には問題ありません。本人が汚れている上履きを履いて気持ちがよいかどうかの問題です。気持ち悪ければ、次に洗うとき洗い方を工夫します。それが学習でしょう?
 私が益城町の社会教育指導員をしているとき、公民館講座申込の受付をしていたときのことです。おじいさんが3歳くらいの孫を連れて申し込みに来られました。帰るとき、孫が靴を履くとき、「自分で履ききっど。じいちゃんが見とるけん自分で履け。」と言ってただ見ているだけです。履き終わると、「あーあ、右左反対に履いてしもうたね。よかたい。歩かるっど。」と言って孫を引いて帰られました。しばらくして、お母さんが同じくらいの娘を連れて申し込みに来られました。帰るとき、玄関で「○○ちゃん、あんよをだして。」と言って靴を履かせて帰られました。同じ靴を履くという体験ですが、どちらの子が次に活きてはたらく体験をしたでしょうか?
 「手を離して 目は離さない」ようにしましょう。案外反対のことが多いのです。目を離していることが多いと思います。
 先ほどの、「認め、褒め」に関することですが、3年生の孫娘は、2年生の今頃、縄跳びに夢中でした。「2段跳びが30回跳べるよ。見て。」と言って私と妻の前で2段跳びに挑戦しますが、すぐ縄が引っかかって2〜3回しか跳べません。妻は、他のことをし始めました。何度も跳んでいると、10回くらい跳べたので、妻は「じょうず、じょうず。」と言いました。孫娘は、「見てもいないでそんなこと言わないで!」と怒るのです。私は、71回という2段跳びの記録を持っています。孫に「おじいちゃんは、71回跳べていたぞ。71回に挑戦してみろ!」と言うと、汗びっしょりになりながら何度も挑戦します。36回跳べました。「うわー、すごい!」と言って孫を抱きしめました。とても嬉しそうでした。きちんと自分の成長や伸びを認めて、褒めてもらうことがいかに嬉しく感じるかという表れと思います。このことからも目を離さないことの大切さはおわかりと思います。
 時間配分が悪くて、通知表に関することを話す時間がなくなりました。資料に付けていますのは、上の孫娘が1年生の2学期の通知表を見たときのことを記したものです。あとで是非目を通して下さい。
 今、先生方は通知表の所見欄に、一人ひとりの子どもの成長やこれからの努力点をどうお知らせしようかと、それこそ夜もねらずに考えていらっしゃることと思います。
 「良くできます」「がんばって」などの評価の欄もそうですが、所見欄をよく読んでお子さんと話し合って欲しいと思います。
 また、ドロシー・ロー・ノルトの「子は親の鏡」も付けています。是非読んで下さい。
 私は今日のように寒い日に思い出すことがあります。もう20年ばかり前の話です。まだ、青年団活動が盛んな頃の話です。一人の女子青年団員が次のようなことを私に話してくれました。
 寒い晩でした。私は彼と肩を寄せ合い、画図湖のほとりを散歩していました。彼は私に「寒くはないか?」と言います。私のことをこんなに心配してくれている。何と心優しい人だろう。この人とだったら結婚してもいいと思いました。寒い夜でしたが心はとても温かくなりました。それで私は「寒くはありません。」と答えました。すると彼は、「寒なかや。そんならあたが着ている上着ば貸せ。」と言って私の上着をはぎ取ろうとしたのです。私はこのことがあって以来、その人とは会っていません。と。
 皆さん、この話を聞いてどう思われますか?こんな言葉を聞いたら百年の恋もいっぺんに吹っ飛んでしまいます。本当に優しさと思いやりがあるのなら、「上着ば貸せ!」など言いませんよね。
 思いやりや優しさに関する話が「論語」に出てきます。皆さんは「論語」を知っていらっしゃるでしょう?論語は、孔子とその弟子の会話を後世になって編纂したものですね。
 その中に、次のような文言があります。
 子貢問うて日く、「一言にして以て身を終うるまで之を行うべきもの有りや。」
 子日く、「其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。」
 これは、孔子の門弟の一人 子貢が孔子に人生の生き方を問うているものです。
 「私は頭が悪くて孔子様がおっしゃることが良くわかりません。」弟子からそう言われても先生ですから「そうだな。お前は頭が悪いものな。」など言えません。そこで、孔子が尋ねたのです。「どうしてそんなことを言うのか?」と。
 すると、子貢が「頭の悪い私が、先生から教えられたたった一文字を大切に生きれば、人間として誤らずに生を全うできるという字があったらお教えください。」と問うのです。そこで、孔子は、「その文字は恕だ。そして、自分がして欲しくないことは他人にもしないことだ。」と教え諭したのです。
 「恕」と言う文字の意味は、「常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさ、思いやり」です。
 私はこの「恕の精神」を家庭でも学校でも、社会でもみんなが持ち続けるならばみんなが幸せを実感できる社会になると思います。
 津森小学校の保護者の皆さんや子どもさんたちが自分自身を好きになり、それと同じように他の人も好きになる自尊感情みなぎる家庭、学校となり、一人ひとりが幸せを実感できる家庭、学校になりますことを祈念して話を終わります。
  ご静聴ありがとうございました。