子どもは家庭の宝 地域の宝 世界の宝
平成20年12月7日
菊池市立戸崎小学校


 ただ今ご紹介いただきました中川です。校長先生が私の名前を紹介されるときに、ここに書いてある文字で「ありとし」と言われますとおっしゃいました。私の名前を「ありとし」と読む方は一人もいらっしゃいません。
 牛深小学校に赴任したときのことです。時の校長先生は私の顔をジーっと見つめながら、「うわぁー、あたは、ほんなこて中川先生な。私ぁー名前ば見て『今度来る先生は美人の先生ばい。』と職員には紹介しとった。あたが男の先生とは思わんだった。ほんなこてあたは中川先生な」と本当に困ったという顔でおっしゃいました。校長先生は私の名前を「ゆうき」または「ゆき」と読まれたのだろうと思います。このように、女性の名前と間違われるのですが、私は父がつけてくれたこの名前に誇りを持っています。父を尊敬しています。
 皆さん方も、子どもさんやお孫さんが生まれたとき、家族全員で喜び合って、いろんな思いを込めて名前を付けられたことと思います。子どもさんの誕生日ごとに、名前に託した親や家族の思いを手を取り目を見つめ、語ってください。きっと、子どもさんは自分に対する家族の思いを知って自分の名前を誇らしく思うと思いますよ。
 子どもが小学生の頃はそうではありませんが、中学生の後半から高校生位の歳になると、違う道へ行こうとすることがあります。そのとき、「ほら、あなたが小さいときあなたの手を取って、あなたにはこんな人になって欲しいとの願いから名前をつけたと話をしたでしょう」と言ってください。きっと、本来の道に帰ると思います。だって、あなたの赤い血を受け継いだあなたの子ですから。

 今朝(平成20年12月7日)の熊日新聞新生面を読まれた方、いらっしゃるでしょう。たばこ税増税について書いてありました。
 その中に、製薬会社が募集した川柳がありました。
   禁煙の 日取り決まらず 30年
 私は、禁煙の日取りはすぐに決まりましたが決めること5回。やっと禁煙できました。
 終わりに記してあったのは、喫煙者の健康を心配する家族が歌ったものでしょうね。
   値上げして!! 手が出せないくらい 値上げして!!
 私はこのような川柳や和歌が大好きです。作者は頭がいいですね。私は作ることができませんので、読んで楽しんでいます。
 次のは、上益城退職校長会文化展に出品された川柳です。
   保護者会 廊下に本音が 落ちていた
   やる気だな 返事の声が 太くなる
 やはり、教育に関わった人の作品ですね。
 面白いのは、サラリーマン川柳です。
   「空気読め!」 それより部下の 気持ち読め!
   「今帰る」 妻から返信 「まだいいよ」
   減っていく ボーナス 年金・髪・愛情
 私のようなシルバー時代の川柳も面白いですよ。
    カードなし ケータイもなし 被害なし
    メモ帳の しまい場所にも メモが要る
    医者と妻 急に優しく なる不安
    八十路超え 大器晩成 まだ成らず
 これは愛知県の81歳の男性の作です。正に生涯学習ですね。
 どどいつには、粋で艶っぽいものがあります。
    嫌なお方の 優しさよりも 好いた貴男の 無理がいい
    信州信濃のかけそばよりも わたしぁ あなたのそばが良い
 私もこんな言葉をかけてもらいたいと思うのですが、なかなかそんな場面に出会いません。
 掛詞にも面白いものがあります。
    プロポーズとかけて 晩秋の熟柿ととく そのこころは 真っ赤になって落ちました
    PTAとかけて 破れたブラジャーととく そのこころは ちらりちらりとちちが見えます
 これは、平成の当初の頃のPTA活動を揶揄したものです。「子そだては母親任せ」「父親は仕事」という頃でした。本日は、お母さんもお父さんも沢山いらっしゃいます。「子そだては両親で」この当たり前のことが当たり前になっています。これから約1時間、子そだて、家庭教育について一緒に考えていきましょう。

 あなたはあなたの宝ものをどうしていますか? 手を挙げてくださいとは言いません。心の中で手を挙げてください。
 さらに磨いて輝かせる人?
 大事に大事に扱う人?
 そっとしまっておく人?
 見せびらかす人?
 それぞれ宝物の扱いは違うでしょう。宝物によっても違うでしょう。子宝という言葉がありますね。宝物が子どもだったらどうでしょうか。
 子どもは家庭の宝 地域の宝 世界の宝です。大いに鍛えて、大いに磨いて、輝かせたいものです。
 いろはカルタには、「可愛い子には旅をさせ」という言葉がありました。ライオンは、我が子をせんじんの谷底に落としてそこからはい上がらせて育てるという話もありますね。
 愛と厳しさを持って鍛え上げていきたいと思います。

 子どもが輝くのはどんなときでしょうか? 隣の方と話し合ってみてください。
 時間があれば、発表して欲しいのですが今日は時間がありませんので、私が思いつくままに言ってみますね。 
 「喜びを実感しているとき」、「幸福を実感している時」、「夢や目標に向かって努力しているとき」、「好きなことに熱中している時」、「自分の力で何かをなしえた時」、「何かを発見した時」、「自己有用感を実感した時」、「めずらしいものにでっくゎした時」、「神秘なものに触れた時」、「感動した時」、「認められた時」、「褒められた時」などがありますね。

 この子どもの輝きを支えるものは何でしょうか? 少し考えてみてください。
 一口で言えば「生きる力」です。でも、生きる力と一口で言ってしまっても何が何だかよく分かりません。
 生きる力を構成しているものの中でも、「体力」、「基礎学力」、「耐性」、「感性」、そして「自尊感情」だと私は思います。さらに、一つ一つをもう少し詳しく見ますと、「体力」には、「集中力」「気力」、気力とは「やる気」「根気」が必要です。「基礎学力」には、読み・書き・計算と好奇心。お子さんが小さい頃、「これ、何?」「なぜ?」を連発していたでしょう。あの知的好奇心です。 どうですか?今も「これ何?」「なぜ?」と言っていますか?(今もよく質問してくるとの反応あり)
 それは良いですね。いつまでもその知的好奇心を持ち続けさせてください。
「耐性」は我慢する力ですね。「感性」には他を思いやる心、人権感覚があります。「自尊感情」とは、自分の良いところも悪いところも受け入れて自分が好きだという感情です。

 ここで自尊感情について、私の思いを話します。
 私は子どもたちの将来にとって必要なものは学力よりも自尊感情だと思っています。
 今、私は公民館講座の一つで、そして放課後子ども教室でそろばんを教えています。昨日の熊日「すぱいす」をご覧になりましたか?内容はそのスパイスに書いてあります。
また、大人の方にも公民館講座の一つでそろばんを教えています。
 大人の受講生の皆さんは、学習意欲旺盛な方ばかりです。40代から70代まで20人です。9時半からの教室に9時頃には教室に来て、そろばんの練習をしています。
 11月に実施された全国商工会議所の珠算検定試験で70歳の方が4回目で見事合格しました。みんなで祝いました。私たち高齢者にとっては、一生懸命努力して3級に合格しても社会的メリットはありません。でも、何回も何回も受験されます。そして、2級、1級を目指しますと宣言されました。何がこうもチャレンジ精神を支えるのでしょうか?
 それは、「自尊感情」です。自分が決めた目標に向かって努力する気力は、自尊感情の多少、高低で決まります。大人の講座生はほとんどの人がこのように自尊感情が高く、学習意欲旺盛な方達です。この学習意欲の根底にあるのが自尊感情です。
 子どもには、木山公民館と津森小学校、飯野小学校で指導しています。すべて進んで学習に参加している子どもたちです。中には親に「習いなさい」とすすめられて教室に来ている子もいるでしょう。習い始めには、難関がいくつかあります。一つは5珠が下りている足し算・引き算です。
 例えば、「6+8」などですが、これが難しいのです。「8は2とって10あがるだから、6から2取ろうと思うが2は取れないの、5から2取ると3残る。だから、5払って3上げて、10上げる」と、常に暗算しながら計算するのです。言葉で言うと、簡単なようですが子どもにとってはとても難しいのです。2〜3日練習して「難しかぁー」と止める子がいます。「分かりません。もう一度教えてください」と何度も何度も尋ねる子がいます。分からない悔しさから涙を流しながら必死で、「まだ分かりません。教えてください」と学習に取り組む子がいます。この子どもたちの差は能力差でしょうか。私はそうは思いません。自尊感情の差だと思います。
 自尊感情は、生涯学習時代の基礎です。人権尊重の基礎です。
 自尊感情は、知識のように、「自尊感情」「自尊感情」と言い続けて身に付くものではありません。毎日の生活の中で、いろんな体験をし、「認め、褒め、励まし、伸ばす」ことによって自己有用感や自己存在感などを体感して自己実現を体感したり、感動したりしてはぐくまれていくものです。

 自己実現体験は、私の孫娘のことを書いた投稿文を読みます。
 小学校1年生の孫が通知票を持って来た。通知票には、学習の様子、係の役割、出席状況、身体の様子、そして子どもの学校での暮らしぶりが所見として担任の先生の心温まる言葉で、実に丁寧に書き記してある。
 所見を声に出して読み、「うわー、2学期は1日も休まなかったんだね。体が丈夫になったね。『計算ができる』や『本読みができる』は、三重まるになっている。勉強もがんばっているね。係の仕事も一生懸命している。お友達とも仲良く遊んでいる。すごいぞ!」とほめると孫は、はにかみながらもうれしそうに「学校は楽しいよ。」と声を弾ませて応える。家族一人ひとりに通知票を見せながら、学校での様子を話している。その得意げな顔。瞳が輝いている。
 自分がしたことを人から認められたり、ほめられたりすることで存在感や有用感を実感する、いわゆる「自己実現」を味わっているのであろう。この自己実現が、現在はもとより生涯にわたっての学習意欲をかきたてる源であるという。公民館講座やカルチャーセンターなどで学んでいる意欲旺盛な人のほとんどは、小中学生時代に「自己実現」を実感する機会が多かったようだ。
 子どもたち一人ひとりの学習や生活の様子などつぶさに観察し、通知票にまとめて保護者に伝えることは大変な労力であろう。先生方のご苦労に頭が下がる。心を込めて作られた通知票をもとに家庭でも子どもたちを認め、ほめ、励まし、伸ばしたい。このことが子どもたちの「自己実現」を増幅させ、学習意欲旺盛で主体的に生きる人づくりにつながるはずだ。
 あるところでこの話をした後で、一人のおばあさんが話されました。
 私が娘のうちに用事があって行った日のことです。孫がこんなに大きな魚を釣ってきました。孫の表情からは、みんなに見せようと思っているようでした。私が「うわー、大きな魚ば釣ってきたねー」と褒めようとするより早く娘が「何ね、そぎゃんふとか魚ば持ってきて。内にはそぎゃんふとか魚ば養うところはなか。早う、川に逃がして来なっせ」と言うではありませんか。孫はみんなから褒められると思って見せたかったのです。それを、叱られて、しょぼんとしていました。私は、後で孫に「ふとか魚ば釣ったね。釣れたときはうれしかったろう。こがんふとか魚は誰でもは釣りきらんもん。ばってんがね、お母さんが言うたごつ、家には魚ば養うところはなかけん川に逃がしておいで」と言うと、にこっとして「うん」と言って川に逃がしに行きました。子どもがしたことは認めて褒めてやらにゃんですねと。     

 心を揺り動かす体験を私は情動体験と言っています。私の父は、15年ほど前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。死を間近にした時、病院の先生から「入院すればもっと生きられる」と言われましたが、母や弟たちと相談して、自宅で死を迎えさせようと入院は断りました。父は家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、無言で父を見つめていました。父の弟妹は名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみを必死でこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
 先日、ある講演会で同じ事を話しました。その後で、参加者の方から「知り合いのお宅でおばあさんが亡くなられたので通夜に行きました。通夜の席で、中学生らしい子どもに向かって母親らしい人が『○○さん、あなたは塾に行く時間でしょう。塾に行っておいで』と言っているのを耳にしました。そっで良かつだろうかと思いました。家族が亡くなったら家族みんなで最後のお別れをしたいと思いました」と話されました。
 私は、人の誕生や死に立ち会いながらその中で「生きる」とはを考えたいと思います。

 先ほども言いましたが、今学校では、「認め 褒め 励まし 伸ばす」視点で教育が展開されています。これは、学校だけの専売特許ではありません。家庭でも是非、認め、褒め、励ましてください。その際は、厳しさと優しさをもって。
 ただ、褒めると言っても、「良かった」「良かった」と言うだけでは、子どもはうれしがりません。
 先日、あるところで私が話をした後で一人の方が、「今日の話をとても良かった」と言われました。「どこが良かったですか?」と尋ねると「なんさま、良かった。とっても良かった」と言われるばかりです。これでは褒められても余りうれしくはありません。褒めるときには、どこがどのように良かったかを具体的に示すことです。子どもを褒めるときも同じです。ただ「良かった」では、子どもからバカにされます。ですから、認めたり、褒めたりするには、子どもをしっかり見ていなくてはできません。昨日までの姿と違う点、成長した点を認め、褒められるとうれしいものです。
 皆さん、お子さんの良いところを5つほど挙げてみてください。
 そうでないところを5つほど挙げてみてください、
 どちらの方がすらすら思い浮かびましたか?
 子どもさんの良いところより、そうでないところの方がすぐに思い浮かぶでしょう?
 私たちは、日頃からそのように良くないところばかりに目がいっているのです。良いところを見つけ褒めましょう。

 今朝は冷え込みが厳しかったですね。玄関前の銀杏の葉っぱが落ちてしまっていました。校長先生の話によると、今朝の冷え込みで落ちたということです。黄色に色づいた葉っぱはきれいですね。黄色の絨毯を敷いたようです。こんな風景を見て「うわー、きれい」と感動を体で表したいものです。そして、一人より二人、二人より三人で感動を共有したいものです。感動が増幅されるでしょう。
 夏、熊本市江津湖での花火大会でのできごとです。小学校低学年くらいの親子連れが、「うわー、音の太か。きれいかー」と手を取り合って喜び合っています。
 すぐ近くでは、女の子が「うわー、きれい」「音の大きい」と言うと母親らしい人が「せからしか。だまって見とりきらんとね」と叱っています。どちらの子が花火の感動が心に残るでしょう。

 2年ばかり前の公民館講座受講生受付時のできごとです。講座申し込みに若いお母さんが2歳くらいの幼児を連れておいでました。帰りに、「はい、○○ちゃん、あんよ出して」と言って靴を履かせて帰りました。しばらくして、同じ年格好の幼児を連れたおじいさんが来られました。帰りに「○○、靴は自分で履ききるど。じいちゃんが見とるけん、自分で履け」と言って幼児が靴を履くのをじっと見ておられました。「右左反対に履いてしまったね。よかたい。歩かるるけん」と言って帰って行かれました。靴は左右反対に履くと歩きにくいでしょう。反対に履いて歩きにくい体験をすることで、靴の右左を意識して履くようになるのです。
 どちらの子どもも靴を履く体験をしました。後で生きて働く体験はどちらでしょうか。言わずもがなですね。ある学校での家庭教育講演会では、「手を離して 目は離さずに」としました。実は、この逆が多いのです。目を離して、手を離さないことが多いのです。
 皆さん方の家には、子どものお手伝いさんはいないでしょうね。ここでいう子どものお手伝いさんとは、子どもがすべきことを母親が替わってしていることです。
 布団の上げ下ろし、ベッドメイキングはお母さん方がしていますか?
 子どもさんがしていますか?(一人挙手)
 良いですね。小さい頃かですか?(小学校入学頃からとの話あり)
 他は、お母さんがしていらっしゃる家庭が多いようですね。小学3年生ごろから、子どもができるでしょう。子どもにさせて下さい。子どものお手伝いさんにならないでください。

 体験にはどんな体験があるか思いつくまま挙げてみますと、自然体験、社会体験、勤労体験、いろいろありますね。今日は、成功体験・失敗体験 自己実現体験 情動体験 自己決定体験について考えてみたいと思います。

 「失敗を責めない母の子そだてを」中山久美さんの投稿を読んでみます。
 「あっ!」と思った瞬間、大皿は私の手を滑り落ち、地面で粉々に砕け散った。美しく盛られていた刺身は無惨な姿で私の足下にあった。
 魚屋さんの連絡で走ってくる母の姿を見た瞬間、「しかられる」と私は思った。しかし、母は一言の小言を言うでもなく、けがはないかと気遣い、もう一度刺身を注文して、私を家へと連れて帰った。私が10歳にも満たない頃の出来事である。
 その後も、しょうゆといえば空き瓶を、豆腐といえば鍋を、刺身には我が家の大皿を持ってお使いに行かされた。帰りには重みを増した器を両手で抱えながら、今度こそは落とすまいと必死で歩いたものである。
 あのころ、「お手伝い」や「お使い」は今のように特別なことではなく、ごく当たり前のことだった。初めから、何でも上手にできたわけではなく、幾度も失敗を繰り返しながら、自然に教えられ、育てられた。あのときの私はどんな顔をしていたのだ失敗を責めずにいてくれた母の思いを、私はちゃんと自分の子育てに生かせているのだろうか。
 スーパーでペットボトル入りの調味料やスチロールトレーに並んだ魚を買い物袋に入れながら、そんなことを考えていた。  

 ところで、人間は他の動物と違い、親の保護無くしては自立していけません。親の「保護」とは、「体力」「耐性」「道徳性」「基礎学力」「感受性 思いやり」が備わえてやることです。
 「保護」には、「世話」があります。「指示」があります。「授与」があります。「受容」があります。先ほど言いましたようにどれもこれをしないと人は育ちません。しかし、それが過ぎるとどうなるでしょう。
 「世話」のし過ぎにより、子どもは自分のことが自分でできなくなってしまっています。子どもはいつも「世話」をされているので自分でする必要がないからです。ある程度、自分でさせることが大切です。
 「指示」のし過ぎにより、子どもは自己判断ができなくなっています。いつも「こうしなさい」「ああしなさい」と「指示」されるので、自分で判断して行動する必要がありません。そしていつのまにか、誰かの指示無くしては動けなくなります。これを指示待ち症候群と言うでしょう。
 大学の先生に聞いた話です。今の学生は、「先生、宿題を出してください。何をどう勉強して良いかわかりません」と言うそうです。先生の講義を聴き、それに関することを自分で調べたり、自分が興味のあるものを進んで研究したりするのが大学生です。それが、大学生にもなって「宿題を出してください」はあまりにも主体性がありません。
 私たちは苦労して初めて自分の身に付きます。本校までカーナビに案内させてきました。カーナビですと、「しばらく道なりです」「300m先を右に曲がります」「ここを左に曲がります」などと音声案内と地図案内です。運転しながら周りの風景や道案内などは見なくても目的地に着くことができます。ですから、そのときは、スムーズに目的地に着くことができますが、道は覚えません。自力で目的地へ行くときは、道路標識を見たり、時には道行く人に尋ねたりと苦労しながら行きます。だから道を覚えます。余り指示はしなくて子どもに考えさせることが大切です。
 「授与」、ものの与えすぎにより、子どもの心から「感謝の心」、「物を大切にする心」がなくなってしまっています。次から次にものを与えられるから、ものをもらうのがあたりまえとなります。なくしても直ぐに新しいものを買ってもらえます。ここには「感謝の心」も「ものを大切にする心」も育ちません。
 先生方、本校ではどうですか?教室には鉛筆の落とし物がいっぱいありませんか?(落とし物はあまりないとの返事有り)
 良いですね。ものを大事にすることは。自分の持ち物は大切に使わせたいですよね。それには、何をどのくらい与えるかその加減を考えなければなりません。それは、一人一人の子どもさんで違うはずです。子どもさんと話し合ってください。
 以前は、いつも買ってもらえないから物を大切にしました。我慢しました。ものを買ってもらえるのは、盆と正月でした。だから盆や正月を心待ちにしていました。たまに買ってもらえるから感謝したのです。
 「受容」、子どもの言い分を何でも聞き入れていては、「耐性」「自己規制」「節度」は生まれません。自分の考え、行いを受け容れてもらえるので我慢する必要がないからです。

 時間が来てしまいました。終わりに資料に示しています「子どもたちに生命の尊厳を」を読みます。
 水戸市内湖畔のコクチョウやハクチョウの無惨な死は、中学生が面白半分に棒で殴ったものだった。
 以前の日本では、毎日の生活の中で命に直面していた。弟妹誕生の産声を聞く。家族の死をみとる。牛馬の出産を介助し飼育する。巣から落ちたひな鳥に給餌するなどなど。人は、このような現実の命にふれるたびに、自らが生かされていることの価値を自覚し、無意識に命の尊厳を学びとってきた。しかし、いつの間にか、私たちの身の回りからそれらがなくなってしまったようだ。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」のわが子の言葉にがくぜんとした父親は、その子を連れて山へカブトムシの採集に行った。そこで採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言うわが子の目を見て安堵したという話を聞いたことがある。
 子どもたちが命を現実のものと受け止める機会を数多く作りたい。人が生きるためには牛馬や野菜など動植物の命をもらわねばならないという矛盾に悩むことなどを通して、命の尊厳を受け止める子どもを育てることは喫緊の課題である。
 これは、実話です。ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「電池を替えて」と言った子が、自分で山で採集したカブトムシが死んだときは「お墓を作ろう」と言う。ここに、子そだてで何を重要視しなければならないかがあるようでなりません。
 ペットショップでカブトムシを手にするのは「バーチャル体験」にあたるのでしょう。
 森で苦労してカブトムシを探し出して手にするのは「実体験」にあたるのでしょう。
 「実体験」を豊かにさせ、家庭の宝 地域の宝 世界の宝である戸崎小学校の子どもたちが益々輝きますことを祈念して話を終わります。長時間のご静聴、ありがとうございました。