豊かな体験 豊かな心
平成20年12月16日
玉名市立玉名町小学校


 皆さん、今日は。ご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 私がどんなことを話し、どれだけ皆様のお役に立つかは、これからの私の話をお聞きいただき、皆様方がそれぞれがご判断下さい。
 校長先生の紹介の中で、「熊本県教育委員会社会教育課で生涯学習の推進に関わった」とありました。21世紀は、生涯学習の時代です。「本を読んで学ぶ」、「本日の家庭教育講演会のように誰かの話を聞いて学ぶ」、「子育てしながら学ぶ」など学ぶ機会はいくらでもありますね。ここにおいでている皆様方はまさに生涯学習を実践し、その姿を子どもに見せておられます。きっと、子どもにも良い影響が出るはずです。背中の教育と言うでしょう。親が「自ら学ぶ」姿勢を子どもに見せることで、子どもも自ら学ぶようになります。生涯学習を実践してください。
 今、私を「なかがわありとし」さんと紹介いただきました。「ほー」という声が挙がりました。そのはずです。「有紀」と書いて「ありとし」と読む人はほとんどいませんから。
 牛深小学校に赴任したときのことです。時の校長先生は私の顔をジーっと見つめながら、「うわぁー、あたは、ほんなこて中川先生な。私ぁーあたの名前ば見て『今度来る先生は美人の先生ばい。』と職員には紹介しとった。あたが男の先生とは思わんだった。ほんなこてあたは中川先生な」と本当に困ったという顔でおっしゃいました。
 校長先生は私の名前を「ゆうき」または「ゆき」と読まれたのだろうと思います。このように、よく女性の名前と間違われるのですが、私は父がつけてくれたこの名前に誇りを持っています。父を尊敬しています。「紀」は「年」を意味します。「有」は「保有する」の意味です。父は「有」と書いて「たもつ」という名前でした。「年を重ねて、年相応の成長を」という願いを込めて名前を付けたと父から聞きました。
 皆さん方も、子どもさんやお孫さんが生まれたとき、家族全員で喜び合って、いろんな思いをこめて名前を付けられたことと思います。その名前に託した親や家族の思いを子どもさんの誕生日ごとに語ってください。
 そのときは、手を取り目を見つめ、お子さん誕生の時の感動を思い起こしながら語ってください。きっと、子どもさんは自分に対する家族の思いを知って自分の名前を更に誇らしく思うと思いますよ。
 私は先ほど言いましたように、「ありとし」と言います。小さい頃は「ありちゃん」と呼ばれていました。65歳の今でも小中学校時代の同級生からは「ありちゃん」と呼ばれています。
 私が小学生の頃、高学年や中学生の悪頃達から「あっ、ありの来た。ありば踏みつぶそう」と足でありを踏みつぶすまねをしてからかわれました。そのたびに、私は体当たりして「おれはありじゃなか。ありとし」と言っていました。それだけ小さい頃からこの名前に誇りを持っていました。
 子どもが小学生の頃はそうではありませんが、中学生の後半から高校生位の歳になりますと、道を外れそうになることがあります。誰もが一度は、違う道へ行こうとすることがあります。私もそうでした。息子達もそうでした。
 そのとき、「ほら、あなたが小さい時、あなたの手を取って、あなたにはこんな人になって欲しいとの願いから名前をつけたと話をしたでしょう」と言ってください。きっと、本来の道に戻ると思います。だって、あなたの赤い血を受け継いだあなたの子ですから。
 ところで、朝日新聞に、ノンフィクション作家柳田邦夫さんにインタビューした「!聞く」が掲載されました。その中に、「親子は生身の接触を」がありました。私は衝撃を受けました。読みますので聴いてください。


                     「親子は生身の接触を」

 去年参加した乳幼児の心の発達にかかわるシンポジウムで聞いた小児科医の報告には、慄然とさせられました。
 東京都内の病院のそばの母子休憩所で、母乳を与えていた10人ほどの若いお母さんが、誰も赤ちゃんの顔を見ず、全員黙々と携帯電話でメールの確認や打ち込みをしていた、というのです。
 完全におっぱいが授乳装置になり、心はケータイにある。今、子そだてをしている世代は、バーチャルな世界にごく当たり前に触れて育った人たちなんですね。便利さ、効率の良さをもたらす現代の技術にのみ込まれると、それが心の領域にまで侵入して、大切なものを失わせてしまうのです。
 母親が、愛しくてたまらない気持ちで目を見、抱きしめ、声をかけることで、子どもの心は育ちます。
 テレビ、ケータイ、パソコンによって家族の会話が希薄になり、心がバラバラになっていく中で、絵本の読み聞かせは、親子の生身の接触、物語の感動の共通体験を回復できる唯一のメディアです。親も心が穏やかになり、子どもの心が豊かに成長するのを目のあたりに見ています。・・・

 
 まだ続きますが、お乳を飲ませながら目は携帯にいっていると聞いて、皆さんもびっくりされたでしょう?
 乳児には、言葉は理解できませんが、皆さんはおっぱいをあげながら微笑み、語りかけていたでしょう。この営みが親子の絆を強くするものですよね。それを、ただおっぱいを与えているだけとは。
 人は他の動物と違って未熟な状態で生まれますので、生まれてすぐから独り立ちはできません。 人は人間の子として生まれてきただけで、人間になるのではありません。人間となる道を家庭で学校で社会で教えられ、身につけてはじめて「一人前の人間」となります。
 今、私は「一人前の人間」と言いましたが、「一人前の人間」とは、どんな人間を言うのでしょうか?考えてみてください。時間があれば、隣の人やグループで話し合ってそれを全体で議論すると面白いのですが、今日は時間が限られていますので私が思う一人前について話します。
 私は一人前とは、ある程度の「体力」(気力を含みますが)が身に付いていること、「耐性」、つまり我慢する力が身に付いていること、「道徳性」、善悪の判断や規範意識が身に付いていること、「基礎学力」が身に付いていること、そして「感性」、他を思いやる心などの人権感覚が身に付いていることだと思います。
 これらの力を身につけさせるために、子どもを保護します。そこで、「保護」するとは、どんなことをするのかを見てみます。
 「世話をすること」があります。「指示すること」があります。「授与すること」があります。そして、「受容、子どもの要求を受け入れること」があります。先ほど言いましたようにどれもこれをしないと人は育ちません。しかし、それが過ぎるとどうなるでしょう。
 「世話」のし過ぎにより、子どもは自分のことが自分でできなくなってしまっています。子どもはいつも「世話」をされているので自分でする必要がないからです。自分でさせることが大切です。
 「指示」のし過ぎにより、子どもは自己判断ができなくなっています。いつも「こうしなさい」「ああしなさい」と「指示」されるので、自分で判断して行動する必要がありません。そしていつのまにか、誰かの指示無くしては動けなくなります。これを指示待ち症候群と言うでしょう。
 大学の先生に聞いた話です。今の学生の中には、「先生、宿題を出してください。何をどう勉強して良いかわかりません」と言う学生がいるそうです。先生の講義を聴き、それに関することを自分で調べたり、自分が興味のあるものを進んで研究したりするのが大学生です。それが、大学生にもなって「宿題を出してください」はあまりにも主体性がありません。
 私たちは、案外指示していますよ。私はいつも妻から「こうしなさい」「こうした方がよいと思うよ」と指示されています。その度に「俺はそぎゃん指示されんでも自分で決めきる」とよく言います。そう言いながら、孫達には、「ああしなさい」「こうしなさい」と言っています。妻から注意される度に反省しています。
 「授与」、ものの与えすぎにより、子どもの心から「感謝の心」、「物を大切にする心」がなくなってしまっています。次から次にものを与えられるから、ものをもらうのがあたりまえとなります。無くしても直ぐに新しいものを買ってもらえます。ここには「感謝の心」も「ものを大切にする心」も育ちません。
 先生方、本校ではどうですか?教室には鉛筆の落とし物がありませんか?(落とし物があるとの返事有り)
 自分の持ち物は大切に使わせたいですよね。それには、何をどのくらい与えるかその加減を考えなければなりません。それは、一人一人の子どもさんで違うはずです。子どもさんと話し合ってください。
 私が小さい頃、家は「貧乏」でした。私はと言うより昔はどこも貧乏で、盆と正月にしかものを買ってもらえませんでした。そうだったでしょう?(孫の授業参観に来ている方が頷き、「だからそのときのうれしさは今でも忘れません」と言われる。)
 いつも買ってもらえないから物を大切にしました。我慢しました。一つのものを工夫して使いました。無くしたときは必死で探しました。たまに買ってもらえるから感謝したのです。
 皆さんのお子さん達は、筆箱には何本くらい鉛筆を入れていますか?(「5本くらい」との声あり。)
 良いですね。それくらいがちょうど良いと思います。私は3本でした。それを短くなるまで使いました。
 「受容」、子どもの言い分を何でも聞き入れていては、「耐性」「自己規制」「節度」は生まれません。自分の考え、行いを受け容れてもらえるので我慢する必要がないからです。
 おもちゃ屋さんの前で、「買ってぇー!買ってぇー!」と言って大の字になって泣いている子を時々見かけることがあるでしょう。そのとき、親が「しょうがない子ねー」と言って買ってやったら、後でおおごとします。子どもはこの時、「だだをこねたら言うことを聞いてもらえる」ということを学習しましたから次からもこの手を使うでしょう。
 子どもは、「○○君はこんなものを買ってもらった。僕も欲しい」とか「△△さんのお小遣いは□円。私もこのくらい欲しい」など言うでしょう。そんな時、「よそはよそ、うちはうち」と言っているでしょう?
 皆さん方の家には、子どものお手伝いさんはいないでしょうね。子どものお手伝いさんとは、子どもがすべきことを母親が替わってしていることです。
 例えば、布団の上げ下ろし、ベッドメイキングは子どもさんがしていますか?お母さん方がしていますか?
 お母さんがしていらっしゃる家庭が多いようですね。家の造り、子どもの体力などで違うでしょうが、小学3年生ごろから、子どもができるでしょう。子どもができるところは子どもにさせて下さい。子どものお手伝いさんにならないでください。
 子どもの成長、子どもにできることなどはそれぞれ違います。だから、目の前のお子さんと話をしながらお子さんの状態にあった保護が必要になるわけです。
 私は先ほどから「身に付ける」と言っています。言葉には、「身に付く」とか「身にしみて分かる」などがあります。
 「為すことによって学ぶ」という格言もあります。
 中国には、「聞いたことは忘れ、見たことは覚え、体験したことは理解できる」という諺があります。
 これらは体を通して学ぶことを表したものです。子どもは体験や経験からいろんなことを学びます。そして、心が育ちます。
 生活体験が豊富な子どもほど、道徳観や正義感が充実している、お手伝いをする子どもほど、道徳観や正義感が充実している、自然体験が豊富な子どもほど、道徳観や正義感が充実しているとの報告もありますように、子どもの成長に体験は欠くことができません。
 この体験には「直接体験」と「間接体験」があります。
 直接体験には、遊びや仕事、野外活動などありますね。
 間接体験には、学習や読書、テレビ視聴などがあります。
 これらの体験を通して知識や心をはぐくむわけですが、どうも最近は直接体験が少なくなっているようです。


             今どきの子ども 乏しい自然体験

 田んぼのあぜ道で友達が捕まえたカエルを見て、男の子が耳慣れない学術名を口にし、みんなを驚かせた。だが、「触ってごらんよ」とスタッフに促されると、男の子は後ずさりした。
 生物の名前や特徴は図鑑などで調べ、詳しいのに、実物には拒否反応を示す子ども。「知識だけが先行し、実体験が伴っていない子が多い」と自然館理事長は嘆く。
 「自然との関わりが少ないと、生き物への愛情や環境を守る意識が希薄になる。逆に、自然体験で他人への思いやりや郷土の文化を大切にする心も育てられる」と理事長は強調する。

 と新聞記事にあります。
 ものの本から得た知識だけでなく、カエルだったらカエルに直接触れてあのぬるぬるした感触、これが嫌いだという人もいれば反対にこれがたまらなく好きという人もいると思うのですが、カエルを理解するのです。これが、中国の諺「聞いたことは忘れ、見たことは覚え、体験したことは理解できる」なのです。
 ペットショップで買ってやったカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」と言った我が子の言葉にがくぜんとした父親は、その子を連れて山へカブトムシの採集に行きました。苦労して採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言う我が子の目を見て安堵したという話を聞いたことがあります。
 ペットショップでカブトムシを買ったのは間接体験で、森でカブトムシを採集したのが直接体験ですね。ペットショップで買ったカブトムシには電池を替えてと言うのに、自分で採集したカブトムシにはお墓を作ろうと言う。
 直接体験も間接体験もそれぞれ知識や心をはぐくみますが、直接体験と間接体験とではこんなに違うのです。
 私は、今、大人と子どもにそろばんを教えています。
 子ども達には、木山公民館と津森小学校、飯野小学校で指導しています。すべて進んで学習に参加している子どもたちです。中には親に「習いなさい」とすすめられて教室に来ている子もいるでしょう。習い始めには、難関がいくつかあります。一つは5珠が下りている足し算・引き算です。
 例えば、「6+8」などですが、これが難しいのです。「8はあと2で10になります。6から2取ろうと思いますが1珠は1しかないので2は取れません。だから5から2取ります。すると3残ります。だから、5払って残りの3を上げて、10上げます。答えは14になります」。このように常に暗算しながら計算するのです。言葉で言うと、簡単なようですが子どもにとってはとても難しいのです。2〜3日練習して「難しかぁー」と止める子がいます。「分かりません。もう一度教えてください」と何度も何度も尋ねる子がいます。分からない悔しさから涙を流しながら必死で、「まだ分かりません。教えてください」と学習に取り組む子がいます。私は「昨日教えたろうが。まだ分からんか」と子どもを叱ります。私の教え方は下の下ですね。学校の先生方は、「分かりません」と習いに来る子には分かるまで教えていらっしゃいます。この子どもたちの違いは能力でしょうか。私はそうは思いません。自尊感情の差だと思います。
 大人は40代から74歳まで16人が学習しています。皆さん学習熱心です。11月にあった全国珠算検定試験に70歳の方が4回目の受験で3級に合格されました。講座生みんなでお祝いしました。この方は、3年前に8級から始めた方です。4級まではすいすいといきましたが、3級でかなり苦労されました。毎日、時間を見つけて練習していらっしゃるのです。「先生。毎日、かけ算、割り算、見取り算を練習して間違ったところはやり直していますが、私の練習ではいけないのでしょうか?どんな練習をすれば良いでしょうか?」とよく質問されました。失敗を能力のせいにはされません。練習不足、練習の仕方の見直しをして自分が決めた目標到達に一生懸命です。とても自尊感情が高い人です。
 人は、失敗を他人のせい、能力不足のせいにしがちです。子どもさん達が失敗したときは絶対能力不足のせいにさせないでください。他人のせいにさせないでください。
 今朝のことです。我が家では、妻が朝食の準備をします。私が洗濯をします。風呂の残り湯をポンプで洗濯機に汲んで洗濯します。たまたま、妻が手がすいてポンプで水を汲もうとしたとき、水の勢いでホースが洗濯機から飛び出て床に水が流れ出ました。モーターのスイッチを入れるときは、こうならないようにホースはきちんと洗濯機に入っているかを確かめるのですが、今朝はそれをしなかったのです。それはそっちのけで私に「あなたがきちんとホースを洗濯機に入れておかんだったけんおおごつした」と、怒りできんきんしています。こんな時に何を言っても聞きませんので、ご飯を食べるとき、「失敗を人のせいにすると気が楽になるもんね」と言うと、苦笑いしています。人のせいにすると、気が楽になるから失敗の原因を深く反省しないのです。そこには前進はありません。
 しかし、子どもが失敗したことを反省しているときに責めるのはどうかと思います。
 数日前のことです。朝食の後片付けをしたとき、私が少し急いだものですからおかずを床にこぼしてしまいました。おもわず「しまった」と声が出ました。それを聞いた妻が「どうしたつね?」と聞きます。「おかずをこぼしてしまった」と言いますと、妻は虫の居所が良かったのでしょう。「よかよか、片付ければ済むことたい」と言います。今度からは、こぼさないように一度に無理しないで運ぼうと思いました。いつもなら「あたが無理して一度に持って行くけんたい。この急がしか朝に要らん仕事ば作って」と鬼の形相です。そう言われると自分では反省していても反発したくなるものですね。「しまった」と言って大いに反省しているときは、「けがはなかった?」とか「今度から気をつけようね」などの言葉を掛けて欲しいと思います。そのためには、「虫の居所」ではなく、子どもを愛する心、そして気持ちをおおらかに持つことです。
 マザーテレサの言葉に「愛の反対は・・・・」というのがあります。愛の反対は何でしょうか?「憎しみ」ではないのです。憎しみは愛に変わることがあります。テレサは「愛の反対は、無関心」と言っています。無関心から愛は生まれません。子ども達の行動を、いつも関心を持って見守ってください。私は保護者に「手を離して、目は離さずに」といつも言っていました。
 生きる力は、「こうしなさい」「こんな事はしてはいけません」などと言って聞かせれば身に付くものではありません。毎日の生活の中で身につくものです。豊かな体験が生きる力を育てます。独り立ちできる力が育ちます。知的好奇心が育ちます。心が育ちます。情緒が育ちます。コミュニケーション力が育ちます。
 遊びは、子どもたちにとっては大人にとっての仕事のようなものです。最近は、群れ遊ぶ子どもたちが少なくなりましたが、群れ遊びの中で私たちは、「したくても我慢しなければならないことがあること」「したくなくてもしなければならないことがあること」を学びました。
 これらは、読書やテレビ視聴では学ぶことはむずかしいと思います。友との遊びの中で肌で感じることです。
 私は子どもの頃は遊びの名人でした。冬はこまを回して遊びました。こまの撃ち合いやちょんかけごまです。ちょんかけごまを持ってきました。
 ちょんかけをしたことがある人いらっしゃいますか?
 回せる人いませんか?
 回してみますね。(「そうめんがけ」「小振り」をしてみせると、「うわー」という声があがる)
 体育館ですからできないのですが、こまを高くほうり上げて回す「大振り」や、「ウグイスの谷渡り」といってこまが横に移動することもできます。「鯉の滝登り」といってこまが下から上に昇ることもできます。手のひらの上で回すこともできるのですよ。
 実は、このこま回しが私はなかなかできませんでした。上級生や友達は上手に回すことができるのに、私のこまはなかなか回りません。私が回すと、(こまを床に落とす)このようにすぐにすとんと落ちるのです。何度しても落ちます。上手な人の回し方を見ては、練習しました。こまの向きやひもの張り具合などを観察して練習しました。私は、コマの面を下向きにして回そうとしていたのです。だからすぐに落ちました。上手な人はコマの面を自分のお腹に向けていました。
 また、私はひもを強く張っていました。だから落ちないときは、宙ぶらりんになっていたのです。上手な人はひもを軽く持っています。上手な人から教えてもらい何日も何日も練習しました。だから回ったときの喜びは忘れられません。「こまが回せるようになりたい」の一心から何度も何度も練習する、この「できるようになりたい」「もっと上手になりたい」という気持ちが、向上心、チャレンジ精神などにつながります。
 先ほど校長先生が私を紹介されたとき、「算数の指導法を一緒に研究した」とありました。数概念の養成と兄弟姉妹で衝突しながら絆を深める話をします。特に、就学前のお子さんがいるところは参考にしてください。
 兄弟(姉妹)が2人以上いるところは、おやつをやるとき、どうしていますか?
 袋ごとやりますか?
 例えばチョコボールをおやつとします。兄弟(姉妹)2人。どうしますか?考えてみてください。
 けんかしないように偶数個、お皿に盛ってあげるという人?(ほとんど全員が挙手)
 わざと奇数個あげるという人?(挙手0)
 二人で同じ数に分けて、仲よく食べるように偶数個やるところが多いようですが、私は奇数個やります。すると兄弟(姉妹)で考えるのですよ。「これは私のもの」「これはあなたのもの」と言いながら1対1対応で一つ一つとっていきます。一つ余ります。それを、上の子が「私が大きいから一つよけいにもらう」と言うかも知れません。それに対して下の子は「ずるい」と言ってくってかかるかも知れません。時には、「私が大きいから我慢する。あなたにあげる」と言うかも知れません。子どもはいろいろと葛藤するのです。食べ物の恨みは恐ろしいというでしょう。このせめぎ合い、考え合いがいつまでも心に残ります。これを見守っておればよいのです。就学前の子を持つ方が「うちの子は100まで数えることができる」と言うのを聞くことがありますが、そんなことよりこの1対1の対応の考えをしっかり身につけておいた方がその後の算数の学習にはどれだけ生きて働くか分かりません。
家事を手伝わせてください。子どもができる範囲で。熊日新聞読者の広場への中山久美さんの投稿文、「失敗を責めない母の子そだてを」を読んでみます。


         「失敗を責めない母の子そだてを」

 「あっ!」と思った瞬間、大皿は私の手を滑り落ち、地面で粉々に砕け散った。美しく盛られていた刺身は無惨な姿で私の足下にあった。
 魚屋さんの連絡で走ってくる母の姿を見た瞬間、「しかられる」と私は思った。しかし、母は一言の小言を言うでもなく、けがはないかと気遣い、もう一度刺身を注文して、私を家へと連れて帰った。私が10歳にも満たない頃の出来事である。
 その後も、しょうゆといえば空き瓶を、豆腐といえば鍋を、刺身には我が家の大皿を持ってお使いに行かされた。帰りには重みを増した器を両手で抱えながら、今度こそは落とすまいと必死で歩いたものである。
 あのころ、「お手伝い」や「お使い」は今のように特別なことではなく、ごく当たり前のことだった。初めから、何でも上手にできたわけではなく、幾度も失敗を繰り返しながら、自然に教えられ、育てられた。あのときの私はどんな顔をしていたのだ失敗を責めずにいてくれた母の思いを、私はちゃんと自分の子育てに生かせているのだろうか。
 スーパーでペットボトル入りの調味料やスチロールトレーに並んだ魚を買い物袋に入れながら、そんなことを考えていた。

 いかがですか?
 家事を手伝わせ、仕事の仕方を学ばせ、できたときは大いに褒めてください。その積み重ねで自己存在感を実感し、「自分を価値ある人間」と思うようになりますよ。このようなことを自己実現と言いますが、この自己実現が自尊感情を育んでいきます。
 今学校では、「認め、褒め、励まし、伸ばす」指導をしています。この「認め、褒め、励まし、伸ばす」は学校の専売特許ではありません。家庭でも、地域でも、「認め、褒め、励まし、伸ばす」ことを忘れないで欲しいと思います。
 先日、私の話を聞いた人が「中川さん、今日の話は良かった」と言いました。私は「そうですか。褒めていただいてうれしいです。どこが良かったですか?」と聞きました。すると「何さま良かった。とっても良かった」と言われるばかりです。これでは、褒められてもあまりうれしくありません。褒めるときは具体的なことを例示して褒めることです。子どもに対しても同じです。そのためには、子どもの行動から目を離さないことです。子どもをよく見ていてその成長や変化をとらえて認め、褒めないと子どもは喜びません。
 あるところで、「子どもを認め、褒め、励まし、伸ばしましょう」と話をした後で、一人のおばあさんが話されました。
 私が娘のうちに用事があって行った日のことです。孫がこんなに大きな魚を釣ってきました。孫の表情からは、みんなに見せようと思っているようでした。私が「うわー、大きな魚ば釣ってきたねー」と褒めようとするより早く娘が「何ね、そぎゃんふとか魚ば持ってきて。うちにはそぎゃんふとか魚ば養うところはなか。早う、川に逃がして来なっせ」と言うではありませんか。孫は皆に見せたかったのです。褒めて欲しかったのです。それを、叱られて、しょんぼりしていました。私は、後で孫に「ふとか魚ば釣ったね。釣れたときはうれしかったろう。こがんふとか魚は誰でも釣りきらんもん。ばってんがね、お母さんが言うたごつ、家には魚ば養うところはなかけん川に逃がしておいで」と言うと、にこっとして「うん」と言って川に逃がしに行きました。子どもがしたことは認めて褒めてやらにゃんですねと。     
 毎日の生活の中で、子どもを認め、褒め、励まし、伸ばすことによって、子どもに自己実現を体感させてください。心が揺り動かされる情動体験を数多くさせて下さい。この自己実現と情動体験が自尊感情を育てていきます。
 私の父は、17年前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。死を間近にした時、病院の先生から「入院すればもっと生きられる」と言われましたが、母や弟たちと相談して、自宅で死を迎えさせようと入院は断りました。父は家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、無言で父を見つめていました。父の弟妹は名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみを必死でこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
 私は家で死を迎えるのが善いというのではありません。人の誕生や死に立ち会いながらその中で「生きる」とはを考えたいと思うのです。
 「死ぬと、人は冷たくなり、硬くなる。それが命を失うこと。若い世代の多くの人たちは、この命の尊厳が分かっていない。人の命は世界に一つしかない。代替えがきくものではない。生のいとおしさは死を考えることによって生まれる。だとすれば、遠ざかってしまった死を、看取りを介して生活の場に取り戻すことは、必要なことではなかろうか」と北里大学教授の新村拓さんは言っています。
 私は、先ほどこれからの子ども達には学力よりも自尊感情が大切だと言いました。
 文科省が実施した「全国学力テスト」結果を公開するか否かが、今話題になっていますね。
 先日、平成19年度全国学力・学習状況調査の分析結果の一部を文科省のホームページで見ました。その中に、「児童生徒の生活の諸側面等に関する分析」というのがありました。
 それによりますと、子どもたちの毎日の生活習慣が学力とかなり密接に関係していることが読み取れます。
 基本的生活習慣の中で、「朝食を毎日食べている」「学校に持って行くものを、前日か、その日の朝に確かめている」「身の回りのことは、できるだけ自分でしている」「毎日、同じくらいの時刻に寝ている」などができている子は正答率が高いそうです。
 家庭でのコミュニケーションでも、「家の人と普段、朝食を一緒に食べている」「家の人と普段、夕食を一緒に食べている」「家の人と学校での出来事について話をしている」「家の手伝いをしている」など家族間のコミュニケーションがとれている子は正答率が高いということです。
 地域や家庭における体験・自然体験では、「花を咲かせたり、野菜を育てたりしたことがある」「小さい子どもをおんぶやだっこしたり、遊んであげたりしたことがある」「体の不自由な人やお年寄りや、困っている人の手助けをしたことがある」「清掃活動へ参加したことがある」「木材を使ったものづくりをしたことがある」「包丁やナイフを使って調理をしたことがある」「編み物や裁縫をしたことがある」「海、山、湖、川などで遊んだことがある」「魚や貝や昆虫をつまえたことがある」「生き物を飼育したことがある」など体験が豊富な子の方がそうでない子より正答率が高いそうです。
 さらに自尊感情については、「ものごとを最後までやりとげて、うれしかったことがある」「難しいことでも、失敗をおそれないで挑戦している」「自分には、よいところがあると思う」「将来の夢や目標を持っている」などと思っている子の方がそうでない子より正答率が高いということです。
 子ども達の学力と生活体験が密接に関わり合っていることがお分かりと思います。
 本日は、「豊かな体験 豊かな心」と題していろいろと話しました、参考になるところがあれば、明日からの子育てにご活用ください。また、時間の都合で触れませんでした資料には子育ての参考になるものをたくさん準備したつもりです。お帰りになりましてから是非目を通してください。
 玉名町小学校の子ども達が、豊かな体験を通して益々こころ豊かな子どもになりますことを祈念申し上げて話を終わります。
 長時間のご静聴ありがとうございました。