身近なことから考えてみませんか
平成19年11月
菅尾小学校


 皆さん、今日は。
 ただいま御紹介いただきました中川です。久しぶりに旧矢部町、清和村を通ってここ菅尾小学校まで来ました。山都警察署あたりから道路脇の街路樹の黄葉がきれいで、「また、来うよう」と思いながら車を走らせてきました。
 私は、今年の6月、上益城郡の社会教育員連絡協議会の総会で蘇陽総合研修センターへ来たことがあります。その時、少し時間がありましたので、隣の蘇陽中学校内を歩いてみました。その時驚いたことは、校内で行き交う中学生が大きな声で「今日は」と挨拶してくれたことでした。「うわー、ここの中学生は明るく礼儀正しくて良いなー」と思ったものです。ちょうど、校舎と運動場の境にプラタナスの木がありました。この春芽生えたらしい幼木が目に留まりました。そばを通りかかった生徒、1年生くらいの男子生徒でした。「この幼木をもらって良いかを先生に聞いてもらえないだろうか。もらって良いなら移植ごてとビニル袋を貸してもらえるとうれしい」と言ったのです。
 すると生徒はにこにこしながら「分かりました。しばらく待っていてください」と返事して、遊びを止めて走りました。ほどなく帰ってきた生徒は、「職員室で先生に尋ねたら、持って行って良いそうです。これでどうぞ」と移植ごてと空の育苗ポットを私に渡しました。堀りかかろうとすると、先生が来て「庭に植えられるのならどうぞ」とおっしゃいました。名を名乗り丁寧にお礼を言いました。ほどなく、教頭先生がスコップを持って来られたのです。「どの幼木ですか」と言われます。掘り上げた幼木を見せ、「これをいただきました」とお礼を言いました。
 さわやかな中学生、校務で忙しい中に親切丁寧な対応をしていただいた先生。10分間くらいの出来事でしたが、すがすがしい時間を味わいました。そして、蘇陽中学校の家庭や学校の様子を思い浮かべました。元気で明るく、礼儀正しく、他を思いやる心のある学校であり、家庭であるからこそ、中学生や先生方のすがすがしい対応があったのだと思いました。
 今回、校長先生から人権問題の講演会の話があったとき、この事を一番に思い浮かべ喜んでやって来ました。今日は、私が講演するというのではなく、皆さんと一緒に身近な暮らしの中での人権問題を一緒に考えようと思います。よろしくお願いします。
 皆さん、そのように後ろに、しかもきちんと正座をしてかしこまらなくても少し前の方でリラックスした姿勢で一緒に考えましょう。

 皆さん、自分では当たり前のことと思っていたことが実は他の人を傷つけていたなんて経験はありませんか?
 例えば、子どもさんに一生懸命勉強して欲しいと思って「勉強せんと、○○のような仕事しかできんよ。しっかり勉強しなさい」と言ったことはありませんか。あるいはこのような言葉を聞いたことはありませんか。「○○のような仕事しかできんよ」といわれた○○の仕事をしている人がこの言葉を聞いたらどんなに思うでしょうか。
 また、「あの子とは遊ばないようにしなさい」と言う言葉を聞いた方はいませんか。遊ばないようにしなさいと言われたあの子はどんな思いがするでしょう。
 「もうそろそろ結婚したらどう?」こんな言葉もよく聞きますね。
 「もう30近くになるのだからいつまでも遊んでばかりいないでそろそろ結婚したら?」
 自分では、良いことを言っているつもりかも知れませんが、言われた人にはいろいろ考えがあってのことでしょう。第一結婚は自分で結婚しようと思うときにするものでしょう。
 益城町教育委員会では、人権啓発ビデオを購入しています。そのビデオの中で、部落問題学習のアニメの原画を依頼された人がいろいろと思い悩んでいるとき、知人が「部落問題? あまり関わらない方が良いよ。忠告しておくけどね」という台詞が出てくる場面があります。自分の価値観で良かれと思って忠告しているのです。おかしいと思いませんか?
 実は、今例を挙げました4つとも自分の価値観が正しいと思ってそれを相手に押しつけているものです。押しつけるどころか、他の人権を侵害しているのです。
 このような例はまだ他にもたくさんあると思います。

 「息子よ、息子!」を一緒に読んで考えてみましょう。すでにこの学習をされた方は復習の意味でもう一度考えてください。
 読みますね。

  息子よ、息子!
   路上で、交通事故がありました。
   大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。
   父親は即死しました。
   息子は、病院に運ばれました。
   彼の身元を、病院の外科医が確認しました。
   外科医は、「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげました。

 この話で何かおかしいところはありませんか?
 どうもストンと胸に落ちないという方いらっしゃいませんか?
 私も初めてこの話を聞いたとき、どうも理解できませんでした。死んだ父親がどうして「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげるのだろうかと不思議でしようがありませんでした。
 (「あぁ、外科医は母親だったのか」の声が上がる。)
 そうですね。次の問にありますように「外科医は、この息子の何にあたるでしょうか?」
 外科医は息子の母親だったのです。私が初めてこの話を聞いたとき、外科医は男性という思いこみでいっぱいでした。だから、胸にストンと落ちなかったのです。
 知らず知らずのうちに、私たちの意識の中に、男性や女性の職業に対する固定観念や思いこみが自分にもあると気づかれた方もおいででしょう。自分では全く気づかずに、誤った思いこみや偏見を心に植え付けてしまうことがあるのです。
 次のある町内会での話し合いの場での発言について考えてみましょうか。
 私が読んでみます。皆さんも一緒に読んでください。

(司会)「本日は、お足元の悪い中、ご出席いただきありがとうございます。それでは、早速説明させていただきます。私、若輩者です     ので、十分な説明にならないかも知れませんのでよろしくお願いします。・・・・・(中略)
     以上です。舌足らずな説明になりましたが、若造ゆえお許しいただきまして、ご意見をよろしくお願いします。時間の関係もあり    ますので、手短にお願いします。」
(参加者)「年寄りが口出すものではないかも知れませんが、一つだけ言わせてもらいます。・・・」
(参加者)「女、子どもの意見にろくなものはないと思わずに、私たちの願いに耳を傾けてください。・・・」
(司会)「以上で終了します。先ほどの件につきましては、会議の方は奥さん方に出席していただいて、役割の方にはご主人を載せると   いうことでよろしいでしょうか。」

 今読みました文章の中の下線を引いた言葉は、相手に不快な感じを与えるものがあります。不快な感じがどの程度含まれていると思いますか。自分で「含んでいない」「少し含んでいる」「かなり含んでいる」「非常に含んでいる」のどれかに○を付けてみてください。 自分でどう思うかを考えてみてください。(5分程度各自で考える)
 雨あがりなどの会合の席で「お足元の悪い」とはよく聞きますね。
 この言葉を聞いて不快に感じる人もいます。不快に感じる人がいるなら、使わない方がよいでしょう。
 「若輩者」もよく聞く言葉です。
 この例文では、自分のことを卑下して言っていますが、「若輩者のくせに」などとなればかなりの不快感を与えますね。「若造」も同じような使い方ですね。
 「舌足らず」はどうでしょうか?
 説明不足をこのような表現をすることはおかしいことですね。身体の一部を使った言い表し方がたくさんあります。
 次の「手短に」もそうですね。次でも考えますが「片手落ち」も身体の一部を使った言葉です。「不快」いや「差別的響き」を感じる場合が多いですよね。
 もう8年ほど前になりますかね。NHKの大河ドラマで「元禄繚乱」が放映されたことがありました。原作は舟橋聖一さんの「新忠臣蔵」です。江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷をはたらいたというので、内匠頭は切腹、吉良上野介はおとがめ無しという裁きがありました。これに対して原作では「片手落ち」とありましたが、ドラマでは「片落ち」という表現をしていました。
 6年生は長崎へ修学旅行へ行くでしょう。長崎では原子爆弾の投下でたくさんの犠牲が出ました。その中に爆風で、鳥居の片方が吹っ飛んで足が1本で立っている鳥居があります。これを以前は片足鳥居と表現してありましたが、今は「1本足鳥居」と呼び方が代わっています。これは、これまでの同和教育、人権教育の成果だと思います。
 「年寄りが口を出すものではない」の言葉も高齢者差別につながりますね。
 「女、子ども」はこの言葉自体にはなんの差別性も不快に感じることもありませんが、「女、子どもの出る幕ではない」などといった言葉になると差別性がかなりありますね。
 「耳を傾けて」「奥さん」「ご主人」ということばも不快感を感じる人がいます。
 次のそれぞれの言葉や表現について、どの程度差別的表現が含まれていると思いますか。
 「差別的表現は含まれていない」「少し含んでいる」「かなり含んでいる」「非常に含んでいる」「わからない」の該当するところに印を付けてみてください。(5分程度各自で考える)
 「父兄」という言葉はどうでしょうか?
 ほとんどの方が、「含んでいる」と思っていますね。これは、戦前の家父長制の名残や男性社会を示す言葉ですね。学校では保護者と言っていますね。今、父兄という人はほとんどいないと思いますが、時々、テレビや新聞、雑誌などでこの言葉を聞いたり目にしたりすることがあります。まだまだ、啓発が必要です。
 「良妻賢母」はどうでしょう?
 「分からない」に○を付けた方も多いようです。皆さんは「3従の教え」という言葉を聞いたことはありますか?「家にあっては父に従い、嫁いでは夫に従い、夫死しては子に従う」というものです。あくまで男性を立てて、子育てをし、自分を犠牲にする生き方を言っています。女性蔑視と感じる人が多いですね。
 「片手落ち」は先ほど言いましたね。
 「らい病」はどうでしょうか?
 かって「らい病」は公的な使われ方をしていましたが、現在では差別語です。「ハンセン病」といっていますね。
 「知的障害」はどうでしょうか?
 「精神薄弱」という言葉が不快感を与えるなどの議論があり、それに代わる言葉として「知的障害」が使われています。
 「同和」はどうでしょうか?
 「同和」の語源は、「同胞一和」とか「同胞融和」の略と言われています。「同和地区」、「同和行政」などと使われてきましたが、「同和の人」などと差別的に使われてきた経緯もあります。「同和」という言葉だけを使うことは差別性を含む表現として不適切です。先ほど言いましたように「同和行政」とか「同和教育」などのように複合語で使います。
 「文盲率」はどうでしょうか?
 字が読めない、書けないことを目が見えないことに例えています。目が見えなくとも様々な手段で読み書きが出来る人は多いですね。「非識字率」という言葉を使います。
 「痴呆症」の「痴呆」の意味や感じ方が不快であることから「認知症」という言葉を使っていますね。
 「と殺場」の「と殺」は差別語です。「殺す」という言葉から職業差別につながる響きがあります。「と場」とか「食肉処理場」という言葉が使われています。
 「バカチョンカメラ」はどうでしょうか?
 この「バカチョンカメラ」の言葉で次のような話を聞いたことがあります。韓国旅行をした人が、使い捨てカメラを取りだして、近くにいた韓国の人に「これで写真を撮ってください」と頼んだとき、韓国の人が「どうすればよいですか」と聞きました。「このカメラはバカチョンカメラですからこのシャッターを押すだけです」と言ってにこにこしながら写真を撮ってもらったそうです。ところが写真を撮った韓国の人は目にいっぱい涙をため、体が震えていたそうです。観光旅行に韓国に行った人はこの「バカチョンカメラ」が差別語、韓国や朝鮮の人を差別する言葉とは知らなかったのです。
 皆さんはご存じでしょう。「バカ」は「馬鹿」、「チョン」は「朝鮮半島の人々」を指し、それらの人々に対する蔑視的表現で差別語という意見があります。「使い捨てカメラ」また、「インスタントカメラ」と言った方がよいでしょう。
 「外人」は「害人」を思い起こさせると言うことから蔑視的響きを感じる外国人が多いそうです。ただ、「外人墓地」となると響きが違います。
 「表日本」「裏日本」、私は小学校の頃社会科でこのように習いました。しかし、「裏」という言葉にマイナスイメージを持つ人が多いのも事実です。今は、「太平洋側」「日本海側」と言う表現をしていますね。「後進国」という言葉もマイナスイメージがあるということで「発展途上国」という言葉を使っているでしょう。
 「でかした!男の子が生まれたぞ」個人の気持ちとして、「男の子が生まれた」は信条の自由ですが、これが広告となると女性差別を助長する表現ですね。以前、カレーだったかのコマーシャルで「あなた作る人、私食べる人」と男性が話す場面がありました。多くの人から強い抗議があって放映されなくなりました。もう、2〜30年前のことですかね。
 「歩くから人間」という広告には、多くの人から抗議があったそうです。特に障害がある人や関係者に対して極めて不快感を与えます。
 これまで見てきましたように、発言する方は差別しようと思わなくとも、その言葉を聞いた人が極めて不快を感じたり、差別感を持ったりすることがあることが分かったと思います。
 身の回りのことをもう一度見つめ直すことが大切です。
 次の絵を見てください。女性はいくつぐらいに見えるでしょう?
 
 おばあさんに見えた人? 
 少女に見えた人?
 どちらにも見えた人?
 最初におばあさんに見えた人にとっては、少女にはなかなか見えないでしょう。その逆もありますね。
 どうしても少女に見えない人は、「おばあさんの鼻」を「少女の顎」に、「おばあさんの唇」を「少女のネックレス」と見てください。どうですか?
 今、にっこりして「なるほど」という顔をされた人が何人もいました。理解して、納得して胸に落ちるときの表情はとてもきれいですね。話は人権教育とは違いますが、子どもたちには「理解して胸に落ちる」、「納得して胸に落ちる」体験を数多くさせてください。「分かって胸に落ちる」これは学習する上でとても大切なことです。胸に落ちると忘れません。
 この絵を見て次の3つのことを皆さんに気づいて欲しいのです。
 一つは、見方を変えることの難しさです。最初に知ったこと、感じたことを変えるのはかなりの労力が要ります。そして、それが難しいです。だから私たちは出会いが大切なのです。
 二つは、見つめ直しの大切さです。違う角度から見つめ直してみると、これまでと違ったものが見えてくることがあります。「こうだ」と決めつけないで見つめ直すことを日頃の生活の中で取り入れて欲しいと思います。
 三つは、一つの見方に注目すると、他が見えにくくなります。人権問題も同じで、「差別は社会問題だ」と強調しすぎると「差別は人間個人の課題でもある」ということを忘れがちになります。逆のこともあります。人権問題は社会問題であると同時に人間個人の課題であることをきちんととらえておくことが大切です。
 次は、魚の絵を描いてみましょう。
 魚の頭が左向きの絵を描いた人、手を挙げてみてください。
 右向きの絵を描いた人は?
 ほとんどの方が魚の頭が左向きの絵を描きました。どうして、人は魚の絵を描くとき、頭が左を向いている絵を描くのでしょうか?料理で尾頭付きの魚を食べるとき、魚の頭は右を向いていますか?左を向いていますか?出される料理では左を向いているでしょう。また、私たちが日頃目にする魚の図鑑や写真のほとんどが、頭が左にあります。これまで長年生活してきた中で知らず知らずのうちに自分のイメージや思いが出来上がっています。ある先生は、これを「すりこみ」と表現されました。この刷り込みが時として、思いこみとなり、偏見となり、偏見が差別を生むことにもなるのです。
 予定には入れていませんでしたが、コップの絵を描いてみてください。
 水を飲むコップがあります。コーヒーなどを飲むコップがあります。ビールを飲むコップがあります。中には泡があふれそうにビールがなみなみと入っているジョッキを描いた人もいます。私は、「コップの絵を描きましょう」と言ったのです。それなのにこんなに皆さんの反応が違います。「話さなくとも分かる」などという人がいますが、やはり話し合わなければ分かりあえないですね。互いに考えていることが違うことがいくらでもありますから。
 先日の福田総理大臣と小沢民主党代表とが話し合ったとき、「大連立はどちらから持ちかけましたか」との質問に福田総理大臣は「あうんの呼吸です」と記者に言っておられました。あうんの呼吸とは難しいものですよ。
 私のような年になるとものの名前が直ぐに出ません。そこで、夫婦の会話の中に「あれ」「これ」「それ」などの代名詞が飛び交います。調子が良いときには「おい、あれはどけあるや?」「あぁ、あれな。あれはあすこにあるたい」で通じるのですよ。ところがちんぷんかんぷんな答が返ってくることがあります。
 やはり、相手を思いやりながら話し合うことが大切です。話し合うと要らぬ誤解を生じさせません。
 牛を思い描いてみてください。色をつけます。私が尋ねますので手を挙げてくださいね。
 「あか牛」を思い描いた人? たくさんいらっしゃいますね。
 「くろ牛」を思い描いた人は? 一人ですね。
 「白黒のホルスタイン牛」を思い描いた人? これも多いですね。
 実は、阿蘇地方の人たちはほとんどが「あか牛」を思い描くそうです。放牧してある牛はほとんどが「あか牛」ですね。天草地方のある程度年を重ねた人は「くろ牛」を思い描くそうです。今は、農耕用に牛を飼っている家はほとんどないそうですが、以前は「くろ牛」を飼っていたのです。私が牛深小学校に勤務していた頃はまだ、「くろ牛」がいました。
 おわかりのように身の回りでいつも見聞きするものが、知らず知らずのうちに固定観念として自分の心に描かれてしまっているのです。先ほど考えました「外科医は男性」これも知らず知らずのうちに自分の心の中に生まれた固定観念でしたね。
 この固定観念が、時として思いこみとなり、それが偏見となり、差別につながることがあるのです。
 直接差別にはつながりませんが、何の科学的根拠もないのでおかしいと言われながら今でも信じられているのに「今日は何の日?」があるでしょう?
 「今日は人権問題講演会がある、何の日かきちんと確かめて行こう」と暦を見てきた人はいますか?いらっしゃいませんよね。普段は何にも意識しないのに、「やれ結婚式だ」、「開店祝いだ」「葬式だ」などと言うときに「その日は何の日だろうか?仏滅や。縁起が悪かばい」「大安だ。こりゃー良かった」となるのです。おかしな話です。
 物事は正しく知ることが大切だと思います。

  円がたくさん書いてある中に四角形がありますね。この四角形の辺は直線でしょうか?
 
  曲線でしょうか?

  内側に曲がって見えませんか。

  帰ってから定規を当てて確かめてください。
  
  直線なのです。
矢印で囲まれた2本の線はどちらが長いでしょう?
左の方が長いように見えませんか。これも定規で確かめてください。実は同じ長さです。

 この図でABとCDの直線はどちらが長いでしょうか?

 「ABの方が長いと思うバッテン、要らん情報に惑わされるなと言うから、同じ長さだろう」と思った人はい

ませんか?

 それこそ予断です。これも定規で確かめて、同じか、どちらが長いかを判断することです。

 これは、ABの方が1mm長いです。わずか1mmですよ。

 かなり長く見えるでしょう。

 この3つはどれも錯視絵です。
 四角形の周りに円があるために、直線の両端に矢印があるために、斜線があるために間違って見えるのです。直線かどうか、どちらが長いかを問題としているときには、周りの情報は不要なのです。不要な情報があるが為に間違えて理解してしまう。判断を間違えてしまう。このようなことが身の回りにはありませんか?うわさ話などこのようなことから生まれることがあるようです。
 必要な情報を正しく使って正しく判断することが大切です。
 物事を見るとき、話を聞くとき、決めつけや固定観念で見たり聞いたりすると、正しく判断できなくなることがあります。私たちはこれまでの生活の中で自分でも気づかないうちに心の中にすり込まれたものがあります。それが予断や偏見になることがあります。
 予断と偏見は一人ひとりの意識の問題でもあります。人を見下したり、遠ざけたりすることによって自己の優位性を保とうとする個人の弱さがそれを支えているのです。それが差別を助長したり温存します。その克服のためには人権・同和問題を正しく学び、「そうかな」と立ち止まって見つめ直す、考え直すことにより、予断と偏見を取り除いていくことが大切です。
 さらに、「人権問題」を正しく理解し、態度や行動に移すことのできる力となる感受性や感性をはぐくむことが重要であると思います。
 「無知は偏見を生み、偏見は差別につながる」という言葉があります。今は生涯学習の時代と言われています。
 学ぶことによってものごとを正しく理解しましょう。
 思いこみや偏見をなくしましょう。
 世間体にとらわれないようにしましょう。
 おわりに全員で桑原律さんの「『人権感覚』」って 何ですか」を声に出して読みたいと思います。
 「声に出して読む」。これは、脳を活性化させると同時に言葉の一つ一つを自分なりに解釈して読むことです。学校では、国語の時間に子どもたちが大きな声で教科書を読んでいます。皆さんも新聞の、例えば熊日だったら「天声人語」など声を出して読んでみたらどうでしょうか。  

「人権感覚」って何ですか     桑原 律

「人権感覚」って何ですか
それは ケガをして
苦しんでいる人があれば
そのまますどおりしないで
「だいじょうぶですか」と
助け励ます心のこと

「人権感覚」って何ですか
それは 悲しみに
うち沈んでいる人があれば
見て見ぬふりをしないで
「いっしょに考えましょう」と
共に語らう心のこと

「人権感覚」って何ですか
それは 偏見と差別に
思い悩んでいる人があれば
わが事のように感じて
「そんなことは許せない」と
自ら進んで行動すること

「人権感覚」って何ですか
それは
すどおりしない心
見て見ぬふりをしない心
他者の苦悩をわが苦悩として
人権尊重のために行動する心のこと

皆さんのご家庭で、菅尾小学校で、そして菅生小校区でさらなる人権文化の花が咲き、差別やいじめのない明るく楽しい場となることを祈念して話を終わります。