私たちにできること
平成20年12月10日
山都町立蘇陽中学校

 ただいまご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 校庭に立ててある標語がいくつか目に入りました。

   あいさつで さわやかな朝 始めよう      1年生
   どんなときも 家族がいるから がんばれる  2年生
   その心 磨いてみよう 光るまで        3年生

 さわやかさを感じました。心豊かな生徒達ですね。 
 昨年6月、上益城郡社会教育委員連絡協議会総会がこの隣、蘇陽総合支所でありました。
 たまたま時間がありましたので、ここ蘇陽中学校まで来て、すがすがしさを体験しました。
 そこに示していますのがそのときの新聞投稿文です。自分で書いたものを読むのは少し面はゆいですが読んでみます。
           すがすがしさ蘇陽中学校で体験
 先日、上益城郡内の社会教育委員総会出席のため山都町蘇陽総合支所へ行った。隣接地の蘇陽中学校は、昼休みだった。男子生徒も女子生徒も、笑顔とともに大きな声で「こんにちは」と挨拶してくれた。
 校舎脇のプラタナスの根本で、この春芽生えたらしい幼木が目に留まった。そばを通りかかった生徒に「この幼木をもらって良いかを先生に聞いてもらえないだろうか。もらって良いなら移植ごてとビニル袋を貸してもらえるとうれしい」と言った。生徒はにこにこしながら「分かりました。しばらく待っていてください」と返事して、遊びを止めて走った。ほどなく帰ってきた生徒は、「職員室で先生に尋ねたら、持って行って良いそうです。これでどうぞ」と移植ごてと空の苗ポットを私に渡した。
 堀りかかろうとすると、先生が来て「庭に植えられるのならどうぞ」とおっしゃった。名を名乗りお礼を言った。ほどなく、教頭先生がスコップを持って来られた。「どの幼木ですか」と言われる。掘り上げた幼木を見せ、「これをいただきました」とお礼を言った。さわやかな中学生、校務で忙しい中に親切丁寧な対応をしていただいた先生。10分間くらいの出来事であったが、すがすがしい時間を味わった。
 今日も、生徒が明るい声で「今日は」とあいさつしました。
 こんなすばらしい学校で人権について考えることをたいへんうれしく思います。
 ところで、「今日は何の日」かご存じの方?(人権デーというつぶやきが聞こえる) 
 そうです。世界人権デーです。今から60年前の今日、つまり、1948年(昭和23年)12月10日に世界人権宣言が採択された日です。それから2年後の1950年に12月10日を「世界人権デー」と定めました。それで、この日を中心に、人権週間とか、人権月刊などを設定して、人権についての諸々の催し物が各地で開かれています。本日の講演会もそのうちの一つだと思います。
 その人権宣言の第1条に「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とうたっていることは皆さんもご存じのことと思います。
 「すべての人が尊厳と権利について平等」ということが、世界人権宣言の根幹にある人権観です。被差別部落の人だけが、障がいを持った人だけが、高齢者だけがと限定して尊厳と権利を語っているのではないのです。
 私たちの身の回りには様々な人権問題があります。皆さんご存じの通りです。
 女性の人権、子どもの人権、高齢者の人権、障害者の人権、同和問題、外国人の人権、HIV感染症・ハンセン病をめぐる人権、犯罪被害者等の人権、水俣病をめぐる人権、さまざまな人権課題
があります。
 ある学校で、PTA総会後に、ワークショップ形式で人権問題学習をしたことがあります。そのなかで、「生まれ変わることができるなら、女性に生まれ変わりたいですか?」「男性に生まれ変わりたいですか?」と尋ねました。
 皆さんにも聞いてみますね。
 「女性に生まれ変わりたい人?」
 「男性に生まれ変わりたい人?」
 女性の方で、男性に生まれ変わりたいという人がとても少ないですね。とてもすばらしい家庭生活、社会生活を送っていらっしゃるのですね。良いですね。
 ある学校では、女性の方が手を挙げてこうおっしゃったのです。
 「PTA会合の後で初めて2次会に参加して、12時過ぎて帰ったら家族みんながおんなのくせにこぎゃん遅まで何ばしとったか私を非難します。初めて遅く帰ったのですよ。父や連れ合いは、ほとんど毎晩のごつ忘年会シーズンは午前様です。男には許されて女には許されない。私は今度生まれるときは男性に生まれ変わりたい」と。
 これはまさに女性の人権に関することですよね。
 同和問題は日本固有の人権問題です。しかも、外見では分からない、自分の責任以外のところの問題、つまり生まれた場所によって、職業などに関しての予断と偏見によって、しかもずっと昔から何代も続く差別問題です。このおかしさ、不合理さ、差別の解消を目指して、同和教育や同和対策事業が続けられました。また、「人権教育のための国連10年」に見られますように、人権教育は世界的な潮流です。国では、同和対策事業から人権啓発への流れ、人権教育全般への広がりを求めることから人権教育と言うようになりました。しかし、今なお、部落差別は現存していますことから、同和問題を人権問題の重要な柱としてとらえ、様々な人権問題の解決のために、あらゆる場、あらゆる機会をとらえて人権意識を培い、差別意識の解消に向けた人権教育を推進すると熊本県人権教育の基本方針ではうたっています。
 また、熊本県では、水俣病をめぐる人権問題、そしてハンセン病をめぐる人権問題は特に、心に留めながら学び、その差別解消に向けて実践に移すことが大切だと思います。
 「あなたは、ありのままの自分のことが好きですか」と問われたら、どう答えますか?
 「有能な自分」、「人からいい人だと思われている自分」、そんな自分は好きだけれども、「できない自分」、「弱い自分」は見ないでおこうという考え方では「ありのままの自分が好き」とは言えません。できるところもあればできないところもある。よいところもあれば悪いところもある。誰もが両面を持っています。私も含めて皆さんもそうだと思います。人から有能だと思われている自分にだけは好きだとして生きている人は、いつの間にか人の期待に応えることだけが生きがいのようになってしまい、本当に自分がやりたかったこと、こだわりたかったことを見失ってしまうことがありはしないでしょうか。
 ご自身のことを振り返ってみてください。周りの期待に応えようと無理をして、本当はできないことなのに引き受けてつぶれそうになったことはありませんか?
 人は物事を頼むとき、よく褒めますものね。褒められると人間いくつになってもうれしいものです。ですから、自分には難しいと思うようなものでも引き受けてしまうことがあります。そして、「後でしまった。引き受けんならよかった」と思うことがあります。
 今の私がそうです。校長先生から「中川先生はとてもすばらしい話をされるそうですね。是非蘇陽中でも話をしてください」と言われました。褒められたものですから「ハイ、分かりました」と引き受けはしたものの、今、後悔でいっぱいです。心臓がどきどきしています。
 つまり、周りによい自分を見せようと背伸びをしてしまうのですね。周りの期待に応えようとがんばるけれど、その期待に応えられずにもがくのです。
 子どもにもこれが当てはまります。親や先生の期待に沿えば自分の存在を認めてもらえると思って一生懸命勉強したり、よい子ぶったりする。期待に応えられるうちはよいのですが、期待に応えられなくなると、自分がまるごと否定され、こんな自分ではだめだとしか思えなくなってしまう。自分の物差しではなく人の物差しで測ろうとするのですね。そして、自己否定やストレスが極度なところに至って、思いもしないような大事件を起こす、よく耳にするでしょう。
 良いところもそうでないところも含めてまるごと今の自分が好きと思う気持ち、これを自尊感情といいます。
 自分のことは、人がどう思うかではなく自分の物差しで測ることだと思います。そのとき、自分で測る物差しのレベルを低くするか、高くするかが自尊感情の差だと思います。物差しのレベルを低くして「これで良し」とするか、高くして「もう少しがんばらなくっちゃー」とするかです。
 物事に挑戦して、失敗したとき「どうせ俺には力がなかもん」と能力のせいにするか、努力が足りなかったと努力不足のせいにするかの違いです。絶対、能力不足、他人のせいにさせないでください。これでは前進はできません。努力不足、努力の内容を見つめ直すことです。
 物差しのレベルを高く設定する、失敗したとき努力が足りなかったとする高い自尊感情を持った子ども達を育んでください。自尊感情については、後ほどまたふれます。
 良いところも悪いところも含めて、そのありのままの自分にOKを出せる人が、本当に自分を大切にできる人であって、自分を大切にできる人が他者の人権も大切にできるのではないでしょうか。
 資料を見ながら、人権問題について考えてみましょう。
 

 写真を見てください。女性はいくつくらいに見えますか?
 若い女性に見える人?     (30人ほど挙手)
 おばあさんに見える人?    (30人ほど挙手)
 どちらにも見える人?     (20人ほど挙手)
 どちらか片方にしか見えない人?(5人ほど挙手)
 どう見たら、両方に見えるでしょうか?
 (「鼻が大きいなおばあさんだと思って見ていたら、鼻はあごにも見えるよ」など隣同士で話し合う声が聞こえる。)
 そうですね。若い女性に見えた人はその女性のあごを鼻と見てください。
 おばあさんに見えた人はおばあさんの鼻を斜め後ろから見たときの女性のあごと見てください。どうですか?
 皆さん両方に見えますね。
 この絵を見て次の3つのことを皆さんに気づいて欲しいのです。
 一つは、見方を変えることの難しさです。最初に知ったこと、感じたことを変えるのはかなりの労力が要ります。そして、それが難しいです。だから私たちは出会いが大切なのです。初めての出会いで、好印象を持った方とは、それ以後も好意的につきあうことができるでしょう。第1印象があまり良くなかった人に好意を持つにはかなりの労力が要ります。
 二つは、見つめ直しの大切さです。違う角度から見つめ直してみると、これまでと違ったものが見えてくることがあります。「こうだ」と決めつけないで見つめ直すことを日頃の生活の中で取り入れて欲しいと思います。
 三つは、一つの見方に注目すると、他が見えにくくなることです。人権問題も同じで、「差別は社会問題だ」と強調しすぎると「差別は人間個人の課題でもある」ということを忘れがちになります。逆のこともあります。
 人権問題は社会問題であると同時に人間個人の課題であることをきちんととらえておくことが大切です。
 その人権を守ることについて日常生活の中のたくさんの素材の中から考えてみましょう。
 資料に載せています「二人の裁判官」は、オーストラリアの人権教育で使われる教材です。裁判官と被告との関係は、どんな関係かを考えながらよく聴いてください。


                    二人の裁判官

 二人の裁判官が夕食の後、仕事のことについて話し合っています。
 一方の裁判官が、「今日の昼間の裁判の男どうしましょうか?もしあなたが私だったら、どのように裁きますか?」と質問しました。
 それに対して、もう一方の裁判官は、「あなたは私が答えられないと言うことを知っているはずです。彼の父親は5年前に死んだと言うだけでなく、彼は私の息子でもあるのです」と答えました。

 
 質問された裁判官と被告との関係はどうでしょうか?
 どんな関係か分かりましたか。どうもこの話をよく分からないという方いますか? (「話がよく分からない」、「裁判官は母親」というつぶやきが聞こえる)
 そうですね。母親ですね。あるところでは、養子縁組をした子という回答がありました。それも間違いありませんね。でも、母親と考えるとすっと胸に落ちますね。裁判官というと、私たちは「男性」というイメージがすぐに浮かんでくるからすとんと胸に落ちなかったのです。
 同じようなものに、「息子よ 息子」があります。既に聴かれた方はもう一度温め直してください。初めての方は目を閉じて一生懸命聴いてください。 


        息子よ、息子!

 路上で、交通事故がありました。
 大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。
 父親は即死しました。
 息子は、病院に運ばれました。
 彼の身元を、病院の外科医が確認しました。
 外科医は、「息子!これは私の息子!」と悲鳴をあげました。

          
 外科医は、この息子の何にあたるでしょうか? (外科医は母親とのつぶやきが聞こえる)
 外科医は男性とばかり思い込んでいると、この話はすとんと胸に落ちないのです。外科医が女性であると分かればすっと胸に落ちるでしょう。
 知らず知らずのうちに、私たちの意識の中に、男性や女性の職業に対する固定観念や思いこみが自分にもあると気づかれた方もおいででしょう。自分では全く気づかずに、誤った思いこみや偏見を心に植え付けてしまうことがあるのです。
 次3つのは、どれが「固定観念」、「偏見」、「客観的な意見」だと考えますか?


  ○先生はみんな親切だから好きだ。
  ○私には親切な先生がいてうれしい。
  ○先生というのは親切なものだ。

  
 「先生というのは親切なものだ」は、固定観念ですね。残念ですが、親切でない先生もいます。
 「私には親切な先生がいてうれしい」は、客観的な意見ですね。「親切な先生がいてうれしい」は、そうでない先生もいることを前提にして話しています。
 「先生はみんな親切だから好きだ」が偏見となります。「みんな親切だ」は固定観念です。しかし、それに「好きだ」という感情が付いています。これが、ある特定の集団に属しているというだけで、「好きだ」「嫌いだ」「敬う」「見下す」という態度をとることになります。これが偏見です。この偏見は、マイナスイメージを持っているときに生まれやすいのです。偏見が時として、差別につながることがあります。固定観念で人を見ないようにすることが大切だと思います。 
 では、どうしてそう思い込むのでしょうか?
 皆さん、魚の絵を描いてみましょう。(3分程度自由に描く)
 どなたか、ここに描いてくださる方はいらっしゃいませんか? (2人に描いてもらう 二人とも左向きの魚を描く) 
 すばらしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。皆さん拍手で褒めてください。
 ここでは、「絵が上手」かどうかを問題とするのではありません。描いた魚の頭はどちらを向いているかを問題としたいのです。
 ここに描いていただいように左向きを描かれた方?(ほとんど全員挙手)
 右向きの方いらっしゃいますか?(0人)
 ほとんどの方が左向きです。
 どこの研修会でも、本日のようにほとんどが左向きの魚を描かれます。どうしてそうなると思いますか?
 私たちが目にする魚の写真や絵はほとんどが左向きです。あるところでは料理に出す魚は左向きと決まっているという話を聞いたこともあります。私たちの毎日の生活の中にある絵や写真、料理で見る魚の頭はほとんどが左を向いていますね。図書室で魚の図鑑を見てください。写真や絵のほとんどが左を向いていると思いますよ。私たちは空気を吸うごとくに無意識のうちに「左向きの魚」を学習しているのです。
 では、次に牛の絵を描いてみましょうか。
 牛の姿をイメージしてください。色を付けてください。
 お尋ねします。
 あか牛をイメージした方?(20人程度)
 くろ牛の方?(10人程度) 
 白黒のホルスタインの方?(大多数が程度)
 阿蘇郡産山村で聞いたときは、全員があか牛でした。
 天草で聞いたときは、くろ牛の方が多かったのです。
 私は、白黒のホルスタインをイメージします。私は農家の長男で、小さい頃乳牛を飼っていました。牛を運動に連れて行ったり、乳搾りをしました。
 どうしてこんなに違った牛の色をイメージするのでしょうか?
 それは、自分の身近にいる牛が直ぐに浮かぶからです。これを刷り込みといいます。この刷り込みが時として、思い込みとなり、そして偏見になることがあるのです。
 人はだれひとりとして「偏見」を持って生まれてくるわけではありません。私たちは、子どものころから、空気を吸うように「紋切り型の考え」を無意識のうちに身につけていきます。
「予断」とは、
 前もって判断することです。あることに対して、事実を確かめないで自分がもつ過去の経験、知識、記憶などの範囲で判断することです。自分のイメージにあう場合はその事実を好意的に受け入れますが、合わない場合には否定してしまいます。
「偏見」とは、
 ある集団や対象に対して、何の合理的な根拠もなくて、「○○だ」などと固定的で非友好的な態度や考え方です。
 誤った予断や偏見の度合いが強くなると、差別意識となり、これが行為として現れた場合が差別となります。
 また世間体意識や昔からの迷信などによって差別意識をもつ場合もあります。
 妻の母が8月29日、脳内出血で急死しました。葬儀社の方に来てもらって、葬儀の日取りなどを打ち合わせました。
 葬儀社の方が、「今夜は仮通夜、明日の晩が本通夜、31日葬儀が一般的と思いますが、31日は「友引」です。友引という考えは、浄土真宗とは全く関係のないことだとお寺さんから言われています。どうされますか」と話がありました。私も遺族もこの六曜の考えを気にしていませんので、31日に葬儀を済ませました。
 葬儀社の方が丁寧に説明してくださったのは、これまでの同和教育、人権教育の成果だと思います。
 しかし、よく考えてみると、私たちは日頃は「今日は何の日」かを意識して生活していないのに、結婚式だ、葬儀だ、棟上げだというときに「今日は何の日だろうか」となるのはおかしなことです。
 「今日は人権教育の研修会だ。何の日だろうか」と暦で調べてこられた方はいらっしゃいますか?
いらっしゃらないでしょう。六曜の考えにとらわれない生活をする人が増えています。しかし、結婚式場あたりでは、まだまだ、六曜の考えがあるようです。大安の日は大盛況でしょう。
 お手元に示しているのは、益城町広報人権啓発シリーズの一つです。詳しくはこれを見てください。
 高千穂正史さんは「ただ機械的に暦に記入された文字を見て、知性を持った現代の人間が、日が良いとか悪いとか言って心配しているのは、何とも滑稽なことだ」と愛語問答集で述べています。
 この六曜の考えは、個人レベルですので社会全体に何かを及ぼすと言うことはありませんが、迷信の一つに「三隣亡」があります。関東地方のある県で、「三隣亡の日に隣で棟上げがあった。自分の家まで災いがあってはたまったものではない」と棟上げしたばかりの家に放火するという事件があったと聞いたことがあります。こうなると、大きな社会問題ですね。
 三隣亡について調べてみました。三隣亡とは、この日に建築すると、後日火災に見舞われ、近隣3軒まで滅ぼすといって忌む日のことです。
 調べたことによりますと、三隣亡の由来は全く不明で、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったかもはっきりしてはいないそうです。しかし、江戸時代に入ってから確立されたとされています。
 江戸時代の本には「三輪宝」と書かれて、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていたそうです。すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになるのです。これがある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかとされているそうです。ただ、真偽のほどは分からないそうです。後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで同音の「三隣亡」に書き改められたとありました。こんなことを信じて、放火事件が起きるというのはおそろしいことです。
 私は、迷信を信じるなと言うのではありません。みんなが言うからそぎゃんだろうとそのまま信じることの怖さを知っていただきたいのです。生涯学習の時代といわれています。「そうかな?」と思ったら自分で調べ、学び、ものごとを正しく知り、正しく判断する態度を持ちたいものです。私たちは、空気を吸うがごとく知らず知らずのうちに思い込んでしまっていることが意外と多いのです。
 これまで、「学ぶことによって人権感覚を磨きましょう」「無知は偏見を生み、偏見は差別につながることがあります。思いこみをなくしましょう」「人権はすべての人の問題です」などを考えてきました。そして、人権を正しく理解し、不合理や差別をなくす取り組みをしましょうと話してきました。
 終わりに、家庭教育で人権感覚豊かな子どもを育むことについて考えてみましょう。
 感性が豊かな人権感覚をはぐくみます。豊かな感性をはぐくみましょう。そのためには、感動体験を数多く持たせることです。それも心を揺り動かす体験、私はこれを情動体験といっています。
 私の父は、17年前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。父は我が家で、家族や親族みんなが見守る中で眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかりと握りしめ、無言で父を見つめていました。父の弟妹「たもっちゃん、たもっちゃん」と名前を呼び続け、私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の体をみんなで必死でさすりました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」とこみ上げる悲しみを必死でこらえながら父に語りかけました。息をひきとると、みんながわっと泣きながら父の体を抱きしめました。
 私は家で死を迎えるのが良いというのではありません。人の誕生や死に立ち会いながらその中で「生きる」とはを考えたいと思います。心を揺り動かされる体験から人権感覚は生まれ、磨かれていくものと思います。このような体験がいっぱいあったなら、おもしろくないから等の理由によって人の命を奪うなどできないはずです。
 今の子どもたちには、心を揺り動かされる体験を数多くさせたいものです。
 もう一つは、自尊感情はぐくみましょうということです。自尊感情の差が人としての生き方に大きく影響しますことは、冒頭にも述べたとおりです。
 自尊感情を育むために、子ども達を、認め、褒め、励まし、そして、伸ばしてください。
 子どもたちを認め、褒め、励まし、伸ばすことによって子どもたちが「ありのままの自分が好き」と思える感情を育ててください。自分自身が好きということは、他の人も好きになります。自分が好きと言うことは自分の人権を大切にします。自分の人権を大切にすることは他の人権をも大切にします。
 時間の都合で、「言葉や表現について、どの程度差別的表現が含まれていると思いますか」は触れることができませんでした。その他準備した資料で触れないものがありました。
 本日の夕食時などに、私がお話ししましたことや資料などをもとに家族皆さんで人権について話し合ってみてください。
 みんなが人権について正しく理解し、目の前に生じた人権問題解消のために行動できる人になろうではありませんか。
 長時間のご静聴ありがとうございました。 


           蘇陽中学校人権教育研修 感想

○いろいろな人権について考えさせられました。
 思いこみ、偏見はないと思っていましたけれど、やっぱり今日聞いて、少しはあるなと思いました。勉強になりました。

○今日の講話を聞いて、自分も子どもに対してすぐに怒ったり、押しつけてしまっていることがあるのではないかということを痛感しました。
 これから、もっと心を広くもって、子どもと向き合いたいと思いました。

○中川先生の講演、とても勉強になりました。
 固定観念や偏見はいけないということはわかっているのですが、自分の中に少なからず固定観念があるなと反省しました。
 自分の人権を守る=他人(相手)の人権を守る。このことを忘れずに日々を過ごしていきたいと思います。

○人権尊重は家庭の中での教育が大切だと思います。
 先ず大人が学習することです。親の態度で子どもは学習します。

○日常の生活で考えつかないこと、当たり前のことが今日のお話を聞いて新しい気持ちで生活を見直しできると思います。

○自分では気がつかないことが多くあったと思います。
 本当に勉強になりました。ありがとうございました。

○興味深く聞き入りました。
 帰ってから家族でプリントをしてみたいと思います。
 また、お話を伺いたいです。

○私自身、福祉施設に勤め、4年となりますが、勤め始め、いろいろと感じたことがありました。偏見がありました。こんなことがと思うようなことが実際まだまだたくさんあります。
子どもたちには、このようなことは家庭でも話し、親子で理解し合えるよう、続けていきたいです。